志賀海神社
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| 志賀海神社 | |
|---|---|
| 所在地 | 福岡県福岡市東区志賀島877 |
| 位置 | 北緯33度40分5秒 東経130度18分48秒座標: 北緯33度40分5秒 東経130度18分48秒 |
| 主祭神 | 表津綿津見神 仲津綿津見神 底津綿津見神 |
| 社格等 | 式内社(名神大)・官幣小社・別表神社 |
| 例祭 | 御神幸祭:隔年10月第2日曜日 国土祭(くにちさい):翌月曜日 |
| 主な神事 | 歩射祭(1月中旬) 山誉種蒔漁猟祭(山ほめ祭:4月15日) 七夕祭(8月6日・7日) 山誉漁猟祭(山ほめ祭:11月15日) 龍宮祭(旧暦9月9日) |
志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島の南側に位置する神社。龍の都とも呼ばれ、伊邪那岐命の禊祓によって出生した底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の三柱(綿津見三神)を祀る。全国の綿津見神社、海神社の総本宮(海神の総本社)であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。代々阿曇氏が祭祀を司る。
目次 |
[編集] 歴史
- 創建は明らかではないが、現在の志賀島北部の勝馬地区に古くは三社が建てられていた。
- 筑前国風土記に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、阿曇氏の祖神である阿曇磯良が舵取りを務めたとされる。
- 2世紀から4世紀の間に底津綿津見神を祀る表津宮が島南部の勝山に遷座され、それに併せて仲津綿津見神と表津綿津見神も祀られる。
- 貞観元年(859年)に従五位上の位を賜る。
- 康保4年(967年)に施行された延喜式神名帳には名神大社と記載。
- 中世、末社375社、社領50石、奉仕する者百数十名と繁栄した。
- 豊臣秀吉、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等が寄進。
- 今から約350年前、現在の社殿が再興。
- 大正15年(1926年)、官幣小社となる。
- 平成16年(2004年)、平成の大改修。
- 平成17年(2005年)、福岡県西方沖地震により一部損壊する。
[編集] 施設
- 本殿・拝殿
- 石造宝篋(ほうきょう)印塔
- 鹿角堂(ろっかくどう)
- 拝殿前の広場の隅にある建物。狐格子がはめられ、奉納された鹿の角(一万本以上)が建物を埋め尽くしている。
- 亀石
- 摂社(5社)
- 沖津宮(勝馬地区)、仲津宮(勝馬地区)、今宮神社(境内)、弘天神社、大嶽神社
- 末社(20社)
[編集] 特筆事項
- 志賀海神社では、4月と11月の祭礼(山誉め祭[1])において「君が代」が以下のような神楽歌として古くから伝わっており、「君が代」の誕生と関連があるのではないかとの説が存在している。(九州王朝を起源とする説)
君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな— 山誉め祭, 神楽歌
[編集] 交通
志賀島バス停・志賀島渡船場のそばにある参道を直進する。
- 駐車場:有り