チベット
| チベット | |
|---|---|
| チベット語表記 | བོད་ |
| チベット語ラテン文字表記 | bod |
| 国際音声記号表記 | [pʰøʔ] |
| 上記の片仮名転写 | プー、またはポェ |
| サンスクリット語 (ヒンディー語・ネパール語) ラテン文字表記 |
Bhota |
| 満洲語表記 (メルレンドルフ式ラテン文字表記) |
Tubet |
| モンゴル語表記 | Tübet |
| 中国語表記(ピンイン) | 西藏(Xīzàng) |
| 英語表記 | Tibet |
| 上記の片仮名転写 | チベット |
| チベット民族が分布する諸国 | ブータン、 インド、 ネパール、 中華人民共和国 |
チベット(英語:Tibet, チベット文字:བོད་; ワイリー方式:bod, 発音 [pʰø̀ʔ], 簡体字:西藏, 拼音: Xīzàng )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。
| チベット | |||||||||
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| 中国語 | |||||||||
| 繁体字 | 西藏 | ||||||||
| 簡体字 | 西藏 | ||||||||
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| 英語 | |||||||||
| 英語: | Tibet | ||||||||
| チベット語 | |||||||||
| チベット語 | བོད་ | ||||||||
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| 満州語 | |||||||||
| 満州語 | Tubet | ||||||||
| モンゴル語 | |||||||||
| モンゴル語 | Tübet | ||||||||
| サンスクリット語 | |||||||||
| サンスクリット語 | Bhota | ||||||||
目次 |
[編集] 地理
インド亜大陸がアジア大陸に衝突して隆起することによって生成され、高原の自然環境に適応した独特の魚類、哺乳類が分布し、また高原内に多数分布する塩湖は、渡り鳥の中継地となっている。
乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれている。
チベット高原(中国語:青蔵高原)はユーラシア大陸の中央部に広がる世界最大級の高原で、チベットの領域とほぼ等しい。この高原には中国の核廃棄物の処理場が点在している。[1][2]
[編集] 呼称
チベットの周辺諸国が古くから用いて来た呼称「tubat」(モンゴル語・満州語)、「tbt」(アラビア語)等に由来し、チベット人自身は「プー (bod)」(チベット語)と称する。日本語のチベットは英語「Tibet」経由で明治期に成立した呼称である。
チベット全域をさす漢字表記による総称としては、他に清代に通用した土伯特、唐古特等がある。
[編集] 「吐蕃」
7世紀なかば、チベットの古代王朝が上記の領域を統合した(実質的なチベットの建国)時、当事の中国人(隋)はこの国を「蕃」、「吐蕃」、「大蕃」等と呼んだ。この古代王朝は842年に崩壊したが、その後も中国の人々は、清朝の康煕年間(1720年代)ごろまで、この領域全体の地域呼称を吐蕃という呼称で総称し[3]、あるいはこの領域を統治する勢力を吐蕃と称した。
[編集] 「西蔵」
チベットを示す西蔵という呼称は、中国大陸では1725年ごろから中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用されており、現在も中華人民共和国政府はアムドやカムを含むチベット全域の総称としては使用していない。
清朝の雍正帝は1723-24年にグシ=ハン一族を征服、彼らがチベット各地の諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収し、タンラ山脈とディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域は、ガンデンポタンの統治下に所属させ、この線より北側の地域は、青海地方を設けて西寧に駐在する青寧弁事大臣に管轄させたほか、残る各地の諸侯は、隣接する陝西(のち分離して甘粛)、四川、雲南などの「内地」の各省に分属させた。「西蔵」という地域呼称は、康煕時代から中国文献に登場しはじめていたが、これ以降、チベットのうちガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵と称される[4]。
