ブータン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- ブータン王国
- འབྲུགཡུལ་་
-


(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 雷龍の国

-
公用語 ゾンカ語、英語、ネパール語 首都 ティンプー 最大の都市 ティンプー 独立 1907年12月17日 通貨 ヌルタム(BTN) 時間帯 UTC +6(DST: なし) ISO 3166-1 BT / BTN ccTLD .bt 国際電話番号 975
ブータンは、南アジアにある国家。正式名称はブータン王国。インドと中国にはさまれている、世界唯一のチベット仏教(ドゥク・カギュ派)を国教とする国家である。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語と英語。
急速な近代化(欧米化)の中で、近代化の速度をコントロールしつつ、独自の立場や伝統を守ろうとする政治に世界的な注目が集まっている。前国王が提唱した国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念、さまざまな環境政策、伝統文化保持(隣国のシッキム王国(現シッキム州)のインドへの併合経緯に由来する、ブータン族優位政策の一環)のための国民に対する民族衣装着用の強制などが、近年のスローライフなどのキーワードと組み合わされて語られる場合も多い。
国旗はかなり複雑なもののひとつで、竜のうろこが細かく書かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス。
目次 |
[編集] 国名
正式名称のラテン文字表記は、CIA WORLD FACT BOOKによればDruk Gyalkhap。Druk Yulという略称が使用されることが多い。
チベット語の表記は、チベット文字ではའབྲུག་ཡུལ་、ワイリー拡張方式では 'brug yul、「ドゥク・ユル」(竜の国)と読む。
公式の英語表記は、Kingdom of Bhutan。通称、Bhutan。
日本語の表記は、ブータン王国。通称、ブータン。中国語では不丹と表記し、不と略す。
[編集] 歴史
17世紀にチベットを脱出したチベット仏教ドゥク・カギュ派の高僧シャブドゥン・ガワン・ナムギャルがガロップ族を率いて仏教をもたらし、現在の国土(東部がシャーチョップ族、西部がガロップ族、南部がネパール族の土地となっている。ネパール族の多くは20世紀の初めに移住した)をまとめた。ゲルク派の法王ダライ・ラマがモンゴルの後援を受けて1642年にチベットを掌握し、他宗派との抗争が激化したのが原因である。(同様にチベットを脱出したニンマ派の高僧が建国したのがシッキム王国である。)
19世紀末内戦状態にあったブータンの中で、東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが支配的郡長として抬頭し、1907年、初代の国王となった。1972年に第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクの急死後、第4代国王として16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく国王の座にあり、2005年には総選挙が実施される。2008年に退位することを発表していたが、予定を繰り上げ2006年12月に譲位。ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。2008年7月18日に初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国へと移行した。
- 627年: パロのキチュ・ラカンとブムタンのジャンパ・ラカンがソンツェン・ガンポによって建設される。
- 747年: パドマサンババがチベット仏教のニンマ派を伝える。
- 1616年:ドゥク派(チベット仏教カギュ派の支派)座主織をめぐり内紛。座主職を相伝してきたギャ氏のシャブドゥン・ガワン・ナムゲルの継承に対し、反対派が「先代の化身ラマ」を擁して対抗。時のチベット中央政府の介入により座主織を追われたガワンナムギャルが、南方モン地方の支持者に迎えられて政権を樹立。ブータン国家の起源。
- 1626年: イエズス会のポルトガル人神父、エステヴァン・カセラ、ヨハン・カプラルがヨーロッパ人として初めてブータン入国。
- 1864年: イギリス=ブータン戦争(ドゥアール戦争)勃発。
- 1865年: ドゥアール戦争に敗北し、イギリスとの間にシンチュラ条約を締結。イギリスからブータンに年5万ルピーが補助金として支払われることになる。
- 1907年: ワンチュク家(現王朝)が支配権を確立する。12月17日、ウゲン・ワンチュクが初代国王となる。
- 1910年: プナカ条約締結。1949年までイギリスの保護下に入る。
- 1926年: ジグミ・ワンチュクが第2代国王になる。
- 1949年: インド・ブータン条約調印。
- 1952年: ジグミ・ドルジ・ワンチュクが第3代国王になる。
- 1964年: ジグミ・パルデン・ドルジ首相が暗殺される。
- 1971年: 国際連合に加盟する。
- 1972年: ジグミ・シンゲ・ワンチュクが第4代国王になる。
- 1974年: 第4代国王戴冠式。
- 1990年: 反政府運動激化。南部居住のネパール系住民が国外に脱出し難民化する。(ブータン難民)
- 1999年: 国内テレビ放送開始。インターネットの利用を許可。
