氷川神社
| 氷川神社 | |
|---|---|
拝殿 |
|
| 所在地 | 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407番地 |
| 位置 | 北緯35度55分00秒 東経139度37分46秒 |
| 主祭神 | 須佐之男命 奇稲田姫命 大己貴命 |
| 社格等 | 式内社(名神大) 武蔵国一宮または三宮 官幣大社 勅祭社 別表神社 |
| 創建 | 孝昭天皇3年(紀元前473年) |
| 本殿の様式 | 流造 |
| 例祭 | 8月1日 |
氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町四丁目にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国一宮または三宮で、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社となっている。
武蔵近辺に200社以上ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は大宮氷川神社とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
神社の境内は見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられている。現在境内に残っている神池は、見沼の名残である。埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布する。
富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。なお、この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが別のものである。
さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は連年200万人以上が訪れている。
明治以後は都が旧武蔵国の東京に設置されたことから勅祭社に列せられ、四方拝などの宮中祭祀の対象に加えられるなど皇室からも重んじられた。
[編集] 祭神
現在の主祭神は以下の3柱。
[編集] 祭神の変遷
祭神がどの神であるかは、以下のようにこれまで多くの議論がなされてきた[1]。平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。
- 日本武尊の東征時、須佐之男命を勧請したとする説(吉田兼永)。
- 須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)。
- 男体社:須佐之男命(相殿に伊弉諾、日本武尊、大己貴)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、伊弉冉、三穂津姫、弟橘媛)、簸王子社:大己貴とする説(『風土記稿』)。
- 男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:軻遇突智とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。
近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲していた。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、江戸時代の元禄12年(1699年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。
現在の祭神は、天保4年(1833年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。
[編集] 一宮・三宮に関する議論
武蔵国内における氷川神社の位置付けには、一宮と三宮の2説がある[1]。当社自体は「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げている。
上記を基に、室町時代以降に当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説がある[1]。『延喜式神名帳』には「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」と記され、平安中期にはすでに社格の逆転が起こっていると考えられる。しかし現在のところ、中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていない。
武蔵国総社の大國魂神社(六所宮)では国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っているが、ここでは「一宮:小野神社、三宮:氷川神社」を公式としている。現在も大國魂神社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷に氷川神社の神官が参じている。
[編集] 歴史
[編集] 創建
社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建されたとする。しかし、倭奴国王印が1世紀中頃、卑弥呼が3世紀前半、倭の五王が5世紀の人物たちであるということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。
『国造本紀』によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。
[編集] 古代
氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[2]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[3]、先住の神がアラハバキとみられる[4]。
このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。
[編集] 中世
平安時代後期には、関東地方を実質的に支配していた武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納している。
[編集] 近世
江戸時代には幕府より社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。
[編集] 近代
明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた[5]。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った 。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度参拝され、昭和天皇も皇太子時代の1917年(大正6年)11月12日、天皇に即位した1934年(昭和9年)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝された。今上天皇も皇太子時代の1987年(昭和62年)7月に夫妻で参拝されている。