清朝が滅亡すると、チベットはモンゴルと歩調をあわせて国際社会に「独立国家としての承認」を求めるとともに、チベットの全域をガンデンポタンのもとに統合するべく、中華民国との間で武力衝突もともなう抗争をおこなった。中華民国は、中国人が多く住む諸民族の雑居地帯河西回廊の南部と青海地方をあわせて青海省を樹立し、青海地方にも「内地」という位置づけを与えた。中華民国の歴代政権は、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するとした。中華人民共和国も、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するという中華民国の見方を踏襲、1960年に発足した「チベット自治区」は「西藏」部分のみを管轄領域としている。
日本では明治期から昭和中期にかけて、中華民国や中国国外の華僑等の間では近年、Tibetの訳語として「西蔵」を用いる例がある(→西蔵、西蔵地方参照)。
[編集] 「チベット」
日本では、チベットを指す呼称として、明治期に英語「Tibet」に由来する「チベット」という呼称が一般的となった。ただし漢字表記として「西蔵」が採用され、「西蔵」と漢字表記して、「チベット」と読み、またはフリガナを振る、という慣例が確立され、この形式が昭和中期ごろまで一般的となった。この表記法は次第にカタカナのみの「チベット」という表記に置き換わり、現在に至っている。
たとえばチベット研究学会「日本チベット学会」は、従来「日本西蔵学会」と漢字表記し「にほんちべっとがっかい」と発音して来たが、2007年11月総会において「日本チベット学会」への表記変更が提案され、翌2008年11月総会において正式に「日本チベット学会」という表記に変更された。ただし同学会の機関誌『日本西藏學會々報』のみ、「西蔵」という表記が維持されている。
[編集] 「大チベット」
中国では、チベット民族居住地域に対する通常の呼称としては「蔵区」、「蔵族地区」、「西蔵和其他蔵区」等の呼称が使用されているが、チベット全体を単一の自治行政単位とするよう求めるダライラマやチベット亡命政府の立場を非難、批判する場合には、「大チベット区」(「大西蔵区」、「大蔵区」etc)という用語が使用される。
詳細は「大チベット」を参照
[編集] 領域
| 中華人民共和国チベット自治区 | |||||||||
| チベット[5]の範囲 | |||||||||
| 中国により自治区・自治州・自治県等が設置された領域 | |||||||||
| インドがアクサイチンの一部とする中国の統治区域 | |||||||||
| 中国がチベット自治区の一部とするインドの統治区域(アルナーチャル・プラデーシュ州) | |||||||||
| 歴史的なチベット文化圏(ラダック・ブータン・シッキム) | |||||||||
詳細は「チベットの領域に関する認識と主張」を参照
チベットの領域については、チベット人の伝統的な観念(そしてチベット亡命政府の主張)と中華人民共和国による主張とで大幅な相違がみられる。
チベット人は、「チベット民族居住範囲」にほぼ相当する地域を、伝統的に「チベットの領域」と考えて来た。チベットが伝統的に用いて来た地理的区分方式では、この領域を「チベット三州あるいは「十三万戸」、「プーと大プー」などという形で区分してきた。
中華人民共和国による現行の行政区画では、チベット内には、省級の自治体が2(西蔵・青海)、隣接する四川・甘粛・雲南に分属する形で地区級の自治体が4、県級の自治体が2設置されている
詳細は「中華人民共和国によるチベットの分割と再編」を参照
[編集] 日本における「西蔵」領域
日本では、「西蔵」(チベット)が指す領域は、中国における「西蔵」(Xizang)よりもひろく、チベット全域を指すのが一般的であった[6]。
西蔵の境域は、東経七十八度から百三度、北緯二十七度から三十九度に至る地域を占めている。面積は大略七十五万マイル、日本全土(旧朝鮮、台湾を含む)の約二倍半である。南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東はインドシナ山脈、この三つの山脈によって押し上げられた高原国である。この地理的範囲は西蔵人が自分の国として考えている国土の面積である。青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している。
[編集] チベット亡命政府の主張
チベットを建国した吐蕃(7世紀 - 842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。チベット亡命政府は、難民を受け入れているインド・ネパール等の諸国への配慮もあってか、自身が主張するチベット国家の領域としては、吐蕃時代の領域ではなく、グシ・ハン王朝時代(1642年 - 1724年)の統合領域を主張している。
