ホロコースト否認

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ホロコースト否認論ホロコースト修正主義ホロコースト見直し論)とは、主流的な修史において描写されているようなホロコーストは起こっていなかったのだとする主張のことである。ホロコースト否認論者は、事実関係の不明確さや疑わしさからホロコーストの実在を疑問視している。

「ホロコースト否認論」(ホロコースト否定論)という用語は、一般的には「ホロコースト否認論」に対して批判的な立場から用いられるものである。ホロコースト否認論者自身は、ホロコースト否認論という用語はその見解を描写するのに相応しいものではないとし、代わりに「ホロコースト修正主義」(ホロコースト・リヴィジョニズム)という用語を好む傾向がある。これに対して、ホロコースト否認論者の最終目標は、証拠や確立した方法論を用いた歴史研究にあるのではなく、歴史的証拠に関係なくホロコーストが存在しなかったという証明を試みるところにあるとし、歴史修正主義とは区別すべきであるとの意見もある[1]

ホロコースト否認論においてはしばしば、ホロコーストに関する現在の主流的な理解というのはユダヤ人の計画的な陰謀の結果であって、この陰謀はユダヤ人が他の人々を犠牲にして自らの利権を促進させるために創造されたものなのだと主張される。このため、ホロコースト否認は反ユダヤ主義陰謀論とみなされることがある。しかし、ホロコーストに関する「通説」に何らかの疑義を表明する者の思想背景や主張内容は多様であり、全てがナチズム支持者や極右思想主義者であるわけではない。

ホロコーストを否定することは多くのヨーロッパ諸国で違法とされ、反ユダヤ主義と反民主主義の結びついた思想によって動機づけられたものであるとされている。

目次

[編集] 「否認論」なのか「修正主義」なのか

「否認論」または「否認主義」という用語[2]はそういった用語が適用される人々からは反対を受けており、彼らは「修正主義」という言葉を好む。これに対して、大半の学者は「修正主義」という用語は故意にミスリードするものだと主張している[3]

これは、「否認論」は自分が予想した仮説を支持する証拠のみを採用し、史実をなおざりにするという印象を与える用語であるのに対して、修正主義は、新しく発見されたより正確でより客観的な情報によって歴史の事実を新しく書き換えていくことを目的とし、それまで受け入れられていた歴史を再び調査・検討しようとする態度を示しうるためである(「歴史修正主義」という語には一般に受け入れられている定義はない)。それまで伝統的に教えられてきた歴史の全てが完全に正確なわけではなく、歴史は適切に修正され続けるべきとする態度という意味では、歴史修正主義は歴史研究のなかで充分に受け入れられている主流的態度である。ホロコースト研究においても新しい事実が現れれば、歴史理解を変える必要が生まれるのは同じである。

ホロコースト「否認論者」たちは、自分たちも適切な修正主義的原則をホロコースト史に適用しているとし、そのためこの視点において「ホロコースト修正主義」という用語が適切であると主張する。しかし、彼らを批判する人々はこれに同意せず、「ホロコースト否認論」という用語を好んで使う。歴史家ゴードン・マクフィー (Gordon McFee) はその小論文「なぜ修正主義はちがうのか?」の中で次のように述べている。

「修正主義」はホロコーストが存在しなかったという結論から出発して事実に立ち戻り、そこで予め決めておいた結論にそういった事実を適用するということをしている。別の言い方をすると、彼らは適切な方法論を逆転させているのである……、そのようにして、調査と分析の適切な歴史的方法を逆にしてしまっているのである。[4]

「ホロコースト否認論」という用語は記事冒頭に掲げたような「主流的な修史において描写されているようなホロコーストは起こっていなかったとする主張」に用いるのに対して、「ホロコースト修正主義」という用語は曖昧で、ホロコースト否認論から、すでに明らかになっているホロコーストの諸側面を考察するのに用いられる通常の史学的技術までの幅広い意味合いが含まれ得る。しかし「ホロコースト修正主義」という用語がホロコースト否認論者たちに関連づけられるとともに「政治的目的が優先した誤った推論による小細工」という意味で、「歴史修正主義」という用語が用いられるようになっており、主流派の歴史家たちは一般的に「歴史修正主義」という用語を自分たちに適用することを避けている。

一部では、「ホロコースト否認論」と「ホロコースト修正主義」という2つの用語の区別をつけるための徹底的考察が行われているが、その区別が一般的に受け入れられるには至っていない。2006年2月に独学の歴史家[5]デイヴィッド・アーヴィングがホロコースト否定を理由にオーストリアで有罪判決を受けたとき、イギリスのニュースメディアはアーヴィングに対して「修正主義者」という用語を頻繁に使用した[6]

