三韓征伐

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三韓征伐(さんかんせいばつ)とは、『日本書紀』に記載されている、仲哀天皇の后で応神天皇の母・神功皇后が行ったとされる新羅出兵を指す。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、新羅征伐と言う場合もある。

目次

[編集] 概要

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仲哀天皇没後、神功皇后は新羅に渡る。新羅の王はやまとへの服属を誓った。皇后は帰国後、後の応神天皇を出産した。以上が『古事記』・『日本書紀』に共通する伝承の骨子であり、それに日本書紀には、新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子を人質にだしたこと、が伝承として付け加わっている。

神功皇后の新羅征討伝承については、日本書紀記載の年代の実証も含めて、史実か後世による虚構なのかについて、研究が続いている。朝鮮半島における倭国と新羅との戦闘に関しては、朝鮮の史書三国史記新羅本紀および、高句麗における広開土王碑文などにも記録がある(次節参照)。

先代旧事本紀』には、新羅に攻め入るとき神功皇后の他に妹のトヨヒメが登場し、女性であるにもかかわらず鎧をまとっている様を、新羅人が嘲笑った様子が描かれている。

南北朝末期の『太平記』巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、話の筋は『愚童訓』と変わりないが「三韓の夷(えびす)」という語が新たに登場し、その三韓は同時代の高麗と理解されている[1]

続日本紀』には、来新羅使の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある。

[編集] 各国史書による関連記録

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[編集] 「三韓」および新羅について

新羅は紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家とされる。辰韓は馬韓弁韓とあわせて三韓とよばれる。なお『日本書紀』および唐[2]では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ。

辰韓秦韓とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国といい、言語も秦人(中国人)に類似していたといわれる(『晋書』辰韓伝[3]および『北史』新羅伝[4])。従って、辰韓(秦韓)の民は、中国からの移民とされるが[5]、中国政府系の研究機関中国社会科学院は、辰韓を中国の秦の亡命者が樹立した政権で、中国の藩属国として唐が管轄権を持っていたとしており、議論になっている[6]

[編集] 各国史書による歴史

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以下、各国史書に基づき、三韓征伐に関する、新羅倭国百済ほかの歴史を概説する[7][8]。なお、年代は計算によっても異なるので、三韓征伐を現時点で特定できない以上、新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録を網羅する。

