静岡浅間神社

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神部神社・浅間神社・大歳御祖神社
神部神社・浅間神社大拝殿
神部神社・浅間神社大拝殿
所在地 静岡市葵区宮ケ崎町102番地の1
位置 北緯34度59分1.12秒
東経138度22分31.19秒
座標: 北緯34度59分1.12秒 東経138度22分31.19秒
主祭神 神部:大己貴命
浅間:木之花咲耶姫命
大歳:大歳御祖命
社格 式内社(小)(神部・大歳)
駿河国総社(神部)
国幣小社
別表神社
創建 神部:(伝)崇神天皇年間
浅間:延喜元年(901年
大歳:(伝)応神天皇年間
例祭 4月5日
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静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)は、静岡県静岡市葵区にある神社。通称「おせんげんさま」。

神部神社浅間神社大歳御祖神社の三社からなり、「静岡浅間神社」は総称。三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われている。式内社二社(神部神社・大歳御祖神社)、駿河国総社(神部神社)。三社合わせて旧社格国幣小社で、現在は神社本庁別表神社

概要[編集]

静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に以下の三社が鎮座する。

  • 神部神社 (かんべじんじゃ)
崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられる。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。
  • 浅間神社 (あさまじんじゃ)
全国にある浅間神社の一社。延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。
応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。

三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた。明治21年、三社別々に国幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となった。現在は一つの法人格となっている。

社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なもので、計26棟が国の重要文化財に指定されている。この社殿群は文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので、信州諏訪の立川和四郎ほか門弟により彫刻された花鳥霊獣類は繊細を極めている。特に、重層な大拝殿は高さ25メートルで木造神社建築としては、出雲大社本殿(約24メートル)より高く、まさに日本一の威容を誇る。

歴史[編集]

賤機山の航空写真。浅間神社は南端近くにある。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。

当地に鎮座して以来、当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家今川武田織田豊臣徳川など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵などの事績は枚挙にいとまがない。ことに徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。 そして1582年(天正10年)、三河遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。 さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。

以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになった。 例えば、江戸時代初期の駿府藩主・駿河大納言徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行い当社の神の使の猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られている。 こうした経緯から、明治初年に至るまでの社領等の総石高は2313石にも及んでいた。

境内社[編集]

由緒は不詳ながら古来より賎機山山上に鎮座し、俗に山宮と称する。浅間神社の祭神・木之花咲耶姫命の父神を祀るので、その別宮とされ、従来四本社の一つに列し独立の神社であったが、明治12年7月22日郷社に列し、境内社となった。社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀を備え、他の三本社と同規模の壮麗な建築で、細部に立川流の彫刻を置き、漆塗り極彩色を施す。
  • 八千戈神社 (やちほこじんじゃ)
    • 祭神:主神に八千戈命(大国主命)、相殿に明治6年以降合祭された18社13柱の神々(浅間神社末社九社・大歳社末社三社・麓山神社末社三社・旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)
徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されたもので、摩利支天社と称し、徳川家をはじめ幕府が殊に崇敬を尽くし、社殿も本社に次いで造営され壮麗なものである。明治初年の神仏分離に際して、摩利支天は葵区大岩の臨済寺(今川家菩提寺)に遷され、八千戈神社となった。昭和5年5月29日の昭和天皇親拝の折は、両社修繕中であり当社を仮殿としていたため、当社に参拝した。
  • 少彦名神社 (すくなひこなじんじゃ)
    • 祭神:主神に少彦名命、相殿に神部神社末社14社
もと神宮寺薬師社と称し、薬師如来十二神将を安置していたが、明治維新に際して臨済寺に遷され少彦名神社となった。古来医薬の神として薬業関係者や病気平癒を祈る人々の参詣が絶えない。
明治9年3月、静岡県内の神職が官許を得て創祀された神社。

主な祭事[編集]

  • 2月3日 節分祭・追儺神事(静岡市指定無形民俗文化財)
  • 4月5日 廿日会祭例大祭(旧お会式
    • 正午 古式稚児行列・山車曳き揃え
    • 午後1時 大歳御祖神社例祭
    • 午後2時 神部・浅間神社例祭
    • 午後3時30分 古式稚児舞楽奉納(静岡県指定無形民俗文化財)
  • 9月24日 大歳御祖神社日待祭宵宮祭
  • 9月25日 大歳御祖神社日待祭本祭

文化財[編集]

重要文化財(国指定)[編集]

社殿
  • 神部神社浅間神社本殿
  • 神部神社浅間神社中門(2棟)
  • 神部神社浅間神社透塀(3棟)
  • 神部神社浅間神社拝殿
  • 神部神社浅間神社舞殿
  • 神部神社浅間神社楼門
  • 神部神社浅間神社回廊(2棟)
  • 神部神社浅間神社総門
  • 神部神社浅間神社神厩舎
  • 神部神社浅間神社宝蔵
  • 境内社麓山神社本殿
  • 境内社麓山神社中門
  • 境内社麓山神社透塀
  • 境内社麓山神社拝殿
  • 境内社八千戈神社本殿
  • 境内社八千戈神社中門
  • 境内社八千戈神社透塀(2棟)
  • 境内社少彦名神社本殿
  • 大歳御祖神社本殿
  • 大歳御祖神社中門
  • 大歳御祖神社透塀

以下は建造物の附(つけたり)指定

  • 寛文十年社中絵図 1枚
  • 駿府浅間御再建十分一割絵図 16面
  • 駿府浅間惣社御造営御勘定帳 2冊
  • 棟札 20枚
美術工芸品
  • 太刀 銘長船住人長光
小牧・長久手の戦の和睦の印として、秀吉から家康に贈られた太刀で、家康が大御所として駿府在城の折、大歳御祖神社に奉納したと伝えられる。

静岡県指定文化財[編集]

  • 家康公着初腹巻
今川義元が調進したと伝えられる。
  • 家光公奉納御神服調度品類(古神宝類)
  • 三十六歌仙懸額十八面
寛永11年(1634)、狩野探幽33歳の作。家光が浅間神社造営に際して奉納したもので、書は青蓮院尊純法親王の筆。

人物・逸話[編集]

  • 『風姿花伝』によれば、能楽の始祖観阿弥は今川氏の氏神である当社に能を奉納し、この地で死去した。そのため当社の能舞台は観阿弥終焉の舞台としても知られ、境内には26世宗家観世清和氏による顕彰碑が建てられている。
  • 当社は海外雄飛で有名な山田長政の産土神としても知られ、長政奉納の戦艦図絵馬(写)が残されている。
  • 元NHKアナウンサー山川静夫の父親は、当社の宮司を務めていた。

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス

関連図書[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]