国共内戦

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国共内戦
ChineseCivilWarCollage.PNG
上から時計回りに:四平戦役における共産党軍、国民革命軍のムスリム戦士たち、1930年代の毛沢東、兵士を視察する蒋介石、孟良崮戦役の直前に前線を調査する粟裕
戦争:国共内戦
年月日:1927年4月12日 - 1937年9月[1]

1946年3月31日 - 1950年5月1日[2][注釈 1]

場所中国
結果:* 共産党による中国本土の掌握
  • 中国本土における中華人民共和国の成立
  • 中華民国政府の台湾への撤退
  • 戦闘は終結したが、停戦協定や平和条約の締結はなし
交戦勢力
1927–1949年
中華民国の旗 中華民国
1927–1949年
Flag of the Chinese Communist Party.svg 共産党
指揮官
中華民国の旗 蒋介石

中華民国の旗 白崇禧
中華民国の旗 陳誠
中華民国の旗 李宗仁
中華民国の旗 閻錫山
中華民国の旗 何応欽
中華民国の旗 王耀武
中華民国の旗 衛立煌
中華民国の旗 傅作義
中華民国の旗 劉峙
中華民国の旗 孫立人
中華民国の旗 杜聿明
中華民国の旗 薛岳
中華民国の旗 張学良
中華民国の旗 馮玉祥(1930年まで)

Flag of the Chinese Communist Party.svg 毛沢東

Flag of the Chinese Communist Party.svg 朱徳
Flag of the Chinese Communist Party.svg 彭徳懐
Flag of the Chinese Communist Party.svg 林彪
Flag of the Chinese Communist Party.svg 劉伯承
Flag of the Chinese Communist Party.svg 周恩来
Flag of the Chinese Communist Party.svg 陳毅
Flag of the Chinese Communist Party.svg 鄧小平
Flag of the Chinese Communist Party.svg 聶栄臻
Flag of the Chinese Communist Party.svg 粟裕
Flag of the Chinese Communist Party.svg 陳賡
Flag of the Chinese Communist Party.svg 徐向前
Flag of the Chinese Communist Party.svg 葉飛
Flag of the Chinese Communist Party.svg 賀龍
Flag of the Chinese Communist Party.svg 葉挺

戦力
4,300,000(1946年6月)[4][5]

3,650,000(1948年6月)
1,490,000(1949年6月)

1,200,000(1945年7月)[5]

2,800,000(1948年6月)
4,000,000(1949年6月)

損害
最大150万(1945–1949年)[6] 最大25万(1945–1949年)[6]
国共内戦

国共内戦(こっきょうないせん、: 国共内战/國共內戰: Chinese Civil War)は、中華民国政府率いる国民革命軍中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。

経緯[編集]

五・四運動の影響[編集]

1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」の五・四運動が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[7]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[8]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[8]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[8]

国共合作[編集]

結成当初の中国国民党中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。両者は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした[9]。この宣言は、コミンテルン中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月の中国共産党も、第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン(本名ヘンドリクス・スネーフリート)指導で、国共合作が方針となった[9]

なお、国民党はコミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを1923年に迎え、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。またその前年の1922年には日本陸軍広東駐在武官佐々木到一を孫文の軍事顧問としている。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。

1924年コミンテルンの仲介で第一次国共合作を行う。国民党は1924年1月20日広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。

1925年孫文が死去。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され[10]蒋介石汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。

蒋介石の上海クーデターと国共合作の崩壊[編集]

1926年に中山艦事件蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上において、国民党右派の蒋介石が1927年南京国民政府を成立させ、同年4月12日、上海クーデターを決行する。これにより、国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は対立関係に入った。

黄文雄によると、蒋介石は第一次国共合作の頃は「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した[11]。またスターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた[12]と言われ、中華民国を赤化させるつもりであったともいわれる。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。

国共内戦の開始[編集]

同1927年7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。共産党は武力闘争を開始し、南昌起義を皮切りに各地で武力蜂起を繰り返すが、国民党軍によって鎮圧された。

中華民国の国家主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。1928年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。

他方、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。

掃共戦と中独合作[編集]

蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開する。1931年5月、第二次掃共戦。同7月、第三次掃共戦。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしている。9月に満州事変が勃発。日本関東軍満州地域一帯を掌握する。翌年1月より2月にかけて、第一次上海事変が起き、3月1日満州国が建国される。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は抗日より中国共産党の掃討が大事として[11]掃討作戦を優先し、強化した。つまり蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加えた。

日本軍の動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、すでに6月には15万の兵力で共産党中央部を包囲した。しかし共産党は遊撃戦を展開、1933年4月には蒋介石は撤退する。5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し[13] 、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、蒋介石は対日戦よりも対共戦を優先させる。

1933年夏、ドイツ軍事顧問団も作戦に参加し、包囲網とトーチカ建造とを組み合わせた戦術を練る。10月16日、第五次掃共戦が開始。蒋介石は80万の兵力を投入し、またトーチカは3000個も築造された。

1934年1月22日、共産党は会議において、毛沢東の指導者辞任と張聞天の就任を決定。毛沢東の遊撃戦に代わって、ドイツ出身のソ連軍人で、コミンテルンからの指示で三年にわたって共産党を指揮していたオットー・ブラウンの提唱する陣地戦へと切り替えた。これは共産党軍も攻撃拠点にトーチカを設け、敵をトーチカから誘い出し、突撃する作戦で、短促突撃と名付けられた。

1934年1月には、中国内のドイツ軍事産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立され、同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任し[14]、ドイツ製武器を装備した二十個師団の形成、教導総隊、中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立していく。また同年4月、広昌の共産党トーチカは、蒋介石によって攻略され、共産党軍は4000人の戦死者を出す。

1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。

同年10月14日、共産党軍は、瑞金から脱出するが、蒋介石に追撃され、共産党は65000の兵士を失い、35000兵までに減少した。第五次掃共戦は、国民党の圧勝であった。共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安へ逃れた(共産党の言い方では長征)。

西安事件(1936)[編集]

蒋介石は延安への攻撃を図るが、1936年12月12日、反共より抗日を優先しようとした張学良による西安事件が起こり、国共対立は一時収拾する。共産党の翻意で張学良は蒋介石に恭順して、蒋介石と張学良が伴だって南京に戻った事で西安事件は一旦は収まった。しかし張学良が提案した内戦停止と一致抗日統一戦線結成は世論の支持を受け、蒋介石も無視できなくなった。それゆえ、翌年1937年2月に開かれた中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議では、赤化根絶決議(共産主義絶滅)と、日本との短期間での解決を同時に目指すという折衷的な内容となった。

西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。

日中戦争と第二次国共合作[編集]

1937年日中戦争支那事変)が勃発する。1937年7月7日北京郊外盧溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生した(盧溝橋事件)。共産党は発生の翌日全面交戦を呼掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(7月11日)戦火の拡大は防がれた。しかしながら軍事的な衝突はその後も各地で発生し、終には上海で日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)。

日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結(8月21日、同29日発表)と共産党の合法化で共産主義勢力との連携で難局を打開を試み、第二次国共合作に入った(1937年-1945年)。滞っていた共産党との交渉は、中ソ不可侵条約の締結翌日に共産党軍の国民政府軍への編入となり、日中両軍が激戦中の9月22日に、共産党が国民党に出した「国難に赴く宣言」(国民党政府への忠誠宣言)と、それを受けての蒋介石談話が放送されて、ようやく対立抗争の終結が宣言され、紅軍(共産党軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として形式上は国民党軍の指揮下に組み込まれた。ただし、抗日戦争中より国民党と共産党の間に衝突も起こっており、両者の共闘が必ずしも成功していたわけではない。また近年、第二次国共合作の成立は疑わしいとする説もある(国共合作を参照)。

国民政府は、米英の物資援助も入れて、精鋭部隊をつぎ込んだ全面戦争を行なった。アメリカは、蒋介石の妻の宋美齢によるフランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。

