古森義久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

古森 義久(こもり よしひさ、1941年3月11日 - )は、日本のジャーナリスト産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。国際問題評論家国際教養大学客員教授ジョージタウン大学「ワシントン柔道クラブ」で指導経験がある柔道[1]

経歴[編集]

1941年(昭和16年) 東京府(現:東京都)に生まれる。1963年(昭和38年) 慶應義塾大学経済学部卒業後、ワシントン大学ジャーナリズム学科留学、毎日新聞社入社。毎日新聞記者として静岡支局、東京本社社会部、外信部を経る。

サイゴン特派員時代(毎日新聞時代)[編集]

ベトナム戦争最中の1972年、当時の南ベトナムサイゴンに特派員として赴任し、サイゴン陥落後の1975年9月まで駐在した(日本人新聞記者では最長のベトナム滞在記録)。1974年1月には南ベトナム領内の革命勢力支配区に日本人記者として初めて招請を受けて潜入し、詳細なルポルタージュを発表した。南ベトナム政権側の人とも交流を保ち、この戦争が民族独立闘争であると同時に共産主義革命であることや、闘争を挑む主役がベトナム民族解放戦線よりも北ベトナムであることをも早くから報じた[2][3]。1975年4月30日サイゴン陥落以降も現地に留まり、陥落直後から実質的に北ベトナムによる占領統治が進むサイゴンの様子を報道し続け、ボーン国際記者賞を受けた。古森のベトナム取材はその後も続き、ベトナム難民(ボートピープル)に対する日本政府の対応を批判したり[4]、アメリカに渡ったベトナム移民のその後を取材している[5]

日本外交批判(外注外交について)[編集]

長年、日本の外交について政策と実務の両面から批判的に報じ、新聞、雑誌、単行本、テレビなどで自身の意見を発表してきた。1976年に毎日新聞ワシントン特派員となり、1977年6月の毎日新聞で「調査は外注 在米日本大使館」「独力で情報収集できない?」という見出しの記事を書いたほか、その後も日本政府の各省や日本大使館が年間数百万ドルの資金を使って米側の組織に外交活動を下請けに出す実態を米国司法省への届け出などから報道し続けた。雑誌でも同じテーマで『諸君!』1980年3月号に「日米外交を食いものにする男たち」という長文のレポートを出し、日米間で活動するロビイストなどの実態を報じた。

ライシャワー発言(毎日新聞時代)[編集]

レーガン共和党政権成立時の1981年、アメリカ民主党系の大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。その間の同年5月、エドウィン・O・ライシャワー元駐日米大使にインタビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。日本政府はこの「合意」を否定したが、その後、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。それでも日本政府は否定し続けていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認め、今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

日系アメリカ人のノンフィクション報道(毎日新聞時代)[編集]

毎日新聞編集委員として毎日新聞夕刊一面に1983年10月から1984年5月まで通算147回、「遙かなニッポン」という題の連載ドキュメントを掲載した。アメリカの各界で活躍する日系米人の歴史と現在を広範囲に追って、ノンフィクション作品として発表した。古森自身が全米各地を回り、100人以上の日系人にインタビューしたという。ロサンゼルス、シアトルなどの日系米人向け日本語新聞計5紙がそのまま「遙かなニッポン」を転載した。連載は1984年9月に毎日新聞から同名の単行本として出版され、その年の大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補作品の一つとなった。その後に講談社文庫ともなる。

古森の「遙かなニッポン」に登場する日系マフィアのケン・エトーの数奇な物語は奥山和由プロデューサー、小栗謙一監督によって映画化され、2008年12月に「TOKYO JOE マフィアを売った男」[6]として全国映画館で封切りされた。この映画は東北新社とフジテレビジョンの共同制作、原案は古森とされた。

レフチェンコ証言[編集]

