親鸞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 親鸞 | |
|---|---|
| 承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日(旧暦) | |
| 諡号 | 見真大師(1876年追贈) |
| 生地 | 京都 |
| 没地 | 京都 |
| 宗派 | 浄土真宗 |
| 師 | 法然 |
| 弟子 | 善鸞、如信、河和田の唯円、 (二十四輩)性信、真仏、順信、乗然、 信楽、成然、西念、證性、善性、是真、 無為信、善念、信願、定信、入西(道円)、 穴沢の入信、念信、八田の入信、 明法(弁円)、慈善、唯仏、戸森の唯信、 畠谷の唯信、鳥喰の唯円、他 |
| 著作 | 顕浄土真実教行証文類(教行信証)他 |
| 廟 | 大谷本廟(本願寺派) 大谷祖廟(大谷派) 御廟拝堂(高田派)他 |
親鸞(しんらん、承安3年4月1日[1]〈1173年5月21日[2]〉 - 弘長2年11月28日[1]〈1263年1月16日[2]〉)は、鎌倉時代初期の日本の僧。浄土真宗の開祖(宗祖)とされる[3]。同宗旨では、「親鸞聖人」と尊称される。 明治9年(1876年)11月28日[4]に明治天皇より「見真大師(けんしんだいし)」の諡号を追贈されている。
- 本項では、暦の正確性、著作との整合を保つ為、旧暦表示(性歿年月日を除く)とした。
目次 |
[編集] 人物
親鸞は、法然(浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
[編集] 影響を与えた人物・書物
- インド仏教
- 龍樹菩薩…『十住毘婆沙論』「易行品」、『十二礼』
- 天親菩薩…『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』
- 中国仏教
- 曇鸞大師(どんらんだいし)…『無量寿経優婆提舎願生偈註(浄土論註)』、『讃阿弥陀陀佛偈』
- 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)…『安楽集』
- 善導大師…『観無量寿経疏(観経疏)』、『往生礼讃偈(往生礼讃)』、『転経行道願往生浄土法事讃(法事讃)』、『依観経等明般舟三昧行道往生讃(般舟讃)』、『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門(観念法門)』
- 日本仏教
[編集] 教え
- 「浄土三部経」と総称される、釈尊により説かれた『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典と定める。特に『佛説無量寿経』を「大無量寿経(大経)」と呼び、教えの中心となる経典として最重要視した。
- 阿弥陀仏にこの世で救われて「南無阿弥陀仏」と報謝の念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができるとされる。なぜなら法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願(=四十八願)を建立し、その第18番目の願(=本願)である第十八願に「すべての人が救われなければ、わたしは仏とはならぬ」(「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」)と誓われ、それらの願がすべて成就して仏になられているからである。この為、人(凡夫)が極楽浄土へ往生出来るのは阿弥陀仏の本願によるものであり、この理(ことわり)を賜る(=信心をいただく)ことにより、往生への道がひらける(易行道)。信心正因称名報恩という。
- 前述した通り、信心も自分から信ずる心の意味ではなく、阿弥陀仏から賜ったものであるり、すべてが阿弥陀仏の働きであるとする。これを他力本願(たりきほんがん)と呼ぶ。ここで言う人(凡夫)とは、仏のような智慧を持ち合わせない末法の世に生きるすべての人を言う。しかし、自力で悟りを開こうとする人(難行道を選ぶ人)を否定するものではない。また、正信偈に「彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯」とあり、誤り無く信心を持ち続ける(いただき続ける)のは、非常に難しい事だとも、親鸞は述べている。
-
- 他力とは阿弥陀仏の働き(力)を指す。「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味での使用は、本来の意味の誤用から転じ一般化したものであり、敬虔な浄土真宗信者(門徒)は、後者の表現を嫌悪・忌避する。
- 「悪人正機」と呼ばれる思想も親鸞独自のものとして知られている。既に親鸞の師・法然に見られる思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人(凡夫) は自力で善(往生の手段となる行為)を成しとげることは不可能である。人(凡夫)はすべて悪(往生の手段とならない行為)しか成せない。だから、悪人と自覚している人の方が、自分は善人だと思っている人より、本願により救われる道を自覚している事になる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。
- 阿弥陀仏に救われている私であるとして、信一念時に、極楽浄土に往生出来る身に定まった現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の身となり、浄土の功徳を現生に感得し証明しながら生きていくこととした。この考え方は法然を超えたもので、浄土宗と浄土真宗の教義上の違いの一つである。
[編集] 生涯
- 年齢は、数え年。
[編集] 誕生
- 承安3年4月1日[5](太陽暦換算:1173年5月21日[6])に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進(だいしん)・日野有範(ありのり)[7]の長男として誕生する。母[5]は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女(きっこうにょ)[8]」[9]とされる。幼名[5]は、「松若磨[8][10]」、「松若丸[11]」[12]。
