コミンテルン
コミンテルン(ロシア語:Коминтернカミンテールン;ラテン文字転写の例:Komintern;英語:Comintern)は、共産主義政党の国際組織である。別名第三インターナショナル、共産主義インターナショナル、国際共産党。「共産主義のインターナショナル」という意味のコムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール(Коммунистический Интернационал;コミュニスト・インターナショナル(Communist International)の略称。
1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第七回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した[1]。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。
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[編集] 概要
第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスのツィンメルヴァルトで開いた国際会議がコミンテルンの源流である。十月革命後の1919年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。
当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国の革命運動を支援する、という使い分けがなされた。しかしレーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。1920年代中頃の中国では、ブルジョア政党の政権が共産党を弾圧しても黙認する、といった例も生じた。
その一方、第二インターナショナルの系譜に属する社会民主主義政党には厳しい姿勢をとりつづけ、1928年夏のコミンテルン第6回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりを強調する「社会ファシズム論」が登場した。1930年代前半よりドイツで台頭するナチスに対し、ドイツ共産党が社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党との対立にあけくれたことは、ナチスの権力獲得を許す一因となった。
1935年のコミンテルン第7回大会では反ファシズムを最優先課題として多様な勢力と協調しようとする人民戦線戦術を採択した。スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。独ソ不可侵条約の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。
第二次世界大戦の勃発に伴い、ソ連がイギリスやフランスとともに連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。
[編集] 設立
第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が国際主義を放棄して「祖国防衛」を支持したために瓦解した。1914年8月、ドイツ社会民主党の国会議員団は「われわれは危機の瞬間にあって祖国を見捨てるようなことはしない」[2]と声明して軍事公債に賛成投票した。フランスでは社会党のジュール・ゲードとマルセル・サンバが挙国一致内閣に入閣した。
反戦派はスイスのツィンメルワルトで1915年9月に国際会議(ツィンメルワルト会議)を開き、国際主義を復活させようとした。しかしツィンメルワルト会議に集まった社会主義者たちも十分に意見が一致したわけではなく、平和主義的な右派と革命的な左派に分かれた。左派の中心となったボリシェヴィキは排外主義者や日和見主義者と絶縁して第三インターナショナルを設立することを主張した[3]。
レーニンは、1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけたのに対抗して、チチェリンに第三インターナショナル設立の準備を始めるよう指示した[4]。1919年1月に39の党やグループにあてた創立大会への招待状が発表され、同年3月にモスクワで会議が開かれた。54名の代議員のうち、35名が19の組織やグループを代表して議決権を持っていた。国外から参加したのは5名だった。ドイツ共産党を代表して出席したフーゴ・エーバーラインは、明確に組織を代表して参加している代議員はごくわずかで、多くはグループの代表にすぎないことを指摘し、第三インターナショナルの即時創立に反対した[5]。しかしその反対を押し切る形で創立が決議された。
大会は指導機関として「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」執行委員会を設置すること、および執行委員会は5名からなるビューロー(事務局)を選出することを決めた。グリゴリー・ジノヴィエフが初代の議長となった。しかし実際には、ロシア以外の党はモスクワに代表を派遣できなかった。
[編集] 第1回から第4回までのコミンテルン世界大会
- 第1回大会
第1回コミンテルン大会は1919年3月2日より3月6日までモスクワで開催され、30か国から52名の代表が参加し、コミンテルンの綱領及び「ブルジョワの民主主義」と「プロレタリアートの独裁」についてのレーニンのテーゼが満場一致をもって可決されている。
コミンテルン執行委員会の最初の議長はグリゴリー・ジノヴィエフであり、1919年から1926年まで務めているが、決定的な影響力を持っていたのは1924年1月のその死までレーニンであり、その革命に関する戦略は1902年のパンフレットWhat Is to Be Done?(なすべきことは何か?)に説明されている。レーニンのリーダーシップの下におけるコミンテルンの主たる方針は、国際的にプロレタリアの革命を助けるための共産党が世界中で設立されなくてはならないというものであった。民主的に決定し、しかしいかなる決定がなされても規律ある態度でそれを支持する「議論の自由、行動の統一」という彼の民主集中制の原則は各党によって共有された[6]。この時期には、コミンテルンは「世界革命の参謀本部」として知られるようになっている[7]。
- 第2回大会
