鹿島神宮

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鹿島神宮
Kashimajingu Haiden.JPG
拝殿
所在地 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
位置 北緯35度57分56秒
東経140度38分5秒
主祭神 武甕槌大神
社格 式内社(名神大)・常陸国一宮・官幣大社・勅祭社・別表神社
創建 伝 神武天皇1年(紀元前660年)
本殿の様式 三間社流造
例祭 9月1日
主な神事 白馬祭 (1月7日)
祭頭祭 (3月9日)
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鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社式内社常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社。同県神栖市にある息栖神社千葉県香取市にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。正月三が日は全国から60万人以上が参拝しており、初詣参拝者数では茨城県2位。

目次

[編集] 概要

武甕槌神祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神と共に武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。

鹿島神宮の祭神は、『万葉集』にも詠われる「鹿島の神」という一般名称でも知られている。かつて地震は「地中に棲む大鯰(おおなまず)」が起こすものと考えられていたが、その大鯰を押さえつける「要石」が、鎮護する地震の守り神として現在にも伝わっている。

楼門は「日本三大楼門」に数えられる。

[編集] 歴史

社伝によると、創建は神武天皇1年、紀元前660年。『常陸国風土記』は、天地が開ける以前(天地草昧已前)に高天原から天下った「香島の天の大神」の神話と、崇神天皇倭建天皇、天智天皇の時代に祭祀や造営が行われたことを伝える。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。

  • 鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。宝物殿には悪路王アテルイ)の首と首桶が祀られているが、これは寛文四年(1664年)に奥州の藤原満清が奉納したものと言われる。
楼門(拝殿側)
奥宮

[編集] 祭事・年中行事

[編集] 年間祭事

鹿島神宮 二の鳥居
秋空と大鳥居

[編集] 月次祭

  • 祖霊社月次祭(毎月1日10時)

[編集] 式年大祭御船祭(おふなまつり)

12年に1度の午年に行われ、鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神と香取神宮の御祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典であり、水上の御船祭としては日本最大の規模を誇る。

応神天皇の時代に祭典化されたと伝えられている。戦国の混乱により室町時代に大祭としては一度途絶えたが、明治3年(1870年)に数隻の船によって御船祭は再興され、同20年(1887年)に午年毎の式年大祭として定められた。

現代の御船祭りでは、まず9月1日午前、天皇から遣わされる勅使の参向を仰いで例大祭が執り行われる。2日早朝に鹿島神宮を進発した神輿は陸路を北浦湖岸の大船津に到着。大船津で神輿は龍頭の飾りなどを施された御座船(ござぶね)に載せられ、船団を組む数十隻(2002年においては約90隻)の供奉船とともに水上渡御し香取市加藤洲に至る。そこで香取神宮の御迎祭を受けて雅やかな祭礼のハイライトを迎える。その後、水路を御還行して行宮に戻り、3日午後、行宮から本殿へと還幸する。

[編集] 文化財

[編集] 国宝

直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ)、附:刀唐櫃
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」「平国剣(ことむけのつるぎ)」とも呼ばれる。柄(つか)・鞘を含めた全長2.71m、刃長2.24mの直刀。奈良時代末期から平安時代初期の制作。現存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では、古例の1つであり、また刃長の点では最大の作品とされる。長大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという極めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技術的にも貴重な存在。外装(柄・鞘)は、黒漆塗りの上に平文(ひょうもん、金銀などの薄板を貼って文様を表す技法)や金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様な技法によるもので、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」の流れを汲む。

[編集] 重要文化財

梅竹蒔絵鞍
吾妻鏡』には1192年(建久2年)、源頼朝が国の平安を祈って馬を奉納した記事があり、この馬に添えられていた鞍と言われる。曰く、「建久二年十二月大廿六日庚子。去廿二日子剋。常陸國鹿嶋社鳴動。如大地震。聞者驚耳。是爲兵革并大葬兆之由。祢宣中臣廣親所註申也。幕下有御謹愼。則以鹿嶋六郎。被奉神馬云々。」(鹿島氏の項も参照 )
楼門
寛永19年(1642年)に初代水戸藩主徳川頼房の手により造営された。総朱漆塗りの2階建ての楼門。
本殿、石の間、拝殿、幣殿
この4棟は1618年(元和4年)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠により造営された。拝殿は白木作りの簡素な意匠だが、本殿は朱塗りに極彩色の鮮やかな意匠。
奧宮本殿
慶長10年(1605年)に徳川家康により造営された。当初は本殿として使われたが、1619年の造替に伴い場所を移し奥宮となった。総白木作りの簡素な意匠。
仮殿

[編集] 史跡指定

境内が国の史跡に指定されている。

[編集] 要石

要石を祀る祠

境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。水戸黄門仁徳録によれば水戸藩徳川光圀が七日七晩もの間、石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったと伝えられる。

鹿島神宮と地震に関する俗信の広まりは、「ゆるげども、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは(鹿島の神さえいれば、要石は緩むことはあっても抜けてしまって、大地震が起こることはないだろう)」という地震歌と関係している。この歌は、中世から江戸期に活動した鹿島事触が鹿島神宮の霊験として地震除けを宣伝する際に用い、各地に広めたといわれている。過去において「神無月」に起きた大地震の幾つかは、鹿島の神が出雲に出向いて、留守だったために起きたと伝承されているものがある[1]

[編集] 鹿島神宮の鹿

鹿園

鹿島神宮には鹿園があり、神の使いとして親しまれている30数頭の日本鹿が飼われている。

鹿園の説明書き等によると、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使いとされている。また、藤原氏による春日大社の創建に際して、767年神護景雲元年)に、白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行ったとされている。

鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けている。以前は昼間に鹿園そばの売店で鹿の餌を販売しており園内の鹿に与えることができたが、現在は悪意を持つ者が故意にビニールを食べさせ1ヶ月で7頭が窒息死する事件があったため中止されている。

英語で鹿の枝角をアントラー (antler) と言い、鹿島アントラーズのチーム名の由来ともなっている。

[編集] 地震被害

[編集] 地震からの復興

  • 2012年1月、境内の杉材を用いて大鳥居が再建されることが発表された。2014年完成予定。
  • 震災で倒壊した石造鳥居の再建の目途は立っていない。

[編集] 交通

[編集] 脚注

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  1. ^ 澁澤龍彦 『幻想博物学』、「黄金時代」所収、 薔薇十字社、1971年7月。

[編集] 文献

  • 東実 『鹿島神宮』 学生社、改訂新版.平成12年(2000年)、著者は元宮司(平成5年逝去)
  • 茨城県立歴史館編集 『鹿島信仰 常陸から発信された文化』 茨城県立歴史館 2004年
  • 茨城県立歴史館編集 『鹿島信仰の諸相 学術調査報告書8』 茨城県立歴史館 2008年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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