無我

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無我(むが、パーリ:anattā、サンスクリット:अनात्मन् anātman)は、仏教用語で、「」に対する否定を表し、文字通りには「我ならざるもの」という意味である。「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、どこにも我を見出すことはなく、必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので、非我と無我は同じことを指しており、非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる。

各宗派の解釈[編集]

原始仏教[編集]

スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammā-anattā सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

最初期の仏教経典では、我(自己, 魂, attan, ātman, आत्मन्)を

  • 「私のもの」(パーリ語:mama मम)
  • 「私」(パーリ語:ahaṃ अहं)
  • 「私の我(自己、魂)」(パーリ語:me attā मे अत्ता)

の3種に分かち、いっさいの具体的なもの、具体的なことのひとつひとつについて、「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の我ではない」と3つの立場から観察する。

説一切有部[編集]

説一切有部においては、要素である(ダルマ)の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。

この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(じしょう、サンスクリット:svabhāva स्वभाव)と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系(一種の物理学的体系)が確立された。

なお宗派としての説一切有部は滅びたものの、これらの研究は阿毘達磨教学として大乗諸派に受け継がれ、現在にいたるまで熱心に学習されている。

大乗仏教[編集]

このような「法有我」もしくは「自性」の思想は、経量部など他の部派や、般若経典を保持する初期大乗仏教のグループから批判された。特に大乗からは龍樹が現れ、論理学を用いて、これらの法有我説を徹底的に批判した。

彼らは自性に反対の無自性を鮮明にし、であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起(えんぎ)説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。

このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。

その後の大乗仏教[編集]

大乗仏教では、大乗=すべての人々が救われる、という理念から、仏性(あるいは如来我=真我)の存在や如来の常住不変という理念が生まれていった。この過渡期に創作された経典が『法華経』などである。しかし『法華経』が創作された時点では、壮大な物語風に記されるのみで、なぜ無我と空が転換して「常住」となるかは詳しく説明しえなかった。

そして大乗仏教の教学がさらに発展し、その最終形として、『大般涅槃経』などが創作されると、すでに説かれた「無我説」や「空」との関連性をもって、『法華経』で薄く示された「如来常住」や「悉有仏性」をより緻密に説明しなおし、「無我・空」と、如来や仏性の「常住」とを融和させようとした。

仏教一般では、ゴータマ・ブッダは成道してまず世間の邪見である常楽我浄を四顛倒とし、「無常・苦・無我・不浄」を正見として説いたとされる。 しかし発展した大乗仏教においては、「無常・苦・無我・不浄」が理解されるようになると、それらを再批判する形で、涅槃や如来の「常楽我浄」(四徳・四波羅密)を説いたと位置付けている。

人無我・法無我の用例[編集]

前述したように、説一切有部、大乗仏教などの北伝仏教の伝統では、無我には「人無我」「法無我」が説かれる。 ことに、執着してもすべては無我であり、執着することができないものに執着するためにが生じるのであるから、頼りにならないものを頼ろうとすることによって「苦」が生じるのであることを、自分とそれをとり巻く世界に分けて説明する。

親鸞は、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろずのことみなもてそらごとたわ言、まことある事なきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

『歎異抄』

と述べているが、ここでいう「煩悩具足の凡夫」は人無我、「火宅無常の世界」は法無我のことを指しており、いずれも頼りにならない「無我」のものであるから「そらごとたわ言」と説明している。[独自研究?]

一般的用例[編集]

どの地域・いつの時代でも、この無我説を故意に悪用し、責任回避や主体性喪失の逃げ口上に濫発された例がみられる。

逆に、「無我夢中」「無我の境地」「無心」などのように、ある一点への集中の極限において他の夾雑物の完全な排除が説かれる。この例はむしろ無我説の原型にかなり近いとも考えられる。