毎日新聞時代
1982年、アメリカ下院秘密公聴会でのスタニスラフ・レフチェンコ(「ノーボエ・ブレーミャ」東京支局長、元KGB少佐)の証言をスクープ。その公聴会においてレフチェンコが「周恩来の遺言」なる記事をサンケイ新聞編集局長・山根卓二に工作して紙面に掲載させることに成功したとの証言を行っていたため、山根は退社を余儀なくされた。
サンケイ新聞時代
産経新聞移籍後の1992年に、再びレフチェンコ証言をもとに旧ソ連から日本社会党への資金流入について追及する記事を書いたが、この追及報道は翌年5月に急遽終了した。同時期、文藝春秋1993年6月号におけるレフチェンコのインタビュー中で、「サンケイ新聞にも工作を行い、当時の編集局長を取り込むことに成功した」との発言が掲載され、過去に古森が毎日新聞時代にスクープした問題が蒸し返された形となった。産経新聞社は、このレフチェンコ発言に対する反論を1993年5月12日の朝刊に当時の編集局次長、住田良能名で掲載し「彼の発言を多少なりとも信じては気の毒なことになる」とまで書いて、その証言を全否定した。以後レフチェンコ証言に基づく記事は掲載されず報道は終了した。その後、1994年に久保紘之編集委員による特集「新謀略史観」でレフチェンコ証言を「伝聞に基づくものであった」と改めて全否定している。

80年代後半~90年代(毎日新聞・産経新聞時代が混在)[編集]

80年代後半から90年代にかけて、次期支援戦闘機FSX選定、貿易摩擦問題、東芝機械ココム違反事件ではFSX国産化を主張したアメリカ側の実情を説明し、日本とのギャップを伝える視点に立った論を展開。石原慎太郎、問題なのは日本の貿易黒字ではなく米国の貿易赤字であるとした大前研一東芝を擁護した唐津一各々の論を指して国威偏重、経済偏重、技術偏重の「日本のネオナショナリズム」であると批判している。直後、産経新聞に移籍、1995年1月から2月にかけて起きたマルコポーロ事件では、産経紙上、及び正論誌上において、『マルコポーロ』が掲載した、ホロコースト見直し論(ホロコースト否認論)の記事(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー・ナチ『ガス室』はなかった」)を強く批判し、文藝春秋社に対する広告ボイコットを呼びかけた、時のサイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)副所長エイブラハム・クーパーの見解を大きく伝えた(産経は、同事件の際、西岡の問題提起自体については大きく取り上げながら、SWC側の見解を古森のインタビューによって大きく伝えると言う形でバランスを取っていた)。

中国報道と日中関係報道(産経新聞時代)[編集]

1998年11月から産経新聞の初代駐中華人民共和国総局長として2年余、北京に駐在した。産経新聞は柴田穂が国外追放されてから31年間、北京への特派員常駐を認められなかったが、社長・清原武彦が直接中華人民共和国に赴いて交渉した結果、98年には北京を「中国総局」、中華民国台湾)の台北に「台北支局」を置くという形を取る[7]ことで、北京の記者常駐を認めることになった(同時に他の日本のマスコミも同様の組織編制で台北支局を設置)。その結果、初代の産経新聞駐中華人民共和国総局長に選ばれ、中国専門記者で香港支局の山本秀也とともに赴任した。この赴任に際し古森は、「自分としては北京でも従来どおりのスタンスで国際報道を続けるが、その結果、もし中国共産党政府から非難され、国外追放というような処置を受けても、産経新聞としては構わないか」と問い、羽佐間会長より「もちろんかまわない」との返答を受けての赴任であった[8]

