四諦
四諦(したい、サンスクリット語 catvāri āryasatyāni चत्वारि आर्यसत्यानि、パーリ語:cattāri ariyasaccāni)とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいう。四諦は簡略形であって、直訳された四聖諦が正しい。
諦とは「真理」という意味であり、四聖諦とは「4つの聖なる真理」の意である[1]。4つの真理とはそれぞれ、
- 苦諦:苦という真理
- 集諦:苦の原因という真理
- 滅諦:苦の滅という真理
- 道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)
4つの真理は前半の2つと後半の2つで二分することができる。
また、「苦の原因」から「苦」が生じ、「苦の滅を実現する道」から「苦の滅」に至るというように、それぞれ順序が逆転している。 (集諦→苦諦、道諦→滅諦)
それぞれ「遍知」、「滅除」、「成就」、「修習」という課題が付随している。
すなわち、
- 苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
- 苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
- 苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
- 苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)
ということである。
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概要 [編集]
釈迦はさとりを得た後、ヴァーラーナスィーの鹿野苑において、初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。この時、この四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。四諦は釈迦が人間の苦を救うために説いた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ(応病与薬)と言われている。
釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「仏道」である。
パーリ語経典長部の『沙門果経』では、この四諦は、沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)が、戒律(具足戒・波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、「止観」(瞑想)修行に精進し続けることで得られる「六神通」の最終段階、「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べらている[2]。
四つの真理 [編集]
苦諦 [編集]
苦諦(くたい、duHkha-aaryasatya)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
- 愛する対象と別れねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
- 憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
- 求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)
- 最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)
を加えて「八苦」と言う。非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。
集諦 [編集]
集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。
この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり苦集諦である。
滅諦 [編集]
滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。
具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。
道諦 [編集]
道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。
涅槃経における四諦 [編集]
大乗の『大般涅槃経』の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
- 苦聖諦
- この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
- 集聖諦
- 苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
- 滅聖諦
- 苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地であるが、如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
- 道聖諦
- 仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別無く一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。
脚注 [編集]
- ^ 「諦」は通常「諦(あきら)める」と読み、仕方がないと断念したり、思い切ってその(良くない)状態を受け入れたりする、という否定的な意味あいで使われるが、本来の意味は「あきらか」「つまびらかにする」である。
- ^ 『世界の名著 1』 中央公論社 p537