[編集] 得度
[編集] 叡山での修行
- 出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる。比叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
[編集] 夢告
- 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[13]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者がこれまでの因縁によってたとい女犯があっても私(観音)が玉女の身となって、肉体の交わりを受けよう。一生の間、よく荘厳してその死に際して引き導いて極楽に生じさせよう」という偈句を得る。
- この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵[14]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵[15]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[16]。
[編集] 入門
- 法然の「専修念仏」の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空(しゃっくう)[17]」の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。
- 元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集(選択集)』の書写と、法然の肖像画の制作を許される。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。
- この頃、親鸞より法然に改名を願い出て、「善信(ぜんしん)[18]」の名を与えられる。
- 法然の元で学ぶ間に九条兼実の娘・玉日、又は三善氏の娘・後の恵信尼と結婚したとする説[5]がある。 [19]
- 御伝鈔には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西本願寺本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。)
[編集] 流罪、師との別れ
- 建永2年(1207年)2月、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止と、遵西など4名を死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった(承元の法難)。この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信(ふじいよしざね)」を与えられる。法然は、土佐国(現・高知県)へ、親鸞は越後国府(現・新潟県)に配流された。親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)[20]」と名乗り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。
- 建暦元年(1211年)11月(流罪より5年後)、法然とともに罪を赦された。
- 建暦2年(1212年)1月25日に、法然は京都で80歳をもって入滅。親鸞は二度と師・法然に会う事は出来なかった。その事もあり親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。
[編集] 関東での布教
- 建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、関東での布教活動の為、家族や性信(しょうしん)などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸(茨城県北東部)に向かう。
- 建保4年(1216年)に、「大山の草庵」(茨城県城里町)を開くのを皮切りに、「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を開き、稲田郷(茨城県笠間市稲田)に「稲田の草庵[21]」を開く。親鸞は、ここを拠点に精力的な布教活動を行う。東国(関東)での布教は、約20年間及ぶ。また、主著である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』は、稲田の草庵にて4年の歳月をかけ、草稿本を撰述したとされる。
[編集] 帰京
- 天福2年(1234年)鎌倉幕府が、念仏者取締令を出す。その為、62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。
- 親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
- 寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。
- 宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
- 建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』を撰述する(盛岡本誓寺蔵本)。
- 建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
- 建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』を撰述する。
[編集] 妻、 恵信尼との別れ
- 建長6年(1254年)、恵信尼は、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったと伝えられる。帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったとされる。
- 建長7年(1255年)、『尊号真像銘文(略本)』(福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類(略本・建長本)』、『愚禿鈔(二巻鈔)』『皇太子聖徳奉讃(七十五首)[22]』を撰述する。