[編集] ホロコースト否認論者の見解

ホロコースト否認論の論者はドイツが第二次大戦前から大戦中にユダヤ人を差別、迫害したこと自体を全否定しているわけではなく、この点については、論者によって幅がある。また、政治的党派も一定ではない。

ホロコースト否認論の主要論点は以下の3点である。

  • ナチドイツにユダヤ人絶滅の公式政策や意図は確認できない。
  • ナチスはユダヤ人を大量殺害するのにガス室を使用していない。
  • 500万から600万というユダヤ人死亡者の数字は無責任な誇張であり、実数ははるかに少ない。

具体的な主張には以下のようなものがある。ただし全部のホロコースト否認論者がこれら全ての主張をしているわけではない[7]

[編集] 「ユダヤ人絶滅政策」の不在

戦後、連合軍がドイツで押収した膨大なドイツ政府文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は、今日に至るまで発見されていない。この文書群の中にはアウシュヴィッツなどに収容したユダヤ人を戦後、ロシアに移住させる計画があったことが明瞭に読み取れる。これは、アウシュヴィッツ等の収容所が建設された目的が、「ユダヤ人絶滅」ではなく、戦後、ソ連を打倒した後に、ユダヤ人をロシアに強制移住させる為の準備であったことを意味しており、「最終的解決」と言う用語も、戦後の強制移住計画を指していたことが明瞭に読みとれる。強制移住計画を人道的にどう判断するかとは別に、「最終的解決」が意味する計画は、「絶滅」ではなかったことは、戦後の通説と一致しない。

また、当時のドイツ政府が、「ユダヤ人絶滅」などと言う計画のための予算を全く計上していなかったことが判明している。ドイツは確かにユダヤ人を差別、迫害したが、その状況の下においても、ユダヤ人を虐待したドイツ人を非常にしばしば処罰しており、これは、「ドイツはユダヤ人を絶滅しようとした」とする戦後の通説に反する事実である。

[編集] ガス室否定

アウシュヴィッツとマイダネクでは青酸ガスを用いたガス室が使用されたとされている。青酸ガスを用いたガス室は、アメリカ合衆国で、実際に死刑の一手段として使用されてきた歴史がある。ところが、その米国の経験では、青酸ガスを用いたガス室は、あらゆる処刑法の中で最も高価な処刑法であり、大量殺人には最も向かない処刑法である。このような方法を「民族絶滅」の手段として選んだとする主張は不合理すぎる。

更に、青酸ガスの発生法として、米国ではポット法と呼ばれる希塩酸もしくは希硫酸とシアン化カリウムを反応させる方法が採られているが、アウシュヴィッツやマイダネクでは、パルプなどに青酸ガスを吸着させたツィクロンBを投入する方法が採られたとされている。しかし、ツィクロンBからの青酸ガス遊離は時間がかかり、処刑時間が余りにも長時間に及ぶ筈である。また、ガス室の換気にも長時間が必要となり、余りにも非効率な処刑法となる。このような方法を大量殺人の手段に選んだとする主張は不合理すぎる。

トレブリンカ、ソビブール、ベウジェーツ、ヘウムノの4収容所では、「ディーゼル・エンジンによって一酸化炭素を発生するガス室」が存在したとされている。しかし、ディーゼル・エンジンは一酸化炭素をほとんど排出しないことが特徴であり、この話は科学的に不合理である。(ディーゼル・エンジンも、不完全燃焼させれば一酸化炭素を或る程度排出するが、ガソリン・エンジンを使えば、はるかに多くの一酸化炭素が得られるのに、わざわざディーゼル・エンジンを選択する理由は何も無い。)

アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)で「処刑用ガス室」として公開されてきた複数の部屋の壁などを化学分析した結果、対照(コントロール)として採取された殺虫用ガス室にからは戦後40年以上を経た1988年においても高濃度のシアン化合物が検出されたのに対し、肝心の「処刑用ガス室」からはほとんど全くシアン化合物が検出されなかった(『ロイヒター・レポート』)。この分析結果は、その後ロイヒター・レポートに批判的な立場から同様の化学分析を追試したポーランドの法医学グループの報告によっても、裏付けられている(ポーランドのグループは分析においてロイヒター・レポートを批判している)。

