氣比神宮

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氣比神宮
Kehi-jingu07s3200.jpg
中鳥居、拝殿
所在地 福井県敦賀市曙町11-68
位置 北緯35度39分18秒
東経136度4分29秒
主祭神 伊奢沙別命(気比大神)
社格 式内社(名神大)・越前国一宮・旧官幣大社・別表神社
例祭 9月4日
主な神事 御誓祭(3月6日
御名易祭(3月8日
総参祭(7月22日
気比の長祭り(9月2日15日
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拝殿
拝殿

氣比神宮(けひじんぐう)は、福井県敦賀市にある神社である。式内社越前国一宮で、旧社格は官幣大社

目次

[編集] 社名

古くは「けひ」を「気比」・「笥飯」と書いたり、社号を「社」・「宮」・「神社」・「(大)神宮」と称したりと様々であったが、明治28年(1895年)の神宮号宣下により「氣比神宮」に改称して現在に至る。現地では「けえさん」と親しみをこめて呼ばれている。

[編集] 祭神

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(気比大神)を主祭神として以下の6柱を祀る。

延喜式神名帳』にも「七座 並名神大社」とある。

伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする[1]

本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数のであったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。なお、『日本書紀』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と三韓征伐を前提としたものである。

『気比宮社記』によれば、大宝2年(702年)、勅命により社殿を修造するに際して仲哀天皇・神功皇后を合祀し、そののち更に日本武尊以下4柱を配祀したという。なお、玉妃命は神功皇后の妹、虚空津比売命のことである。

  1. ^ 西郷信綱『古事記注釈』第6巻(ちくま学芸文庫、2006)239~244頁

[編集] 歴史

当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。

持統天皇6年(692年封戸20戸が増納され(『日本書紀』)、天平2年(730年)には封戸200戸が充てられ、その後天平神護元年(765年)更に44戸が追進された(以上『新抄格勅符抄』)ほか、宝亀元年(770年)を初見(『続日本紀』)として奉幣もたびたび行われるなど朝廷から厚遇され、延喜の制で7座全てが名神大社に列した。また『気比宮社記』によれば、大宝2年(702年)に初めて文武天皇の命で社殿が修造されて以来、社殿造営は勅命によるものとされ、遷宮にあたって勅使が差遣される例であったが、弘仁元年(810年)を最後に勅による造営は絶えたという。更に霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂が夢告によって気比神宮寺を建立して、早くから神仏習合が行われていた1例を示すが(『武智麻呂伝』)、これは中世に廃絶したらしく現在はその旧跡も不明である。

以後も寛仁元年(1017年)に後一条天皇が一代一度の大奉幣使を差遣して神宝を献じるなど朝廷の崇敬は変わらず、また封戸を荘園化して敦賀を中心に一部は佐渡越後にも及ぶ20所以上の神領を有する北陸屈指の大社であったことから、中世を通じて一般に北陸道総鎮守越前国一宮と仰がれて隆盛し、南北朝時代には南朝方に与したため神領地を滅じたが、なお24万石を所領していた。戦国時代に大宮司気比憲直(けひのりなお)が越前朝倉氏についたため、元亀元年(1570年)、織田信長の越前攻略により、社殿焼失、社領没収、社家社僧の離散等社勢は衰退したが、江戸時代福井藩祖結城秀康によって再興されるとともに社領100石を寄進されて以来、福井藩や小浜藩の保護を受けた。

明治4年(1871年国幣大社に列し、同28年官幣大社に昇格した。 昭和20年7月12日、福井空襲により国宝の本殿が焼失する。 第二次大戦後は神社本庁に属し、現在その別表神社とされている。

[編集] 神階

天平3年(731年)には従三位であったことが確認でき(『新抄格勅符抄』)、その後承和6年(839年)正三位勲一等から従二位へ(『続日本後紀』)、嘉祥3年(850年)正二位へ(『文徳天皇実録』)、貞観元年(859年)従一位へと累進して(『日本三代実録』)、寛平元年(889年)、正一位勲一等の極位に至った(『日本紀略』)。

[編集] 神職

古くは角鹿国造の流れを汲む角鹿氏が管掌していたと見られるが、宝亀7年(776年)、朝廷により初めて宮司職が置かれて(『続日本紀』)以降、律令制下ではこれを大中臣姓の者が占めたようで[1]、延暦23年(804年)からはその就任に神祇官による認可が必要とされた(『日本後紀』)ほか、渤海使の客館(松原客館)を監督する任務も託された。また禰宜職も古くから存したようで、承和2年(835年)には両職の者に把笏が許されている(『続日本後紀』)。なお『朝野群載』に、承暦4年(1080年)、神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科したとの記録がある。