- 建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
- 同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。
- 『歎異抄』第二条に想起される関東衆の訪問は、これに前後すると思われる。
- 康元元年(1256年)、『如来二種回向文(往相回向還相回向文類)』を撰述する。
- 康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類(広本・康元本)』を転写する。
- 正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文(広本)』、『正像末和讃』を撰述する。
- 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖(さんじょう)和讃」と総称する。
- この頃の書簡は、後に『末燈抄(編纂:従覚)』『親鸞聖人御消息集(編纂:善性)』などに編纂される。
[編集] 往生
- 弘長2年11月28日(太陽暦換算:1262年1月16日[6]、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院(弟の尋有僧都が院主の坊)」[5][23]にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有僧都(じんうそうず)や末娘の覚信尼らが見取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
- 荼毘の地[5]は、親鸞の曾孫で本願寺三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺[24]に葬したてまつる」と記されている。
- 頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国(関東)に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。
大谷本廟にある親鸞聖人像
[編集] 本願寺の成立
- 文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より吉水の北辺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)
- 元応3年(1321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。)
[編集] 著書
- 漢文
- 『顕浄土真実教行証文類』(略名 『教行信証』)
- 「正信念仏偈」は、『教行信証』の「行巻」の末尾にある、七言百二十句からなる偈文。
- 『浄土文類聚鈔』…教行信証の要点を述べた書物。
- 『愚禿鈔』
- 『入出二門偈』
- 『顕浄土真実教行証文類』(略名 『教行信証』)
- 和文
- 関連書籍
[編集] 親鸞を描いた文芸作品
- 出家とその弟子(倉田百三)
- 吉川英治著 『親鸞(全3巻)』 講談社、1990年刊行。ISBN 978-4-0619-6511-9 ISBN 978-4-0619-6512-6 ISBN 978-4-0619-6513-3。
- 白い道 法然・親鸞とその時代(三國連太郎、1987年松竹より映画化)
- 弥陀の橋は 親鸞聖人伝(津本陽)
[編集] 著名人の評価
- 「親鸞は思想家や非思想家、左右の別を問わず、日本人が最もこのむ思想家である。」
-
- 鷲田小彌太『これでわかった「現代思想・哲学」大全』
- 「日本の13世紀は、親鸞聖人一人を生み出しただけで、立派な世紀である。」
-
- 司馬遼太郎『この国のかたち』「第1巻」
- 「人類が、今日ほど、親鸞聖人を必要としている秋(とき)はない。」(秋…重大な時期)
-
- 井上靖『讃歌・親鸞』
- 「その時代の矛盾、悪の一切を自分の身に引き受け、その重みによってひとりでに時代の底に沈み続けて、ついに時代をその底から越え出て行ったのである。」
-
- 野間宏『親鸞』
- 「私は、何ということなく、親鸞が好きだ、蓮如が好きだ。好き嫌いで言うのは変だけれど、正直な表現でいえば、そうなる。」
-
- 吉川英治『蓮如に思う』
「私が初めて小説を書いた最初の一作が親鸞だった。青年の頃から自分の思索にはおぼろげながら親鸞がすでにあった。親鸞の教義を味解していたというよりも、親鸞自身が告白している、死ぬまで愚痴鈍根をたちきれない人間としての彼が直ちに好きだったのである」
-
- 吉川英治『親鸞』
- 「これほどまで純粋に、己を責め、己の中に巣くう業のしたたかさ、罪の重みにおののきつづけた人、呵責されつづけた人が、親鸞の後にいたろうか。残念ながら『ノー』である。水晶の結晶さながら澄み通った純な魂の懊悩……。それゆえに私たちを搏ち、私たちを限りなく惹きつけ寄らしめる親鸞聖人のような宗教家は、彼をもって絶えた。」[要出典]
- 「親鸞上人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根底のある思想を持たなければ、あれ程の大改革(肉食妻帯の事)はできない。」
- 「今日、多くの人が親鸞に興味をよせている。」
-
- 丹羽文雄『親鸞』
- 「親鸞を語ることは私にとっては人生を語るに等しい。私のまず最初に言うべきことは親鸞に出会ったというその謝念でなければならぬ」
-
- 亀井勝一郎『私の宗教観』
- 「言辞を共にする者が我が信仰の友ではない、信仰の目的物に対し心の態度を同じうする者、其者がわが信仰の友である。(略)我は日本人である、故に情に於てはルーテル、ウェスレー、ムーディーに対するよりも、源信、法然、親鸞に対しより近く感ずるは止むを得ない、我は彼等が弥陀を慕いし其心を以て我主イエスキリストを慕ふ者である。」
- 「私が一番感動するのは、『教行信証』の冒頭の言葉です。親鸞のすべてが、冒頭の十行か二十行に尽くされているような気がするんです。」[要出典]
-
- 三國連太郎(映画『白い道』で原作、脚本、監督、出演。)
- 「大衆の中にとけこんで救いの道をといた親鸞聖人ではないですが私も皆さんの為に自分はどんなベースボールができるか、常に考えているんです。」[要出典]