  • 新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57年 - 4年)
    • 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた[7]
  • 二代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)
    • 14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した[7]。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった[7]
  • 第四代新羅王の脱解王の時代(在位57年-80年)
  • 脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[7]、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国にも比定され[9]、脱解王の出身氏族である昔氏は倭と交易していた氏族とされる[10]
  • 第五代新羅王の婆娑尼師今の時代((在位80年-112年)
    • 日本書紀で倭国に服したという新羅王波沙寐錦(はさむきむ)のことを指すともいわれる[12]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいわれる[13]法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている[14]。なお、法興王の前代の智証麻立干の時代に国号を新羅として君主号を王に定めている[7]
  • 第6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112年 - 134年)
    • 121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した[7]
    • 翌年123年3月に倭国と講和した[7]
  • 第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154年 - 184年)
    • 158年、倭人が来訪する[7]
    • 173年5月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る[7]。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたものとされる[15]
  • 第9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184年 - 196年)。
    • 193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した[7]
  • 第10代王奈解尼師今 の時代(在位:196年 - 230年)
    • 208年夏4月、倭人が国境を犯す[7]。奈解王は将軍利音に反撃させた。
  • 第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)
    • 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った[7]。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
  • 233年5月、倭人が東部国境に侵入[7]。同7月、将軍の昔于老沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
  • 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)
    • 249年夏4月、倭人が于老を殺害[7]
      • 応神天皇14年(283年)、弓月君百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった[8]
  • 第14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284年 - 298年)
    • 285年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた[16][8]
    • 287年4月、倭人が一礼部[17]に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った[7]
    • 292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した[7]
    • 294年、倭兵が長峯城を攻略した[7]。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
    • 297年、伊西国[18]に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した[7]。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる[19]
  • 第15代の王基臨尼師今の時代(在位:298年 - 310年)
    • 300年1月、倭国と使者を交わし[7]、3月には楽浪・帯方[20]の2国が帰服してきた。
    • 307年、国号を新羅に戻した[21]
  • 第16代の王訖解尼師今(在位:310年 - 356年)
    • 312年国王から王子の通婚を要求[7]。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利[22]の娘を嫁として送った[7]。なお、337年2月に新羅は百済に使者を送って国交を開こうとしている。
    • 344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った[7]
    • 345年、倭国は国書を送ってきて国交断絶[7]
    • 346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した[7]。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却しようとした倭軍を追撃して敗走させた[23]。この時の倭群をイツツヒコ王国として、この遠征失敗により弱体化した同王国を打倒したことが「三韓征伐」とする見解もある[24]が、上記のように、新羅側の記録に倭軍侵攻の記録が残っている。
  • 新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)
    • 356年奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。
    • 362年(?または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都にいたる。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと約束した(日本書紀)。
    • 364年4月、倭軍が侵入[7]。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退し、残留兵は全滅した[25]
    • 新羅は、百済の近肖古王からは366年368年に使者を受け入れており(羅済同盟)、373年には百済の禿山城(京畿道安城市)の城主が領民300を率いて投降してきた。このとき百済からは国書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答え、百済は何も言ってこなくなったという。
    • 377年に前秦に初めて新羅が朝貢する[26]
    • 382年には前秦に衛頭を送って、新羅単独での朝貢を行い[27]、新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)が国号を斯盧から新羅に改めたことを報告した。
    • 391年倭が海を渡って百済(百残)・加羅新羅を破り、倭国の臣民となした[28]。秋7月、高句麗王好太王が4万兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百済の關彌城を落とされた。王が11月、狗原の行宮にて死去した[29]
    • 392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は、高句麗の国力を恐れ、王族である伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として送り込んだ。
    • 393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲され籠城戦を余儀なくされたが、倭軍が退却しようとしたところを騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた[7]
    • 397年、百済の阿莘王は王子腆支を人質としてに送り通好する。
    • 399年、新羅が倭の侵攻を受ける。倭軍が国境に満ち溢れ城池を潰破し民を奴客としたため高句麗に救援を求めた。同年、百済高句麗との誓いを破って倭と和通したため[28]、高句麗王は百済を討つため平譲に進軍した。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした[28]
    • 400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する[28]。このとき新羅の王都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き、任那加羅まで後退する[28]。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した[28]。新羅政府は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送って通交する[7]
    • 404年帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した。
    • 407年)には後燕に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た[30]

[編集] 解釈・研究史

720年に完成した『日本書紀』には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の従属国に入ったと記録されている。『日本書紀』の記述は[31]豊臣秀吉による文禄・慶長の役の大義名分(朝鮮は三韓征伐以来、日本の属国であり支配する権利がある)として積極的に用いられた。江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分とした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行武家事紀』など)がある。

この傾向は明治時代以降も続き、征韓論が台頭したとき、そして実際に大韓帝国を併合する際(韓国併合)や、日鮮同祖論が生まれて外地における同化政策(皇民化教育など)が進められるようになったときも、その思想的背景の一つとなった[要出典]。また、皇国史観の下、『記紀』の記述に疑義を呈することはタブー視され、神功皇后の存在も史実とされた。

[編集] 津田左右吉と新羅征討説話論

津田左右吉は、新羅征討については「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたものらしい」と分析した[32]。その上で伝説の成立時期を6世紀の継体朝や欽明朝とした。津田の著書は、発禁処分になっている。

戦後史学では、戦前の皇国史観から解放され、津田による説話論も見直され、「三韓征伐」に関する日本書紀の記述は「三韓征伐の記録は当時の新羅の状況と合わない」として、神功皇后の存在は伝説的ないし神話的とされた。