第2回コミンテルン大会は41か国から218名の代表が出席し、最初はペトログラードにおいて1920年7月19日に開会され、7月23日から8月7日の期間にはモスクワにおいて続けられている。世界共産運動の組織原則、つまり共産党の役割と構成が主要な議題とされ、可決を見ている。この大会に先立ち、レーニンは全ての社会主義党に送られた21項目の前提条件を含め、数多くの文書を送付している。会議はコミンテルンに参加を望むあらゆるのグループに対して、その21項目の条件を参加のための条件として採択した。その21項目の条件は共産党と他の社会主義のグループの間の区別を求め[8]、コミンテルンの各部にブルジョワ国家の正当性を信用しないことを要求している。また、民主主義的な中央集権主義の方向に沿った党組織の強化も求められ、党広報部と議会内会派は党指導部の直接の管理下に置かれるものとされた。
植民地化された世界の政治情勢に関して、第2回コミンテルン大会は植民地化された国々のプロレタリアート、農民および地元のブルジョワジーの間で形成されるべき統一戦線を求めている。大会前にレーニンが立案した21の前提条件の中に全ての共産党は植民地でブルジョワ的民主主義の解放運動を支持しなければならないと規定した第11項の命題がある。しかし、かなりの代表者がブルジョワジーと同盟する考えに反対し、かえってこれらの国々の共産主義の動きに対する支持を求めた。メキシコ共産党の代表として出席したM.N. Royもその非難を行っている。会議は第8項目になったものの中から、その「ブルジョワ的民主主義」という言葉を削除した[9]。
新しい国際共産党たるコミンテルンを支持するか否かをもとに多くのヨーロッパの社会主義党が分裂した。フランスのSFIO("French Section of the Workers International")は1920年のTours Congress において脱退し、これが新たにフランス共産党(初めは"French Section of the Communist International"(コミンテルンのフランス部) - SFICと呼ばれていた)を創設することにつながる。このような創設により他にも1920年にはスペイン共産党、1921年にはイタリア共産党とベルギー共産党などが誕生している。
- 第3回大会
第3回コミンテルン大会は1921年6月22日から7月12日にかけてモスクワで開催され、52か国から605名の代表が出席し、主に労働階級の獲得手法について審議している。この大会の書類は状況が好ましかった際に闘争を「内戦」に変えることを可能にした手段、及び「公然とした革命蜂起」について述べている[10]。レフ・トロツキーが顕著な役割を演じた1922年11月の第4回大会もこのムードを継承した[11]。
- 第4回大会
第4回コミンテルン大会は58か国から408名の代表が出席し、最初はペトログラードにおいて1922年11月5日に開会され、11月9日から12月5日の期間にはモスクワにおいて続けられている。レーニンの出席はこの大会が最後となった。統一戦線に関する戦術討議が議題とされたほか、レーニンはコミンテルン各支部のボリシェヴィキ化、さらに各国共産党がロシア共産党の経験を重視することを強調している。
コミンテルン史の「第一期」として知られているこの初期、ロシア内戦の中で攻撃されていたボリシェビキ革命とヨーロッパ中の革命の波(英文記事)により、コミンテルンの優先事項は十月革命を輸出することであった。一部の共産党は秘密の軍事組織を持っていた。ドイツ共産党のM-Apparatはその例である。その目的は共産主義者が信じていた近い将来のドイツ内戦に備えること、及び共産党に潜入していたかもしれない敵と情報提供者を粛清することであった。準軍事組織である赤色戦線戦士同盟も存在していた[12]。
- コミンテルンによる革命支援
この時期、コミンテルンは1919年のハンガリー革命を初めとしてヨーロッパ全域でいくつもの革命に関与している。ハンガリーにはソ連からは数百の扇動者と経済援助が送られ、レーニンはハンガリー共産党の指導者であったクン・ベーラと定期的に連絡を取っていた。革命は一時成功し、ハンガリー・ソビエト共和国が成立した。ハンガリー・ソビエト共和国政府の手によって「政府革命評議会のテロ集団」(通称「レーニン・ボーイズ(Lenin Boys)」)が編成され、赤色テロ(en)を引き起こした[13]。しかしハンガリー・ソビエト政府はルーマニア王国の侵攻により崩壊した(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
次の企ては1921年のドイツにおける「3月行動(March Action)」であった。コミンテルンから派遣されたクンが指導したこの蜂起は、中部ドイツの都市マンスフェルトを数日間占拠するなど大規模なもので、計画にはハレ発ライプツィヒ行き急行列車の爆破も含まれていた。この蜂起は失敗したために第3回コミンテルン大会で非難されたが、レーニンはドイツ共産党の指導者であったパウル・レヴィ(Paul Levi)をドイツ共産党から追放することを命じている[14] 。ドイツでの新しい企てはルール危機の際に行われた。赤軍が動員され、計画された暴動の支援に向う構えとなった。ドイツ政府による断固とした措置はその計画を中止させたが、例外としてハンブルクでは伝達の間違いにより200名ないし300名の共産主義者が警察署を襲撃したがすぐに鎮圧された[15]。1924年にはエストニア共産党によるエストニアにおけるクーデターが失敗している[16]。
いくつかの国際組織は、この期間にコミンテルンが支援している:
- 赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン – 1920年結成)
- Red Peasant International(赤色農民インターナショナル Krestintern – 1923年結成)
- International Red Aid(インターナショナル赤色支援機構 MOPR – 1922年結成)
- Communist Youth International(共産主義者青年インターナショナル 1919年再結成)
- Red Sports International(赤色スポーツ・インターナショナル Sportintern)
- International of the Proletarian Freethinkers (プロレタリア自由思想者インターナショナル1925年 – 1933年)
- League against Imperialism(反帝国主義同盟 1927年結成)