グシ・ハン王朝(青海ホシュート)は、ダライ・ラマを信仰するオイラトの一部族ホシュートがチベットに移住して樹立した政権で、チベットの民族的分布領域の大部分を征服した。チベット国内に本拠を置く政権による統合としては、吐蕃以来の広大な範囲を誇る。この政権は、ヒマラヤ南沿地方に位置していたラダック、ブータン、シッキムなどに対する征服ははたさず、結果としては、グシ・ハン王朝に征服された地域は現在、独立国もしくは中国領、インド領、ネパール領となっている。
チベット亡命政府は、グーシ・ハーン(在位:1642年 - 1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グーシ・ハーンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域として主張している。
[編集] 中華人民共和国による主張
中華人民共和国政府は、現在、西蔵の部分のみをもって「チベット」だと主張する立場を採っているが、中華民国の中国国民党政府など中国を統治していた歴代政府による「チベット」の枠組み、中国共産党によるチベット(及びその他の諸民族)に対する民族自決権に対する態度は、時期によって大きく変化してきた。中国共産党は、発足当初、ソ連のコミンテルンの強い影響をうけ、「少数民族政策」としては、諸民族に対し、完全な民族自決権を承認していた。たとえば、中華ソビエト共和国の樹立を宣言した際には、その憲法において、各「少数民族」に対し民主自治邦を設立し、「中華連邦」に自由に加盟し、または離脱する権利を有すると定めていた。しかし、国共内戦に勝利し1949年に中華人民共和国を設立した直前には、政治協商会議の「少数民族」委員たちに対し、「帝国主義からの分裂策動に対して付け入る隙を与えないため」に、「民族自決」を掲げないよう要請した。さらに現在では、各「少数民族」とその居住地が「歴史的に不可分の中国の一部分」と支配に都合の良い立場に転じ、民族自決権の主張を「分裂主義」と称して徹底的な弾圧の対象にするようになっている。
中国共産党が、チベット社会とはじめて接触をもち、なにがしかの行政機構を樹立したのは、1934年-1936年にかけて行った長征の途上においてである。中華民国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強め、中共軍は各地の「革命根拠地」を放棄して移動し、最終的には陝西省の延安に拠点を据えた。この途上、カム地方(西康省)の東部に割拠し、しばらくの間この地を拠点として行政機構や軍事組織の再編に取り組んだ時期があった。この時、中国共産党は、占拠した町々のチベット人たちに「波巴政府」(「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写)を樹立させ、1935年、これらの代表を集めて「波巴依得巴全国大会」を開催させ(波巴依得巴 = bod pa'i sde pa は「チベット人の政権」の意)、これらのチベット人政権を統合して「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。この「人民共和国」は、実際にはカム地方東部の人々のみで組織されたものであったが、国号や「全国大会」の呼称からも明らかなように、チベット人全体の「民主自治邦」として設立されたものであった。
中華人民共和国の建国初期、それまで国民政府の支配下に置かれていたチベット人居住地域にはいくつかの「蔵族自治区」が設けられた。とくに1950年、カム地方のディチュ河以東の地に設立された「西康省蔵族自治区」は、一省の全域をチベット人の「自治区」と位置づけるものであった。しかしながら、1950年代半ば、チベット人居住地域に「民主改革」「社会主義改造」を施す段階になって、従来の方針を変更、1955年、西康省は廃止されて州に格下げされ、カンゼ・チベット族自治州(甘孜蔵族自治州)として四川省に併合された。
チベット動乱と1959年のダライ・ラマ14世のインドへの政治亡命を経た1965年、従来ガンデンポタンが統治していた領域(=西蔵)上にチベット人の「自治区」として西蔵自治区が発足したが、先行して隣接する各地に樹立されていた「チベット族」の自治州、自治県等は、この自治区に統合されることなく現在に至っている。
このようにして成立した中国共産党政府のチベットに対する現行の行政区分の大枠は、1724年 - 1725年に行われた雍正のチベット分割の枠組みにほぼ沿ったものである(詳しくは雍正のチベット分割、西蔵の項を参照)[8]。
[編集] 文化
- 婚姻制度
法律上は、一夫一婦制をとることは、中華人民共和国の共通である。しかし、チベットには一婦多夫制度が、慣行として一部に根強く残っている。この場合は、近親者の複数の男性が一人の女性を妻にすることが多く、一婦多夫で同居して共同生活を営む。
[編集] 祭
チベットのおもな祭(Tibetan Festivals)をあげると、チベット暦(旧暦)で
- 1月1日:新年「ロサル」(Losar)
- 1月4日~:ラサで伝召大会
- 1月15日:スー油灯祭
- 5月15日:リンカ祭(世界の焼香の日)