なお、津田左右吉による分析は「津田史観」ともいわれ、戦後主流となり、皇国史観記紀を批判または否定するために援用されることがあった。津田自身はそうした潮流について誤解があるとし、また天皇制を批判するために津田の学説が政治的に利用されることについて津田は批判しており、天皇制と民主主義は矛盾しないと主張している[33]。津田自身は近代的な実証史学を展開したのであり、記紀を「否定」する動機がなかったといわれる[34]

[編集] 直木孝次郎と新羅征討論

直木孝次郎は昭和34年(1959年)4月に「神功皇后伝説の成立」を『歴史評論』に104号に発表した[35]。この直木による仮説と解釈については、井上光貞が同昭和34年に刊行された『真説日本歴史 二巻 万葉の世の中』の座談会において批判した[36]。その後、藤間生大、米沢康、岡本堅次、吉井良隆、二宮正彦、塚口義信の研究が続いた。直木孝次郎は、三韓征伐の記述が成立した背景について、新羅打倒について6世紀以来、朝廷内部に存した願望が原動力となって、新羅征討の物語になったとする[37]。また、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するために、対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、物語の形成を促進したとし、津守氏と住吉神社や香椎宮など様々な伝承が加えたと主張している[37]

三韓征伐説話は、新羅が日本へ朝貢していたことや、日本が朝鮮半島で闘った記憶、女帝斉明天皇が新羅遠征のために筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作・脚色されたものしている(上田正昭直木孝次郎説)[38]

[編集] イツツヒコ王国の新羅侵攻

上垣外憲一は、大和の権威を高めるために編纂されたのだが特に朝鮮半島関係の造作は著しいとして[39]、背景として『日本書紀』編纂が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れてから間もないため、言葉の上だけでも威張りたいという心理があったと主張する[要ページ番号][39]

上垣外は朝鮮史書を用いて、次のようなシナリオを提出している。新羅本紀によれば、344年2月に倭国は通婚(婚姻による同盟)を求めてきたが、新羅王は娘はすでに嫁に出ていないとして断った[40]。倭国はこの新羅の拒絶に対して激怒し、翌345年、国交を断絶した[40]。さらに346年には大規模な新羅侵攻を行い、慶州の金城を包囲した[40]。これは「一国(倭国)の総力を挙げた全面戦争」であった[40]上垣外憲一はこの「倭国」を、下関にあった新羅系の国であったイツツヒコ王国としている[40]。イツツヒコ王国は新羅侵攻を行ったが、新羅軍による防衛と追撃によって敗れ、イツツヒコ王国の配下にあった出雲王国も離反し、イツツヒコ王国はついに没落し、消失するとした[40]。さらに上垣外は、神功皇后による新羅征討とは、まずはこの弱体化した下関のイツツヒコ王国の打倒戦争であったとしている[40][41]

[編集] 新羅の「蕃」視

田村圓澄は神話の造作時期を天武 - 持統期とし[42]、当時の新羅は倭国への従属から抜け出し新羅王と倭王が対等であったが、日本は律令国家を構築する中で倭を日本に、倭王を天皇に変更し、対する新羅王、新羅を「蕃」と規定、その一環として三韓征伐が造作されたと主張する[42]

鈴木英夫は『日本書紀』編纂時の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたと主張し、その事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の中国王朝の史書『宋書、梁書』にある記述が成立したと主張する[43]

なお、この他国を「蕃国」視する意識の成立に関しては、堀敏一は『日本書紀』が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてを朝貢と認識すると指摘する[44]山内弘一はこのような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在したことを指摘している[45]


[編集] その他の史料との関連

4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。

4世紀後期頃から倭国ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されているため、三韓征伐神話を根拠として用いらずとも4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は史実として立証されている。

[編集] 中国・朝鮮の史書との関連

中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して影響力を持っていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。

『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている[46]

[編集] 広開土王碑

広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。

李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され[47]、これにより改竄・捏造説は完全に否定された[48][49]

[編集] 七支刀

2005年に七支刀の文字が解読され、表面の銘文に「泰和四年」の文字が判読され[50]、百済が倭国と軍事同盟を締結したとする説を打ち出した。

[編集] 職貢図

これまでの梁職貢図は欠落が多い物だったが、2011年に欠落の少ない張庚『諸番職貢圖巻』が発見され、ある時期の新羅は倭に属していたという一節が見つかった[51]