1924年にはモンゴル人民革命党がコミンテルンに参加[17]。中国において最初は中国共産党と中国国民党の両方を支援している。1927年の蒋介石との決定的な決別の後、スターリンはこの時は失敗した反乱を援助するために個人的な特使を送っている[18]。
[編集] 第5回から第6回までのコミンテルン世界大会
[編集] 第二期
1924年レーニンが亡くなる。1925年には世界革命に直結する活動からソ連政府の防衛への変更が示された。この年スターリンは「一国社会主義論」を掲げ、それはニコライ・ブハーリンが彼の1925年4月のパンフレット Can We Build Socialism in One Country in the Absence of the Victory of the West-European Proletariat? (我々は西欧プロレタリアートの勝利なしに一国の社会主義を建設できるか?) で詳しく説明している。スターリンの1926年1月における記事 On the Issues of Leninism (レーニン主義の問題について)の後、それは国家方針としてまとめられた。
ドイツにおけるスパルタクス団蜂起(Spartacist uprising)とハンガリー・ソビエト共和国の失敗、さらに例えばファシストの準軍事組織黒シャツ隊がストライキを中止させ、1922年のローマ進軍に続いて直ちに権力を掌握したイタリアのような欧州における革命運動すべての顕著な後退傾向のため世界革命という考え方は退けられた。1928年までに至るこの時期は「第二期」として知られ、ソ連の「戦時共産主義(War communism)」から新経済政策「ネップ(New Economic Policy)」への移行を反映している[19]。
第5回コミンテルン大会は1924年6月17日から7月8日にかけてモスクワで開催され、49か国から510名の代表が出席した。ソ連共産党代表は資本主義は一時的に相対的安定が可能とするスターリンの意見を基にコミンテルンの戦術を作成するがこの過程でコミンテルン内部の左右両派と闘争が行われ、各国共産党を大衆組織としてコミンテルン各支部のボリシェヴィキ化を決定している。
大会中ジノヴィエフはマルクス主義哲学の学者ルカーチ・ジェルジがクン・ベーラのハンガリー・ソビエト共和国に関与した後、1923年に出版した『歴史と階級意識』(Geschichte und Klassenbewusstsein)とカール・コルシュの『マルクス主義と哲学』[要出典]を非難した。ジノヴィエフ自身はスターリンに嫌われると1926年に解任されたが、その時スターリンはすでにかなりの権力を握っていた。そしてブハーリンが彼もスターリンに嫌われるようになる1928年までの2年間コミンテルンを指導している。ブルガリアの共産主義指導者ゲオルギ・ディミトロフが1934年にコミンテルンを指導するようになり、その解散まで議長を務めた。
[編集] 第三期
1928年2月9日から2月25日までモスクワで開催された執行委員会(Executive Committee of the Communist International)の第9回会合(Plenum)には27か国から92名の代表が参加し、いわゆる「第三期」(Third Period)を開始し、それは1935年まで続けられる予定であった[20]。コミンテルンは資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること及び全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左(Ultra-left)路線であることといったことを宣言している。特にコミンテルンは全ての穏健な左翼会派を「社会主義ファシスト」と表現して、共産主義者は穏健な左翼会派の破壊のために尽力するよう主張した。1930年以後のドイツにおけるナチの活動拡大により、この姿勢はドイツ社会民主党を主要な敵として扱うドイツ共産党の戦術を批判していたポーランド人共産主義者で歴史家のアイザック・ドイッチャー(Isaac Deutscher)など多くの者と多少の論争となった。
第6回コミンテルン大会は1928年7月17日から9月1日にかけてモスクワで開催され、57か国から532名の代表が出席した。スターリンが直接に指導し、ニコライ・ブハーリンの日和見主義的立場を除き、資本主義戦後発展第三期は資本主義的安定の矛盾を発展させ資本主義的安定をさらに動揺させ、資本主義の一般的危機を激化させるべきとする第三期論を決定した。
共産主義者の帝国主義戦争への反対運動は一般平和主義者の戦争反対運動とは根底が異なり、共産主義者は戦争反対運動をブルジョワ支配階級の絶滅を目的とする階級闘争に必要なものとテーゼに記され、ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論[21]に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった[22]
この大会においても植民地の世界における統一戦線の方針が修正されている。1927年、中国国民党は中国の共産主義者を攻撃し、そのため植民地の国々における地元ブルジョワジーとの同盟を形成するという方針の見直しにつながった。しかし、大会では中国国民党を一方とし、インドのスワラジ党(Swaraj Party)とエジプトのワフド党(Wafd Party)を信頼できない同盟ながら敵ではないと考慮して他方とした区別がなされた。大会はインドの共産主義者に地元のブルジョワジーと英国の帝国主義者間の矛盾を利用することを求めた[23]。
[編集] 第7回コミンテルン世界大会と人民戦線
7回目であり最後の大会は1935年7月25日から8月20日にかけてモスクワで開催され、そこには57か国、65の共産党から510名の代表が出席している。会議はファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定している。スポーツ・宗教などの活動にも潜入することが求められた[24]。
主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティ、ヴィルヘルム・ピーク、ドミトリー・マヌイリスキーによった[25]。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルムの1936年選挙とともに重要な結果となる。
統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている[26]。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。