明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(日進町)へ退転した。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。
1882年(明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに1940年(昭和15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、1929年(昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は1939年(昭和14年)3月に分離して埼玉県護国神社となり、同4月には国指定護国神社となった。
1966年(昭和41年)7月22日に明治神宮の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が1975年(昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、1976年(昭和51年)4月5日に氷川神社に竣功された。これが現在、市立図書館前にある二ノ鳥居である。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。
1982年(昭和57年)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。
[編集] 境内
[編集] 境内社
| 摂社 | 門客人神社 | 足摩乳命・手摩乳命 |
| 天津神社 | 少彦名命 | |
| 宗像神社 | 多起理比売命・市寸島比売命・田寸津比売命 | |
| 末社 | 山祇神社 | 大山祇命 |
| 石上神社 | 布都御魂命 | |
| 愛宕神社 | 迦具土命 | |
| 雷神社 | 大雷命 | |
| 住吉神社 | 底筒男命・中筒男命・上筒男命 | |
| 神明神社 | 天照大御神 | |
| 天満神社 | 菅原道真公 | |
| 松尾神社 | 大山咋命 | |
| 御嶽神社 | 大己貴命・少彦名命 | |
| 稲荷神社 | 倉稲魂命 |
[編集] 参道
旧中山道の大宮区吉敷町から神社まで、およそ2kmの表参道が、ほぼ南北に延びており、「氷川参道」と呼ばれている。参道には三つの大鳥居があり、中山道と分かれる位置に「一の鳥居」、前述の市立図書館近くに「二の鳥居」、境内入り口に「三の鳥居」がある。参道周辺には勅使斎館等の行事施設や市立図書館・博物館が並ぶほか、大型マンションが並ぶ地域もあるが、おおむね閑静な住宅街である。特に神社周辺の高鼻町は古くから高級住宅地となっており、建築制限が課せられている。
参道は古来松が多かったが、明治以降は杉が主体となる樹木で覆われた。太平洋戦争中から戦後にかけて燃料として伐採され、また参道に自動車を走らせたことから排気ガスで枯死し、汚染に強いケヤキが6割を占めるようになったが、ケヤキもまた汚染により弱っている。ケヤキを含め、参道には30種類680本の木々があり、幹回りが2メートルを超える古木25本を市の天然記念物に指定している。
2キロに及ぶ参道は3つの区間に分かれている。
- 神社から埼玉県道2号さいたま春日部線(旧国道16号)までの約500mは往事の面影が残された広い参道が延びている。中央に歩行者用の広い参道があり、東側に対面通行の自動車道がある。
- 県道2号から大宮中央通り(大宮駅東口の駅前通り)までの約300mは「平成ひろば」と名づけられた公園になっている。中央が歩行者用の広い参道であり、その周囲が公園となっている。自動車は「平成ひろば」の両側を南北方向とも一方通行で走ることができる。
- 大宮中央通りの南の約1000mは狭くなっており、参道を車道として開放している。歩道と車道が分離されており、自動車は北向きの一方通行である。将来構想としては、自動車を完全に排除して、往事の参道に再生することが考えられている。
- この区間は住宅街を貫き、並木に覆われて静かなために、自動車の違法駐車が後を絶たなかった。また南大通りより南の部分(一の鳥居から南大通りまで380m)は狭いながら対面通行であり、歩行者、自転車、双方向の自動車、路上駐車で混乱していた。さいたま新都心が街開きしたことから、参道南部を歩く人が飛躍的に増え、違法駐車の排除が検討される。そこで、参道再生の一環として車道部分を通過できるだけの広さにし、残りを御影石風のブロックを敷き詰めた歩道にした。2002年(平成14年)に第一期が完成(南大通りより北の450m)、2006年(平成18年)に第二期(上記の380m)が完成した。特に第二期は自動車を一方通行に変更するため、数次に亘る社会実験を経て実現した。2009年(平成21年)に第三期(中央通りより南の約200m)が着手され、全区間の歩車分離が完成した。
参道では毎年12月10日に「十日町」という祭が催され、さいたま市屈指の賑わいをみせる。このほか、中山道土手町から神社北側に至る「裏参道」がある。
[編集] 主な祭事
- 歳旦祭 1月1日
- 節分祭 2月節分日
- 的神事 2月7日
- 祈年祭 2月17日
- 郷神楽 3月15日
- 鎮花祭 4月5・6・7日
- 御鎮座祭 5月9日
- 道饗祭 5月21日
- 粽神事 6月5日
- 大祓 6月30日
- 例大祭 8月1日
- 神幸祭 8月2日
- 抜穂神事 10月9日
- 朔瓶祭 10月21日
- 新嘗祭 11月23日
- 大湯祭 12月10日
- 誓詔祭 12月11日
- 大祓 12月31日
毎月1日に月次祭、15日に献詠祭、国民奉祝日にはそれぞれ祭事あり。
[編集] 文化財
[編集] 県指定
- 有形文化財
- 氷川神社行幸絵巻(付 原本、下絵)
[編集] 現地情報
[編集] 所在地
- 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407番地
[編集] 交通アクセス
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- 参道の始まる一の鳥居は、さいたま新都心駅が最寄り駅。
- 道路
- 埼玉県道35号川口上尾線(産業道路)・埼玉県道2号さいたま春日部線「堀の内」交差点から数分。県道35号大宮公園入口交差点、県道2号氷川神社入口交差点から入ってもアクセス可能。最寄りICは首都高速埼玉新都心線新都心西出入口、東北道岩槻IC。
[編集] 周辺
- 明治期に神社の周辺の社有林を開いて設置された。現在でも境内と特に分かれているわけではない。公園にはサッカー場、野球場、競輪場、小動物園、児童公園、水泳場、弓道場、県立博物館等が置かれている。また隣接して埼玉県護国神社がある。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『稿本詔勅録』、アジア歴史資料センターにて2011年10月閲覧。
- 『太政類典』、国立公文書館デジタルアーカイブにて2011年10月閲覧。
[編集] 関連項目
- 当社に由来
- 氷川信仰
- 氷川神社 (曖昧さ回避) - 各地の氷川神社の一覧。
- 大宮暦
- 氷川丸
- その他
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