親鸞

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親鸞
承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日[1]

1173年5月21日 - 1263年1月16日
1173年5月14日 - 1263年1月9日
上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[2] 下段・ユリウス暦


親鸞(安城御影
幼名 松若磨・松若丸
俗名(配流時):藤井善信(よしざね)
法名 〔叡山修行時〕
範宴
〔吉水入門後〕
綽空⇒善信(ぜんしん)
〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞
諡号 見真大師(1876年追贈)
尊称 親鸞聖人・宗祖聖人・開山聖人
生地 京都・法界寺付近
没地 京都・善法院(押小路南 万里小路東)
宗旨 浄土真宗
法然
弟子 (厳密には、親鸞に師事した人物)
善鸞如信、河和田の唯円
二十四輩性信真仏順信、乗然、
信楽、成然、西念、證性、善性、是真、
無為信、善念、信願、定信、入西(道円)、
穴沢の入信、念信、八田の入信、
明法(弁円)、慈善、唯仏、戸森の唯信、
畠谷の唯信、鳥喰の唯円、他
著作 教行信証』、
大谷本廟(本願寺派)
大谷祖廟(大谷派)
御廟拝堂(高田派)、他
親鸞聖人御像(本願寺神戸別院)

親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる[3]明治9年(1876年11月28日[2]明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)の諡号を追贈されている。

目次

[編集] 人物

親鸞は、法然浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

一部の研究者は、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説が提唱された。しかし大正10年(1921年)に、西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状『恵信尼消息』10通が発見され、その内容と親鸞の動向が合致したため、実在したことが証明されている。小豆が好きであった。

[編集] 教え

教えに関しての詳細は、各派により異なるため本願寺派大谷派などのページを参照のこと。以下の説明は、概要である。

[編集] 根本経典

浄土三部経」と総称される、釈尊により説かれた『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典とする。特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。

[編集] 影響を与えた人物と書物

七高僧

インド仏教
龍樹
『十住毘婆沙論』「易行品」
『十二礼』
天親
無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)
中国仏教
曇鸞
無量寿経優婆提舎願生偈註』(浄土論註)
『讃阿弥陀陀佛偈』
道綽
『安楽集』
善導
観無量寿経疏』(観経疏)
『往生礼讃偈』(往生礼讃)
『転経行道願往生浄土法事讃』(法事讃)
『依観経等明般舟三昧行道往生讃』(般舟讃)
『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』(観念法門)
日本仏教
源信
往生要集
源空法然
選択本願念佛集』(選択集)

聖徳太子

「和国の教主」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した。 - 『十七条憲法

[編集] 称名念仏

『佛説無量寿経』には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれる。なぜなら法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願「四十八願」を建立し、とくに18番目の願である「第十八願」(=本願)に

「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法[4]

意訳[5] 「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます[4]。」

と誓う。そしてすべての願が成就し、阿弥陀仏に成ったと説かれる。

よって浄土往生の道が開けるのは、阿弥陀仏の本願によるものであり、この(ことわり)を賜る(=信心をいただく)ことにより救われるとする(易行道)。ゆえに阿弥陀仏より賜わる「信心」を救いの因とし、その「仏恩」に対して自然に湧き起こる「報謝」の心によるものとする。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行)としては捉えない。

[編集] 他力本願

阿弥陀仏の本願のはたらきを、他力本願と呼ぶ。(詳細は、「他力本願」の項目を参照のこと。)しかし、自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない。

「正信偈」に

「彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯」

とあり、信心を獲得することは、非常に難しいとも親鸞は述べている。

本来の「他力本願」の意味を誤用し、一般化した「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。

[編集] 悪人正機

悪人正機」とは、阿弥陀仏の本願について教えられた言葉である。本願とは誓願とも言い、お約束のことである。阿弥陀仏は、悪人を目当て(正客、正機)に、この世から未来永遠の幸福に救うと誓われている。これを悪人正機、という。阿弥陀仏は、すべての人間は悪人と見抜かれて、そういうものを救うと誓われている。この悪人とは、倫理道徳、法律や憲法でいうところの善人悪人とは違う。仏の眼からご覧になると、すべての人間は一つの善もできない極悪人となる。正信偈には、「一生造悪」「極重悪人」と書かれている。

