ダライ・ラマ14世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ダライ・ラマ14世
1935年7月6日 -
ダライ・ラマ14世
尊称 クンドゥン
ギャルワ・リンポチェ
生地 チベット
宗派 チベット仏教ゲルグ派
ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1989年
受賞部門: ノーベル平和賞
受賞理由:
Dharma wheel
仏教
基本教義
縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
人物
釈迦 十大弟子 龍樹
如来・菩薩
仏の一覧
部派・宗派
原始仏教 上座部 大乗
地域別仏教
インドの仏教 中国の仏教
韓国の仏教 日本の仏教
経典
聖地
八大聖地
ウィキポータル 仏教

ダライ・ラマ14世1935年7月6日チベット暦5月6日)- 、在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマ。法名をテンジン・ギャツォ (チベット文字:བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་; ワイリー方式Bstan-'dzin Rgya-mtsho)と言う。チベット仏教ゲルク派の最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶であり、チベット仏教の全宗派の伝統の教えを継承し研鑚を積んでおり、教え・実践両面のすべての領域における最高の権威者(チューキ・ゲーポ;法王)として広く認められている。チベット亡命政府の指導者でもある。

目次

来歴

生い立ち~少年期

1935年7月6日にチベット北部のアムドのタクツェルの小さな農家に9人目の子供[1]として生まれた。なお、生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。貴族階級でもない。わずかな土地をひとに貸し、自分たちでも大麦、ソバ、とうもろこしなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5~6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2~3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという[2]。生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという[3]

幼名はラモ・ドンドゥプLha-mo Don-'grub[4])と名づけられた。これは「願いを叶えてくれる女神」という意味である[5]。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められていて、有名な僧院クムブムで修行をしていた[6]。他にも18歳年上の姉としてチェリン・ドルマなどがいた[7]。見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという[8]

3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。お告げのひとつは、1933年に57歳で亡くなった第十三世ダライ・ラマの遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」、続いて、青色と金色の屋根の三階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている映像を「視た」、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家を「視た」ことだ、という。僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。

"Ka"の文字はクムブムのKにちがいないと思ってクムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて三階建てであることを発見しその読みが正しかったと確信したという。捜索隊は付近の村を捜しまわり、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた[9]。いくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォ転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ[10](聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。

捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだ、という。また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという[11]

1939年の夏、ラサに向けてチベット政府の捜索隊らおよび両親や兄弟らとともに三ヶ月かけて移動。ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ(宝石の庭園の意)に入った[12]1940年の冬、ポタラ宮殿に移動し、チベットの精神的指導者の座に正式に就き、ラサのジョカン寺で剃髪式、見習い僧の式が行われ、ダライ・ラマとしての手ほどきを受け始めた[13]。ロブサン・サムテン(一つ上の兄)とともに読み書きの勉強から開始。お経の授業も開始[14]。さらに、精神的(宗教的な)指導者としての教育と同時に、世俗的(一般社会の)指導者としての教育も受け始めた[15]。そういった時間以外はその年齢の子供らしく活発に遊んで過ごした[16]。8歳の時には兄ロブサンは私立学校に行き、ダライ・ラマはひとりで教育を受けるようになった。姉と一緒に過ごし、ロブサンや母が時々通ってくる、という生活を送る。毎年春先にノルブリンカに移り、半年後の冬の始まりとともにポタラ宮殿に戻る、という生活を20歳まで繰り返した[17]。少年時代にラサには10人ほどのヨーロッパ人が住んでいて、その中のひとりハインリッヒ・ハーラーを兄ロブサンが連れてきたことで、互いに知り合うことになった。

チベット亡命政府の長として

チベット亡命政府の旗「雪山獅子旗」
チベット亡命政府の旗「雪山獅子旗

詳細はチベット亡命政府を参照。

詳細はチベット独立運動を参照。

1950年中華人民共和国中国人民解放軍がチベットを制圧、全域を自国に併合し、その後に発生したチベット動乱後にインド北部ダラムサラガンデンポタン(チベット亡命政府)を樹立した後は、同政府の長としてチベットの高度な自治権の存在を訴え、チベット人に対して中華人民共和国の中国共産党政府が行った様々な人権侵害行為についての批判などの活動も行っている。

