インドの仏教

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インドの仏教(インドのぶっきょう)は、仏教の開祖の釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)がネパールルンビニに生まれたことに始まるとされる。釈迦在世時代の仏教については、釈迦などを参照。

概要[編集]

インドは仏教発祥の地であるが、現代では、ほとんど消滅してしまった。13世紀初頭にイスラム教徒の軍がベンガル地方に侵攻し、仏教の拠点精舎を破壊・虐殺したことによって滅んだとも言われるが、その後も零細な集団としてインド仏教はかなりの期間にわたり存続しており、イスラム勢力の侵攻により完全には滅んだ訳ではなかった。なお、カシミールネパール東ベンガルなどには、細々とながら現在まで存続している。近年には、スリランカから上座部仏教が逆輸入されたり、チベットからの難民受入れによるチベット仏教や、日本山妙法寺による布教、インドの大学に対して講師派遣など日本からの支援によって、2001年の国勢調査では仏教徒は800万人前後となっている。

インド仏教の特色[編集]

インドにおける仏教の特色は、きわめて認識論的な行法を外しては考えられない。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けにくい。

さらに、修行によって得られた智慧が重要な問題として意識される。その流れは中観派瑜伽行唯識学派という大きな潮流を形成する。これはチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されている。

智慧を主題とする方法論的流れは、部派仏教から大乗仏教に通じるものであったと見られる。そのため、相互の交流はほとんどないと思われるが、互いに補完しながら教学が形成されているように見える。インドの仏教の最終形態として密教に至るが、これは仏教が西方に伝播される時に、その地域の考え方などから影響を受け、すべての事象を象徴化することによって体系化していったものと考えられる。

また、インドにおける仏教は、学派ごとに活動していたことに特色がある。この動きは南伝仏教などにも伝承されているようである。

しかし、中国日本ではまったく異なった形態をとっている。中国では学派というよりは、寺院ごとのまとまりが強く、いくつかの学派が一つの寺院に並存することがある。また、日本では個人の思想や教えによってグループが形成されている。

インド仏教の歴史[編集]

13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。大きく分けると、

  1. 開教から教団分裂まで - 約100年間
  2. 部派仏教の成立 - 前3世紀ごろ
  3. 大乗仏教運動の興隆 - 前1世紀ごろ
  4. 密教の成立 - 7世紀ごろ

の4つに分けられる。

しかし、大乗仏教が成立しても、部派の教団は存続し教理の展開がある。また、密教の萌芽は大乗仏教に見られるし、中観派との密接な交渉は途切れることはない。つまり、それぞれは重層的に共存していたと考えられる。

最初期[編集]

英語では最初期の仏教のことをprimitive Buddhismと呼んでいる。日本では、原始仏教とか根本仏教と呼ぶことが多い。このように呼ぶときは、シャーキャムニ・ブッダ(釈尊、いわゆる釈迦)とその直弟子の時代を指すか、アショーカ王時代までを指す。釈尊やその弟子たちの活動範囲は、インドの北東部、ガンジス河中流域であった。釈尊の晩年に、ようやく西方インドのアヴァンティ国に発展した。釈迦自身が使った言語は、古代マガダ語もしくは古代東部インド語であったとされ、痕跡はパーリ語聖典にも残っている。アショーカ王の時代には、西インドのプラークリット語の一方言(いわゆるパーリ語)で聖典の一部が成立し、のちに聖典用語となった。

釈尊が亡くなってほどない頃、ラージャグリハ王舎城)郊外に500人の比丘が集まり、最初の結集(けちじゅう)が行われ、経典とがまとめられた。座長は摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)、経は阿難(あなん、アーナンダ)、律は優波離(うぱり、ウパーリ)が担当したと伝えられている。

仏教が急激に広まるのは、マウリヤ朝第3代アショーカ王の時代である。彼は、仏教以外の宗教も奨励したが、何より仏教を広めるのに尽力をした。この頃、戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、分裂しそうになった。アショーカ王の仲裁もあったが、上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに上座部大衆部根本分裂した。仏滅後約100年のことで、この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。さらに仏滅後200年には、アショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。