- 7月1日:雪頓祭(ヨーグルトを飲む祝日)
- 10月15日:吉祥天母祭
- 10月25日:燃灯節
- 12月29日:かまどの神の祭
[編集] 言語・文字
住民の言語はシナ・チベット語族のチベット語で、七世紀、国王 ソンツェンガンポの命によってインドに派遣されたトンミ・サンボータによって作られたという伝承を持つ独自の表音文字(チベット文字)を持つ。住民は、仏教信仰を価値観の中心に据え、高原の自然環境に適応した独自のチベット文化を発達させて来た。
[編集] 民族
詳細は「チベット民族」を参照
チベットの全域にわたってチベット民族が居住するほか、東北部アムド地方の青海草原や、中央チベットのダム草原にはソク族(sog po, デート・モンゴル)、カム地方の北部(玉樹州、ナクチュ地区の東部)にはホル族と呼ばれるモンゴル系の遊牧民が居住する。またアムド地方の東端、中華人民共和国の行政区分で海東地区とされる地方は、伝統的に漢人や回民、その他の諸民族が多数居住してきた河西回廊の一角を成す。近年、この地方における「漢族」の人口と人口比が突出して急増するとともに、チベット系、オイラト・モンゴル系の遊牧民が伝統的に牧畜を営んできた草原に対する開発が進み、民族ごとの人口比が激変しつつある。
[編集] 歴史
詳細は「チベットの歴史」を参照
[編集] 国旗
チベットの国旗は雪山獅子旗である。この雪山獅子旗のデザインを考案したのが、日本のチベット研究者で1912年のラサ入りした青木文教といわれる。矢島保治郎によるともいわれる[9]。
[編集] 国際関係
[編集] チベット問題
中国のチベット支配にともなって発生した各種の問題を「チベット問題」ともいう。中国政府とチベット亡命政府の間で発生した過去の歴史認識、中国政府による「チベット統治の成果」に対する評価、また中国による多数のチベット人の大量虐殺や人権侵害などについて議論がある。
朝日新聞によれば、中国がチベットの独立を認めない理由のひとつに、チベット地域にあると推定される大量鉱物(推定資源価値は6500億元、日本円で10兆以上)の利権があるとされる[10]。
2011年にはチベット僧侶による中国政府への抗議の為の焼身自殺が相次ぎ、国際的に問題視された[11]。
詳細は「チベット問題」を参照
中華人民共和国の支配に対するチベット人の抵抗運動についての詳細は「チベット独立運動」を参照。
[編集] 2008年のチベット騒乱
2008年3月にはチベット全土で反中国のデモが起き、中国の警察によって制圧された(2008年のチベット騒乱)。死者数203人、負傷者は1千人以上、5715人以上が拘束されたといわれる[12]。ダライ・ラマは「中国は文化的虐殺(ジェノサイド)を行っている」として中国政府を批判した[13]。中国政府によるチベットのデモ弾圧に対しては世界各国より批判が集中した。しかしこの「暴動」(中国政府はデモでなく「暴動」と認定)を好機と捉えた中国政府は徹底的なチベット独立派への取り締まりを行い、ラサ市内に多く居住していたチベット独立派は壊滅的打撃を受けた。
[編集] 「農奴解放記念日」問題
2009年1月19日のチベット自治区人民代表大会において、1959年のダライ・ラマ14世のインド逃亡後にチベットが中国に接収された事で、「それまで貴族に所有されていた農奴達が解放された事を記念する」として、3月28日を「農奴解放記念日」とする事を採択した[14][15]。これに対してチベット亡命政府は「農奴解放」という言葉を使う事こそが侵略を正当化し、チベット人の感情を傷つけるものだとし、これに批判した[16]。
[編集] 「パンダ外交」への批判
ほか、中国のいわゆるパンダ外交については、 ジャイアントパンダの生息地として最大のものはアバ・チベット族チャン族自治州(は四川省北部の阿堰州)にあるため、チベット人のなかには中国はチベットからパンダを奪い、「外交の道具」として使用しているとして批判するものもいる。ジャイアントパンダ#パンダ外交も参照。
[編集] 中国での「タンタン」出版差し止め
2001年にベルギー・フランスの漫画タンタンの冒険旅行シリーズ「タンタンチベットをゆく」の中国語版が「タンタン 中国のチベットをゆく」と題名を著作権者に無断で変えられたため、出版が一時停止された[17]。
[編集] 中国による核関連施設
中国はチベット地域にチベット側に合意をととらず秘密裏に核廃棄物処理場や核ミサイル基地建設を進めてきていたことが近年明らかになっており、中国側もこれらの施設の存在については現在は否定していない。
[編集] 放射性廃棄物処理施設
1992年の有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約では、輸入国の同意なしの有害廃棄物の輸出を禁止しているが、中国はこれに調印している。1993年の人権世界会議(World Conference on Human Rights)により採択されたウィーン宣言及び行動計画では、「毒物および危険物質の不法投棄は、人類の人権、生命、そして健康を脅かす重大な問題となりうる」[18]とされ、1998年の会議では「特定の工業国が有害廃棄物リサイクルによって利益を得ることがないようにしなくてはならない」とされたとき、中国はこれを支持した[19]。