北京では、中華人民共和国の軍事力増強(中国脅威論)、人権抑圧、偽造品・模造品など知的所有権侵害許容を積極的に報道したほか、日中関係でも、日本の巨額の対中政府開発援助(ODA)の実態や中華人民共和国の“反日”の教育や宣伝の実情、日本の国会議員の中国詣で「友好」の状況などを詳しく報じた。この新機軸の中国報道は「日中再考」という産経新聞の長期連載という結果ともなり、三宅久之の、「古森が日本の中国報道を変えた」[9]高山正之の「古森義久氏の中国報道なんて大したものでした。北京支局に在局しながら、あれだけの中国批判を書けたのは彼しかいない」[10]など高く評価する声がある。日本の対中ODAは国会でも批判が起き、2008年度には年来の大型有償インフラ用の対中経済は打ち切りとなったが、ODA終了後もアジア開発銀行を抜け穴としての対中援助が続いており、それがチベットなど少数民族への弾圧へと繋がっている実態を続けて警告している[11]。古森は『日中再考』で中国共産党政府の日本帝国主義への深い恨みと激しい怒りを生徒の胸に刻ませようとする教育、例えば「南京大虐殺の時間的経過と日本軍に殺された中国軍民の人数を生徒に覚えさせよ」という歴史教育を紹介し、多くの識者が古森の警告に言及した[12][13][14]。古森は著書『「中国「反日」の虚妄 』において、中華人民共和国の国民感情なるものが同国政府の「核兵器よりも恐ろしい」反日教育の結果であることを具体例を示しながら証明し「中華人民共和国、韓国の歴史認識がアジアでは異端である」とし、「アメリカとの同盟関係を堅持したうえでのアジア諸国との連帯の強化こそがアジア外交の最も効果的な推進方法である」と結論づけている。

古森が主張する「中国脅威論」について、西部邁小林よしのりは、『諸君!』(2005年2月号)に掲載された古森の著書「中国に『歴史』を突きつけよ」を引き合いに出して「日本にとっては中国の反日ナショナリズム退治にはアメリカの力を利用することも可能だということになる」が結論だとし、西部「なんどこんなバカなことを言うのかなあと、呆れるしかない」小林よしのり「アメリカ様が今、こんな風に言って下さっているんだぞと、それだけを一所懸命言っているんだよね」と批判している[15]

イラク戦争(以後産経新聞時代)[編集]

2003年のイラク戦争では、米国が苦戦すると予想した論者を「恥辱の殿堂」に置くべきだと主張した。しかし、バクダッド陥落後のイラクにおいて、テロやゲリラ戦が発生して米軍が苦戦すると、その言葉は一切使わなくなった。また、「ネオコン」は反ユダヤ人差別用語であるという、ユダヤ系組織の「反中傷連盟」による主張を報じている。

「圧政国家打倒」の観点から、同戦争支持の構えを一貫して崩しておらず、2007年1月10日ブッシュ政権が行った2万人規模の米軍増派(最終的規模は3万人に増大)に関しても、同様である。増派の効果は、デービッド・ペトレイアス・イラク駐留米軍司令官が下院で証言を行った同年9月の段階で顕著であり、ターニング・ポイントとなったのが同年前半の中部・バアクーバにおけるイラク聖戦アル・カーイダ機構に対する大攻勢だとしている。また、2008年アメリカ合衆国大統領選挙に関しては、前述のイラク戦争や兵力増強の積極推進論者である、ジョン・マケイン上院議員を積極的に支持していた[16]

ハリケーンカトリーナ報道[編集]

2005年8月末、アメリカ合衆国南部を襲ったハリケーン・カトリーナの被災地について、『こうした略奪を働く人間たちのほぼ100パーセントが黒人なのである。テレビの映像や新聞の写真でみる限り、略奪者はみなアフリカ系市民、つまり黒人だった。この事実は現地からの他の一部の報道でも裏づけられていた』、『それにしても略奪者は100パーセント黒人なのである』と断定した[17]。ただし、白人による略奪の様子もテレビにて報道されており、古森の記述は人種差別的かつ事実と異なるものであった。また現地報道でも、黒人に対しては"looting"(略奪)、白人に対しては"finding"(発見)と用語を使い分け、ことさらに黒人を悪く報じたものがあった[18]

なおレベッカ・ソルニット『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』によると、略奪と報じられたのは水害で孤立した地域住民が日用品を無人となったスーパーマーケットなどで調達していたもので、犯罪とは呼べても暴力的な略奪ではなかった。しかしこうした報道から、「黒人による強盗や強姦が行われている」といったデマが広がり、白人富裕層の自警団、さらには警察が非白人を数十人虐殺したという。

JIIAコメンタリーに端を発する論争[編集]