1943年、蒋介石が「中国の命運」という文章を発表すると、毛沢東は「反共産主義、反自由主義」だとして批判した[15]。戦争終結直前の1945年5月には、蒋介石国民党は第六回全国大会で孫文の提唱していた革命三段階論のうち,軍政、訓政の次の段階である憲政に入ると宣言した[16]。これに対抗して共産党側は第七回党代表大会で「連合政府論」構想を打ち出し、国民党政権を糾弾した。

年表[編集]

1926年(昭和元年)

1930年(昭和5年)

1931年(昭和6年)

1932年(昭和7年)

1933年(昭和8年)

1934年(昭和9年)

1935年(昭和10年)

1936年(昭和11年)

1937年(昭和12年)

中国軍による上海フランス租界避難民への爆撃[19]

※以下の展開は日中戦争#年表を参照

日中戦争後の国共内戦[編集]

1945年,重慶交渉[28]。右から:毛沢東王世杰張治中蒋介石蒋経国パトリック・ハーレー
宋美齢とともに台湾島を訪問する蒋介石(1946年

日本の敗戦によって中華民国は戦勝国となり、国際連合常任理事国となったものの、共通の敵を失うとともに、国共統一戦線の意義も名目もなくなり、再び国民党と共産党は戦後構想の違いより対立へと転じ、1946年6月より内戦を再開させた。

共産党は、戦後シベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行していたほか、ソ連からの援助も継続して受けており、国民革命軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。共産党軍は、徐々に南下して国民政府軍を圧迫。また日本軍の前面に立って戦力を消耗していた国民政府軍に対して共産党軍は、後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。

重慶会談[編集]

1945年8月の終戦によって内戦の不安が中国国民につのり、その結果、蒋介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である王世杰張治中邵力子と会談を行った[29]

同年8月30日重慶において「蒋介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」が開かれる[16]。会議は43日にも及んだが、10月10日に「双十協定」としてまとめられ、内戦は一時的に回避された。

上党戦役[編集]

しかし、同10月には会談空しく、双十協定調印の日に、山西省で上党戦役がはじまる[30]。共産党軍は三日で、国民党軍が投入した三分の一にあたる35000人を殲滅した[16]。この戦争で鄧小平は活躍し、その名声が高まる。

アメリカの関与[編集]

アメリカは調停に乗り出し、1946年1月、ジョージ・マーシャルを派遣、国民党の張群、共産党の周恩来と三者会談を行い、停戦協定を発表する[16]。しかしその後も3月には国共両軍の衝突はやまなかった。同年3月5日にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、冷戦構造が固まって行く。また6月にアメリカは国民党政府に向けて対中軍事援助法案を採択した。

中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蒋介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出[31]。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった[31][32]。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送っている[31]

マーシャルの行動の背景には周恩来との次の様な約束があったといわれる。共和党のジョセフ・マッカーシーおよび1995年に公開された米国務省ベノナ文書によれば、マーシャルが周恩来に魅了され、「中国人が根っからの共産主義者ではない」と考え、また周恩来が「もし米国が中国に民主主義を導入する手助けをしてくれればロシアとの連携を断ち切る」と約束していたことが判明している[33]。1946年7月の周恩来とマーシャルの会談では周恩来の要請をうけて、アルバート・C. ウェデマイヤーの中国大使任命をマーシャルが妨害したとし、アメリカ政府の人事にも中国共産党の意向が反映されたといわれる[33]。同年8月には、国民党への武器援助が禁止された[33]。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している[34][31]。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している[35]

1946年12月18日、トルーマン大統領はマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する[31]

全面侵攻[編集]

1946年6月26日、蒋介石は国民党正規軍160万人を動員し、全面侵攻の命令を発した[36]。毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略でもって抵抗した。毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生、規模は50万以上であった[37]

共産党軍と残留日本軍[編集]

国民革命軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴兵・徴用するなどして戦力を強化していた。日本女性は拉致などによって看護婦などとして従軍させられた[38]

八路軍の支配地域では通化事件が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった[39]

形勢の逆転[編集]

中華民国を率いる国民党の指導者の蒋介石は満洲の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連スターリンと協定を結んだため、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民革命軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は大陸部の大部分を手中に収めようとしていた。

だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカの国民党への支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策への集中、政府内の共産党シンパの活動等の理由により、先細りになっていった。