一方で中国はチベット高原にチベット側の合意なしに廃棄物を投棄してきた[20]。1984年には、中国は60億ドルでヨーロッパの原子炉の4千トンの放射性廃棄物をゴビ砂漠に保管している[21]。ダライ・ラマ法王は、中国政府が西欧諸国など海外の核廃棄物をチベットに投棄する計画について明らかにしている。ほかにも海外の廃棄物を中国が受け入れることについては例えば1991年には米国メリーランド州バルチモア市の下水汚物[22]2万トンが中国に144万米ドルで輸出された。仲介した海南陽光グループは、中国の輸入規則では輸送に政府の承認は不要とした。しかし、米国ミルウォーキーの下水処理施設では汚染物質と筋萎縮性側索硬化症の発生との関連がグリーンピースらによって報告されるなど、廃棄物の汚染の危険性が抗議され、このチベットへの汚物輸送は中止となった。
中国は1991年4月、チベットにおける核兵器の配備と核廃棄物により核汚染が広がっているという主張に対し「全く根拠のない話」としたが、チベットへの核廃棄物投棄を認めている[23]。中国核国営公社(China National Nuclear Corporation)のユー・ディーリャンは「中国は、89年から93年まで、多大な費用をかけ、閉鎖された核兵器基地の環境状況の厳重管理にあたった」と述べている。
1993年 、リシュイ(Reshui)とガンズィ(Ganzihe)近辺で病気の発生率が異常に高いという、現地のチベット人医師タシ・ドルマの報告によると,「第九学会」と呼ばれる核基地付近で放牧していた遊牧民の子供たちのうち7人がガンで死亡した[24]。1993年時点で中国は、甘粛省西側の乾燥地帯に初の放射性廃棄物投棄センター建設をはじめ、さらに中国南部、南西部、東部に建設を計画中であった[25][26]。廃棄物の地層処分についても現在は深層処分が主流であるが浅層処分技術についても、中国は 「充分に安全」と考えている。高レベル放射性廃棄物(HLW)用地について、中国政府関係者は、「中国には広大な配分地区があり、用地を見つけることは困難ではない」とし、チベットは北京からも離れているため「核廃棄物を投棄するには最適」ともされる[27]。
1995年7月には、海北チベット族自治州のココノール湖附近に「20平方メートルに及ぶ放射性汚染物質用のごみ捨て場」があり、「軍の核施設(第九学会)により廃棄物は出たが、安全性は30年間完全に保たれ、環境への悪影響、基地で被爆者が出たことはない」と公式に発表した[28]。しかし、核廃棄物が当初の保管の仕方、また現在の管理の仕方、および危険性の調査について詳細は公表されていない。
1997年、北京のシンポジウムで中国は、台湾の核専門家に対し「台湾で累積される放射性廃棄物の投棄場を提供する。6万バレルの核廃棄物を引き取る」と申し出たが、台湾は断っている[29]。
[編集] 核ミサイル発射基地
チベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用地が整備されている[30]。
中国は、70年の初頭に、アムドの北西部先端にあるツァイダム盆地にDF-4ミサイル発射用地を完成させ、核ミサイルを配備した。
- 小ツァイダム(Xiao Qaidam,Smaller Tsaidam[31])には、射程4,500~7,000キロメートルの「東風―4」(DF-4)が配備されており、緊急時には大ツァイダム(Da Qaidam ,Larger Tsaidam[32]に核ミサイルが移送される。
- チベット高原の、青海省と四川省の境界上には、新ミサイル部門が設立され、4基のDF-5ミサイルが配備されている。
- テルリンカ(Delingha ,Terlingkha [33])には、DF―4、および大陸間弾道ミサイル(ICBM)が格納されている[34]。テルリンカはアムドにある4つのミサイル発射用地の連隊本部でもある。
- チベット自治区内のナクチュカ基地には、大陸間弾道ミサイル20基と準中距離弾道ミサイル(MRBM)70基が配備され、ミサイルは、ナクチュカの南東25キロメートルのリスル山の地下に格納されている[35]。
- チベット自治区ペロック峡谷のあるタゴ山[36]や、ラサのドティ・プゥ[37]にもミサイルが格納されている。インドのバンガロールにあるジャーナリスト・カルナタカ組合による 「ジャーナリストとの対話」プログラムにおいてダライ・ラマ法王は、中国によるチベット核兵器工場建設について確実な情報を入手したと公表している。
[編集] 日本との関係