2006年8月、外務省管轄下にある財団法人日本国際問題研究所のホームページにJIIAコメンタリーとして掲載された玉本偉論文[19]について、古森が問題と考える点(日本政府から資金を得て運営されているJIIAが時の日本政府の政策方針を批判したこと等)を産経新聞紙面にて公開質問状[20]の形で指摘した。結果、研究所は、理事長名で当該論文の問題点、編集体制の杜撰さを認め、「厳しく反省」し「編集体制を一新する」と表明し[21]、JIIAコメンタリーの刊行を中止し、バックナンバー[22]の公開も中止した。

一方で、ワシントン・ポストに、この古森の行為が「ジャーナリストとしてあるまじきもの」とする執筆者論文が掲載された[23]

産経新聞は、2006年9月18日付産経抄において、かつての「教科書誤報事件」を思い起こさせるものであると評し、古森がワシントンポストに送った反論をポスト紙が未だ掲載しないことに「言論の自由」との関連で疑問を呈した。古森の反論は、産経新聞による再度の催促ののち、2006年11月11日付のワシントン・ポストに掲載された[24][25]

新聞紙面の議論と並行して、ネット上ではNBR JAPAN FORUM古森のブログおよびクレモンスのブログであるThe Washington Noteにて論争[26][27]が継続されていたが、ワシントンポストが古森反論を掲載したのと前後して収束している。

Wikipediaでの誹謗中傷に端を発するWikipedia批判[編集]

2006年8月30日にウィキペディア日本語版にて古森を「自称ジャーナリスト」などと誹謗中傷する記述がなされ、執拗に中傷記事の掲載が続いた。

2006年9月5日、自身のブログにて、Wikipediaに「自称ジャーナリスト」や「自民党右翼の御用言論人」と記述されていた事を指摘、反論した上で「このウィキペディアなる奇怪な落書きの場は左翼分子がまとも派を攻撃するフォーラム」と評した[28]。その後、Wikipedia側の記述改訂の経緯を指摘され、古森のブログにてウィキペディアについての説明を受け入れ認識を改めたことを表明した。だが自身への批判的記述に関しては、発端となった中傷および、批判的記述のなかにも中傷と見られる記述が散見された為に、「おかしな人がおかしな記事に書き換えている」とも述べている。

ラムズフェルド国防長官辞任に関する主張[編集]

ドナルド・ラムズフェルドの国防長官辞任を更迭と報道するマスコミに対して「これはあくまで辞任であって更迭という報道は間違いである。以前にも辞任を申し出て慰留されている」と報道2001、自身のブログ(2006年11月12日付エントリ)で主張した。一方産経新聞本紙上では、主張(社説)、産経抄(一面コラム)、そして報道記事においてラムズフェルドは更迭されたとする見解を載せている。

中国による人工衛星破壊実験に対する主張[編集]

2007年1月12日に、中国が実施した人工衛星の破壊実験に際し、古森は日経BPのコラムにて「しかも実際に宇宙の軌道を飛んでいる人工衛星をいくら老朽化した気象衛星とはいえ、ミサイルを発射して、撃破するという破壊行動は人類の宇宙開発の歴史でも初めてである」と記した[29]が、衛星攻撃兵器は1968年のソ連によるキラー衛星実験を皮切りに実戦使用もなされており、アメリカも1985年9月に老朽化した衛星(太陽観測衛星P78-1)を標的に、空中発射衛星破壊ミサイルASM-135の破壊試射を行う実験を行っていた。

慰安婦問題に関する主張[編集]

2000年に中国、韓国人十数名が日本政府を相手取り、彼らが主張する「慰安婦強制連行」への謝罪及び賠償を求め連邦裁判所に提訴を行っているが、「6年もの審理の末、米連邦最高裁は2006年2月に原告の訴えを全面的に棄却。同問題は法的に決着がついている話なのである。判決が確定した問題に立法府が蒸し返すことは司法権の干犯とも受け取れる。同時に、最高裁の判決確定は、日本政府や外交当局にある種の油断を生じさせる」と主張している。