その後大中臣姓と角鹿姓を称する48の社家が、大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職を襲い、中でも南北朝の争乱で恒良尊良両親王を奉じて参戦した大宮司気比氏治(けひ うじはる)、斉晴(なりはる)親子が有名である。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあった。室町時代からは社家に菅原姓の者も加わったが、信長の越前攻略により、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなり、明治4年の太政官布告を以て社家制度は廃止された。

  1. ^ 太政官符大中臣魚取(おおなかとみのうおとり)(延暦12年(793年))、大中臣安根(おおなかとみのやすね)(元慶8年(884年))、中臣清貞(なかとみのきよさだ)(寛平5年)の名前が残されている

[編集] 主な神事

  • 例祭(9月4日) - 例祭に先立ち2日に宵宮祭、3日に神幸祭が行われ、また例祭後は5日から10日にかけて後祭、15日に月次祭が行われるので、これらを一連して「気比の長祭り」と呼んでいる
  • 御誓(みちかい)祭(3月6日) - 仲哀天皇2年、天皇が親拝して当地に長く逗留するとの誓いを立てたために始められたと伝える
  • 御名易(みなかえ)祭(3月8日) - 気比大神と誉田別命の名易え(厳密には「魚(な)」と「名(な)」の交換)に因むといい、本宮と摂社伊佐々別神社に海産物を主とする神饌を献ずる
  • 牛腸(ごちょう)祭(6月16日) - 9月の神幸祭で引かれる氏子各町の山車の順序を米籤(よねくじ)で決めるもので、女人禁制のほか厳重なしきたりがある
  • 総参(そうまいり)祭(7月22日) - 御座船に船型神輿を載せて御幸浜(みゆきはま)から敦賀湾を横断して常宮神社へ渡御する神事であるが、当宮では仲哀天皇2年、神功皇后が天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因むといい、地元では気比大神が1年に1度、眷属氏子を率いて常宮神社の祭神天八百万比咩(あめのやおよろずひめ)を妻訪いするものであるという。なお、この日敦賀湾は禁漁となる

[編集] 社殿

本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲の四社之宮(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に東殿宮(日本武尊)、東北に総社宮(応神天皇)、西北に平殿宮(玉妃命)、西に西殿宮(武内宿禰命)と並んでいる。

現本宮は、昭和20年に空襲によって焼失したため、同25年再建されたもの。また、同じく罹災した四社之宮は同58年になって復興された。 ちなみに旧本殿は、正面三間側面四間、正面に一間の向拝を付した両流造檜皮葺の本宮(旧国宝指定)と、それぞれ一間社流造檜皮葺の四社之宮からなり、いずれも慶長19年(1614年)に結城秀康によって再建されたもので、現在とやや異なり本宮の四隅に四社之宮を配置する独特な様式から、一に「気比造」と呼ばれていた。

[編集] 摂末社

[編集] 角鹿神社

摂社・角鹿神社

角鹿(つぬが)神社は『延喜式神名帳』に小社として記載する。古く政所(まんどころ)神社とも称し、また正安3年(1301年)までは境内の表口であったことから門神(かどがみ)とも称されていた。

  • 祭神 - 都怒我阿羅斯等命天保10年(1839年)に松尾大神を合祀)。なお、『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日(たけいささひ)を充てている
  • 由緒 - 『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社 の筆頭に定められた
  • 神階 - 『越前国内神名帳』に「正四位 敦賀神」と記されている
  • 社殿 - 流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築にかかるもので、当宮における昭和の戦災を免れた唯一の建物である

[編集] 天利劔神社

「あめのとつるぎじんじゃ」と読む。『延喜式神名帳』に小社として記載する。

  • 祭神 - 天利劔(あめのとつるぎ)大神。気比大神の第五王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 由緒 - 仲哀天皇が宝剣を奉納したのに始まるという。明治10年摂社に定められた
  • 神階 - 承和7年、無位から従五位下に叙せられたが、『国内神名帳』には「正四位 天利劔神」と記されている
  • 社殿 - 昭和20年の戦災で焼失するも、同55年に流造銅板葺で再建された

[編集] 天伊弉奈姫神社

天伊弉奈姫(あめのいさなひめ)神社は、『延喜式神名帳』の小社「天比女若御子神社」に比定されている。

  • 祭神 - 天比女若御子(あめひめのわかみこ)。気比大神の第六王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある。縁結びの神とされる
  • 由緒 - 不明。明治10年、天利劔神社とともに摂社に定められた
  • 神階以下は天利劔神社に同じであるが、『国内神名帳』には「正四位 天若神子神」と記されている