[編集] 大粛清とコミンテルン
1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。ナチスドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[27]。フリッツ・プラッテン(Fritz Platten)は強制労働収容所で死んだ。インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア、Virendranath Chattopadhyaya or Chatto)、朝鮮、メキシコ、イラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル共産党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った[28]。
[編集] 日本共産党とコミンテルンテーゼ
1922年に日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン支部となる)。
- 22年テーゼ(草案)
[編集] 脚注
- ^ 『コミンテルン資料集 第6巻』村田陽一編訳、大月書店、1983年、548ページ
- ^ 山本統敏編『マルクス主義革命論史2 第二インターの革命論争』、紀伊國屋書店、1975年、504ページ
- ^ レーニン『社会主義と戦争』、『レーニン全集』第21巻、大月書店、1957年
- ^ 『レーニン全集』第42巻、大月書店、1967年、132頁
- ^ 中村丈夫編『マルクス主義革命論史2 第三インターとヨーロッパ革命』、紀伊國屋書店、1975年、94ページ
- ^ Lenin, V. (1906), Report on the Unity Congress of the R.S.D.L.P.
- ^ William Henry Chamberlin Soviet Russia: A Living Record and a History 1929, chapter 11; Max Shachtman "For the Fourth International!" New International, Vol.1 No.1, July 1934; Walter Kendall "Lenin and the Myth of World Revolution", Revolutionary History).
- ^ 例えば、13番目の項目には「共産主義者がその仕事を合法的に作業できる国の共産党は党内の小さなブルジョワ分子を対象とする党の浄化を組織的に行うためにその党組織の構成員の粛清(再登録)をその都度引き受けなくてはならない」ことを記している。「粛清」という言葉は1930年代の大粛清のため、まったく否定的な印象を持たれた。しかし、1920年代の初め、その言葉はもっと曖昧なものである。1920年のコミンテルン決議におけるその言葉の使用を含めて、その言葉の曖昧さの考察は J. Arch Getty Origins of the Great Purges: The Soviet Communist Party Reconsidered, 1933-1938 p.41 を参照。
- ^ M.V.S. Koteswara Rao. Communist Parties and United Front - Experience in Kerala and West Bengal. Hyderabad(ハイデラバード): Prajasakti Book House, 2003. p. 48, 84-85
- ^ The Black Book of Communism pp. 275-6; Minutes of the Seventh Session
- ^ [1] Marxist Internet Archive
- ^ The Black Book of Communism pp. 282; Marxist Internet Archive
- ^ The Black Book of Communism pp. 272-5
- ^ The Black Book of Communism pp. 276-7
- ^ The Black Book of Communism pp. 277-8
- ^ The Black Book of Communism pp. 278-9
- ^ [2]
- ^ The Black Book of Communism pp. 280-82
- ^ Duncan Hallas The Comintern, chapter 5
- ^ Duncan Hallas The Comintern, chapter 6; Nicholas N. Kozlov, Eric D. Weitz "Reflections on the Origins of the 'Third Period': Bukharin, the Comintern, and the Political Economy of Weimar Germany" Journal of Contemporary History, Vol. 24, No. 3 (Jul., 1989), pp. 387-410 JSTOR
- ^ 軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論(三田村武夫 1950, p.37)
- ^ 三田村武夫 1950, pp.41-43
- ^ M.V.S. Koteswara Rao. Communist Parties and United Front - Experience in Kerala and West Bengal. Hyderabad: Prajasakti Book House, 2003. p. 47-48
- ^ 『特高月報』内務省警保局保安課 1935年8月
- ^ Institute of Marxism-Leninism of the CPCz CC, Institute of Marxism-Leninism of the CPS CC. An Outline of the History of the CPCz. Prague: Orbis Press Agency, 1980. p. 160
- ^ 『世界の戦慄・赤化の陰謀 』東京日日新聞社〔ほか〕、1936年 75-76頁
- ^ The Black Book of Communism p. 298-301.