2007年3月15日、慰安婦問題でアメリカ下院に日本政府問責決議案を代表して提出しているマイク・ホンダ下院議員について「中国系からの政治献金への依存度が異様に高い」、「ホンダ議員自身の日本の「戦争責任」追及には長年、これら中国系団体との密接な連携があった」と産経紙上で報じた[30]。さらに3月31日には「とくに日本側では対米同盟の堅固な支持層というのは、自国の国益や国家意識、さらには民主主義、人道主義という普遍的な価値観を強く信奉してきた国民層だ」とし、「この問題で日本を叩けば叩くほど、まさにこの層が最も屈辱や怒りを感じ、同盟相手の米国への不信を強くするのだ」と主張した[31]。5月5日、産経新聞の国際面でAP電を誤訳し「米軍も慰安婦調達を命令」と報じた[32](AP電の原文では「命令」ではなく日本内務省の申し出を受けての「許可」)。5月22日に産経新聞の紙面とweb版に訂正記事が掲載されたが、記事を書いた古森自身からは訂正に関してのコメントは一切出されていない。産経新聞(東京版)6月28日では、同決議を主導したトム・ラントスに対し、決議採択を働きかけた中国系組織・世界抗日戦争史実維護連合会が業を煮やし2008年の次期下院選において「刺客」擁立の動きを見せたとの記事を書いた。結局、アメリカ合衆国下院121号決議は可決された。

原爆の日と核廃絶についての主張[編集]

日本の反核運動の一部は、きわめて政治的に展開されてきたとし、冷戦時代にはソ連や中国の共産主義勢力との連帯を求める者が西側陣営の核だけを非難するという偏った運動がなされてきたと主張する[33]

秋葉忠利広島市長が2002年10月13日から10月20日までアメリカへ出張し、10月16日、アメリカン大学で「拡大する核の脅威」と題するスピーチを行った際、北朝鮮が前日にウラン濃縮による核兵器開発を認めたことに、触れなかったことについて、古森は『産経新聞』(2002年12月29日)において、「米国や日本の反核を主張しながら、北朝鮮の核兵器には無反応だった」として秋葉を批判した[34]が、秋葉は日本に帰国後の2002年10月22日には北朝鮮に対して抗議文を送っている[33]

2003年、2004年、2005年の平和宣言においては、核兵器開発疑惑を強くもたれていた北朝鮮の核にも言及するようになり、長崎市も2006年から核保有国全てに言及するようになった。

しかし、北朝鮮が核実験を行った2006年以降、2007年、2008年と秋葉市長は平和宣言で北朝鮮に言及せず、核保有国への批判は米国ブッシュ政権へ集中するようになった。古森や『産経新聞』は2009年8月5日の社説「主張」などで秋葉の態度を批判し、また『読売新聞』も社説にて同様の批判をおこなった。結果的に2009年8月6日の平和宣言で秋葉は再び北朝鮮に言及するようになった[35]

ただし、広島市が北朝鮮の核実験に対して沈黙しているわけではなく、全ての国の核実験に対してはその都度抗議は行っている[36]

古森は米側に対しても日本に対する二度の原爆投下への厳しい批判を表明している。1994年12月にCNNの討論番組・クロスファイアに出演した古森は司会のジョン・スヌヌ元大統領首席補佐官や政治評論家のマイク・キンズレー、チャールズ・スウィーニー退役少将、歴史学者のガー・アルペロビッツと激しい論争を繰り広げた。

古森は米側の原爆投下正当論に対し「原爆投下の時点では米側はもう日本の降伏を確実視していた。ソ連の参戦もあり、とくに2発目の長崎への投下は戦争の早期終結が目的ならば不必要だった。もし日本側に原爆の威力を示すことが目的ならば、無人島にでも過疎地にでも投下すれば、十分だっただろう。合計20万以上の民間人の犠牲は戦争継続の場合の戦死者の予測数では正当化はできない」と批判した。これに対しスヌヌやキンズレーは日本軍の真珠湾奇襲攻撃や中国などアジア各地での殺戮行為に言及し、「もし日本軍が原爆を保有していれば、間違いなく使っただろう」「だから原爆投下はやむを得ず、正当でさえあった」と反論した。古森は持論を変えなかったものの、スヌヌらの主張も「『米側に立てば、それはそうだろうと』内心思った」と『産経新聞』(2007年7月28日)に書いた。

朝日新聞に対する批判[編集]

