如来

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如来 (にょらい)とは、仏教釈迦を指す名称(十号)のひとつ。あるいは、大乗仏教における諸仏の尊称。「如」が真実、「来」が来たるの意で、真実の世界から来た者の意。

元になったサンスクリット語のतथागत(tathāgata タタ-ガタ)は、「真如(tathā タタ-)から来るもの、真如へと去っていくもの」という意味である。これが漢訳されて如去如来如来如去となり、さらに縮まって如来となった。音写である多陀阿伽陀(ただあがだ)も同じ意味である。

目次

様々な如来 [編集]

代表的な如来である釈迦如来大日如来阿弥陀如来薬師如来のことを四如来という。

真身如来 [編集]

「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。

如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。(『成実論』1)
如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。(『転法輪論』)
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。(『大智度論』 24)

応身如来 [編集]

真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。

如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。

問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。

答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。(勝鬘宝窟上末) 諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(『教行信証』「証巻」 聖典註釈版 p.307)

如去 [編集]

サンスクリット語で「sūgata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。

如来と佛の違い [編集]