伏見稲荷大社

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伏見稲荷大社

千本鳥居
所在地 京都市伏見区深草藪之内町68
位置 北緯34度58分01秒
東経135度46分23秒
主祭神 宇迦之御魂大神
社格 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社
創建 和銅年間(708〜715年)
本殿の様式 流造
例祭 5月3日
  

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮とされる。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で、旧社格官幣大社

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神大宮能売大神田中大神四大神(しのおおかみ)を配祀する。稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。

毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める。

目次

[編集] 歴史

和銅年間(708〜715年)(一説に和銅4年(711年2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社であるが、秦氏来住以前の原信仰が基礎となったとされる。和銅以降秦氏が禰宜として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の山城国風土記逸文(但しこの風土記は延長3年(925年)に編纂の始まったもの)には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下の様に記されている。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。

延喜式神名帳には「稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次新甞の幣帛を受けた。明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となったが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となり「伏見稲荷大社」と改称した。これは神社本庁が伊勢神宮本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。

社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社がある(元は末社であったが、現在は独立した神社)。

応仁の乱の戦渦が去った15世紀後半には、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたため、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され[1]、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進出開帳を管理していた。しかし、明治維新神仏分離廃仏毀釈によって1868年(慶応4年)に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている[2]

[編集] 境内

現在の本殿は、応仁の乱で焼失した後に明応8年(1499)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

また17世紀初創建の「御茶屋」も重要文化財に指定されている。

稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。

無数の石碑(その数、一万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれている。各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった神名が記されている。参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(→神仏習合)が今でも保たれているのを見ることができる。[3]

[編集] 交通

[編集] 脚注

  1. ^ 「稲荷一流大事」(伏見稲荷本願所愛染寺初代住職の天阿上人の著作)
  2. ^ 伏見稲荷大社の公式HP - 稲荷信仰 - 沿革
  3. ^ 島田裕巳『宗教常識の嘘』p.97

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

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