ソ連軍がアウシュヴィッツで押収した膨大なドイツ側文書の中に処刑用ガス室の設計図は結局発見されていない(焼却炉の図面は多数発見されている)。そして、興味深いことに、戦後、ポーランド当局がアウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)で処刑用ガス室として公開してきた複数の部屋は、設計図上は、病死者などの死体を安置する死体安置室(Leichenkeller)として設計されていたことが、図面から一目瞭然に読みとれる。このことは、これらの設計図を検証したフランスのガス室肯定側研究者プレサック自身が、はっきり認めている。プレサックは、設計段階と建設後に使用目的が変更されたと言う解釈を述べているが、この仮説には証拠が無い。ドイツが病死者の霊安室として作った地下室などを、戦後、ポーランドの共産主義政権が「ガス室」として公開してきた可能性の方が高い。

ガス室で殺された死体を病理学者もしくは法医学者が、解剖と化学分析によって証明した医学論文、報告は、存在しない。一酸化炭素による死体を発見したと主張したソ連の文書があるが、ソ連のこの文書には、肝心の医学的記載が無い。また、カチンの森事件で、ソ連が虚偽の法医学報告をしていたことを考えると、肝心の医学的記述が無いこの文書には信用性が無い。また、アウシュヴィッツについては、そうした死体の解剖記録をソ連は提出していない。

戦後、語られてきたガス室の目撃証言には相互の矛盾や内容の変遷が多い。収容所に収容されたユダヤ人やレジスタンスの中には、ガス室の存在に否定的な証言をした生存者が実は多数いた。また、自身の証言を後に撤回した証人もいる。

ガス室およびツィクロンBはシラミ駆除のために使用されたと主張する者もある。

[編集] 死体処理用火葬炉の不在

言われているような大量殺人が実行された場合、それらの死体を焼却するには長時間の火葬が必要となる。それだけの焼却炉はアウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)にもマイダネクにも無く、このような炉で充分な火力を維持するために必要なエネルギー量は、エネルギーに不足していたドイツが戦争中に割り当てることのできる量をはるかに上回っている。

存在した火葬炉はこの目的に使用するには規模が小さ過ぎる。そこに火葬炉があった理由は自然死や、囚人がひどく密集していた労働収容所で予想された伝染病の蔓延による死に対応して火葬する目的で設置されたものである。

1944年に米軍の偵察機が撮影したアウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)の航空写真を見ると、死体焼却の煙も、石炭の山も見られない。

[編集] 死亡数の誇張

1939年前後の全世界のユダヤ人総数は1600~1700万人、1948年前後では1500~1800万人であるという統計から、ユダヤ人犠牲者が600万人というのは誇張が入っている。すなわち、ホロコースト前の1940年版の『ワールド・アルマナック』 (The World Almanac) では、ユダヤ人人口は15,319,359人と示されているのに対し、戦後の1948年版『ワールド・アルマナック』では15,713,638人と示されている。つまり3年間で1,4~1,8倍の人口増加が発生している。日本における戦後の第一次ベビーブームの時代を経た昭和20年~昭和30年の10年間の人口増加でさえ7200万人から9000万人であり1,25倍である。この数字を見ても3年間で1,4~1,8倍という数字は異常である。従って、たとえ出生率が非常に高かったとしても、600万人ものユダヤ人が死んだことはありえない。仮に600万人が犠牲となったならば第二次世界大戦終結前後のユダヤ人総数は1100万人前後となる。

また、その当時のドイツ占領地域にいたユダヤ人の総数が明確になっていない。600万人の犠牲者が出るには最低それだけのユダヤ人が占領地域に存在していなければならないが、1933~1945年までの間に出国奨励策等により最低300万人のユダヤ人がドイツ占領地域外へ移動している。すると600万人の犠牲者が出るためには1933年以前に最低900万人前後のユダヤ人がドイツ占領地域内に存在する必要がある。具体的な資料が無いためどうとも言えないが、ドイツ占領時に占領地域内にいたユダヤ人の数は300万人以下とする情報もある。果たして、600万人もの犠牲者を生み出すことが本当に可能だったのだろうか。

500万から600万というユダヤ人死亡者の数字には、実際にはロシアイギリスパレスチナアメリカ合衆国へと移住したユダヤ人が含まれている。

[編集] 連合国のプロパガンダと証拠捏造

戦後、「ホロコースト」の内容は、二転三転している。例えば、戦後間もない時期にはダッハウ、ブーヒェンヴァルト、ベルゲン・ベルゼンなどの収容所にも処刑用ガス室が存在し、それらのガス室でユダヤ人などが処刑されたと言われていた。ところが、今日、これらの収容所では、ガス室による処刑は行われていなかったと、「説明」が変わっている。それでは、戦後間も無い時期に語られていたこれらの収容所での「ガス室処刑」に関する「目撃証言」は一体何だったのか?