部派仏教[編集]

根本分裂以後も、仏教の布教活動は盛んであった。西方のガンダーラからアフガニスタンへ、さらに中央アジアへと教線は広がっていった。前3世紀中頃、スリランカのデーバーナンピヤ・ティッサの時代に、マヒンダ比丘(伝、アショーカ王の王子)が仏教を伝え、都に大精舎が建てられた。以後、ここを中心に上座部が栄え、社会や文化に大きな影響を与えた。

しかし、この後も教団の分裂は続く。仏滅後300年の初めに上座部は、説一切有部雪山部に分かれ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後300年には説一切有部から飲光部が、さらに400年には、説一切有部から経量部が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系11部、大衆部系9部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の聖典を持つにいたる。

大乗仏教運動の興隆[編集]

これらの比丘たちの教団とは別に、在家者の中にも仏教の信奉者は多く存在した。在家者は、仏滅後に作られた遺骨などを納めた仏塔(ストゥーパ)に参拝していたようである。信徒たちは、人格の息吹きが感じられる「仏法」を通して仏教を受け止めた。また、仏塔には欄楯があり、そこにレリーフで釈迦牟尼世尊の一代記が描かれていた。参拝者にその一代記を説明する僧が登場し、仏塔の維持と仏教の布教活動を専業としていたようである。このような仏塔崇拝・仏陀崇拝の動きは比丘たちの活動とは別に底辺に流れ続けていたと思われる。

さらに、釈迦が亡くなってから、その偉大さを考える上で、他の誰にもできなかった成仏がなぜなし得たのかという問題が生じた。そこで、前生から輪廻を繰り返しながら修行が続けられたのだということで、本生譚、すなわち前生の話(ジャータカ)がまとめ上げられる。そこには、インド各地に伝えられた伝説の主人公が、実は仏陀の前生であったとされたのである。その大半は慈悲による利他行を平易に説いたものであった。

信者の仏陀崇拝は、単に釈迦だけでは留まらなかった。同じく悟りを得て(光を得て)仏陀となったであろう、別の仏陀もまた崇拝することとなった。(もともと「仏陀」とは「目覚めた者」の意であった)最初期には、釈迦の伝説上の指導仏であった錠光仏であり、直近の未来に仏となる弥勒菩薩への崇拝である。この崇拝にも次第に理屈が付くようになる。それが信仰となってくるのである。自らの罪を懺悔し、教化を請い(勧請)、仏を讃嘆し、自らの善行を仏にささげる(回向)によって、自らも救済されるという新たな儀礼の登場となる。そこで、出家して比丘とならなくても、広く衆生を救いとるという大乗という概念が登場するのである。

このような信徒側の動きと同時に、僧侶側にも大きな動きがあった。それは最初期の経典が部派ごとに伝えられたために、部派間の聖典の突合せ作業を行わざるを得なかった。それまでの聖典は、ごく少数の人間を相手に釈迦が説く(対機説法)というものであった。そのバラバラな経典を主題ごとにまとめる作業が行われると、聖典に手を加えてはならないというタブーが破られることになった。新たな聖典の可能性がこのころから芽生えたと考えてよい。

そのような時に、ことに智慧や縁起を説明する『般若経』が成立する。あたかもいくつかの聖典を編集したという形ではあるが、そこにはという独自の視点で縁起を説明した教典であった。さらにこの経典には、信徒たちが築いた参拝活動を是認する論理が書き加えられた。

このように信徒の運動と、あい呼応して大乗経典が編纂されていったのである。これらの大乗経典は、ほぼ3期に分けて見られる。

  1. 初期大乗経典…般若経維摩経法華経無量寿経――3世紀には龍樹によって空の理論が体系化され、中観派の基礎を作る。
  2. 中期大乗経典…勝鬘経涅槃経解深密経大乗阿毘達磨経――5世紀には無着世親兄弟によって瑜伽行唯識学派が生まれる。
  3. 後期大乗経典…楞伽経大乗密厳経――6世紀になると、大乗経典の中にも密教の萌芽が見られる。