- 2005年: ワンチュク国王、2008年の譲位と総選挙後の立憲君主制移行を表明。
- 2006年: 当初の予定を繰り上げて、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位。
- 2007年: 12月、初の普通国政選挙となる国家評議会(上院)選挙を実施。
- 2008年: 3月、普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施。4月、初の民選首相としてジグメ・ティンレーが選任される。7月18日、新憲法が公布される。
[編集] 政治
1907年のワンチュク朝成立以降、国王を中心とする絶対君主制だったが、近年の政治改革により、2008年に憲法が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制が採用されている。
[編集] 立法
1953年に第3代国王により設置された国民議会(下院に相当。英語: National Assembly、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、2008年新憲法により新設された国家評議会(上院に相当。英語National Council、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による両院制である。国民議会は、普通選挙・単純小選挙区制により選出される47人の議員で、国家評議会は、国内20県から各県1人ずつ普選で選出される20人と国王が任命する有識者5人の計25人で、それぞれ構成される。両院とも議員の任期は5年だが、国民議会は解散の可能性もある。
2007年12月31日と2008年1月29日に、初の国家評議会選挙が実施され、20人の選挙議員が確定した。2008年3月24日には、初の国民議会選挙が実施され、ブータン高徳党(DPT)が45議席を獲得して圧勝し、第2党の国民民主党(PDP)は2議席にとどまった。3月28日、国家評議会の任命議員5人が決定し、両院の構成が確定した。
なお、2008年7月の新憲法制定までは、議席数約150の一院制国会(国民議会)であった。議員は、一般選挙を経た国民代表106名・仏教界代表10名・政府代表34名で構成され、任期は3年、再選、再任が認められていた。
[編集] 行政
1968年から採用された省制度により、2005年現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1964年の首相暗殺以来、首相職は再設置されていなかったが、1998年に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では議院内閣制が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。2008年3月24日の国民議会選挙の結果、第1党となったDPTの党首ジグメ・ティンレーが、同年4月9日に初の民選首相に任命された。
その他に、かつては王立諮問委員会(英語: Royal Advisory Coulcil、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在した。国家の重要事項について、国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割を担った。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年であった。しかし、王立諮問委員会は、2007年にその役目を終えて廃止されている。
国軍の兵力は約1万人、軍事費は1700万ドル(2006年推計)。
地方自治組織として、新憲法制定以前は、ゾンカク発展委員会(英語: Dzongkhag Development Committee、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会(英語: Gewog Development Committee、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されていた。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。2008年の新憲法制定に伴い、発展委員会は、地方議会へと改組された。
[編集] 地方行政区分
詳細は「ブータンの行政区画」を参照
20の県(ゾンカク)に分かれている。各県の県庁には基本的にゾン(城砦)があり、聖俗両方の中心地(行政機構、司法機関及び僧院)として機能している。ゾンカクはドゥンカク(郡、Dungkhag)とゲオク(村、Gewog)という行政単位によって構成されている。2002年時点で、全国に16のドゥンカク、201のゲオクがある。
|
|
|
[編集] 外交関係
[編集] インドとの関係
英領インドとの条約に「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年のインド=ブータン条約にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの保護国的な印象を受ける。しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。また、2007年3月の条約改定で「外交への助言」についての文言が「相互協力関係の維持及び拡大」を謳うものに差し替えられるなど、現状に合わせた新たな規定が定められた。
