新田神社 (薩摩川内市)
| 新田神社 | |
|---|---|
勅使殿 |
|
| 所在地 | 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2 |
| 位置 | 北緯31度49分39.58秒 東経130度17分33.62秒 |
| 主祭神 | 邇邇芸尊 天照大神 天押穂耳尊 |
| 社格等 | 薩摩国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
| 創建 | 不詳 |
| 本殿の様式 | 入母屋造 |
| 例祭 | 9月15日 |
| 主な神事 | 武射祭(1月7日) 御田植祭(6月10日頃) 御神鏡清祭(7月28日) |
新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ[1])は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「川内八幡宮」・「一宮八幡」・「新田明神」等とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 祭神
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。
[編集] 歴史
社伝によると「邇邇芸尊」(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされるが、新田神社のことを書いた最も古い史料は永万元年(1165年)のもので、これには「貞観のころに再興」とあり、また「藤原純友の乱のときに国家鎮護を祈願し5か所建てた八幡宮の一つ」とする史料もある。『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている。
文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護島津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。
蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩国では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、島津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩国に一宮が二つ存在することになる。また、国分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の国分氏が就き、新田神社は薩摩国国分寺とも深い繋がりを持つ事になる。武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた島津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『島津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩国一宮」として挙げられている。
[編集] 山陵
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。
[編集] 主な行事
- 武射祭 (1月7日)
- 御田植祭 (入梅の日[6月10日頃]) - 倉野地区及び宮内地区の住民による「奴踊り」がある。(県無形文化財)
- 御神鏡清祭 (7月28日)
[編集] 所蔵文化財
[編集] 重要文化財(国指定)
- 花鳥文様鏡 - 永仁二年三月十八日左衛門尉友俊施入の銘あり、国分氏寄進
- 秋草蝶鳥鏡
- 柏樹鷹狩鏡
- 新田神社文書 9巻1枚
- 新田宮縁起(1巻)、執印氏関係文書(7巻)、権執印家文書(1巻)、秀吉九州平定時の制札(1枚)
[編集] 鹿児島県指定有形文化財
- 社殿(本殿、拝殿、舞殿、勅使殿、両脇摂社) - 本殿は嘉永3年(1850年)建立。仏教建築の形式に類似している[2]
[編集] 現地情報
- 交通アクセス
[編集] 脚注
- ^ 『神道大辞典』(臨川書店)
- ^ 新田神社(鹿児島県教育委員会)。
[編集] 参考文献
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、44頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、264-265頁
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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