密教の成立[編集]

インド仏教が密教化したのは、周辺の宗教から影響を受けた結果である。バラモン教や非アーリヤ文明を継承して、ヒンドゥー教と同じ基盤の上に大乗仏教の一環として成立した。ことに呪術儀礼を強調することで、当時はライバルであったヒンドゥー教に対抗できる大乗仏教として発展していった。この密教化は、周辺の土着文化や宗教を自らのものとして取り込み、各地の民族宗教と一体化しながら展開されたので、大乗仏教の新しい領域を広げるという面では大きな力を発揮した。7世紀になると、大日経金剛頂経が成立した。

また密教化の過程で、ヒンドゥー教やイスラム教の台頭に対抗するため、仏教保護と怨敵降伏を祈願する憤怒相の護法尊が次々と誕生していった。さらには、ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰の影響も受けた。

しかし、ヒンドゥー教に倣ってマントラ真言陀羅尼)を唱えたり、多数の新奇な仏尊が礼拝対象となったり、さらには仏法の中心が大日如来金剛薩埵法身普賢となったり、タントラの影響で的な修行も取り入れたりした。また、後期インド仏教とヒンドゥー教との差別化が曖昧になるにつれて、後期インド仏教のヒンドゥー教に対する劣勢は確定的になった。

インド社会との交流史[編集]

ヴェーダとの交渉[編集]

アーリア人の発祥地は不明である。これはかなり怪しいが、現在のドイツ周辺部から東行して、イランからインドに入ったという説もある。おそらくは、カスピ海周辺部の遊牧民族の一部が南下東行して前2000年頃インドに入ったと考えられている。そのころにはインダス文明が栄えていたが、ほぼアーリア人に制圧された。前1500年頃にはパンジャーブ地方に進行し国の基礎を築いたとされる。このころから数世紀にわたって作り上げられたのがヴェーダである。この教典によって成立したのがヴェーダの宗教バラモン教)であり、そこには支配者としてのアーリア人によって作られた規範が盛り込まれている。前1000年頃になると、祭式をとりしきるバラモン(司祭)の力が増大し、カースト制度が成立したのもこの頃と思われる。

このバラモンの力があまりに強固になったので、祭式至上主義を批判する者たちからウパニシャッド哲学が起こってきた。この新たな運動は、バラモンが優位に立っていた政治的制度的力を再検討し、本来のヴェーダに回帰しようとの動きでもあった。このような運動がおし進められて、さらにはヴェーダそのものからも自由になろうとする沙門(シュラマナ、出家した行者)と呼ばれる自由思想家たちが登場する(六師外道)。釈迦もその一人であった。当時の沙門たちの基本的な方法論は、瞑想などの修行によって、認識論的にすべての束縛からの解脱を求めようとするものである。それは、ヴェーダやウパニシャッドからも解脱しようとするものであった。

興隆期[編集]

マウリヤ朝のアショーカ王によりインドの国教として選ばれインド全体に広まった。アショーカ王は最初から仏教徒であったわけではなく、インドを統一後に自分の行った殺戮を後悔して仏教に改宗したといわれている。アショーカ王は仏教を保護し、仏教の布教を援助した。

また、当時はローマ帝国との東西交易によりインド経済が発展・繁栄し、ビジネスで成功した富裕層(長者)が仏教に帰依・支援していたこともインド仏教の興隆の社会的要因の一つである。

没落期[編集]

5世紀頃から11世紀頃にかけてインドにおける仏教の弾圧があり、インドから仏教徒は一掃された。インド仏教への弾圧はマウリヤ朝の崩壊とともにはじまり、インド北部から南部へ、西部から東部へと広まった。マウリヤ朝の崩壊とともに、新しく誕生したグプタ朝ヒンドゥー教を国教とした。また、4世紀から5世紀にかけてローマ帝国(西ローマ帝国)が衰退・崩壊すると、当時ローマ帝国(西ローマ帝国)との東西交易で成功していた富裕層(長者)は仏教の有力な支持層であったが社会的・経済的に没落していったため、それに替わってヒンドゥー教徒のバラモンの勢力が社会的に影響力を増した。当時のヒンドゥー教は、バラモン教と土着の宗教との融合が進んで萌芽を迎えていた。ただし、まだこの時点では、仏教やジャイナ教シーク教などは包含されていない。