また、ガンデンポタン(チベット亡命政府)の長としてだけでなくチベット仏教の指導者としても、アメリカヨーロッパ諸国、日本をはじめとする世界各地をたびたび訪れ、仏教の智慧に関する講演、宗教的な対話に関する講演も活発に行っている。

最近の取材では、高齢になったこともありガンデンポタン(チベット亡命政府)の政治的な指導者から引退することを表明している。ガンデンポタン(チベット亡命政府)のサムドン・リンポチェ首席大臣に、その政治的な指導者としての地位と権限を譲る意向を述べている[18]

ノーベル平和賞受賞

1989年には、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞した[19]。ノーベル平和賞の受賞に対しても中華人民共和国政府は完全無視を決め込んだだけでなく、関連図書の持込さえも禁止している[要出典]

カナダ名誉市民

2006年9月9日にカナダ名誉市民の称号を得た[20]。なお、カナダの名誉市民の称号を受けるのは、南アフリカ共和国ネルソン・マンデラ前大統領に続いて2人目だった[21]

中華人民共和国との関係

中華人民共和国政府の外交との関係

ダライ・ラマ14世が各国を訪問する時には、自由な言論活動が許されている国においては当然の事ながら、宗教や文化だけではなく政治に関する言動もなされるので、訪問先が中華人民共和国と国交がある国の場合、訪問先の政府に対して、"一つの中国"を掲げている中華人民共和国国務院(=中華人民共和国政府)から外交ルートを通じて抗議が入るのが通例である[22]。また、中華人民共和国国内でのダライ・ラマ14世の著書や写真の保有・持込は、治安当局の取締対象になる可能性が高い。

中華人民共和国国務院は、ダライ・ラマ14世が2008年開催の北京オリンピックを妨害しようとしていると非難した[23]。中華人民共和国国務院の懸念する通り、ダライ・ラマ14世に追随する亡命チベット人による北京オリンピックへの6ヶ月間抗議運動がインドで発生したり[24]、ダライ・ラマ14世を支持する組織の要請を受けてイギリスチャールズ皇太子が北京オリンピックの開幕式を欠席する[25]などの事態が実際に起きている。

さらに2008年3月15日に、中華人民共和国チベット自治区ラサ市でチベット族漢族を襲撃し、暴徒化したチベット族が商店を略奪・放火する暴動が発生して[26]、治安当局が催涙弾等で制圧した。温家宝第10代国務院総理は、暴動はダライ・ラマ14世の組織的な煽動によると非難し[27]、ダライ・ラマ14世が「チベット独立を放棄し、台湾中華民国)を不可分の中華人民共和国の領土と認めること」を条件に中華人民共和国国務院とダライ・ラマ14世との平和的な対話を呼びかけた[28]。これに対して、ダライ・ラマ14世は暴動が自身の策動によるとの中華人民共和国国務院の見解を否定し[29]、事態を収拾できなくなった場合はガンデンポタン(チベット亡命政府)の最高指導者の地位を辞任することも表明する[30]とともに、中華人民共和国国務院との平和的な対話再開に前向きな姿勢を示している[31]

インターネットでの規制対象

中華人民共和国国内では、中華人民共和国国務院のフィルタリング技術により、インターネット上でのダライ・ラマ14世に関する議論が制限、統制されている[32]

チベット独立を巡って

最近のダライ・ラマ14世は、2007年10月17日に行われたアメリカ合衆国議会黄金勲章授章式のスピーチで、「チベット自治区は中華人民共和国の一部であり、あくまでも高度な自治を求めているのであってチベット独立の考えは無い」ことを表明した[33]

米国との関係

ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領(2001年)
ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領(2001年)

米国議会との関係

2007年10月17日米国議会から議会名誉黄金勲章を授与された。ジョージ・ブッシュ第43代大統領も授章式に同席した[34]。米国議会からのダライ・ラマ14世への黄金勲章授与に対して、米中関係に悪影響を及ぼすとして中華人民共和国政府は強く反発した[35]

2008年3月21日には、米国議会下院議長のナンシー・ペロシ女史が他の下院議員9名を伴ってインドのダラムサラを訪問し、ダライ・ラマ14世と会談した。米国議会黄金勲章授与でも大きな役割を果たしたペロシ下院議長は、同月に発生したチベット自治区での暴動と中国政府の治安当局による催涙弾や銃火器による暴徒制圧への国際調査団への派遣、ならびに中華人民共和国政府との平和的対話の再開に関して、ダライ・ラマ14世への支持を表明した[36]