[編集] 脚注

  1. ^ 村井(1999)
  2. ^ 『旧唐書』百済伝
  3. ^ 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。(辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。)
  4. ^ 「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」『北史』新羅伝
  5. ^ 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
  6. ^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院朝鮮日報 2007年6月4日。東北工程参照。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年。新羅本紀
  8. ^ a b c 岩波文庫「日本書紀」二(1994年、2001年第八版)。
  9. ^ 上垣外2003 p.70。ほか但馬国、肥後国玉名郡とも比定される。
  10. ^ 上垣外2003 p.73
  11. ^ 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、訳注
  12. ^日本書紀』巻九・神功皇后摂政前紀。岩波文庫「日本書紀」(二),151頁注釈,(1994年、2001年第八版)。岩波文庫版『日本書紀』によれば、「波沙」は婆娑尼師今のことで、「尼師今」は王号で、すなわち「波沙」と「婆娑」は同一かとしている
  13. ^ 李成市 『東アジア文化圏の形成』 山川出版社〈世界史リブレット 7〉、2000年
  14. ^ 李成市『東アジア文化圏の形成』、山川出版社<世界史リブレット17>、2000年。『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000。および学習院大学東洋文化研究所 Web版『学東叢刊3 蔚珍鳳坪碑』参照
  15. ^ 景初2年(238年)記事。井上訳注1980、p.61.註9
  16. ^ 秦氏参照。黒板勝美,国史大系編修会編 『国史大系. 第1巻 上』 吉川弘文館、1966年。p276 また、秦の遺民説は、『後漢書』辰韓伝、『三国志魏書』辰韓伝、晋書に記述が存在している。http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
  17. ^ 一礼部を「一利郡」と解して慶尚北道星州郡星州面に比定する説がある。(→井上訳注1980 p.66)
  18. ^ 伊西古国とも。慶尚北道清道郡とも。
  19. ^ 上垣外2003,110-113頁によれば、伊西国はのち、日本の下関のイツツヒコ王国と連合したとする。上垣外、同書107頁では、イツツヒコはこの伊西(イソ、イソゴ)国の王族に関連があったとする見解を提出している。
  20. ^ ここでいう楽浪・帯方は後漢西晋の郡ではなく、国名であり、黄海北道鳳山郡文井面と沙里院邑とに比定する説が有力とされる。(→井上訳注1980 p.66)
  21. ^ 新羅本紀・基臨尼師今10年(307年)条に「復国号新羅。」とあるが、基臨尼師今までの新羅本紀においては、始祖赫居世居西干即位紀において「徐那伐」と号し(紀元前57年)、第4代脱解尼師今金閼智を得たとき(64年)に「鶏林」と号したことが見える。第17代奈勿尼師今の時代に前秦に朝貢してからは「新羅」が国際的に通用する国号となったと見られているが、第22代智証麻立干の時代にも国号を「新羅」と定めたという記事が見える。
  22. ^ ただし、急利はこの直前の訖解尼師今2年(311年)1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の即位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には伊伐飡(1等官)の官位に引き上げられることが多い。→儒礼尼師今2年(285年)2月条、味鄒尼師今2年(263年)正月条など。また、急利は314年1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
  23. ^三国史記』新羅本紀 第十六代 訖解尼師今
  24. ^ 別節参照。上垣外2003,137頁
  25. ^ 大平裕はこの年の侵攻を神功皇后による新羅征討に相当するとした。『日本古代史 正解』講談社,2009年,184頁。
  26. ^太平御覧』で引用する『秦書』。同書の記事を参考にしたと見られる『三国史記』新羅本紀では、単独朝貢を奈勿尼師今の26年(381年)のこととしているが、377年の朝貢記事を記していない。
  27. ^太平御覧』で引用する『秦書』
  28. ^ a b c d e f 好太王好太王碑参照
  29. ^ 『三国史記』「百済本記」
  30. ^ 好太王好太王碑参照
  31. ^ 『読売新聞』2004年2月6日
  32. ^ 『日本古典の研究』
  33. ^ 津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」雑誌『世界』第4号、1946年(昭和21年)。津田左右吉を参照。
  34. ^ 新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』 津田左右吉を読みなおす』勉誠出版、2011年。[1]
  35. ^ のち「日本古代の氏族と天皇」昭和39年、塙書房、および、「古代日本と朝鮮・中国」講談社学術文庫、昭和63年に所収
  36. ^ 「古代日本と朝鮮・中国」講談社学術文庫、昭和63年,105頁
  37. ^ a b 直木(1988)
  38. ^ 直木孝次郎『神話と歴史』(2006年吉川弘文館)
  39. ^ a b 上垣外(2003)
  40. ^ a b c d e f g 上垣外憲一「倭人と韓人」講談社学術文庫,2003年,135-137頁(原本は「天孫降臨の道」1986年、筑摩書房)
  41. ^ 上垣外同書におけるイツツヒコ関連のまとめはイツツヒコ・イソタケル・イタテ(古代史研究サイト「神奈備」内。2012年1月閲覧)も参照
  42. ^ a b 田村(2006)
  43. ^ 鈴木(1991)
  44. ^ 堀敏一 『東アジアのなかの古代日本』
  45. ^ 山内(2003)
  46. ^ 日本古典文学大系『日本書紀』の注
  47. ^ “好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 吉村明大教授「改竄論争に終止符」”. 読売新聞(東京版朝刊文化面) (読売新聞社): p. 19. (2006年4月14日). "中国社会科学院の徐建新氏は、「酒匂拓本と全く同じであり、改竄は全く無かった」ことを証明した" 
  48. ^ 徐建新「好太王碑拓本の研究」東京堂出版、2006
  49. ^ 好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 「改竄論争に終止符」『読売新聞』 2006年4月12日12面
  50. ^ 九州大学人文科学研究院教授 浜田耕策 「七支刀銘文の語るもの-百済・倭国の通好と国家形成の歩調」
  51. ^ 「梁職貢図」から新羅・高句麗題起が発見[2]2011-8.23

