ダライ・ラマ
ダライ・ラマ(Dalai Lama, ཏཱ་ལའི་བླ་མ་,taa-la’i bla-ma)は、チベット仏教において最上位に位置する化身ラマの名跡。また17世紀(1642年)に発足したチベット政府の長として、チベットの元首としての地位も保有。チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のちチベット亡命政府)」においても、2011年まで元首としての位置づけを受けていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者であり象徴」とされている。
当代のダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォについては「ダライ・ラマ14世」を参照
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概要 [編集]
チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、ダライ・ラマはその観音菩薩の化身とされている。ラサのポタラ宮は、第5世以降の歴代ダライ・ラマの居城であり、チベット仏教における聖地となっている。チベット仏教の信者らはその居城へ一生に一度は巡礼することを目標としており(最も聖なる巡礼方法は五体投地とされる)、信者らからはノルブ(如意宝珠の意)と尊称される存在である。
呼称 [編集]
「ダライ・ラマ」は、16世紀のモンゴルの最高実力者アルタン・ハーンより贈られたモンゴル語の称号に由来し、アジア、欧米などで広く用いられる通称。チベット語でも、ཏཱ་ལའི་བླ་མ་(taa-la’i bla-ma)と表記される(標準チベット語(ラサ方言)ではターレーラーマと発音)が、チベット自体では対外的文書などに用いられるに過ぎず、チベット人自身の間では敬称として「ギャルワ(またはギャワ、ラサ方言ではゲェワ)・リンポチェ」(猊下に当たる敬称)や「クンドゥン」(陛下または猊下)などと呼ばれる。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所では、日本語名称は「ダライ・ラマ法王」、敬称は「猊下」(His Holiness)としている。仏教史『ヴァイセル』では「タムチェキェンバ(thams cad mkyen pa)」、同『パクサムジョンサン』では「ギャルワン(rgyal dbang)」の称号で呼ばれている。
ラテン文字慣用表記:Dalai Lama, チベット語:ཏཱ་ལའི་བླ་མ་; ワイリー方式:taa-la’i bla-ma, 中国語簡体字:达赖喇嘛; 繁体字:達賴喇嘛; 漢語ピンイン:Dálài Lǎmāなど。
化身ラマの名跡「ダライ・ラマ」の継承 [編集]
ダライ・ラマが没すると、僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行き子供を探し、誕生時の特徴や幼少時のくせなどを元に、その予言に合致する子供を候補者として選ぶ。その上でその候補者が本当の化身かどうかを前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ・ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていた事と同様のくせを行ったりしたときなど、その子供がダライ・ラマの生まれ変わりと認定される。
認定された転生者は幼児期にして直ちに法王継承の儀式を受けるが、この時点ではあくまで宗教的権威に留まる。成人に達すると(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、初めて政治的地位を持つこととなる。先代の遷化(死亡)から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位と一切の政務を代行する。
ダライ・ラマの歴史 [編集]
ゲルク派の「化身ラマ」制度導入とダライラマ [編集]
ダライ・ラマ1世ゲンドゥン・ドゥプパ(1391年 - 1474年)は、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパ大師の直弟子であった。1世から4世(1589年 - 1617年)までのダライ・ラマは、チベットと周辺地域で広く尊敬を集めた学僧であったが、「偉大なる5世」と呼ばれるダライ・ラマ5世ガワン・ロサン・ギャッツォ(1617年 - 1682年)は、優れた学僧であっただけでなく、モンゴルの豪族グーシ・ハーンの後ろ盾を得て、1642年に政教両面でチベットの最高指導者となった。以来、歴代ダライ・ラマは、チベット第一の都市であるラサを政治基盤とし、ゲルク派序列第一位の僧侶であると同時にチベット全域の政教両面の最高指導者であり続けてきた(ガンデンポタン)。
アルタン・ハーンより授かったモンゴル語の称号「ダライラマ」 [編集]