自身のブログの2006年10月31日付エントリーで「日本という国の進路の基本的選択の際は、朝日新聞が主張することと正反対の道を選べば、だいたい日本にとっての物事はうまくいくようだ」と記述した[37]

日本の医療について[編集]

日本の医療が抱える諸問題をも自分の体験を基礎に執拗に提起した。総合雑誌『中央公論』1994年2月号から95年2月号まで「大学病院で母はなぜ死んだか」という連載記事を13回、寄稿し、自身の母親が膵臓ガンと診断され、東京都内の大学病院で手術を受け、抗ガン剤投与の結果、副作用が激しく、急に死亡した経過を病院や医師などをすべて実名で記して、ルポルタージュとして報告した。この連載記事で患者へのインフォームド・コンセント(告知)や患者側家族との協議や説明など関する日本の医療の欠陥を指摘した。同時に患者側が手術の前に医師に支払う「謝礼金」の慣行の不明朗、不透明についても詳述した。古森はとくに「謝礼金」問題を産経新聞やフジテレビでも再三提起して、その非を訴えるとともに、アメリカやフランス、中国など諸外国の医療にも不明朗な「謝礼金」授受の習慣があるか否かを報道した。なお前記の雑誌連載は1995年、第一回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム作品賞」を受賞した。雑誌連載は後に編集者単行本「大学病院で母はなぜ死んだか」(中央公論社、中公文庫)としても刊行された。

日本記者クラブ賞を受賞[編集]

東西冷戦終結の前後の数年間、ロンドンとワシントンに駐在して、東欧諸国の共産主義政権の崩壊から新生の民主主義志向政権への移行の複雑なプロセスを現地を回って多角的に報道した。取材の成果は産経新聞で連載「東欧解放の行方」と題して1990年2月から3月まで掲載された。また、ワシントンからソ連共産党体制の崩壊とそれに伴う東西冷戦の終わりが日米同盟にどのような影響を与えるかを立体的に報道・論評した。こうした一連の報道に対しては1993年度の日本記者クラブ賞が授与された。

