大鳥大社

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大鳥大社(大鳥神社)
大鳥神社 鳥居.jpg
鳥居
所在地 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2
位置 北緯34度32分12.7秒
東経135度27分38.7秒
座標: 北緯34度32分12.7秒 東経135度27分38.7秒
主祭神 日本武尊
大鳥連祖神
社格 式内社名神大
和泉国一宮
官幣大社
別表神社
本殿の様式 大鳥造
札所等 和泉五社
例祭 8月13日
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大鳥大社(おおとりたいしゃ、正式名:大鳥神社)は、大阪府堺市西区鳳北町にある神社式内社名神大社)、和泉五社の一つで和泉国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国の大鳥神社、「大鳥信仰」の総本社とされる[1]

社名について[編集]

「大鳥大明神(おおとりだいみょうじん)」「大鳥大神宮(おおとりのおおがみのみや)」などともいわれた。現在の正式な社名は大鳥神社(おおとりじんじゃ)であるが、一般には大鳥大社の社名の方が広く使用されている。

概要[編集]

日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。

延喜式神名帳記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社として知られた。本殿大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。日本武尊を守護神として信仰していたが、「おとりさま」と称されて開運・商売繁盛の神と信仰され、11月の日には熊手酉の市が開かれる。

祭神[編集]

日本武尊御神像

祭神は以下の2柱。

  • 日本武尊 (やまとたける の みこと)
  • 大鳥連祖神 (おおとりのむらじ の おやがみ)

元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏釈迦如来となっている。その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。

以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、明治29年(1896年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、昭和36年(1961年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。

大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。

※各神の祭祀については、大鳥氏が単に一宮の神官であったというには、後世の倭武伝説を差し引いたにしても、その変遷ぶりには謎めいた部分も残っており、大鳥連の、領主あるいは神官という職業以外の何らかの役割を古代豪族社会で担った可能性も含め、今後も検証が必要と思われる。

歴史[編集]

本殿
拝殿

大鳥連が祖神を祀ったのが始まりだと考えられている。弘仁14年7月4日(ユリウス暦823年8月14日)に積川神社とともに朝廷の祈雨の奉幣を受ける(『日本後紀』)。承和9年10月9日(ユリウス暦842年11月15日)に和泉国泉穴師神社・積川神社とともに神階昇授を受け、従五位下から従五位上になる(『続日本後紀』)。貞観元年(859年)1月27日には全国諸神とともに神階昇授を受け、従五位上勲八等から従四位下になり、同年9月8日に朝廷より風雨のため、畿内諸神とともに奉幣を受ける(『三代実録』)。貞観3年(861年)に紀伊国御船神とともに神階昇授を受け、従三位となる(『三代実録』)。延喜22年(922年)の「大鳥大神宮五社流記帳」では神階は正一位勲八等とあり、祭神が天照大神となっている。延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では、和泉国唯一の名神大社となっている。

別当寺は大鳥山勧学院神鳳寺。開山は和銅元年(708年)で行基によると言われる(『行基年譜』)が、天平12年(740年)とする説もある。一帯は「大鳥郷」と呼ばれ、古くから摂関家大番頭でもあった。

鎌倉時代初期には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社とともに「大鳥五社」を形成、「大鳥荘」となるが、貞応元年(1224年)、承久の乱の勲功により、伊豆国の御家人田代氏が地頭職に補せられ、周辺の荘園領主や在地住民と田代氏との間で激しい争いが繰り広げられることとなった。また南北朝時代よりは泉穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社とともに「当国五社大明神」を形成するにいたる。中世には和泉国一宮として国衙などから崇敬を受けるが、一方、従来、大鳥神社を祀ってきた大鳥氏は主導権を田代氏に奪われて衰退していく。

日本武尊を祭神とするため武家の崇敬厚く、平治元年(1159年)には熊野参詣に向かう途上の平清盛平重盛らが立ち寄り、清盛は以下の句を詠んだ。

かひこぞよかへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神

織田信長天正3年(1575年)に所領1300石を安堵している。中世の兵火により、神鳳寺とともに焼失するが、片桐且元を奉行とした豊臣秀頼の一連の社寺造営で慶長7年(1602年)に再建されるが、大坂の役十三重塔を残して再び灰燼に帰した。その後、寛文2年(1662年)に幕命により堺町奉行石河利政が大鳥神社及び神鳳寺を再建した。元禄14年(1701年)には幕命により柳沢保明が修営した。延宝-元禄年間になると、快円恵空が神鳳寺に入って勢力を拡大し、柳沢氏の保護を受けたこともあって、神鳳寺は全盛期を迎える。神鳳寺は「真言律宗南方一派」の本山となり、畿内を中心に76寺もの末寺を擁した。神鳳寺の繁栄を影に大鳥神社は衰退ていたが、幕末より国学の発展に連動して神社復権を求める声が高まった。社家である大鳥氏は断絶し、その後は和泉総社神職が祭祀を引き継いだ。

明治になると神仏分離により神鳳寺は廃寺となり、五重塔などが破却され末寺であった光明院仏像・記録などを引き継いだ。

近代社格制度のもと、明治4年(1871年)5月に官幣大社に列格された。明治9年(1876年)の政府の祭神考証の結果を受け、政府は大鳥連祖神(天児屋命)に祭神を変更した。神社側の反発があったが、明治29年(1896年)の内務省社寺局の通達により変更が確定した。神社側は祭神の日本武尊への復帰をたびたび求めたが、大鳥連祖神に加えて日本武尊を祀ることに至ったのは、国家管理を離れた戦後の昭和36年(1961年)になってからだった。 明治38年(1905年)8月15日、落雷により社殿は焼失し、明治42年(1909年)12月に再建されたのが現社殿である。戦後は神社本庁に所属し、別表神社に指定されている。

摂末社[編集]

境内摂社[編集]

大鳥美波比神社

境外摂社[編集]

主な祭事[編集]

例祭は8月13日にとり行われる。増祀記念大祭は3月15日、4月13日には「花摘祭」、6月中旬には「菖蒲祭」が行われ、7月31日には宿院頓宮への「渡御祭」、10月第1土曜日にはだんじり宮入り(鳳だんじり祭り)が行われる。酉の市神事は、11月の日に行われる。

毎月2日、12日、22日は「にいび」と呼ばれる縁日が開催されている。

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス

脚注[編集]

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  1. ^ 岡田米夫著、東京大神宮刊「全国著名神社案内記」

関連図書[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 大鳥大社(堺市ホームページ)
  • 大鳥神社(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)