佐々井秀嶺

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佐々井秀嶺 2009年6月7日、東京・護国寺にて

佐々井 秀嶺(ささい しゅうれい、本名(日本時代):佐々井 実、現本名:アーリア・ナーガルジュナ(Bhadant-G Arya Nagarjuna Shurai Sasai)、1935年8月30日 - )はインドで活動している日系インド人(1世)。ナーグプールインドラ寺(インドラ・ブッダ・ビハール)住職。カースト未満の身分のダリット(不可触賤民)の人々を仏教へと改宗させるアーンベードカルインド仏教復興運動の中心人物の一人となっている。Bhadant Arya Nagarjuna Surai Sasai、Bhadant Nagarjun Surai Sasaiなどの表記もある。

略歴[編集]

受賞歴[編集]

  • 1986年、ナーグプール仏教徒委員会より菩薩号を贈与される
  • 1994年、アーンベードカル国際賞を受賞
  • 2004年、マハラシュトラのナーガブーシャン賞を受賞

活動・功績[編集]

僧侶としての日常的な勤行や布教、一般信徒の求めに応じての冠婚葬祭や子供の名付け、インド各地での仏教式典や大改宗式の導師などの他に、下記のような活動を行っている。

社会事業[編集]

仏教寺院、福祉施設の建設運営[編集]

ナーグプール一帯において多数の寺院、学校、診療所、孤児院、老人ホームなどを建設、運営している。資金は托鉢と寄付に依っている。

マンセル遺跡シルプル遺跡発掘[編集]

佐々井が行う事業のひとつに、考古学上その所在が謎となっている南天鉄塔の探究がある。 若き日の佐々井がナーグプールに辿り着いて数年後、マンザー(マンセル)に「ナーガルジュナ(龍樹))連峰」という地名があるのを聞き、調査したところ仏像などいくつかの仏教遺跡の痕跡を発見する。この地に仏教遺跡があると確信を深めた佐々井は長年に亘り調査を続け、1998年に龍樹遺跡発掘委員会を設立。中央政府と共同で発掘調査を進め、数ヵ月後に巨大な仏塔を発見した。その後も僧院跡などが次々と発掘されている。佐々井はこの地に南天鉄塔があるのではないかと考えており、同様に龍樹と関わりがあるとされるシルプル遺跡の発掘も行っている。 現在、両遺跡ともに発掘調査が進み、観光地としても名高い。

政府内活動[編集]

インド政府少数派委員会(マイノリティ・コミッション)[編集]

ヒンドゥ教勢力が圧倒的なインドにおいて、少数派となる各宗教(イスラム教シーク教仏教など)の発言権を確保するため、インド政府に設置されている委員会の仏教徒代表として、佐々井は2003年からの3年間就任している。 その間、仏教徒の権利確保と仏教遺跡の管理権返還に関する政府内部への働きかけ、各州の少数派委員会にて仏教徒代表のいないケースへの提言を行っている。また就任中、インド国内の祝祭日に関する提言を行い、仏陀生誕日、アンベードカル誕生日及び入滅日がいくつかの州で休日に制定された。

大菩提寺管理権返還運動[編集]

インド東部ビハール州ブッダガヤの大菩提寺は、仏陀成道の史実があるにも関わらず、長らくヒンドゥ教徒の手により管理され、ヒンドゥ教の儀式及び装飾が行われ続けていた。 佐々井はこの現状に抗議し、大菩提寺の仏教徒への解放及び関連する法律の改正を求め行動を起こしている。ここでは主に1992年から1998年の間顕著に見られる大規模デモ行動についてまとめている。これら運動は、僧侶、一般信徒合わせて数万人規模になることがしばしばある。