[編集] 日本との関係
- 1964年当時のブータンの農業の収穫は非常に少ないもので、状況を改善すべく海外技術協力事業団(現・国際協力機構)は農業技術者として西岡京治を派遣、翌年の1965年にはたくさんの収穫を得た。その後もブータン農業の改善に尽くした西岡は1980年に国王から「ダショー(最高の人)」の称号を授与され、1992年に没するまでブータンで仕事を続けた。
- 1988年以降、青年海外協力隊が派遣されている。
- 1989年、昭和天皇崩御の際には1ヶ月間喪に服した[要出典]。
- 1989年2月24日、34歳のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が昭和天皇の大喪の礼参列のため、民族衣装「ゴ」の礼服姿で、数人の供を連れて来日した。他の国の首脳の多くが、日本から経済的な協力を得るために葬儀の前後に日本政府首脳と会談する弔問外交を行う中で、ブータン国王はこうした弔問外交を行わず、大喪の礼に出席して帰国した。新聞記者が理由を尋ねると、国王は「日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、日本に金を無心しに来たのではありません」と答えた。
- 2008年4月10日、日本サッカー協会は、サッカーブータン代表監督として、行徳浩二を派遣すると発表した。アジア各国・地域へ指導者らを派遣する貢献事業の一環で、ブータン協会から要請を受けた。契約期間は2009年1月末まで。
[編集] 地理
詳細は「ブータンの地理」を参照
インドとは東をアルナーチャル・プラデーシュ州と、西をシッキム州と、南を西ベンガル州とアッサム州で接しており、その国境線は605kmに達する。また北の国境線470kmは中華人民共和国のチベット自治区と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。
ヒマラヤ山脈南麓に位置し、国土の標高差が南部の100mから北部の7,561mに亘っている。標高3,000m以上の北部ヒマラヤ山脈の高山・ツンドラ気候、標高1,200mから3,000mの中部のモンスーン気候、標高1,200m未満の南部タライ平原の亜熱帯性気候が並存する。
国内最高峰はガンカー・プンスム (7,561m)。
かつてはカイラス山の一帯も管轄下にあったが、チベットを占領した中華人民共和国はカイラスをブータン領とは認めず、チベットとともに中国領へと編入した。
[編集] 経済
詳細は「ブータンの経済」を参照
主要産業はGDPの約35%を占める農業(米、麦など、林業も含む)だが、最大の輸出商品は電力である。国土がヒマラヤの斜面にあることを生かし、豊富な水力による発電を行い、インドに電力を売却することにより外貨を得ている。輸出品は電力、珪素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなどで、輸入品は高速ディーゼル、ポリマー、石油、米など。2007年統計では貿易総額は輸出入合わせて約10億ドルで貿易収支は若干黒字。
なお、2007年の一人あたりGNIは1800ドル、経済成長率は19%であった。国家予算の大部分はインドへの電力輸出による収益でまかない、国民の医療費、教育費などは無料に近い。
観光業は有望だが、文化・自然保護の観点からハイエンドに特化した観光政策を進めており、フォーシーズンズなどの高級ホテルの誘致に成功した。外国人観光客の入国は制限されており、バックパッカーとしての入国は原則として不可能。必ず旅行会社を通し、旅行代金として入国1日につき200米ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む。ローシーズンは若干減額される)を前払いし、ガイドが同行する必要がある。ただし、治安の悪い南部地域への渡航制限を除き、自由旅行が禁止されているわけではない。
2004年12月より、環境保護及び仏教教義的な背景から世界初の禁煙国家となり、煙草の販売が禁止された。国外から持ち込むことはできるが、100%の関税が課される。
ブータン政府は1961年以降は、5年毎の開発計画に基づく社会経済開発を実施している。2002年7月からは、新たに第9次5ヶ年計画が開始されている。国内経済では、農業がGDPの約36%、就労人口の約9割を占める最大の産業であり、対外経済では貿易をはじめインドとの関係が圧倒的に高い割合を占める。このように1960年代から進んだブータン国の開発・研究(第1〜2次五カ年計画)により、幸福こそ人のそして国家の究極の目標とし、ワンチュク国王が1972年にその概念を生み出した。4つの大きな柱からなるこの国民総幸福量、いわゆる幸せの指標、GNH(Gross National Happiness)により、「世界一幸せな国ブータン」として特にGDP/GNP増加を主眼としている先進国から今、注目されている。日本もその成り立ちから経済援助などを通じ、ブータンのGNH発現と実現に大きな貢献をしている。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、その最先端の概念の理解と導入への取り組みが見られる。
[編集] 農業
ブータン経済において、農業は非常に重要で基幹産業である。1990年時点では労働人口の9割が自給的な農業、もしくは放牧業に従事していた。これらの農民の多くは国民経済計算の対象となる貨幣経済に属していなかったため、ブータン経済は実体よりも小さく見える。国内総生産においても農業部門が43%(1991年)を占めていた。平原であるわずかな低地部ではコメが、国土の50%を超える山岳部では果樹などが栽培されている。ブータン農業は自家消費が目的であり、自給率はほぼ100%だった。例外は輸出が可能な果樹、原木である。
