ヤマトタケル

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大阪府堺市大鳥大社の銅像

ヤマトタケル(やまとたける、景行天皇2年 - 43年[1])は、記紀に登場する皇子である。ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)とも呼ばれ、小碓尊(命)(おうすのみこと)。第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父。

名称[編集]

日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と書き、またの名を日本童男倭男具那命(やまとをぐな)ともいった。また、『尾張国風土記』逸文と『古語拾遺』では日本武命、『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇(または倭健天皇命)と書く[2]

系譜[編集]

天皇系図 8〜15代

ヤマトタケルは『日本書紀』、『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。

  • 妃:両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
    • 稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君建部君の祖。
    • 足仲彦天皇(仲哀天皇
    • 布忍入姫命(ぬのしいりひめのひめみこ)
    • 稚武王(わかたけのみこ) - 近江建部君の祖、宮道君等の祖(『先代旧事本紀』)。
  • 妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)
    • 武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王・讃留霊王) - 讃岐綾君宮道君の祖。
    • 十城別王(とおきわけのみこ) - 伊予別君の祖。
  • 妃:弟橘媛(おとたちばなひめ。穂積氏忍山宿禰の娘) 9男を生む(『先代旧事本紀』)。
    • 稚武彦王(わかたけひこのみこ)
  • 妃:山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
    • 足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦噉竈見別王) - 鎌倉別の祖。
  • 妃:布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
    • (稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。
  • 一妻(『古事記』では名は不詳、『先代旧事本紀』では橘媛)
    • 息長田別王(おきながたわけのみこ。『古事記』、『先代旧事本紀』) - 阿波君等の祖(『先代旧事本紀』)。


兄に大碓命。『日本書紀』、『先代旧事本紀』7巻天皇本紀[3]によると、ヤマトタケルとこの大碓皇子は双子とされる。

『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』ではヤマトタケルの兄弟や、妃と子の関係にかなりの異同がある。『古事記』は倭建命の曾孫(ひひこ)である迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるという系譜の記載があるため、景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な見解もある[4]。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があり4世紀から7世紀ごろの数人の大和(ヤマト)の英雄を統合した架空の人物という見解[4][5]もある。津田左右吉は、記紀は史実の記録ではなく成立当時(7〜8世紀)の政治勢力図を反映した書物としている。

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天火明命
 
尾張氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命
 
阿多氏族]
 
 
 
 
天照大神
 
天忍穂耳尊
 
 
瓊瓊杵尊
 
 
彦火火出見尊
 
彦波瀲武盧茲草葺不合尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命
 
出雲氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天津彦根命
 
額田部氏族]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)神武天皇
 
神八井耳命
 
多氏族〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)綏靖天皇
 
(3)安寧天皇
 
(4)懿徳天皇
 
(5)孝昭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天足彦国押人命
 
和珥氏族〕
 
 
(8)孝元天皇
 
大彦命
 
阿倍氏族〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(6)孝安天皇
 
(7)孝霊天皇
 
 
倭迹迹日百襲姫命
 
 
(9)開化天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備津彦命
 
 
彦太忍信命
 
屋主忍男武雄心命
 
武内宿禰
蘇我氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚武彦命
 
吉備氏族〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)崇神天皇
 
豊城入彦命
 
毛野氏族〕
 
 
日本武尊
 
(14)仲哀天皇
 
(15)応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(11)垂仁天皇
 
(12)景行天皇
 
 
(13)成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊鍬入姫命
 
 
倭姫命
 
 
五百城入彦皇子
 
 
 
仲姫命
(応神天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
彦坐王
 
丹波道主王
 
 
鐸石別命
 
和気氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
気長宿禰王
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 

物語[編集]

古事記』と『日本書紀[6]の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。概ね、『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。

西征[編集]

ヤマトタケル(菊池容斎画)
ヤマトタケル(月岡芳年画)

古事記
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
日本書紀
兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている。
先代旧事本紀
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 按日本紀 當作二十七年[7]とあるのみ。

古事記
九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
日本書紀
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。

古事記
その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺してしまう。
日本書紀
崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。

東征[編集]


古事記
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
日本書紀
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。

古事記
倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。
日本書紀
対応する話はない。

ヤマトタケル(歌川国芳画)
古事記
相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
日本書紀
駿河が舞台だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。

古事記
相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母

読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも

訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……

弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
日本書紀
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、和歌はない。

「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮(山梨県甲府市酒折)
古事記
その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国酒折宮連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。
日本書紀
ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥平定後は『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を蒜で殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。

伊吹山頂の日本武尊像
古事記
尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売と歌を交わし、その際媛が生理中なのを知るが、そのまま結婚する。そして、伊勢の神剣、草那芸剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと、出立する。
日本書紀
経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
尾張国風土記
宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとする。