ダライ・ラマという称号はモンゴル人の支配者アルタン・ハーンが当時のデプン寺の座主であったスーナム・ギャツォを師と仰ぎ、贈った称号。この時の正式な称号は「ダライ・ラマ・バジュラダーラ」 Dalai-bla-ma bazra dhari といった。最初にダライ・ラマの称号を用いたのはスーナム・ギャツォであったが、彼を1世とはせず3世とし、遡ってゲルク派の宗祖ツォンカパ大師の弟子ゲンドゥン・ドゥプパを1世とした。「ダライ」とは、モンゴル語で「大海」を意味する。「ラマ」はチベット語で「師(教師・指導者)」を意味する。第2世ゲンドゥン・ギャツォ以来、歴代の法名に襲名されている「ギャツォ」とはチベット語で「海」を意味し、モンゴル語の「ダライ」と対応する。
ダライ・ラマの権威の成長 [編集]
ダライ・ラマの名跡は、ゲルク派の宗祖ツォンカパの高弟ゲンドゥンドゥプを初代とし、代替わりが進むにつれ、ラサ三大寺のセラ・デプン両寺の座主職を兼任するようになるなど、ゲルク派内の地位を高めていった。また同派のモンゴル布教の最前線に立ち、1578年第3世スーナム・ギャツォが当時のモンゴルの最高実力者アルタン・ハーンとチョ・ユン関係(施主・福田)を築くなど、モンゴルに対する大きな影響力をも持つようになった。
1636年、金の王ホンタイジが、ボルジギン氏(チンギス・ハーンの子孫)ではないにも関わらず大ハーンの地位に即位(即位と同時に国号を大清と変更)するという事態が起きたとき、ハルハとオイラトの諸部は友好使節団を派遣して愛新覚羅氏による「大ハーン」位継承を追認したが、この使節団は名目上、「清朝によるダライラマへの使者派遣に、自分たちの使者も同行させてほしい」ことを申し入れることを目的としていた。
オイラトの指導者グーシ・ハーンは清朝に使節団を派遣した1637年よりチベットの征服に着手、1642年までに中央チベット・アムド・カムなどチベットの大部分を制圧し、中央チベットに広大なダライ・ラマ領を寄進した。
ダライ・ラマの信者であるグーシ・ハーンによるチベットの制圧は、チベットの宗教界と世俗の権力構造に大きな変動をもたらした。
ダライ・ラマの名跡は、宗教の面では「ゲルク派の有力名跡」であり、政治面では、チベットでもっとも肥沃で人口稠密なダライ・ラマ領を掌握するのにくわえ、グーシ・ハーン一族や、グーシ・ハーン一族に従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定にたずさわるなど、宗教的・世俗的な権威と権限両方をチベットにおける支配地域で行使する存在となる。
ダライ・ラマの傀儡化 [編集]
ダライラマ六世ツァンヤンギャムツォによる比丘戒の不受と沙弥戒の返上、その後の放蕩は、1642年以来ダライラマ擁立の後ろ盾となってきたグシハン一族の分裂をもたらし、ツァンヤンギャムツォに替えて別の六世イェシェギャムツォを擁立する「ラサン派」[1]と、中国へ流刑される途上1705年に死去したツァンヤンギャムツォの「生まれ変わり」として擁立されたケサンギャムツォを擁する「反ラサン派」が対立することとなった。
対立は、オイラト本国(当時ジュンガル部が支配)や中国(清朝)などの外部勢力を巻き込んだ戦乱のはて、1720年、ケサンギャムツォがダライラマとして正式に即位する形でとりあえず決着した。ただしチベット人やモンゴル人たちがケサンギャムツォを「ツァンヤンギャムツォの生まれ変わりであるダライラマ七世」として認定したのに対し、中国は当初「ロサンギャムツォの生まれ変わりであるダライラマ六世」として扱った。中国がケサンギャムツォのダライラマとしての代数を、チベット人・モンゴル人が認定しているとおり七世としてみとめるのは、18世紀末、康熙帝の曾孫嘉慶帝の代までくだる。
19世紀以降、ダライ・ラマの転生者の捜索は、チベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われ、有力貴族が摂政となって実権を握った。この時期ダライ・ラマに選ばれた者は、政治的実権を握る成人前後に死を迎えている例が多い[2][3]。
歴代ダライ・ラマ [編集]
| 代数 | 名前 | 生没年 | チベット語表記(ワイリー方式) | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1世 | ゲンドゥン・ドゥプパ | 1391年 - 1474年 | dGe-'dun grub-pa དགེ་འདུན་གྲུབ་པ་ | 追贈 |
| 2世 | ゲンドゥン・ギャツォ | 1475年 - 1542年 | gGe-'dun rgya-mtsho དགེ་འདུན་རྒྱ་མཚོ་ | 追贈 |