日本は1972年9月29日日中共同声明、及び1978年8月12日日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。その際、中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮し台湾を独立した国家とはみないことを約束した。日本政府は現在までこの中華人民共和国優先政策を対中外交の基本姿勢としているため、チベット亡命政府を認知していない。そのため、ダライ・ラマ法王が2008年のチベット騒乱後、来日した際にも公式に日本政府が会見することはなかった。
ほか、学術研究などは戦前より盛んに行われている。多田等観[38]、 河口慧海[39]、青木文教[40]らによる紀行と研究をはじめ、 矢島保次郎、川喜田二郎などの人類学者による研究、中沢新一によるチベット宗教学研究などがある。
[編集] 映画におけるチベット
- 『キャラバン』原題『Himalaya』 - 2000年、エリック・ヴァリ監督。フランス/ネパール/スイス/イギリス製作。第72回アカデミー外国語映画賞ノミネート。
- 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』 - 中華民国時代のチベットに迷い込んだオーストリア人登山家ハインリッヒ・ハラーが主人公。
- 原作 - ハインリヒ・ハラー 『セブン・イヤーズ・イン・チベット チベットの七年』 福田宏年訳、角川書店〈角川文庫〉、1997年11月。ISBN 4-04-277001-0。
- 『クンドゥン』 - ダライ・ラマ14世の半生を描く。
- 『ヒマラヤを越える子供たち』(Escape Over the Himalayas) - 雪のヒマラヤを越える亡命者(チベット難民)に同行し、その姿をとらえたドキュメンタリー。10人の亡命者(内5人は子供)と、彼らを命がけで導くガイドの姿を描いたもの。2000年にドイツで作成された作品。2001年度には「German TV Award」にノミネートされる。2006年春には日本語版DVDも発売開始。原題は「Flucht über den Himalaya」(ドイツ語)、監督Maria Blumencron。
- 『雪の下の炎』(Fire under the Snow) - 公開:2008年、製作国:アメリカ・日本、上映時間:75分、監督:楽真琴、出演:パルデン・ギャツォ、ダライ・ラマ14世。公式サイト:映画『雪の下の炎』。
- 『風の馬』(WINDHORSE) - 公開:1998年、製作国:アメリカ、上映時間:97分、監督:ポール・ワーグナー、出演:ダドゥン、ジャンパ・ケルサン。公式サイト:映画『風の馬』。
- 『Uprising in Tibet 2008~チベット騒乱の真実~』 - 2008年のチベット騒乱を描いたドキュメンタリー、上映時間:51分。
- 『農奴』 - 中華人民共和国が作成した映画。
[編集] その他
- アメリカの俳優リチャード・ギアは熱心なチベット仏教信者・人道主義者として知られる。
[編集] 参考文献
- 石濱裕美子 『チベットを知るための50章』 明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2004年5月。ISBN 4-7503-1895-7。
- 江本嘉伸 『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』上、山と渓谷社、1993年3月。ISBN 4-635-28023-3。
- 江本嘉伸 『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』下、山と渓谷社、1994年4月。ISBN 4-635-28024-1。
- 川喜田二郎 『チベット文明研究』第11巻、中央公論社〈川喜田二郎著作集〉、1997年10月。ISBN 4-12-490093-7。
- A.トム・グルンフェルド 『現代チベットの歩み』 八巻佳子訳、東方書店、1994年11月。ISBN 4-497-94431-X。
- 多田等観 『チベット』 岩波書店〈岩波新書赤版R28〉、2008年7月。ISBN 978-4-00-400028-0。
- 野町和嘉 『チベット 天の大地』 集英社、1994年5月。ISBN 4-08-532048-3。
- ペマ・ギャルポ 『チベット入門』 日中出版〈チベット選書〉、1998年3月、改訂新版。ISBN 4-8175-1234-2。
- 山口瑞鳳 『チベット』上、東京大学出版会〈東洋叢書 3〉、1987年6月。ISBN 4-13-013033-1。
- 山口瑞鳳 『チベット』下、東京大学出版会〈東洋叢書 4〉、2004年6月、改訂版。ISBN 4-13-013049-8。
- ジョン・F.アベドン 『雪の国からの亡命 チベットとダライ・ラマ半世紀の証言』 三浦順子ほか訳、地湧社、1991年1月。ISBN 4-88503-085-4。