古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
日本書紀
日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったため、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。

古事記
倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちはなお3首の歌を詠い、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌[8])となった。
日本書紀
父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[9]となって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されたという。

古事記
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
日本書紀
白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部建部)を日本武尊の御名代とした。
『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。

草薙剣[編集]

記紀

日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない[10]。本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。

働き

草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる神の影響で病を得、都に戻ることなく亡くなってしまう。このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力を持った神器として、日本武尊に渡したとも解される[10]

神社

尾張のミヤズヒメの元に遺された草薙剣は、この後、熱田神宮にて祀られた。『熱田太神宮縁起』によると、日本武尊の死後、ミヤズヒメが衆人と図って社を建て、神剣を奉納したという。天智7年(668年)僧・道行に盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再び熱田神宮に祀られることになった。熱田神宮にはこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ「酔笑人神事」がある。

なお、ヤマトタケルを祭祀する草薙神社・社伝には、

尊は東国を平定したが、都に帰る途中伊勢の能褒野(のぼの)で没したので、お父様の景行天皇がお嘆き遊ばされ、尊の手柄をご覧なさるため東国に行幸され、その時この地に輿を留めて、尊を奉祀し尊の遺品「村雲」を改め「草薙神社」を建立し「草薙の剣」を納めたという。その後「草薙の剣」は第四十代天武天皇の朱鳥元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀された。

とある。

ヤマトタケル説話の構成[編集]

ヤマトタケルの物語は、吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。

小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説)
妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江一の宮建部神宮で祭神がヤマトタケルであることなどから、近江=滋賀県がヤマトタケルと関連が深いことがわかる。兄大碓命の封地が美濃であることも考慮すると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。碓や稲依別の名からは、穀霊であることが推察できるが、『山城国風土記』などに、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話があり、白鳥との関連もみられる。なお、『武智麻呂伝』にはヤマトタケルが伊吹山で、『平家物語』剣の巻には近江で白鳥となった説話が伝わり、白鳥になる話の根幹が近江にあった可能性は少なくない。
倭姫・倭ヲグナの物語(大和の幼童神伝説)
日本には、桃太郎一寸法師など童形の英雄が悪を征伐する説話が多いが、このくだりもそれらに類似するとされる。折口信夫はそれらの説話の分析により、幼童神的モデルを育てる「小母(おば)」の存在を指摘しており、この場合倭姫がその小母に該当すると見られる。また、少年・ヤマトタケルの女装に関し、様々な文化圏のシャーマニズムに散見される異性装に相通じると指摘される。
出雲タケルの物語
出雲の神門臣の勢力争いの物語の挿入→原型は崇神紀の出雲振根説話
タケル大王・橘姫の物語(関東地方の英雄伝説か?)
常陸国風土記』等には倭武天皇-橘皇后、大橘姫などと表記され、各種の地名起源説話が伝わる。本来は山を象徴する武王と海を表す橘后の神話と推定される。現在でも千葉県などに地名説話が多く残るため、関東に根を下ろした伝承だったと考えられる。
美夜受媛・草薙剣の物語(熱田神宮を巡る伝説)
吉井巌は、皇位の象徴である「三種の神器」のひとつである草薙剣が、なぜ尾張の熱田神宮にあるか説明する物語とする。詳細は草薙剣の項を参照されたい。
斎王倭姫の物語(伊勢神宮を巡る伝説)
死に際の彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつ伊勢斎宮の制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍ルートに重なるため、伊勢との関連が考えられるが、横田健一は『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』にヤマトタケルの物語がないことを指摘する。草薙剣に関しヤマトヲグナ説話の登場人物のヤマトヒメと斎王倭姫命を結びつけたため、伊勢地方の説話がヤマトタケルに仮託された可能性も考えられる。
大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承)
吉井巌は、聖徳太子の弟で、実在する初の皇族将軍である来目皇子が出征先の九州で病死したことがモデルになったとし、この葬儀を主導した土師氏の葬送儀礼が物語に取り入れられたとする。

祭祀[編集]

ヤマトタケルが歿した能褒野の地とされる三重県北部には、ヤマトタケルの墓とされる古墳(白鳥陵)がいくつかあった。その中でも鈴鹿市加佐登の「白鳥塚」が最有力視され、1876年(明治9年)に日本武尊能褒野御墓であるという教部省の通牒が出された。しかし当時、白鳥塚は円墳だと認識されていて王陵にはふさわしくないとされ、1879年(明治12年)、内務省は亀山市田村町の「丁字塚」と呼ばれる前方後円墳能褒野王塚古墳)をヤマトタケルの墓に治定し直し、「能褒野陵」と命名した。能褒野陵は全長約90メートル、高さ約9メートルで、三重県北部最大の前方後円墳である。1895年(明治28年)、能褒野墓の隣接にヤマトタケルを祀る能褒野神社が創建された。