1992年
  • 5月16日 大菩提寺大塔にて300人規模の参拝。ヒンドゥ化された現状に抗議し、揉み合いとなる。
  • 7月20日 「ブッダガヤ大菩提寺全インド解放実行委員会」結成。委員長就任。
  • 9月27日~10月22日 ボンベイからニューデリーへ、トラック十数台を引き連れ行進。最終的に数万人規模の集会となる。大統領、中央政府首相に請願書を手渡す。その後ブッダガヤを経由し、ナーグプールへ帰還。全行程約7,000km。
  • 11月23日~12月6日 アンベードカル入滅日、仏陀成道日を記念し、デリーにて座り込み。その最中の12月6日、インド北部アヨーディヤにて、ヒンドゥ教至上主義者達によりイスラム教モスクが破壊されるバーブリー・マスジド事件が起こる。この宗教対立により状況が緊迫化し、デモの中断を余儀なくされる。
1993年
  • 5月5日~5月7日 ブッダガヤ大菩提寺にて座り込みの後、ビハール州都パトナにて市中行進。ビハール州首相ラルー・プラサド・ヤダヴとの会見。大菩提寺内のヒンドゥ的装飾と正面大門の紋章の撤去を要請。
  • 10月14日~10月21日 デリーにて大統領官邸及び首相官邸を取り囲みデモ。市内広場にて7日間の座り込み。
1994年
  • 5月24日~5月26日 ブッダガヤ大菩提寺にて釈迦生誕を祝う参拝を行う。行進は大規模となるも、寺院参拝を許可されたのは内300人に留まる。後の6月に州首相と会見し、93年5月に行った要請の再確認に加え、「仏陀ヴィシュヌ9番目の化身である」というヒンドゥ教の解釈を否定する最高裁の判断を支持する認定書を取り付けた。
  • 12月8日 大菩提寺にて座り込み。翌日、州首相に大菩提寺の新管理委員会候補名簿を手渡し、承認を得る。
1995年
  • 4月13日~ 3日間に亘るパトナ市内及びブッダガヤでの行進の後、大菩提寺大塔付近とパトナ市議会堂付近にて座り込み。改宗させたばかりの2,000人を動員し、彼らを中心に一般信徒含め数万人が交代で3ヶ月間行う。5月には、ナグプールから高さ3mのアンベードカル像をブッダガヤに運び込み、一夜にして建立する。
  • 7月11日 現地にて抗議の断食に入る。翌日、中央政府に承認された新管理委員会名簿を州首相より手渡され、断食および3ヶ月間の座り込みはここで終了となる。
  • 11月1日 未だ法改正がなされず完全な管理権返還に至らない大菩提寺の解放を要求して、ブッダガヤにて抗議の断食を行う。僧侶、一般信徒数千人規模となり、一部は境内にも入り込む。9日目に州首相より、中央政府首相、閣僚、各政党との大菩提寺早期返還を目的とする会合を持ちかけられ、断食を中止。
1996年
  • 11月1日 デリーにて集会、デモ。全インドから仏教徒数万人が集結。市中行進し、市街地で座り込み。その夜、中央政府首相デーヴェー・ガウダと会見。
1997年

1992年より集中して行われてきた一連の大菩提寺解放運動は、1998年10月13日をもって一旦終結する。現在、大菩提寺の管理は仏教徒が実質的に行っている。しかし寺院管理の法改正の要求は通っておらず、その後も形を変えてしばしば運動は行われている。2009年、44年ぶりに日本への一時帰国を果たした際、日本各地での講演において大菩提寺管理権返還の重要性を訴えている。

仏教僧集団に関する事業[編集]

全印度比丘総本山建設事業[編集]

1984年、佐々井は全インド比丘サンガ協会より、仏教の根本道場並びに仏教徒の国際交流の場としての総本山をブッダガヤに建設する委員に推薦された。この協会は、当時としては数少ない仏教僧組織のひとつであったが、上座部仏教僧の集まりであり、佐々井とは思想を異にしていたため、それまで互いの接触はなく、突然の人事であった。 当時の協会事務局長ダンマ・パーラや法首アーナンダ・ミトラは日本とも交流があり、佐々井を熱烈に支持。佐々井はこの計画の委員長となった。 しかし、事業は難航を極める。1985年11月半ば、ボンベイの州政府内務省より佐々井の強制退去命令が発令される。この頃佐々井は日本国籍であった。この2年前には国籍取得の嘆願書をマハーラーシュトラ州政府及び中央政府内務省に提出していたにも関わらず、事務処理は遅々として進まず、入国ビザはとうに切れていた。形の上では不法滞在となっており、それが俄かに取り沙汰され、急遽身を隠すことになった。 また翌年5月、大量の建築資材と金庫の中の資金及び帳簿の一部が内部の者に持ち去られる事件が発生。 これらの問題をきっかけに協会内の佐々井反対派が勢いを増し、計画は頓挫した。 なおこの計画のために、真言宗智山派関東三山(高尾山薬王院成田山新勝寺川崎大師)や臨済宗南禅寺派明泉寺住職冨士玄峰らが中心のナグプール同友会、神戸市仏教連合会神戸青年仏教徒会などから義援金が集められていた。この問題を振り返り、冨士玄峰は「失敗の原因は十分な計画性に欠けていたことです。ヒンドゥー組織の妨害もあり、だまされてしまったんですね。」と述べている。[1] 協会は1994年に佐々井他2名の追放を宣言している。

全インド比丘大サンガ(マハーサンガ)結成[編集]

1992年、佐々井は自らを代表とする「全インド比丘大サンガ」を組織(正式な公表は1996年)し、前述の大菩提寺管理権返還運動へと繋がっていく。

著書[編集]

参考文献[編集]

外部サイト[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ AERA 現代の肖像 佐々井秀嶺 2005年2月21日