1947年3月には蒋介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する[37]。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導した。5月から6月にかけて、共産軍は83000人の国民党軍を殲滅する[40]。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大。対する国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた[40]

農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返していく。1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」で、共産党軍は決定的に勝利する。1948年9-11月の遼瀋戦役では国民党軍47万は殲滅され、国共軍事比は290万人対300万と逆転した[41]

中華人民共和国の成立[編集]

1948年11月ー1949年1月の徐州を中心に展開された淮海戦役では鄧小平が司令官となった。この戦争では国民党軍80万、共産党軍60万とが衝突するという大規模な戦闘になった。国民党軍55万5500人が殲滅される[41]。さらに1948年12月-1949年3月までの平津戦役でも、52万の国民党軍が壊滅した[41]

最終的には毛沢東率いる共産党が総攻撃をしかけ、北京、南京、上海などの主要都市を占領、1949年10月1日に共産党による中華人民共和国が成立した。

国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)[編集]

一方、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蒋介石は台湾への撤退を決定し、残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。

このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止する。

なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)は占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、中共軍を殲滅している[42]

蒋介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蒋介石を支援した[43]。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた[43]

白団による中華民国国軍への顧問は1960年代末まで行われた。

台湾海峡危機[編集]

朝鮮戦争の為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止していたが、1954年9月、中国人民解放軍は金門島の中華民国国軍に対し砲撃を行い、翌1955年1月には、一江山島を攻撃、占領し、台湾への攻撃を再開する。2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍護衛のもと大陳島撤退作戦が実施され、中華民国国軍は浙江省大陳島の拠点を放棄した。

1958年8月には中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始した(金門砲戦を参照)。台湾側は中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。アメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略を企図している」とし、台湾政府に軍事援助を開始。台湾は金門地区の防衛に成功する。10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言、アメリカとの全面戦争を避けた。

なお翌1959年9月には、石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。

1962年大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手したが[44][45]、アメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[46]。その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦東山海戦烏坵海戦を除き両岸間での戦闘は発生していないが[47]、緊張は続いている。

その後[編集]

中国大陸では、現在に至るまで中国共産党による一党独裁政治が続き、政治や言論の自由が抑圧されている[48]ほか、チベット侵略文化大革命朝鮮戦争中越戦争中印国境紛争中ソ国境紛争赤瓜礁海戦天安門事件など内乱や対外戦争が発生した。

台湾島一帯では、国民党の圧政に対する二・二八事件の鎮圧以降40年にわたって戒厳令が施行され、国民党が強権的に台湾島一帯を支配する時代が続いた。しかし、1980年代に入り戒厳令が停止され、歴史上初めて台湾生まれの李登輝総統になると、中華民国総統選挙自由選挙が行われるなど急速に民主化が進み、現在は議会制民主主義を元にした民主主義国家となっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この内戦には公式な終戦日がない。しかし、国民党の中国本土に近い最後の砦であった海南が陥落した後は戦争がおさまったと、歴史家たちは広く合意している[3]

出典[編集]

  1. ^ China. Encyclopædia Britannica, Inc.. (15 November 2012). http://www.britannica.com/EBchecked/topic/111803/China. 
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  3. ^ Westad, Odd (2003). Decisive Encounters: The Chinese Civil War, 1946-1950. Stanford University Press. pp. 305. ISBN Stanford. http://books.google.com/books?id=JBCOecRg5nEC&printsec=frontcover#v=onepage&q=%22last%20major%20GMD%20stronghold%22&f=false. 
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  26. ^ 『読売新聞』1937年9月15日。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。The New York Times, August 30, 1937記事
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参考文献[編集]

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  • 黄文雄 『蒋介石神話の嘘 : 中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』 明成社、2008年ISBN 9784944219704
  • 阿羅健一 『日中戦争はドイツが仕組んだ : 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ : 秘史発掘』 小学館、2008年ISBN 9784093878142
  • 中村祐悦 『白団 : 台湾軍をつくった日本軍将校たち』 芙蓉書房出版〈芙蓉選書ピクシス, 4〉、2006年、新版。ISBN 4829503831

関連項目[編集]