CIAとの関係

1998年10月2日、ダライ・ラマ14世側はCIAから170万米ドルにのぼる資金援助を1960年代に受けていたことを認めた。援助資金は、志願兵の訓練や対中華人民共和国戦用のゲリラへの支払に費やされた。またダライ・ラマ14世への助成金は、スイスや米国での事務所設立や国際的なロビー活動にも充てがわれた。長年にわたってチベット独立運動を支援したCIAの秘密工作は、中華人民共和国・ソビエト連邦などの共産圏を弱体化させる目的の一環でもあった[37]

インドとの関係

1959年3月31日に、ジャワハルラール・ネルー初代首相はダライ・ラマ14世のインドへの亡命を受け入れた。1959年10月20日に開始された中印国境戦争以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、インド北部のダラムサラにガンデンポタン(チベット亡命政府)と多数の亡命チベット人を今日まで受け入れてきた。

2004年10月20日マンモハン・シン第13代首相は、会談の際インド国内でのダライ・ラマ14世の政治活動を認めないと表明した[38]。さらに、2008年にシブシャンカール・メノン外務次官は、ダライ・ラマ14世はインドを拠点に反中華人民共和国活動をしないことを約束している客人であると述べている[39]

欧州諸国との関係

2006年5月30日に、欧州連合本部(当時:ブリュッセル)で開催された宗教指導者を集めた基本権と相互尊重に関する会議に参加した[40]

イギリス政府は、中華人民共和国との国交関係を元に、同国が掲げる"一つの中国"の政策を掲げており、ゴードン・ブラウン第74代首相が対中関係強化を図っている一方で、王室のチャールズ皇太子は、ダライ・ラマ14世と長年にわたる親交で知られている[41]

2007年9月に、ダライ・ラマ14世はドイツ連邦共和国アンゲラ・メルケル第8代首相と会談した。しかし、中華人民共和国政府が抗議したため2008年2月15日温家宝第10代国務院総理とメルケル首相との間で関係修復が図られ、メルケル首相は、中華人民共和国の掲げる"一つの中国"の外交政策を堅持するとともにチベット独立を支持しないと言明するに至った[42]

国際連合との関係

ダライ・ラマ14世が率いるガンデンポタン(チベット亡命政府)は、現在に至るまで国際連合の加盟国ではない。国際連合は、2000年8月28日から8月30日にかけて開催した「宗教・精神指導者のミレニアム世界平和サミット」に世界の宗教指導者を一千人以上も招聘したが、ダライ・ラマ14世は招聘しなかった[43]

ローマ教皇庁との関係

1975年には、第262代ローマ教皇パウロ6世と会談した。2007年12月には、第265代ローマ教皇ベネディクト16世と会談予定だったが、ローマ教皇庁は会談を中止した[44]

なお、2008年時点でバチカン市国と中華人民共和国に国交は無い。

日本との関係

コローニョ・モンツェーゼ滞在中のダライラマ14世(2007年12月、イタリア)
コローニョ・モンツェーゼ滞在中のダライラマ14世(2007年12月、イタリア)

日本政府との関係

日本に入国する際は、日本国政府が中華人民共和国の推進する"一つの中国"の立場を外交政策として掲げているため、中華人民共和国への配慮から「政治活動をしない」等の条件がある。

なお、ダライ・ラマ14世と公式に会談した日本の内閣総理大臣大平正芳のみ[要出典]である。2008年4月にアメリカへ渡航する際に成田空港に立ち寄った際は、安倍晋三前総理の昭恵夫人と会談を行った。

日本の宗教との関係

1995年3月29日に来日した際には成田空港で日本の記者団より、松本智津夫死刑囚ならびにオウム真理教との関係について質問責めに遭った。松本智津夫死刑囚とは亡命先のインドで 1987年2月24日ならびに1988年7月6日に会談した。またダライ・ラマ14世は、オウム真理教から布施 の名目で1億円にのぼる巨額の寄付金を受領しており、1989年にオウム真理教が東京都宗教法人格を取得した際には、ダライ・ラマ14世は東京都に推薦状を提出してオウム真理教を支援した[45]

