アラハバキ

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アラハバキは、かつては荒脛巾神(あらはばきがみ)とよばれていたもので、日本の民間信仰の一つである。「アラハバキガミではなくアラハバキ」という言い方が一般化したのは後述の『東日流外三郡誌』が出てからのことである。『東日流外三郡誌』においては荒覇吐、荒吐、などとも書く。

概要[編集]

荒脛巾神その起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。『東日流外三郡誌』の中では遮光器土偶の絵が示されており、それに影響を受けたフィクションなども見られるなど、古史古伝偽史的な主張と結びつけられることも多い。

荒脛巾神を祀る神社は関東を中心に全国に約150[要出典]で、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。

諸説[編集]

民間の俗説/足腰の神説[編集]

後に、庶民の間では「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰が起こっていた。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが[1]、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から長脛彦を祀るともされた。この段階では、柳田国男などの民俗学者がちょっと触れるぐらいで注目を浴びるような存在ではなかった。

東日流外三郡誌/蝦夷の神説[編集]

「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権によって東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とするもので、『東日流外三郡誌』に描かれた説。『東日流外三郡誌』では、荒脛巾神(あらはばきがみ)ではなく「アラハバキカムイ」といい、遮光器土偶の姿で表される。また神の名だけではなく、民族の名としても使われ、蝦夷(えみし)という呼び方は大和朝廷からの蔑称であり、自称は「荒羽吐族」であるとしている。このため、神の名ではなく民族の名としてのアラハバキも一部に知られることになった。『東日流外三郡誌』では、アラハバキカムイは荒羽吐族の神々という意味の普通名詞ないし称号であり、具体的には安日彦長髄彦であるとする説、いにしえの神で安日彦長髄彦と似た境遇(追放?放浪?)の神だったという説、イシカホノリ(「末代の光」という意味)という名の神であるとする説、死の神イシカと生命の神ホノリの二神であるとする説、などが出てくる。いずれにしろ『東日流外三郡誌』では、アラハバキというのは元は民族の名であって神の名ではなく、「アラハバキ族が信奉する神」という意味で後に神の名に転じたという認識になっている。

武内裕/縄文神説[編集]

縄文神の一種という説が雑誌『ムー』等でよくいわるが、これは『東日流外三郡誌』を独自に援用した武内裕が70年代に唱えたのが最初である。これ以降、アラハバキは脚光を浴び、アラハバキに関する様々な説が盛んに発表されるようになる。以下の列挙する諸説はそれらの中のごく一部である。

吉野裕子/蛇神説[編集]

吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説で唱えられているもの。

吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく[2] 。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。

谷川健一/塞の神説[編集]

宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川[3]は述べている。

さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」で[4]あり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけた[5]ともいっている。

近江雅和/製鉄民説[編集]

(出典については著者名だけではなく、書誌情報(Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書))も明記してください)

先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。

近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。

真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる[6]

氷川神社との関係[編集]

荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである[7]。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説[8]もある。

氷川神社は、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏[要出典]の流れを組む。氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもある[要出典]という。但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したという説と、氷川は「ピカワ」から転訛したという説を双方とって、両者に全く繋がりはないという説もある[9]

この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある。さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応している[要出典]。その測量技術の精度の高さから、古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる[要出典]。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない。このことから、元々主祭神であったアラハバキ神を客人神に落としめ、出雲の神としたのは、大和朝廷による蝦夷(含、渡来人)支配のための創作であり、江戸幕府はその政治的意図を引き継いで祭神をスサノオにしたのであるという説[要出典]もある。

四天王寺との関係[編集]

聖徳太子が、物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制して、日本初の大寺である大阪市の四天王寺を建てたが、この四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりを指摘する者もいる。

四天王寺の敷地の元来の地名は「荒墓邑」(あらはかむら)である。四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったという説もある。

脚注[編集]

  1. ^ 民俗語彙データベース 国立歴史民俗博物館(アラハバキでの検索結果)
  2. ^ 吉野裕子 『山の神』 76頁。
  3. ^ 谷川健一 『白鳥伝説』 341頁 集英社
  4. ^ 谷川健一『白鳥伝説』 349頁
  5. ^ 谷川健一 『白鳥伝説』339頁
  6. ^ ただし真弓の説は、「塞(サへ)の神」の語源を「遮る神」とする学界の通説とは相容れないものであり、支持者はいない。
  7. ^ 松前健『日本神話の形成』塙書房,186頁。菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年,71-75頁。原島礼二「氷川神社」谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社
  8. ^ 大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年,69頁
  9. ^ ただし、シカワ説もピカワ説も格別有力な説というわけではない。

参考文献[編集]

  • 谷川健一『白鳥伝説』
  • 大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年。
  • 松前健『日本神話の形成』塙書房。
  • 菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年。
  • 原島礼二「氷川神社」(谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社)。