- ^ エドワード・ラジンスキー、『スターリン』、1997年
[編集] 関連項目
- レーニン、レフ・トロツキー、スターリン
- インターナショナル (歌)
- 世界革命論、一国社会主義論、社会ファシズム論、統一戦線、人民戦線
- 東方勤労者共産大学(クートヴェ)、Communist University of the National Minorities of the West、モスクワ中山大学、国際レーニン学校
- 第一インターナショナル、第二インターナショナル、第二半インターナショナル、第四インターナショナル、コミンフォルム
- 片山潜
- 日独防共協定、治安維持法、特別高等警察
- 軍事・準軍事関連 ハンガリー・ソビエト共和国 – レーニン・ボーイズ、3月行動 – ドイツ共産党、エストニア・クーデター未遂事件 – エストニア共産党、国民革命軍(中国国民党軍)、Amicii URSS(ルーマニア)、スペイン内戦 - 国際旅団
[編集] 参考文献
- 渓内謙「第一次五カ年計画とソ連」『岩波講座世界歴史 第27』(岩波書店、1971年)
- 三田村武夫『戦争と共産主義 : 昭和政治秘録』民主制度普及会 1950年
- ソ連科学アカデミー『コミンテルン小史』(刀江書院, 1969年)
- ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス=レーニン主義研究所編(1973a)、村田陽一訳、『コミンテルンの歴史』上巻(大月書店、1973年)
- ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス=レーニン主義研究所編(1973b)、村田陽一訳、『コミンテルンの歴史』下巻(大月書店、1973年)
- 『世界の戦慄・赤化の陰謀 』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1936年
- 『コミンテルン・ドキュメント』(全3巻)現代思潮新社
- 『資料集 初期日本共産党とコミンテルン』編訳/村田陽一 大月書店
- 「初期コミンテルンと東アジア」研究会 編著『初期コミンテルンと東アジア』不二出版、2007年、ISBN:978-4-8350-5755-2
- ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書<ソ連篇>』外川継男訳、恵雅堂出版 (2001)
- ステファヌ・クルトワ、ジャン=ルイ・マルゴラン、ジャン=ルイ・パネ、ピエール・リグロ『共産主義黒書<コミンテルン・アジア篇>』高橋武智訳、恵雅堂出版 (2006)
- ヴィルヘルム・ピーク『統一戦線への歴史的転換』(大月書店、1976年)
[編集] 推奨文献
- C・L・R・ジェームズ、World Revolution 1917-1936: The Rise and Fall of the Communist International Humanities Press, New Jersey, (Revolutionary Series), 1993, ISBN 1-57392-583-7
- Marcel Liebman, Leninism Under Lenin Humanities Press, New Jersey ISBN 0-85036-261-X
- Piero Melograni, Lenin and the Myth of World Revolution: Ideology and Reasons of State 1917-1920, Humanities Press, New Jersey, 1990
- The Comintern and its Critics (Special issue of Revolutionary History Volume 8, no 1, Summer 2001)
- ドミトリー・ヴォルコゴーノフ、Trotsky: the Eternal Revolutionary, Free Press, 1996 ISBN 978-0-684-82293-8
- 生田真司訳『トロツキー : その政治的肖像(上・下)』(朝日新聞社, 1994.7)ISBN 4-02-256792-9/ISBN 4-02-256793-7
[編集] 外部リンク
- Comintern Archives (英語)
- Comintern Archives (ロシア語)
- Article on the Third International from the Encyclopedia Britannica
- Workers' Internationals, at Marxist Internet Archive
- Report from Moscow, 3rd International congress, 1920 by Otto Rühle
- Comintern History Archive Marxists Internet Archive
- The Communist International Journal of the Comintern, Marxists Internet Archive
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