1998年4月に京都で念仏宗無量寿寺が主催した「第1回全世界佛教興隆会議」に参加した。また、念佛宗無量寿寺は布施として2億円をダライ・ラマ14世へ寄付したと週刊朝日が報じた[46]

チベット仏教内の交流

パンチェン・ラマ10世との関係

パンチェン・ラマ10世心疾患で急死した際は、ダライ・ラマ14世は追悼式には参列しなかった。中国仏教協会はダライ・ラマ14世に追悼式の招待状を送ったが、中華人民共和国国務院(中国政府)の葬儀準備が唐突だったので参列に間に合わなかったとダライ・ラマ14世は弁明した[要出典]

カルマパ17世の保護

2000年にチベット自治区からインドに逃亡したカギュー派の活仏カルマパ17世を保護した[47]

後継者に関する論議

ダライ・ラマ14世が高齢になったことから後継者について論議がある。本来ならばパンチェン・ラマ11世が転生者を認定するのだが、指名もしくは選挙によってゲルク派のしかるべき高位の僧に次期指導者の地位を委ねる旨を示唆している[48]

ダライ・ラマ14世が敢えて活仏化身ラマ)の転生制度を放棄することを検討している背景としては、次のダライ・ラマの転生者を認定するにあたって国外での亡命生活を余儀なくされているダライ・ラマ14世とガンデンポタン(チベット亡命政府)が影響力を行使しにくいことが考えられる。歴史的にもパンチェン・ラマは、ダライ・ラマとは政治面で対立することが多かったうえに、国外(インド北部の都市ダラムサラ)に亡命したダライ・ラマ14世とは異なって中華人民共和国の認定によるパンチェン・ラマ11世は中華人民共和国チベット自治区内に留まっている。

また、中華人民共和国国務院2007年9月1日転生を届出ならびに許可制とする「チベット仏教活仏転生管理弁法」を施行し、活仏の転生霊童の認定にあたっては国家宗教事務局への事前申請ならびに許可を必要とすると定めた[49]。即ち、中華人民共和国国務院の許可が無い活仏は違法で無効とされることも影響している。

映画

マーティン・スコセッシが、映画史上初めてダライ・ラマ14世の半生を描いた作品。ダライ・ラマ14世の転生者である少年を発見し、彼がチベットを脱出してインドへ亡命するまでの22年間を、歴史的事実に即して描いてゆく。
若き日のダライ・ラマ14世と登山家ハインリヒ・ハラーとの交流を描き、世界中でヒットした。

社会主義について

若い頃にはチベットの経典やナショナル ジオグラフィックなどの歴史や天文学の本の他にマルクスレーニンの本も読み、共産党への入党を希望していた時期もあったことを明かしている。マルクス主義の「平等な分配」の考えに同意しているが、マルクス主義の極めて物質主義的な観点から人の生存をとらえるという部分は唯一の欠点であるとし、その点については同意していない。自分を「半・マルクス主義者」と呼んでも構わないと語っており[50]、仏教と純粋なマルクス主義が融合した場合には、それが有効な施政方法となることを確信していると述べている。[51]