- 英国議会人権擁護グループ報告 『チベット白書 チベットにおける中国の人権侵害』 チベット問題を考える会編訳、日中出版〈チベット選書〉、2000年7月、改訂新版。ISBN 4-8175-1248-2。
- クロード・B.ルヴァンソン 『チベット 危機に瀕する民族の歴史と争点』 井川浩訳、白水社〈クセジュ文庫 938〉、2009年8月。ISBN 978-4-560-50938-8。
- W.D.シャカッパ 『チベット政治史』 三浦順子訳、亜細亜大学アジア研究所、1992年5月。ISBN 4-900521-03-5。
- チベット亡命政府―情報・国際関係省 『チベット入門』 南野善三郎訳、鳥影社、1999年5月。ISBN 4-88629-094-9。
- テンジン・イリハム・マハムティ/ダシ・ドノロブ/林建良 『中国の狙いは民族絶滅――チベット・ウイグル・モンゴル・台湾、自由への戦い』 まどか出版、2009年3月。ISBN 978-4-944235-45-2。
- 『チベット大虐殺の真実――FREE TIBET!チベットを救え!』 西村幸祐編集、オークラ出版〈OAK MOOK 216 撃論ムック〉、2008年5月。ISBN 978-4-7755-1205-0。
- パルデン・ギャツォ 『雪の下の炎』 檜垣嗣子訳、新潮社、1998年12月。ISBN 4-10-537901-1。
- フィリップ・ブルサール・ダニエル・ラン 『囚われのチベットの少女』 今枝由郎訳、トランスビュー、2002年5月。ISBN 4-901510-06-1。 - 11歳で中国政府に投獄された尼僧ガワン・サンドルの実録。
- ペマ・ギャルポ 『チベットはどうなっているのか チベット問題へのアプローチ』 日中出版〈チベット選書〉、1990年6月。ISBN 4-8175-1185-0。
- マイケル・ダナム 『中国はいかにチベットを侵略したか』 山際素男訳、講談社インターナショナル、2006年3月。ISBN 4-7700-4030-X。
- 横山宏章 『中国の異民族支配』 集英社〈集英社新書 0499A〉、2009年6月。ISBN 978-4-08-720499-5。
- ロュ(xï)長豪・高元美 『新しいチベットを行く』 外文出版社、北京、1978年。 - 中国人の見たチベット。
- 『塑像群《農奴の怒り》』 外文出版社、北京、1977年。 - 中国人が製作したチベットの彫刻集。
- 十四世ダライ・ラマ 『ダライ・ラマ自伝』 山際素男訳、文藝春秋、1992年1月、単行本。ISBN 4-16-345720-8。(文庫版)2001年6月。ISBN 4-16-765109-2。
- ダライ・ラマ 『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』 木村肥佐生訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2001年11月、改版。ISBN 4-12-203938-X。
- 『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』 日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会編、新宿書房、2003年3月。ISBN 4-88008-282-1。
- 旅行人編集部 『チベット 全チベット文化圏完全ガイド』 旅行人〈旅行人ノート〉、2006年8月、第4版。ISBN 4-947702-56-7。
[編集] 関連項目
- チベット関係記事の一覧
- 中国本土(チャイナ・プロパー)
- パンチェン・ラマ
- 韓紅
- alan
- 能海寛
- 成田安輝
- 寺本婉雅
- 西川一三
- 野元甚蔵
- 野町和嘉
- 渡辺一枝
- 今枝由郎
- 長田幸康
- 酒井信彦(自由チベット協議会代表)
- トンドゥプ・ワンチェン
- スヴェン・ヘディン
- ピーター・ホップカーク
- ロブサン・ランパ(『第三の眼』)
- 手嶋準一(日本気象協会九州支社所属の気象予報士、以前チベットでの勤務経験がある)
- 中国化
- TSNJ
- キンシコウ
- 労働教養
[編集] 脚注
- ^ チベットの核
- ^ チベットの核兵器
- ^ 『元史』、『明史』、『庭聞録』等。詳細は準備中
- ^ 雍正のチベット分割を参照
- ^ 中国では通常この範囲を「蔵区」、「蔵族地区」、「西蔵和其他蔵区」と呼ぶが、この範囲を単一の行政区画とするよう求めるチベット亡命政府やダライラマを批難、批判する場合には「大チベット区」という用語が用いられている。2-2節参照。
- ^ 多田等観「西蔵事情」(多田明子・山口瑞鳳、2005、pp.233)
- ^ 多田等観「西蔵事情」(多田明子・山口瑞鳳、2005、pp.233)
- ^ 中華人民共和国がチベット内に設置している自治区、自治州、自治県などの詳細は「中華人民共和国によるチベットの分割と再編」を参照。
- ^ ペマギャルポ「中国が隠し続けるチベットの真実」扶桑社,38頁
