天台宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本経典とする天台教学に基づく。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期に日本に伝えられた。

目次

[編集] 中国の天台宗

中国の天台宗は、の天台智者大師、智顗(ちぎ)(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。

初祖は北斉慧文、第二祖は南岳慧思515年-577年)であり、慧思の弟子が智顗である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。

慧文は、龍樹による大智度論中論に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智顗に継承された。

智顗は、鳩摩羅什訳の法華経摩訶般若波羅蜜経大智度論、そして涅槃経に基づいて教義を組み立て、法華経を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

しかしながら、鳩摩羅什の訳した法華経は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が法華経摩訶般若波羅蜜経大智度論を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。

天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の法華玄義法華文句摩訶止観の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗672年-753年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。

玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。

智顗の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作はの解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。智顗の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。 このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)

[編集] 日本の天台宗

正式名称は天台法華円宗。法華円宗天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(さいちょう、767年-822年)が延暦24年(805年に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教《仏教歴史上におけるいわゆる小乗仏教》では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが《大乗仏教そのものを知らないため》)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。

[編集] 天台密教(台密)

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教台密と呼ばれる。

当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁(じゅんぎょう)から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。

日蓮は、この天台宗の密教化(三代目あたりより密教、真言化がはげしくなり、初期の法華経はうとんじられた)は、最澄亡き後、真言宗に傾いた円仁・円珍(空海の親類ということもあり)などが真言密教を取り入れ比叡山を謗法化(正しい法を信じずそしること)したものだと批判している。因みに日蓮は、真言は亡国だといっているが、日蓮学者の中には、それは次ぎの点を預言したものだという説がある。というのは、くしくも、チベットでも、真言宗の一部の流派である淫靡流派が、はびこり、これがため、顕教を重んじる改革(中観派の台頭―今のチベット仏教はこの改革路線である)を行った。また、蒙古もその末期はこの淫靡流派によって、破滅したとされている(望月仏教辞典)。あるいは、後醍醐天皇時代の立川流の文観などである。現在の真言宗や、一時期左道邪教といわれたチベット仏教(ラマ教といった時代)はこれらの過去の出来事の反省から、これらの色合いを払拭するように努めており、これらの出来事は過去のことであり、少なくともちまたの真言宗寺院においては、全くそれはないと思われる。

[編集] 四宗兼学

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、それらの融合を試みた独特なもので、性格が異なるもの、また智顗の天台教学を継承しつつそれをさらに発展しようと試みたものであると指摘されている。したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。これは、奈良仏教と異なる新興の仏教と連携したものと見られる。なぜなら、空海の真言宗は、奈良の法相宗などからすれば、新参の仏教であった。つまり、朝廷は、奈良仏教と対抗する新しい仏教を支援したのである。これは、まだ、当時はそれほどふるわなかった禅、念仏(のちに爆発的に普及するが)なども同等である。いわゆるこれらの平安の仏教は、法相などの奈良仏教に対して「共闘」していたのであるといえよう。この場合、律については、さらに考究する必要があるが、奈良の律と、平安の律とは、少しく立場を異にしていたのではないだろうか。

[編集] 止観行

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた(しかし、法華経の教義が正しいのならば、なぜ念仏や加持を行わねばならないのか、という疑問・批判もある)。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

[編集] 所依

[編集] 主要寺院(寺格)

[編集] 天台宗(山門派)

[編集] 天台寺門宗

  • 総本山 長等山園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)

[編集] 天台真盛宗

  • 総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市)

[編集] その他天台系宗派

[編集] 大韓天台宗

義天(大覚国師、1055年-1101年)によって高麗時代の11世紀後半に伝えられた。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語