脚注・出典

  1. ^ 「それまでに八人の子供が生まれていた」とある。(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.33)
  2. ^ 出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.31
  3. ^ 出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.33)
  4. ^ チベット語表記。ལྷ་མོ་ཌོན་འགྲུབ་
  5. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.30
  6. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.35
  7. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.34
  8. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.36
  9. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.39
  10. ^ 脚注:チベット語表記。རྗེ་བཅུན་ངག་དབང་བློ་བཟང་ཡེ་ཤེས་བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་
  11. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.39
  12. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.41-44
  13. ^ 出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.47-49。教師としてついたのはレティン・リンポチェ(当初上級教師、後に教師からはずれる)、タタ・リンポチェ(当初下級教師、後に上級教師に昇格)、キゥツァン・リンポチェ(非公式の個人教師、元捜索隊長)、リン・リンポチェ(タタ・リンポチェのかわりに下級教師となった)。リン・リンポチェとは親友となった。(出典:同ページ)
  14. ^ 脚注:チベット語にはウ・チェンとウ・メという二種類の筆記形態があり、一方は私的な書き物、もう一方は公文書や書簡用となっている(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.53)
    脚注:少年のダライ・ラマの生活スケジュールについて
    朝6時起床、着替えて1時間ほど祈祷と瞑想。7時に朝食をとり、それから授業の開始。12時ちょうどに鐘が鳴り、昼休みとなり、子供らしく遊ぶ。1時に軽い昼食。食後すぐに授業が再開。一般教育。午後4時にお茶。その後二人のチェンシャプが来て、抽象的な論題(たとえば「心」の本性とは何か?)といった質問との格闘。午後5時半ごろにようやく1日の試練から開放される。7時ごろまで絵を描いたりして過ごし、夕食。夕食後は宮殿の内庭を散歩をしながら経典を暗誦したり祈祷をするきまりになっていたが、実際は子供らしく物語を考え出したりして時を過ごしたという(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.53-61)
    少年のダライ・ラマが受けた一般教育のカリキュラムの内容は仏教学で学位をとろうとしている他の僧たちと同じで、主要科目・副科目に分かれ、以下のような内容。
    主要科目:「論理学」「チベット芸術文化」「サンスクリット」「医術」「仏教哲学
    この中でも「仏教哲学」が一番深遠で、5つに分類されていて、「プラジュナパラミタ般若波羅蜜=智慧の完成)」「マディヤミカ中観=中庸の道)」「アビダルマ(=形而上学)」「ヴィヤナ(=僧院生活の戒律)」「プラマナ(=論理学認識論)」
    副科目:詩歌、音楽・ドラマ、占星学、韻律・表現法・同義語研究。(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.57-58) 10歳の時から、チベットの僧院教育で基本とされている弁証法討論技術を熱心に学んだ。ダライ・ラマとして仏教哲学を知っているだけでなく、討論にも熟達している必要があったためである。(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.58)
  15. ^ 脚注:政府の会議のある時には、授業は朝10時に中断し、その会議に出席した。(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.54)
  16. ^ 脚注:金属製の組み立て式玩具「メカーノ」で遊んだり、ぜんまい仕掛けの汽車のセットなどがお気に入りだったという。また、他にも板を駆け上ってそこからジャンプするなど、腕白な遊びも大好きだった、という。(出典:『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.55-57)
    いろんな物をばらして組み立てるのが好きだったという。(同書p.68)
  17. ^ 『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.72
  18. ^ 【グローバルインタビュー】- MSN産経ニュース, 2007年11月25日
  19. ^ ノーベル平和賞受賞スピーチ - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所, 1989年12月10日
  20. ^ ダライ・ラマ14世にカナダの名誉市民の称号を授与 - AFP通信, 2006年09月10日
  21. ^ カナダ政府、スー・チーさんに名誉市民の称号授与 - ロイター通信, 2007年10月18日
  22. ^ 「すべての政府関係者とダライ・ラマとの会見に反対」中国が発言 - 人民網日文版, 2000年4月28日
  23. ^ "Dalai Lama wants to sabotage Beijing Olympics, Chinese officials say" - International Herald Tribune, 2008年3月7日
  24. ^ "India stops Tibetan exiles marching to protest Beijing Olympics" - International Herald Tribune, 2008年3月10日
  25. ^ チャールズ皇太子は北京五輪の開幕式欠席の意向 - APF通信, 2008年1月28日
  26. ^ 「目撃」邦人学生、生々しく語るチベット暴動 - 読売新聞, 2008年3月16日
  27. ^ 「五輪破壊狙った」 チベット騒乱で温家宝首相 - MSN産経ニュース, 2008年3月18日
  28. ^ 温総理:ダライとの対話の条件はチベット独立の放棄 - 人民網日本語版, 2008年03月18日
  29. ^ ダライ・ラマ14世、ラサ暴動関与を強く否定 - 読売新聞, 2008年3月18日
  30. ^ 「制御無理なら引退」 ダライ・ラマ、自制促す - 朝日新聞, 2008年3月18日
  31. ^ ダライ・ラマ14世、中国政府に直接対話再開求める意向 - 読売新聞, 2008年3月19日
  32. ^ "China uses ever more effective Net filters" - International Herald Tribune, 2005年4月15日
  33. ^ 米議会黄金勲章授章式におけるダライ・ラマ法王のスピーチ(英語)
  34. ^ "Bush and Congress Honor Dalai Lama" - New York Times, 2007年10月18日
  35. ^ 中国、米大統領を強く批判 ダライ・ラマで関係悪化も - MSN産経ニュース, 2007年10月16日
  36. ^ ペロシ米下院議長がダライ・ラマ14世と会談、支持を表明 - 読売新聞, 2008年3月21日
  37. ^ "World News Briefs; Dalai Lama Group Says It Got Money From C.I.A." - New York Times, 1998年10月2日
  38. ^ インド 国内でのダライ・ラマの政治活動を認めず - 人民網日文版, 2004年10月21日
  39. ^ インド警察、北京五輪反対のチベット難民100人を逮捕 - 読売新聞, 2008年3月13日
  40. ^ 宗教指導者の会議開催、ダライ・ラマも出席 - AFP通信, 2006年5月30日
  41. ^ ダライ・ラマ法王66歳のお誕生日、セント・ジェイムズ宮殿で祝われる - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所/チベット亡命政府ロンドン代表部事務所, 2001年6月26日
  42. ^ 中独首相、関係正常化を確認=「チベット独立不支持」表明 - 時事通信, 2008年2月15日
  43. ^ ダライ・ラマ 国連の「2000年世界平和サミット」に招待されず - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所, 2007年7月29日
  44. ^ "Dalai Lama says sorry he can't meet Pope" - Reuters, 2007年12月7日
  45. ^ 麻原彰晃の誕生 文藝春秋 2006年2月20日 ISBN 978-4166604920
  46. ^ 産廃疑惑/ダライ・ラマを招待した謎の新興宗教の「評判」- 週刊朝日, 1998年4月17日
  47. ^ カルマパ17世 チベットから逃走 - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
  48. ^ 【グローバルインタビュー】ダライ・ラマ - MSN産経ニュース2007.11.25
  49. ^ チベットの活仏、転生者決定に必要な3原則 - 人民網日文版, 2008年03月08日
  50. ^ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所参考。
  51. ^ 『ダライ・ラマ自伝―亡命の日々に』P.108 参考。