その他、白鳥陵が、『日本書紀』に即して大阪府羽曳野市軽里大塚古墳)と奈良県御所市に比定される。また、ヤマトタケルの息子の創始とされる建部大社滋賀県大津市)や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られる。どちらもその国の一宮とされる。なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。

ゆかりの地[編集]

神社[編集]

  • 走水神社(日本武尊の父・景行天皇が尊を祀ったのが起源と伝わる。古事記では、110年に尊が走水から上総へ向かう途中、海上で難に遭い、弟橘媛命が身を投じてその難を救ったとされる)
  • 姉埼神社(日本武尊が当社鎮座地の宮山台で弟橘姫をしのび、風の神である支那斗弁命を祀ったのが起源と伝わる)
  • 腰掛神社(東征の途中、ヤマトタケルが腰掛けて休憩したという石を祀る)
  • 甲斐酒折宮(東征の帰路、立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠んだと伝わる)
  • 山宮浅間神社(東征の途中、賊徒に追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱したことにより神霊を祀った場所とされる)
  • 武蔵御嶽神社(東征時追手に追われ白狼に助けられたとの伝承により、御影が犬になっている)
  • 三峯神社(ヤマトタケル創建と伝わる。神使の狼が東征時道案内をしたとされる)
  • 白鳥神社 (東かがわ市)(白鳥となって飛び去ったヤマトタケルが舞い降りたと伝わる)
  • 白鳥神社 (名西郡)(仲哀天皇が建てた白鳥の宮。ヤマトタケルの息子息長田別王(阿波国造)が崇拝)
  • 矢作神社 (岡崎市)(東征の途中、盗賊退治のために矢作部に一万本の竹矢を作らせたと伝わる)
  • 大御食神社(東征の帰路、赤須彦の娘・押姫と三夜過ごし、別れに際し歌を詠んだと記録に残る)
  • 血塚社 (四日市市)(杖衝坂を登ったヤマトタケルが足の血を洗い流したと伝わる)
  • 須賀神社(島根県安来市;富田八幡宮境内社、スサノオノミコトの須賀の宮に相当するとされる。)
  • 内々神社春日井市)(ヤマトタケルが東征の帰路、副将軍建稲種命が駿河の海に落ち水死したとの報告に接し、悲泣して「うつつかな、うつつかな」といわれその霊を祀ったのが起源と伝えられる)

その他[編集]

  • 東京都 - 岩蔵温泉(東征での傷を岩倉温泉で癒したと伝わる)
  • 石川県 - 兼六園日本武尊の銅像がある(2003年のイグノーベル賞を受賞した金沢大学廣瀬幸雄教授の研究の素材となり、ハトが寄り付かないことをヒントにカラス除けの合金を開発した)
  • 愛知県 - 笠懸の松(一宮市大和町)、腰掛岩(名古屋市中村区岩塚町)、白鳥古墳(名古屋市熱田区)、生路井(東浦町生路)、御手洗(みたらし・みたらい)遺跡(春日井市神屋町御手洗)
  • 岐阜県 - 居醒水(関ケ原町玉)、居醒水・腰掛石・鞍掛石(米原市醒井・中仙道)、桜の井戸(養老町桜井・みゆき街)
  • 三重県
    • 四日市市 - 杖衝坂(釆女町)、足洗池(三重命名の池 西坂部町御館)、目洗いの玉葛井(たまかつい 菰野町下村)
    • 桑名市 - 日本武尊尾津前御遺跡、ヤマトタケルが足を洗ったと伝わる平群池(へぐりいけ)、平群神社などがある。
  • 兵庫県 - 加古川市 にヤマトタケルが出生児に入れられたとされる器がある。母、播磨稲日大郎姫の墓とされる日岡御陵がある。
  • 鳥取県 - 倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。

注記[編集]

  1. ^ 『日本書紀』による。ただし30歳没とされる。
  2. ^ 古代・中世のヤマトタケル 変貌する神話 Yamato-takeru in Ancient and Middle Ages:The Transformed Myth 磯前順一
  3. ^ 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀 第一 大碓命 次 小碓命 次 稚倭根子命矣 其一 二皇子 一日同胞雙生
  4. ^ a b 吉井巌 『ヤマトタケル』学生社 1977年、2004年OD版、ISBN 4311201141
  5. ^ 井上光貞 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』中央公論新社中公文庫]、新版2005年ISBN 4122045479
  6. ^ 岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』による。
  7. ^ 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀
  8. ^ 「大御葬歌」は昭和天皇の大葬の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。
  9. ^ 当時の白鳥は現在のハクチョウ以外にも、白鷺など白い鳥全般を指した。
  10. ^ a b 稲田智弘 『伊勢神宮の謎』 学研、2013年、31,32頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]