[編集] 現生正定聚

現生正定聚とは、「現生」とは、現在生きている時。「正定聚」とは、「正しく(まちがいなく)仏になることに定まった人々」と言うこと。阿弥陀仏に救われた平生の一念(時尅の極促)に、仏のさとりとほとんど等しい位である「等正覚」となり、死ねば仏になることが定まった身を言う。阿弥陀仏の救いは、死んでからではなく、生きている現在ただ今のことであり、弥陀に救われた一念で、正定聚の菩薩(弥勒菩薩と同格)になれる。 愚禿鈔には、「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と書かれている。 蓮如上人は、これを聖人一流章に「一念発起入正定之聚とも釈し」と書かれている。

[編集] 生涯

親鸞聖人童形像
(青蓮院)
比叡山延暦寺 西塔
聖光院跡
頂法寺(六角堂)
親鸞堂

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない(もしくは、現存しない)。よって不明確・研究中な事柄が多く、諸説ある事に留意されたい。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。またそれらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。

[編集] 誕生

承安3年4月1日[6][7]グレゴリオ暦 1173年5月21日[2][8])に、現在の法界寺日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・日野有範(ありのり)[9]の長男として誕生する。母[7]は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ)[10]とされる。幼名[7]は、「松若磨[10][11]」、「松若丸[12]」。

[編集] 得度

治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。

[編集] 叡山修学

出家後は叡山比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。

建久3年(1192年7月12日源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。

[編集] 六角夢告

建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[13]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

意訳[14] - あなたは、今まで坊さんたるものは妻をめとってはならない、と禁止されていた伝統の戒律を、今こそ破らねばなりません。私は玉のような美しい女性となり、あなたの妻になりましょう。そして、一生の間、よくあなたの活動をたすけ、いのち終わるとき、私の生涯はこれで十分であったと、心から喜べるようになる極楽浄土に一緒に参りましょう

という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

の告を得る。

この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵[15]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[16]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[17]

[編集] 入門

法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空」(しゃっくう)[18] の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。

『御伝鈔』には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西本願寺本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。)

元久2年(1205年4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。

この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、「善信」(ぜんしん)[19] と名告ることを許される。

改名について
善信は、法名ではなく、房号とする推論[20]
「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。
親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。

[編集] 妻帯

妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在し推論である。

  • 法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘・玉日と京都で結婚したという説。
  • 法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族・三善為教の娘・恵信尼と京都で結婚したという説。
  • 越後配流時に、豪族・三善為教の娘、恵信尼と越後で結婚したとする説。
  • 京都在所時に、玉日と結婚後に、越後に配流され、なんらかの理由で、恵信尼と越後で再婚したとする説。
    • 再婚ではなく、玉日と恵信尼は同一人物とする説。

当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子[21]をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。

[編集] 師弟配流

元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。

建永2年[22]1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処する。(詳細は、承元の法難を参照。)

この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。法然は、土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)に配流される。法然は、九条兼実の庇護により配流先が讃岐国香川県)に変更され、摂津国勝尾寺に滞在する。

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[23] と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、入門「改名について」も参照。)

承元5年(1211年3月3日、明信〈栗沢信蓮房〉が誕生する。

建暦元年(1211年)11月(流罪より5年後)、法然とともに罪を赦される。親鸞は、師との再会を願うものの、時期的[24]に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。

建暦2年(1212年1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。親鸞は、師との再会がもはや叶わないと知ったことと、子供が幼かったこともあり、京都に帰らず越後にとどまった。

[編集] 東国布教

建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。

寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵[25]」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。

そして笠間郡稲田郷[26]の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵[27]」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。

親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。

西念寺の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとしている。文永9年(1272年)に、この地で没したとしている。

この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。

[編集] 帰京

62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。

帰京の理由
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。
  • 天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。
弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。
  • 主著『教行信証』を、「経典」・「論釈」との校合のため。
鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。
  • 東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都[28]の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。
現代と比較して、機械的伝達手段[29]が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度[30]が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。
  • 望郷の念によるもの。
35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。
  • 著作活動に専念するため。
当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
妻・恵信尼の動向
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。
  • 東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝)
  • 京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。
当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。
  • 京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。
また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。
承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる

寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。

宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。

建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。

建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。

建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[31]を撰述する。

建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。

同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。

『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。

康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。

正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。

『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。

この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。

[編集] 入滅

弘長2年(1262年[1]11月28日[6]グレゴリオ暦 1263年1月16日[8] )、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有が院主の坊)[7][32] にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

現在でも親鸞への報恩感謝の為、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている[8]

荼毘の地[7] は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺[33]に葬したてまつる」と記されている。

頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。
大谷本廟にある親鸞聖人像

[編集] 本願寺の成立

文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より吉水の北辺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)

元応3年(1321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺大谷本願寺)」と名乗り寺院化し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。)

寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により破却される(寛正の法難)まで、本願寺はこの地にあった(本願寺八世蓮如が宗主の時代)。

[編集] 著書

ウィキクォート
ウィキクォート親鸞に関する引用句集があります。

[編集] 歴史小説

親鸞を描いた歴史小説

[編集] 脚注

  1. ^ a b 弘長2年11月28日 - 西暦(グレゴリオ暦換算・ユリウス暦ともに)1263年になるが、弘長2年はまだ年を越してないので、1262年と考える。文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて1262年と表記する場合と新暦に基づいて1263年と表記する場合があるので注意が必要である。
  2. ^ a b c グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。
  3. ^ 浄土真宗の宗祖(開山とも)と定めたのは、本願寺三世覚如である。
  4. ^ a b 唯除五逆誹謗正法…親鸞は、『尊号真像銘文』において「唯除五逆誹謗正法」の真意を、「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。としている。
  5. ^ 意訳…『<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-』29頁より引用。
  6. ^ a b 旧暦(宣明暦)。
  7. ^ a b c d e 親鸞は、自伝的な記述をした著書が殆ど無い(もしくは、現存しない)為、「出生日」、「幼名」、「婚姻の時期」「歿地」など不明確(研究中)な事柄が多く、様々な説がある事に留意されたい。
  8. ^ a b c 本願寺派高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、入滅日を1月16日に改めた。大谷派佛光寺派興正派などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。
  9. ^ 最近の研究では、出自を日野氏とする事に疑問とする意見もある。
  10. ^ a b 参考文献:真宗聖典編纂委員会 編『真宗聖典』真宗大谷派宗務所出版部、1978年、ISBN 4-8341-0070-7
  11. ^ 参考文献:高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行、ISBN 4-8341-0164-5
  12. ^ 参考文献:瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版、ISBN 4-8318-7067-6
  13. ^ 他説に、比叡山無動寺谷大乗院より毎夜下り、百夜に渡り六角堂に通った説もある。無動寺谷大乗院には、毎夜居なくなる範宴(親鸞)を回りの僧侶達が不審に思い師匠に告げ口をした。その師匠は、夜中に蕎麦を振る舞い、範宴の所在を確かめようとした。その時、範宴自作の木像が蕎麦を食べて、回りの不審を払拭したという伝説が残されている。その時の木像が、今も無動寺谷大乗院に「蕎麦喰ひ木像」とよばれ、本尊・阿弥陀如来と共に祀られている。
  14. ^ 意訳…『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』10・11頁より引用。
  15. ^ 現在の安養寺付近。
  16. ^ 現在の真宗大谷派岡崎別院付近。
  17. ^ 出典:『恵信尼消息』。
  18. ^ 綽空 - 「綽」は、中国の道綽禅師より、「空」は源空〈法然〉上人より。
  19. ^ 善信 - 「善」は、中国の善導大師より、「信」は源信和尚より。
  20. ^ 房号とする推論…『知識ゼロからの親鸞入門』41頁より。
  21. ^ 参考文献…『本願寺系圖』(大阪本願寺本)
  22. ^ 建永2年…建永2年10月25日に、「承元」と改元する。
  23. ^ 親鸞 - 「親」は、インドの天親菩薩より、「鸞」は曇鸞大師より。
  24. ^ 建暦元年(1211年)11月…新暦で換算すると12月~1月。
  25. ^ 大山の草庵…別説には、稲田の草庵から大山の草庵に移住したとする説もある。
  26. ^ 笠間郡稲田郷…現在の茨城県笠間市
  27. ^ 「稲田の草庵」を由緒とする寺院はいくつかあり、西念寺の他に、浄興寺(現在は、新潟県上越市に移転)などがある。
  28. ^ 当時の政治の中心地は鎌倉であるが、経済・文化の中心地は京都である。(京都#鎌倉幕府の設置を参照。)
  29. ^ 機械的伝達手段…テレビ・ラジオなど通信装置など
  30. ^ 経済・文化などの伝播の速度…言語の伝播(柳田國男提唱の「蝸牛考」を参照。)と同様に、経済・文化なども中心地を同心円として広がる傾向がある。
  31. ^ 『正像末和讃』(「皇太子聖徳奉讃〈十一首〉」)に収録されている物とは、別の和讃集。
  32. ^ 入滅の地である、「押小路南・万里小路東の善法院〈善法坊〉」には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、京都市立京都御池中学校〈虎石町〉)付近として、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。〔また、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。〕
  33. ^ 本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟〈西大谷〉の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとする。大谷派は、延仁寺(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。(現在の延仁寺は、東本願寺第二十一世嚴如が再興したもの。)
  34. ^ ブロック紙3社連合以外の掲載紙は次のとおり、東奥日報岩手日報秋田魁新報山形新聞福島民報新潟日報山梨日日新聞大阪日日新聞京都新聞神戸新聞奈良新聞日本海新聞山陰中央新報山陽新聞中国新聞山口新聞徳島新聞四国新聞愛媛新聞高知新聞琉球新報。なお一つの県で掲載紙が重複するエリアは、静岡県(中日新聞、東京新聞)、滋賀県(中日新聞、京都新聞)、鳥取県(日本海新聞、山陰中央新報)、島根県(山陰中央新報、中国新聞)、岡山県(山陽新聞、中国新聞)、広島県(中国新聞、山陽新聞)、山口県(山口新聞、中国新聞)、香川県(四国新聞、山陽新聞)の8県。