ブータン農業の問題点は、生産能力が向上しないことにある。人口が増え続けているにも関わらず、労働人口に占める農業従事者の割合は高い数値で横ばいに推移しており、農民の数は増え続けている。一方、厳しい地形に阻まれて農地の拡大は望めない。小規模な農地が大半を占めるため、土地生産性も改善されない。このため、1986年・1987年時点と、2003年・2005年時点を比較すると、農民が倍加しているにも関わらず、生産量がかえって微減している。
具体的には、1986年時点の国土に占める農地の比率が2.2%、牧草地4.6%、森林70.1%だったものが、2003年に至ると、同2.7%、同8.8%、同68.0%に変化している。農地は約2割拡大した。一方、農業従事者は1986年時点で、人口144.7万人に対し59万人だったものが、2003年には人口216.3万人に対し102万人となり、約7割も増えている。
ここで生産量が1万トンを超える農産物を比較すると、
- 1987年時点 米8.5万トン、とうもろこし8.5万トン、ばれいしょ5.0万トン、コムギ1.9万トン、サトウキビ1.2万トン、オレンジ5.0万トン
- 2005年時点 米4.5万トン、とうもろこし7.0万トン、ばれいしょ4.7万トン、コムギ0.5万トン、サトウキビ1.3万トン、オレンジ3.6万トン
となっており、主食のコメが半減している。2003年時点ではブータンの輸入品目に占める穀物の割合は7.6%に達した。この傾向は牧畜業にも及び、主力のウシは同じ期間に51万頭から37万頭に減少している。
[編集] 労働力
失業率は3.1%である(2005年、公式統計)。
[編集] 国民
詳細は「ブータンの国民」を参照
3つの民族集団に大別される。
- チベット仏教(ドゥク派)を信仰しゾンカ語を主要言語とし、西部に居住するチベット系のガロップ族と呼ばれる人々
- チベット仏教(主にニンマ派)を信仰しツァンラ語(シャチョップカ語)を母語とし、東部に居住するアッサム地方を出自とするツァンラ(自称。以前はシャーチョップ族と呼ばれた)と呼ばれる人々
- ヒンドゥー教徒でネパール語を話し、南部に居住するローツァンパと呼ばれるネパール系住民(少数だがイスラム教徒も含む)。1990年、10万人以上のローツァンパが不法移民、反国民として国外追放された。
北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。
[編集] 言語
英語が事実上の第一公用語であり、全ての法令、公文書は英語で書かれている。ほぼすべての教育機関が英語を教授言語としている。これは、ゾンカ語が仏教関係以外の語彙に乏しく、近代国家の公用語としての使用に耐えないこと、また英語を公用語とする隣国インドから英語で授業ができる教員を雇い入れることが容易だったためである。現在でもブータンの学校ではインド人をはじめとする多くの外国人教員が教鞭を執っている。最大の新聞であるクエンセルは、英語、ゾンカ語、ネパール語で発行されているが、購読者が最も多いのは英語版である。英語の公用語化は最近始まったため、中年以上の世代にはあまり通じない。英語教育を受けた若い世代には、英語をもっぱら第一言語とし、国語であるゾンカ語は話せても読み書きができない者もいる。
また、地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのはヒンディー語やそれに類するネパール語である。これは、近代教育初期の教授言語がヒンディー語で、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。
国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語(ブータンではローツァムカ語と呼ばれることもある)が主要言語となっている。
[編集] 南部問題
詳細は「en:Bhutanese refugees」を参照
1958年の国籍法を下敷きにして、1985年に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が特に南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキムのような事態[2]を避けたいと考えていたための措置だったと言われる。
その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。1988年以降、ネパール系ブータン人の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は、反政府活動に関与していると看做され追放される。
この際に、デモを弾圧するためネパール系ブータン人への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、チベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系ブータン人の国外脱出(難民の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府等の要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連(UNHCR)により話し合いが続けられていたが、2008年3月、難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し、逐次移住が始まる予定である。