14世紀以降はインド亜大陸の政治的実権がイスラム教徒に移り、偶像崇拝を否定する名目で仏像や仏教寺院の破壊や、非暴力主義の仏教の僧侶尼僧に対する虐殺、あるいは仏教徒のイスラム教への半強制的な改宗が行われた。また後期インド仏教はヒンドゥー教の影響を受けてタントラ教化していたが、かえってヒンドゥー教との間での信徒獲得の競合に敗れ去った。

さらにヒンドゥー教では、仏陀はヴィシュヌ神の化身の一つであり、仏教は悪神アスラ阿修羅)群から聖典ヴェーダを遠ざける方便とされ、仏陀は誤った教義である仏教を使ってアスラ群を惑わし、それによって聖典ヴェーダをアスラ群から守護したと教えられ、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ派)によって仏教はインチキ宗教かつ仏陀はインチキ教祖の役割として矮小化されてバーガヴァタ・プラーナに描かれており、このことも大衆の間でインド仏教の人気凋落に拍車をかけた。

インド仏教の崩壊後も、ミャンマーに近いベンガル地方では戒律を重視する上座部仏教の集団が現代まで非常にわずかながらも存続しているが(例:en:Chakma people)、後期インド仏教であるタントラ仏教や後期密教はネパールチベット地方に伝播してインドからは姿を消していった。

19世紀後半、イギリス人によって提婆達多の系列という森林修行者の集団が報告されている。このことは結集に参加しなかったグループがおり、この時期まで存続していたということなのかもしれない。現在は不明。

その後の仏教徒の歴史[編集]

インド仏教の再生と現在[編集]

近代に入って、ダルマパーラ大菩提会(1891年設立)の運動によるスリランカからの仏教再移入があり、ダリット(カーストから排除された被抑圧民。いわゆる不可触民)の集団改宗があった。特にインド独立直後、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル (B. R. Ambedkar) の率いた社会運動によって、およそ50万人のダリットの人々が仏教へと改宗したことで、インドにおいて仏教徒が一定の社会的勢力として復活した(いわゆる新仏教運動)。インド政府の宗教統計によれば、インドでの仏教徒の割合は1961年に0.7%であったが2001年には0.8%である。増加しているのはイスラム教徒で、同年を比較すると10.7%から13.4%で、ヒンドゥー教徒の割合は低下しており同年83.4%から80.5%である。キリスト教やシク教などは仏教と同じく横ばいである。[1]一方で、インド仏教徒の指導者である佐々井秀嶺らは、インドの仏教徒はすでに1億人を超えていると主張している。他に信徒の実数を2000万人とする推計もある。[2]

ダリットを基盤として復活したインド仏教は、「アンベードカル仏教」と揶揄されるようにアンベードカルの仏教理解に立脚しており、仏教の基本教理とされる輪廻による因果応報をカースト差別との関連から拒否するなど、その合理主義的な教義が不可触民の解放運動の一環に過ぎないと指摘される側面もある。ブッダをヴィシュヌ神の化身と位置づけるヒンドゥー教徒やカースト制度の恩恵を受ける上位カースト層から偏見や反発が生じている。加えてカーストと関係のない布教活動を行う上座部との二極化も進んでいる。

イスラム教徒の弾圧でインドから仏教が消滅したため置き去りにされていた仏教の聖地や寺院の多くは、その後ヴィシュヌ神(の化身の一つとしての釈迦)を祭る場としてヒンドゥー教徒が管理するようになった。これらの聖地も、仏教徒への返還が進みつつある。

脚注・出典[編集]

  1. ^ インド政府による統計
  2. ^ 山下明子「インドの宗教・社会統合・ジェンダー――ダリット女性の解放運動の視座から」(秋山書店『現代宗教2009 特集 変革期のアジアと宗教』231p)

関連項目[編集]