[編集] 参考文献

  • 上垣外憲一 『倭人と韓人 記紀からよむ古代交流史』 講談社〈講談社学術文庫〉、2003年11月。ISBN 4-06-159623-3(原本は「天孫降臨の道」1986年、筑摩書房)
  • 沈仁安 『中国からみた日本の古代』 藤田友治藤田美代子訳、ミネルヴァ書房〈シリーズ<古代史の探求>5〉、2003年11月。ISBN 4-623-03905-6
  • 鈴木英夫「加耶・百済と倭――「任那日本府」論(朝鮮古代史の争点<特集>)」、『朝鮮史研究会論文集』24号、朝鮮史研究会、1987年3月、pp. 63-95。
  • 田村圓澄 『東アジアのなかの日本古代史』 吉川弘文館、2006年5月。ISBN 4-642-07955-6
  • 津田左右吉 『日本古典の研究』 岩波書店、1972年、改版。
  • 直木孝次郎 『古代日本と朝鮮・中国』 講談社〈講談社学術文庫〉、1988年9月。ISBN 4-06-158845-1
  • 『幻の加耶と古代日本 ここまでわかった日韓古代史』 文藝春秋編、文藝春秋〈文春文庫 ビジュアル版〉、1994年1月。ISBN 4-16-810411-7
  • 堀敏一 『東アジアのなかの古代日本』 研文出版〈研文選書 75〉、1998年9月。ISBN 4-87636-156-8
  • 村井章介 『中世日本の内と外』 筑摩書房〈ちくまプリマーブックス 128〉、1999年4月。ISBN 4-480-04228-8
  • 山内弘一 『朝鮮からみた華夷思想』 山川出版社〈世界史リブレット 67〉、2003年8月。ISBN 4-634-34670-2
  • 山尾幸久「倭王権と加羅諸国との歴史的関係」、『青丘学術論集』第15号、韓国文化研究振興財団、1999年11月、pp. 95-133。
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