| 3世 | スーナム・ギャツォ | 1543年 - 1588年 | bSod-nams rgya-mtsho བསོད་ནམས་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 4世 | ユンテン・ギャツォ | 1589年 - 1616年 | Yon-tan rgya-mtsho ཡོན་ཏན་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 5世 | ロサン・ギャツォ | 1617年 - 1682年 | Nag-dbang blo-bzang rgya-mtsho ངག་དབང་བློ་བཟང་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 6世 | ツァンヤン・ギャツォ | 1683年 - 1706年 | tshang-dbyangs rgya-mtsho ཚངས་དབྱངས་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 対立6世 | エシェ・ギャツォ | 1705年 - 1717年 | 欄外参照 | |
| 7世 | ケルサン・ギャツォ | 1708年 - 1757年 | bsKal-bzang rgya-mtsho བསྐལ་བཟང་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 8世 | ジャムペル・ギャツォ | 1758年 - 1804年 | 'Jam-dpal rgya-mtsho འཇམ་དཔལ་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 9世 | ルントク・ギャツォ | 1806年 - 1815年 | Lung-rtogs rgya-mtsho ལུང་རྟོགས་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 10世 | ツルティム・ギャツォ | 1816年 - 1837年 | Tshul-khrims rgya-mtsho ཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 11世 | ケードゥプ・ギャツォ | 1838年 - 1856年 | mKhas-grub rgya-mtsho མཁས་གྲུབ་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 12世 | ティンレ・ギャツォ | 1856年 - 1875年 | 'Phrin-las rgya-mtsho འཕྲིན་ལས་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 13世 | トゥプテン・ギャツォ | 1876年 - 1933年 | Thub-bstan rgya-mtsho ཐུབ་བསྟན་རྒྱ་མཚོ་ | |
| 14世 | テンジン・ギャツォ | 1935年 - 現在 | bsTan-'dzin rgya-mtsho བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་ |
- 対立6世エシェ・ギャツォは、ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォの廃位の後、ホシュート部の首長ラプサン・ハンによって擁立された対立ダライ・ラマ。しかし、ラプサン・ハンの傀儡と見なされたためにチベット人社会の支持を得られなかった上に、ホシュート部を破ったジュンガル部の首長ツェワンラブタンによって廃位された。
註 [編集]
- ^ ラサンはグシハンの嫡曾孫で、1703年より1717年までチベット・ハンに在位。
- ^ 木村肥佐生は、その著書『チベット潜行10年1958年版』で毒殺と推定。同書の『1982年版』では婉曲な表現で有力貴族間の権力争いの犠牲になった可能性が強いと記している。
- ^ 波多野養作『新疆視察復命書』(1907年)に拠れば、ダライは十七、八歳を迎えると南方の霊地へ赴いて業を修めるが、これを「朝南」と称する。この時をもって初めて人民に接するダライは思想上において大いに啓発されるところあり、業を了し宮殿に帰るとそれまで自己の無為に乗じて下僧たちからなされた欺瞞暴悪を悟り、往々大改革を計るに至る。これを自己に不都合とする下僧たちが共謀してダライを殺害することはほとんど動かし難い事実である、という。
参考文献 [編集]
- sde srid sangs rgyas rgya mthso. dga' ldan chos 'byung beedu'urya ser po/, kurung go'i bod kyi shes rig dpe skrun khang, 1989
- (第司桑結嘉措『格魯派教法史:黄瑠璃宝鑑』北京・中国藏学出版社、ISBN 7-80057-014-2)『ヴァイセル』
- sum pa ye shes dpal 'byor, chos 'byung dpag msam ljon bzang, ken su'u mi rig dpe skurn khang, 1992
- (松巴堪欽『松巴佛教史』甘民族出版社、ISBN 7-5421-0085-8)『パクサムジョンサン』
- (田崎国彦、渡邉郁子、クンチョック・シタル訳 春秋社、 2006年、 ISBN 4-393-13725-6、ISBN 4-393-13726-4)
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]