[編集] 関連項目

  • 親鸞賞(親鸞を記念した文学賞)

[編集] 参考文献

  • 浄土真宗教学伝道研究センター 編 『浄土真宗聖典』(註釈版)、本願寺出版社、2004年、第2版。ISBN 4-89416-270-9
  • 真宗聖典編纂委員会 編 『真宗聖典』 真宗大谷派宗務所出版部、1978年。ISBN 4-8341-0070-7
  • 河野法雲・雲山龍珠 監修 『真宗辞典』 法藏館、1994年、新装版。ISBN 4-8318-7012-9
  • 瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年、新装版。ISBN 4-8318-7067-6
  • 浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 『浄土三部経』現代語版、本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、1996年。ISBN 4-89416-601-1
  • 浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 『顕浄土真実教行証文類』現代語版、本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、2000年。ISBN 4-89416-668-2
  • 親鸞 著・金子大栄 校訂 『教行信証』 岩波書店(岩波文庫 青318-1)、1957年。ISBN 4-00-333181-8
  • 名畑應順 校注 『親鸞和讃集』 岩波書店(岩波文庫 青318-3)、1976年。ISBN 4-00-333183-4
  • 高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行。ISBN 978-4-8341-0164-5
  • 今井雅晴 著 『茨城と親鸞』 茨城新聞社、2008年。ISBN 978-4-87273-230-6
  • 今井雅晴 著 『如信上人』 真宗大谷派東京教務所、1995年初版、1998年改訂。ISBN ---。
  • 千葉乗隆 著 『浄土真宗』 ナツメ社(図解雑学)、2005年。ISBN 4-8163-3822-5
  • 寺史編纂員 『本願寺系圖(大阪本願寺本)』---。
  • 本多弘之 監修 『知識ゼロからの親鸞入門』 幻冬舎、2009年。ISBN 978-4-344-90148-3

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