日本記者クラブの鮫島敬治理事長は1993年5月の授賞式で古森記者の受賞理由として「ソ連邦の崩壊、それに伴う東西冷戦終結というこの数年の世界の大変動を幅広く取材、20世紀末の末のうねりを多角的・実証的に報道、分析と論評を続けてきたこと。さらに幅広い人脈を生かした各界各層の肉声が伝わってくるようなインタビュー記事が鋭い問題意識とニュース感覚に裏打ちされている」ことをあげた。古森は「名誉なこと。評論、エッセー、特別企画などでの受賞者は多いが、私のようなストレートニュース報道の一線の記者に与えられたことは、現代ジャーナリズムが国際報道の重要性を認知したことと受け止め、二重にうれしく思う」と述べた[要出典]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『ベトナム報道1300日―ある社会の終焉』(筑摩書房 1978年/ のち講談社文庫、1985年)
  • 『いらだつアメリカ―日米不信の構造』(講談社、1981年)
  • 『日本はなぜ非難されるのか』(集英社、1982年)
  • 『核は持ち込まれたか』(文藝春秋 1982年)
  • 『アメリカの警告―レーガンの極東戦略と対日要求 現地報告』ビジネス社 1983年)
  • 『ジャパンを叩け!―ワシントン・レポート』(PHP研究所 1983年)
  • 『国際潮流のつかみ方』(日本文芸社、1983年)
  • 『遥かなニッポン』(毎日新聞社 1984年 のち講談社文庫
  • 『アメリカの嘘と真実』(光文社[カッパビジネス]、1984年)
  • 『情報戦略なき国家―KGBが日本を狙う』(PHP研究所 1984年)
  • 『ヨーロッパの戦略思考―米ソの"はざま″で何を選択するか』(PHP研究所 1985年)
  • 『国際報道の読み方』(文藝春秋、1985年)
  • 『嵐に書く―日米の半世紀を生きたジャーナリストの記録』(毎日新聞社 1987 のち講談社文庫
  • 『倫敦クーリエ』(文藝春秋 1989年)
  • 『世界は変わる―国際報道の現場から』(文藝春秋 1991年)
  • 『U.S.A.報告―日本を視るアメリカの眼』講談社 1992年)
  • 『ワシントン情報ファイル』新潮社 1993年)
  • 『日本「異質」の核心―古森義久のU.S.A.報告』(講談社 1993年)
  • 『日米「異変」―アメリカ報告'90-'94』(文藝春秋 1994年)
  • 『日本を視るアメリカの眼』(ジャパンタイムズ 1995年)
  • 『大学病院で母はなぜ死んだか』(中央公論社 1995年 のち文庫 1998年)
  • 『ベトナムの記憶―戦争と革命とそして人間』(PHP研究所 1995年)
  • 『アメリカの「影」の勢力』(PHP研究所 1996年 のち講談社文庫
  • 『透視される日本―アメリカ新世代の日本研究』(文藝春秋 1999年)
  • 『北京報道700日―ふしぎの国の新聞特派員』(PHP研究所 2000年 のち扶桑社文庫
  • 『「日中友好」のまぼろし』(小学館 2001年 のち徳間文庫 2006年)
  • 『日中再考』(扶桑社 2001年 のち文庫
  • 『「ODA」再考』PHP新書 2002年)
  • 『亡国の日本大使館』(小学館 2002年)
  • 『国の壊れる音を聴け―国際報道と日本のゆがみ』(恒文社 2003年 のち扶桑社文庫
  • 『国連幻想』(扶桑社 2004年)
  • 『外交崩壊』(小学館 2004年 のち文春文庫
  • 『中国「反日」の虚妄』(PHP研究所 2005年 のち文春文庫
  • 『凛とした日本―ワシントンから外交を読む』PHP新書 2006年)
  • 『日本に挑む中国―「いまそこにある危機」とは何か』(PHP研究所 2007年)
  • 『主張せよ、日本』(PHP研究所、2008年)
  • 『オバマ大統領と日本沈没』(ビジネス社、2009年)
  • 『アメリカでさえ恐れる中国の脅威!』(ワック、2009年)
  • 『アメリカが日本を捨てるとき』(PHP研究所 2010年)
  • 『「中国の正体」を暴く-アメリカが威信をかける「赤い脅威研究」の現場から 』(小学館、2012年)

共著[編集]

  • 近藤紘一)『国際報道の現場から』(中央公論社[中公新書], 1984年)
  • (産経新聞「20世紀特派員」取材班)『20世紀特派員』(産経新聞ニュースサービス, 1997年)
  • 中嶋嶺雄)『中国は脅威か―幻想の日中友好』(PHP研究所, 2000年)
  • 深田祐介)『アジア再考―外務省には任せられない!』(扶桑社, 2001年)
  • 小池百合子)『対論:テロは日本を変えたか』(広済堂出版, 2001年)
  • (中嶋嶺雄)『覇権か、崩壊か―2008年中国の真実』(ビジネス社, 2002年)
  • 井沢元彦稲垣武)『朝日新聞の大研究―国際報道から安全保障・歴史認識まで』(扶桑社, 2002年/扶桑社文庫, 2003年)
  • 岡崎久彦)『アメリカン・ショック―日本に残された時間は、あと2年!』(ビジネス社, 2002年)
  • 黒田勝弘)『日・中・韓―新三国志』(徳間書店, 2003年)
  • 田久保忠衛)『反米論を撃つ』(恒文社, 2003年)
  • 吉崎達彦)『ナイーブな「帝国」アメリカの虚実』(ビジネス社, 2003年)
  • (中嶋嶺雄)『中国暴発―なぜ日本のマスコミは真実を伝えないのか』(ビジネス社, 2005年)
  • (田久保忠衛)『文化人の通信簿―媚中度から歴史認識まで徹底採点!』(扶桑社, 2005年)
  • (青木直人)『終わらない対中援助』(PHP研究所、2009年)

論文[編集]

  • 「イーストウッド映画『南京事件』の幻」(『文藝春秋』2006年6月号)
  • 「オバマ政権の中国接近は『日本自立』への好機だ」(『諸君!』2009年6月号)
  • 「私が抗議デモに共感した理由」(『正論』2009年8月号)