[編集] 地球温暖化・氷河湖決壊問題
ブータンでは近年、地球温暖化による氷河湖決壊大災害が危惧されている。1994年10月にはラフストレン氷河湖付近のルゲ氷河湖が決壊し、古都プナカに土石水流が押し寄せた。
ヒマラヤ地域では毎年0.1度ずつ気温が上昇しており、このままでは28年後にはヒマラヤの氷河がすべて融解するとした国連報告書が2007年に公表された。ブータン北部には氷河湖が約2670あり、早期の決壊危険性がある湖は25ある。決壊した氷河湖は、河川沿いに高度差7000メートルで一気に、インド東部やバングラデシュなど周辺国にも流れ落ちる。
ブータンのキンザン・ドルジ首相は、「ヒマラヤの氷河がこれまでにないスピードで解け始めている。わが国北部の氷河湖が決壊する危険も高まっており、決壊を防ぐための早急な技術・財政支援を先進国に求めるほかない」と、2007年インドネシアで開催された気候変動枠組条約COP13会議に期待を寄せた。
[編集] 文化
詳細は「ブータンの文化」を参照
ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。これは、モンスーン気候に代表される照葉樹林地帯(ヒマラヤ山麓〜雲南〜江南〜台湾〜日本)に属しているためで、一帯では類似の文化的特徴を見出すことができる[要出典]。
食文化においては、ブータンはトウガラシの常食と乳製品の多用という独自の面を有しつつ、赤米、蕎麦の栽培、納豆、酒文化(どぶろくに似た醸造酒「シンチャン」や焼酎に似た蒸留酒「アラ」)などの日本人の琴線に触れる習慣も多い。また、伝統工芸においては、漆器や織物などの類似点もある。
習俗の面では、ブータン東部では最近まで残っていた「夜這い・妻問婚」や「歌垣」などが比較的注目される点であろう。ブータンの男性の民族衣装「ゴ」は日本の丹前やどてらに形状が類似していることから、呉服との関連を指摘する俗説もあるが、「ゴ」の起源は中央アジアとされており、日本の呉服とは起源が異なる。男性の民族衣装がチベット系統であるのに対して、女性の民族衣装「キラ」は巻き衣の形式を取り、インド・アッサム色が濃い。北から流入したチベット系文化と元来存在した照葉樹林文化が混在しているといえる。
伝統的な競技としては、国技の弓術が代表的である。子供はダーツのような「クル」、石投げなどで遊ぶ。武器の扱えない僧侶は石投げに興じることが多いが、近年では聖俗問わずサッカー人気も高い。特にサッカーや格闘技はケーブルテレビの普及以降、爆発的に人気を獲得した。
近代化の進む中、チベット仏教は現在でも深くブータンの生活に根差している。ブータン暦の10日に各地で行われるツェチュという祭は今でも交際の場として機能している。その他、宗教的意匠が身近なところに溢れ、男根信仰も一般的である。宗教観や古い身分制度に基づく伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)は厳格で、国家公務員の研修や学校教育に取り入れられている。公的な場所に出るときは、正装が義務付けられる。
[編集] 教育
ブータンの大学は、タシガン県にあるシェルブツェ・カレッジ(英文表記:The Royal University of Bhutan,通称:カンルン大学)が唯一の大学である。
[編集] 祝祭日
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 2月21-23日 | 現国王誕生日 | 太陽暦 | |
| 5月2日 | 第3代国王誕生日 | 太陽暦 | |
| 6月2日 | 現国王戴冠記念日 | 太陽暦 | |
| 7月30日 | 第3代国王逝去日 | 太陽暦 | |
| 9月22日 | 安雨居 | Blessed Rainy Day | 太陽暦 |
| 11月11日 | 第4代国王誕生日 | 太陽暦 | |
| 12月17日 | 建国記念日 | 太陽暦 | |
| 1月1日-2日 | 新年 | Losar | ブータン暦 |
| 4月15日 | 花祭り | Lord Buddha’s Parinirvana | ブータン暦 |
| 5月10日 | パドマサンババ生誕記念日 | ブータン歴 | |
| 6月4日 | 初転法輪 | The First Sermon of Lord Buddha | ブータン歴 |
| ダサイン | Dashain | ネパール暦 | |
| 9月22日 | 神降祭 ラパウトゥーチェン | Decending Day of Lord Buddha | ブータン歴 |
| 11月5日 | Meeting of Nine Evils | ブータン歴 | |
| 12月1日 | Traditional Day of Offering | ブータン歴 |
この他、ツェチュなど各ゾンカク独自の祝祭日がある。また、ティンプーでは初雪の日は休日になるという慣例がある。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- ブータンの政党
- ブータン関係記事の一覧
- 西岡京治 - 「ブータン農業の父」と呼ばれる日本人農業指導者
- ドゥルック -ブータンの国旗に描かれる竜の名。
[編集] 外部リンク
- 政府
- ブータン王国政府 (英語)
- 日本政府
- 日本外務省 - ブータン王国 (日本語)
- 在インド日本国大使館 - 在ブータン大使館を兼轄 (日本語)
- 観光
|
||||||||||||||||||||||||||