- 「私は『教行信証』の宗教哲学をもって、西洋に匹儔(相手)を見出だすこと困難なるごとき深さを持つものと思惟せざるを得ないのである。」
- 「親鸞聖人の『教行信証』が私に与えた指導教化は、ほとんど計り知れないほど大きいものである。」
- 「親鸞聖人は私の哲学において、学ぶべき師であり、指導者である。」
- 田辺元『懺悔道としての哲学』
[編集] 参考文献・脚注
[編集] 脚注欄
- ^ a b 旧暦
- ^ a b ユリウス暦
- ^ 浄土真宗の開祖(宗祖)と定めたのは、本願寺三世覚如である。
- ^ グレゴリオ暦
- ^ a b c d e f g 親鸞は、自伝的な記述をした著書が殆ど無い(もしくは、現存しない)為、「出生日」、「幼名」、「婚姻の時期」「歿地」など不明確(研究中)な事柄が多く、様々な説がある事に留意されたい。
- ^ a b c 本願寺派・高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、入滅日を1月16日に改めた。大谷派・佛光寺派・興正派などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。
- ^ 最近の研究では、出自を日野氏とする事に疑問とする意見もある。
- ^ a b 参考文献:真宗聖典編纂委員会 編『真宗聖典』真宗大谷派宗務所出版部、1978年、ISBN 4-8341-0070-7。
- ^ 母の名は、「貴光女[要出典]」とも。
- ^ 参考文献:高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行、ISBN 4-8341-0164-5。
- ^ 参考文献:瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版、ISBN 4-8318-7067-6。
- ^ 幼名は他にも、「十八公麿」「鶴満丸」「忠安」などが伝わる。[要出典]
- ^ 他説に、比叡山無動寺谷大乗院より毎夜下り、百夜に渡り六角堂に通った説もある。無動寺谷大乗院には、毎夜居なくなる範宴(親鸞)を回りの僧侶達が不審に思い師匠に告げ口をした。その師匠は、夜中に蕎麦を振る舞い、範宴の所在を確かめようとした。その時、範宴自作の木像が蕎麦を食べて、回りの不審を払拭したという伝説が残されている。その時の木像が、今も無動寺谷大乗院に「蕎麦喰ひ木像」とよばれ、本尊・阿弥陀如来と共に祀られている。
- ^ 現在の安養寺付近。
- ^ 現在の真宗大谷派岡崎別院付近。
- ^ 出典:『恵信尼消息』。
- ^ 「綽」は、中国の道綽禅師より、「空」は源空〈法然〉上人より。
- ^ 「善」は、中国の善導大師より、「信」は源信和尚より。
- ^ 当時は、配流される罪人には妻帯させるのが一般的であり、近年ではこの説が有力視されている。また、玉日=恵信尼、同一人物説など、親鸞の婚姻には多数の説がある。
- ^ 「親」は、インドの天親菩薩より、「鸞」は曇鸞大師より。
- ^ 「稲田の草庵」を由緒とする寺院はいくつかあり、西念寺の他に、浄興寺(現在は、新潟県上越市に移転)などがある。
- ^ 『正像末和讃』(「皇太子聖徳奉讃〈十一首〉」)に収録されている物とは、別の和讃集。
- ^ 入滅の地である、「押小路南・万里小路東の善法院〈善法坊〉」には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、京都市立京都御池中学校〈虎石町〉)付近と推定して、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。〔また、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。〕
- ^ 本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟〈西大谷〉の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとする。大谷派は、延仁寺(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。(現在の延仁寺は、東本願寺第二十一世厳如が再興したもの。)
- ^ 『模倣と独立』からの引用部分…「そうですね、古臭い例を引くようでありますが、坊さんというものは肉食妻帯をしない主義であります。それを真宗の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢のある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。(中略)その時分に、今でもそうだけれども、思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行して御覧なさい。どの位迫害を受けるか分らない。尤も迫害などを恐れるようではそんな事は出来ないでしょう。そんな小さい事を心配するようでは、こんな事は仕切れないでしょう。其所にその人の自信なり、確乎たる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである。だから親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、一方では著しき自己の代表者である。」
[編集] 参考文献
- 浄土真宗教学伝道研究センター 編 『浄土真宗聖典(註釈版第2版)』 本願寺出版社、2004年。ISBN 978-4-8941-6270-9。
- 真宗聖典編纂委員会 編 『真宗聖典』 真宗大谷派宗務所出版部、1978年。ISBN 4-8341-0070-7。
- 河野法雲・雲山龍珠 監修 『真宗辞典』 法藏館、2000年新装版。ISBN 4-8318-7012-9。
- 瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版。ISBN 4-8318-7067-6。
- 高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行。ISBN 978-4-8341-0164-5。
[編集] 関連項目
- 親鸞賞(親鸞を記念した文学賞)
|
|