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ステージ風発 日本の対外発信と柔道
  2. ^ 『ベトナム報道1300日―ある社会の終焉』 講談社#1985年4月発売 ISBN 4061834991 [要ページ番号]
  3. ^ 『ベトナムの記憶―戦争と革命とそして人間』PHP研究所 1995年7月 ISBN 4569547842 [要ページ番号]
  4. ^ 『国際報道の現場から』中公新書 1984年1月 ISBN 4121007301 [要ページ番号]
  5. ^ サイゴン陥落34年 ベトナム逃れた“300万人の敗者”祖国への思い [リンク切れ]
  6. ^ 公式ホームページ
  7. ^ 逆に中華民国を承認する場合は中華人民共和国を否定させる「一つの中国」論に基づく。中国は中華民国を、中国の一地方「台湾省」扱いにしている
  8. ^ 『中国「反日」の虚妄』PHP研究所2005年6月 ISBN 4569644082 [要ページ番号]
  9. ^ 『日本の問題点』[要ページ番号]
  10. ^ 『アメリカはどれほど酷い国か』 PHP研究所 2009年5月 ISBN 4569707386 [要ページ番号]
  11. ^ 『終わらない対中援助』PHP研究所 2009年1月 ISBN 4569702678 [要ページ番号]
  12. ^ 秦郁彦『歪められる日本現代史』PHP研究所 2006年01月 ISBN 4569646166 59ページ
  13. ^ 平沢勝栄『「国会」の舞台裏―テレビだけでは言いつくせない!』 PHP研究所 2006年04月 ISBN 4569648886 143ページ
  14. ^ 黄文雄『中国・韓国 反日歴史教育の暴走』海竜社 2005年08月 ISBN 4759308830 7ページ
  15. ^ 『本日の雑談(5)』飛鳥新社 2005年3月 ISBN 4870316595 192ページ
  16. ^ 米国大統領選でイラク情勢好転が民主党を守勢に――共和党マケイン候補の攻勢ステージ風発,2008年2月23日
  17. ^ 古森義久「ハリケーン被災であらわになった米国の人種問題 ~なぜ、特定の人種だけが略奪するのか~」Page 2(日経BP社「SAFETY JAPAN」コラム「“外交弱小国”日本の安全保障を考える~ワシントンからの報告~」第6回)
  18. ^ Who are the real looters? Published Sep 5, 2005 11:18 PM - "Workers World" LeiLani Dowell
  19. ^ Masaru Tamamoto「How Japan Imagines China and Sees Itself」(PDF形式)
  20. ^ 記事該当部分
  21. ^ 日本国際問題研究所の回答
  22. ^ JIIA Commentary Archive(JIIAが公開中止した論文をDaniel SturgeonがGoogle Cacheを用いて蒐集したもの)
  23. ^ スティーブン クレモンスThe Rise of Japan's Thought Police
  24. ^ I Don't Back Extremists
  25. ^ 投稿文への本紙・古森記者反論 ワシントン・ポストが掲載
  26. ^ "From Mere Guile to Demagoguery"
  27. ^ ワシントン・ポスト投稿文に反論する
  28. ^ 古森義久『個人誹謗の「フリー百科事典」』(ブログ「ステージ風発」)
  29. ^ 古森義久「中国の衛星破壊で米国は大ショック」Page 2(日経BP社「SAFETY JAPAN」コラム 第41回)
  30. ^ 「慰安婦」追及のホンダ議員 中国系の献金突出産経新聞2007年3月15日付国際面
  31. ^ 【緯度経度】対米不信招く慰安婦問題産経新聞2007年3月31日付国際面
  32. ^ ホンダ議員「旧日本軍は強制」言明 現在は誤訳部分を修正済み
  33. ^ a b 北朝鮮の核兵器開発に対する抗議文(2002.10.22)
  34. ^ 【緯度経度】「北」には触れぬ“反核運動”2002年12月29日 産経新聞 東京朝刊 国際面
  35. ^ 広島市 核実験への抗議文
  36. ^ 核保有国等への要請文・抗議文
  37. ^ 朝日新聞が核武装議論を堂々と展開!被爆も「頭の体操」か「ステージ風発」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]