受賞等

[1]

  • Honorary Doctorate in chemistry and pharmacy from University of Münster on 20 September, 2007
  • Honorary Doctorate from Southern Cross University on 8 June, 2007
  • Presidential Distinguished Professorship from Emory University in February 2007.
  • Honorary Doctorate in Doctor of Humane Letters|Humane Letters conferred by the State University of New York at Buffalo in September 2006.
  • Honorary citizenship of Canada in 2006.
  • Honorary citizenship of Ukraine, during the anniversary of the Nobel Prize on 9 December, 2006 in Mc Leod Ganj.
  • United States Congressional Gold Medal on 27 September 2006
  • Key to New York City from Mayor Michael Bloomberg|Bloomberg on 25 September, 2005
  • Jaime Brunet Prize for Human Rights on 9 October, 2003
  • Hilton Humanitarian Award on 24 September, 2003
  • International League for Human Rights Award on 19 September, 2003
  • Life Achievement Award from Hadassah Women's Zionist Organization on 24 November, 1999
  • Roosevelt Four Freedoms Award from the Franklin and Eleanor Roosevelt Institute on 4 June, 1994
  • World Security Annual Peace Award from the New York Lawyer's Alliance on 27 April, 1994
  • Berkeley Medal from University of California, Berkeley, on 20 April, 1994
  • Peace and Unity Awards from the National Peace conference on 23 August, 1991
  • Earth Prize from the United Earth and U.N. Environmental Program on 5 June, 1991
  • Advancing Human Liberty from the Freedom House on 17 April, 1991
  • Le Prix de la Memoire from the Fondation Danielle Mitterrand on 4 December, 1989
  • Raoul Wallenberg Human Rights Award from the Congressional Rights Caucus Human Rights on 21 July, 1989
  • Key to the city|Key to Los Angeles from Mayor Tom Bradley|Bradley in September 1979.
  • Key to San Francisco from Mayor Dianne Feinstein|Feinstein on 27 September, 1979

著書

自伝

仏教解説書、哲学書、人生論 等々(共著形式も含む)

関連項目

外部リンク

先代:
トゥプテン・ギャツォ
ダライ・ラマの転生
14世:1940-
次代:
-