[編集] 天伊弉奈彦神社

天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社も『延喜式神名帳』に小社「伊佐奈彦神社」と載せる。

  • 祭神 - 天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)大神。気比大神の第七王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 由緒以下は天伊弉奈姫神社に同じであるが、『国内神名帳』には「正四位 天伊佐奈彦神」と記されている

[編集] 大神下前神社

「大神下前」は現在「おおみわしもさき」と読まれている。式内小社。別に「道後神」とも称されていた。

  • 祭神 - 大己貴命。江戸時代以降、稲荷神金刀比羅神を合祀している
  • 由緒 - 不明。もと宮内村(現敦賀市金ケ崎町)に鎮座して気比神宮の北方鎮守の社とされていたが、明治9年、村社に列し、同44年鉄道路線敷設にともない現地へ遷され、当宮の末社とされた
  • 神階 - 『国内神名帳』に見える、「従五位 大神下前神」・「従五位 道後神」のいずれかであろう
  • 社殿 - 流造檜皮葺

[編集] その他の摂末社

摂社

  • 伊佐々別(いささわけ)神社 - 気比大神の荒魂を祀る。気比大神から御食の魚を賜わった誉田別命が、武内宿祢に命じて新たにその荒魂を祀ったものと伝え、漁撈の守護神とされる

末社

  • 剣神社 - 気比大神の第一王子、姫太神尊を祀る。敦賀市莇生野(あぞの)にあり、気比神宮の西方鎮守の社とされる式内論社劔神社勧請したものという
  • 金神社 - 同第二王子で、素盞嗚尊を祀る。社伝に金剛峯寺山王院本殿に祀られる気比明神は、弘仁7年(816年)に参詣した空海が、この神社の神鏡を鎮守神として遷したものという
  • 林神社 - 同第三王子の林山姫神を祀る。社伝に日吉大社の末社気比社は、弘仁7年に参詣した最澄が、この神社の神鏡を勧請したものという
  • 鏡神社 - 天鏡尊を祀る。祭神は気比大神の第四王子とされるが、行啓した神功皇后が奉納した宝鏡を祀ったものともされる
  • 擬領(おおみやつこ)神社 - 稚武彦命を祀る。稚武彦命は、『国造本紀』によると吉備臣の祖で、角鹿国造の祖先建功狭日命の祖父である
  • 神明両社 - 豊受大神を祀る外宮は慶長17年(1612年)に、天照皇大神を祀る内宮は元和元年(1615年)に勧請された
  • 児宮(このみや) - 伊弉册尊を祀る。江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている
  • 猿田彦神社 - 猿田彦大神を祀る。気比大神を案内するミサキ神である

剣・金・林・鏡・天利劔・天伊弉奈彦・天伊弉奈姫・伊佐々別・擬領の9神社は「九社之宮」と総称される。

なお、戦前は敦賀湾対岸の常宮神社を境外摂社としていた。

[編集] 文化財

大鳥居

[編集] 重要文化財(国指定)

[編集] 敦賀市指定天然記念物

  • 気比神宮のユーカリノキ - 樹齢は不明であるが、樹高約10.6m、幹周り3.25mの大樹である。

[編集] その他

  • 土公(どこう) - 周囲に卵形の石を八角形に並べた墳形の人工小丘で、隣接する敦賀北小学校敷地内に食い込む形で存在する。主祭神降臨の聖地とされるが、他に古殿地であるとか古墳であるとの説もあり、更に最澄と空海が祭壇を築いて祈祷した古跡であるとの伝えもあることから経塚ではないかとの説もある。ちなみに「土公」とは陰陽道における神の名でもある
  • 中鳥居 - 寛保3年(1743年)、小浜藩主酒井忠用の寄進による
  • 旗掲松(はたあげのまつ) - 中鳥居前にある松の根株で、延元元年(1336年)、時の大宮司気比氏治が南朝方として参戦するに際し、ここで挙兵したという
  • 遊行上人御砂持神事 - 正安3年、当宮を参拝した時宗2代目宗祖真教が、西側参詣道の泥濘で参拝者が難儀していたのを哀れみ、浜から砂を運んで整地したという故事に因み、法灯を継ぐ清浄光寺が当宮でこの神事を修す

[編集] 交通アクセス

[編集] 周辺情報

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

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