- ^ 朝日新聞2008年3月14日
- ^ 2011.11.5 MSN産経ニュース 中国にチベット政策の改善要求 米報道官 僧侶らの焼身自殺相次ぐ
- ^ 2008年4月29日チベット亡命政府発表。死者数については、亡命政府の集計とともに、NGOのチベット人権民主化センターの発表(死者数114人)、中国国営メディア(死者数23人)、米政府系のラジオ・フリー・アジアの発表(死者数237人)などの5団体の内容を照合した。朝日新聞2008年4月29日、小暮哲夫「チベット騒乱「死者203人」 亡命政府が発表」
- ^ CNN2008年3月16日記事
- ^ 産経新聞 2009年1月19日
- ^ “チベット自治区:3月28日を「農奴解放記念日」に制定”. サーチナ. (2009年1月19日) 2010年6月18日閲覧。
- ^ 「農奴解放記念日」は真実を歪曲する試み -チベット亡命政府(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 2009年1月20日)
- ^ フランソワーズ・ポマレ「チベット」創元社、2003年、103頁
- ^ ウィーン宣言及び行動計画、第1部第11項
- ^ 1998年2月23日から27日にかけてマレーシアのクチンで開催された第4回会議
- ^ チベットの核
- ^ 1984年2月18日、「ワシントン・ポスト」
- ^ 書類には輸送物が中国語で「川の沈泥」を意味する「ヘニ」と記載されていた。
- ^ 1991年4月18日、新華社通信
- ^ インターナショナル・キャンペーン・フォア・チベット発「核とチベット」による
- ^ 1993年11月10日付のロイター通信
- ^ 甘粛省投棄センターの容量は、当初、6万立方メートルだったが、20万立方メートルにまで拡張された。中国核国営公社のユー・ディリャンは甘粛省投棄センター建設費は100億元(12億5千万ドル)になると語っている。
- ^ チベットの核
- ^ 1995年7月19日付の新華社通信
- ^ 1997年5月28日付AFPの報道
- ^ チベット国際キャンペーン 『チベットの核 チベットにおける中国の核兵器』 ペマ・ギャルポ監訳、金谷譲訳、日中出版〈チベット選書〉、2000年11月。ISBN 4-8175-1250-4。。[1]
- ^ 北緯37.26度 東経95.08度。[2]、[3]
- ^ 北緯37.50度、東経95.18度。[4]
- ^ ツァイダム南東217キロメートル、北緯36.6度、東経97.12度に位置する。
- ^ [5]
- ^ [6]
- ^ [7]。タゴ山は北緯32.15度、東経87.42度。
- ^ ダプチ刑務所の北西3.5キロ、セラ僧院の西わずか1キロの位置にある。 チベットの核兵器
- ^ 多田等観「西蔵事情」(多田明子・山口瑞鳳編『多田等観:チベット大蔵経にかけた生涯』春秋社、2005年刊、pp.233-。 多田等観 『チベット滞在記』 牧野文子編、白水社、1999年2月、新装版。ISBN 4-560-03034-0。、 多田等観 『チベット滞在記』 牧野文子編、講談社〈講談社学術文庫〉、2009年5月。ISBN 978-4-06-291946-3。
- ^ * 河口慧海、長沢和俊編『チベット旅行記(上下)』白水Uブックス、白水社、2004年。
- ^ 青木文教 『秘密の国 西蔵遊記』 中央公論社〈中公文庫〉、1990年2月。ISBN 4-12-201683-5。
[編集] 外部リンク
- 青海チベット鉄道ツアー(日本語)
- The Official Website of the Central Tibetan Administration
- Tibet Online Web TV - Central Tibetan Administration Video Archive
- オープンディレクトリー:Regional: Asia: China: Tibet
- ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
- "Repression in Tibet, 1987 - 1992" Amnesty International
- Faith in Exile a video by the Guerrilla News Network (動画ファイル)
- チベットの民主改革開放50周年
- 農奴制時代のチベットの写真
- 国際協力NGOチベット・スノーライオン友愛会&日本カム基金-TIBET AID,Japan
- Tibet Support Network Japan(TSNJ)チベット・サポート・ネットワーク・ジャパン
- 在日チベット人コミュニティー TCJ – Tibetan Community in Japan
- 「国土なき国民たち ── チベット問題からみるナショナリズムの脱領土化 The Tibetan Diaspora」中村麗衣、埼玉学園大学紀要(人間学部篇) 第5号