ホロコーストの歴史学的証拠は偽造されたものか、あるいは故意に誤って解釈されたものである。第二次世界大戦の後に公開された多数の写真や映画フィルムは連合軍による反ナチスプロパガンダとして特別に捏造されたものである。例えば、戦後になってドイツ人に見せられたホロコースト犠牲者を撮影したとされるフィルムは実際のところ連合軍によるドレスデン爆撃の後に処理されているドイツの民間人であった。我々が普通見ることのできる写真は飢餓チフスの犠牲者を写しており、ガス殺の犠牲者ではない。

アウシュヴィッツの第一死体焼却棟の1945年の写真を見ると、現在そこに在る煙突が当時存在していなかったことが明瞭に見てとれる。つまり、この煙突は、戦後建てられたものである。このように、現地の「物証」は戦後、変更されている。ポーランドのアウシュヴィッツ博物館は、戦後長い間、第一アウシュヴィッツの処刑用ガス室とされる第一死体焼却棟を当時のままのものと主張していた。しかし、さまざまな不合理を指摘されると、戦後再建されたものであったことを認め、説明を変更している。同様に、マイダネク収容所では、展示・公開されている「処刑用ガス室」が、ある時期から隣りの部屋に変わっている。

連合国は、戦後の戦犯裁判に際して多くのドイツ人に拷問を加えて自白を得ており、こうした戦後のドイツ人の自白には信憑性が無い。

ナチスがユダヤ人に対して行ったと推測されていることに関する主張には、パレスチナにユダヤ人の母国を建設することを可能にする連合国の意向を促進する意図があり、この主張は現在はイスラエル国家の政策、特にパレスチナ人を扱う政策に対する支持を獲得することに利用されている。ユダヤ人を犠牲者であるかのように扱い、ドイツ人を悪魔のように見せかけるというアメリカ合衆国、イギリス、あるいはユダヤ人の陰謀がある。また、ドイツについての狂気じみた話を広めることでポーランドチェコスロヴァキアといった関係国を脅してソ連による支配を受け入れさせることはソ連の利益になる。イスラエルに投入された資金の量とドイツからの賠償金だけでもイスラエルがこの陰謀を続けようとするだけの強力な誘因になる。

[編集] その他

圧倒的な数の学者や歴史家はホロコーストが虚構であると実際に認める勇気がない。もし堂々とそのような話をすれば職を失うことを分かっている。

ソ連のグラグで殺された反体制派やキリスト教徒の数に比べればホロコーストは小規模であるという見方もある。

[編集] ホロコースト否認論の展開

[編集] 初期

ホロコースト否認論の起源は不明瞭であるが、ホロコーストを否定する主張は戦後間もなくから始まっており、1960年代には、通説的なホロコーストに対する異議の表明が公に現れ始めた。

大戦末期にナチスの指導者たちは、ドイツの敗北は差し迫っており、ほとんど間違いなく自分たちが捕らえられ裁判にかけられるだろうとはっきり悟っていたと考えられている。ハインリヒ・ヒムラーが各収容所の所長に対して記録や死体焼却炉、その他の大量虐殺の痕跡を消滅させるよう指示したという証拠が立証されてきている。第二次世界大戦が終わると、親衛隊の元指導者の多くはドイツを離れ、習得したプロパガンダ技術を用いて自分たちの行為の正当性を主張し (または、批評家が主張するように、歴史の書き換えを) はじめたとされる。このことをもって、最初のホロコースト否認論者をナチス自身だとみなす見解がある。

フランスの歴史家ポール・ラッシニエ (Paul Rassinier, 1906 - 1967) は1948年、著書『越境』 (Passage de la Ligne) の中で「ホロコースト生存者」の証言に疑義を呈した。1964年には『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』 (フランス語: Le Drame des Juifs européens) を出版し、ガス室を始めとする戦後の通説に疑義を投じた。ラッシニエは社会主義者、非暴力主義者で、ドイツ占領下のフランスでレジスタンスに身を投じ、ユダヤ人をスイスに脱出させる活動などを行なっていた。そのために自らがゲシュタポに捕えられてブーヘンヴァルト強制収容所 (KZ Buchenwald) とドーラ収容所に収容された。戦後、レジスタンス活動によりフランス政府から最高位の勲章を受けている。このように自身がナチスの犠牲者であったラシニエがホロコーストを否認していることもあり、修正主義者たちはラッシニエをシオニスト、連合国、ソ連の巨大な陰謀によってホロコーストが捏造されたということを告発した最初の否認論者として「ホロコースト修正主義の父」と呼び、現在も彼の著作をホロコーストに関する通説に異議を申し立てた学術的な研究として引用している。

しかし、修正主義への批評家や対抗者たちは、ラッシニエ自身の反ユダヤ主義的考えがその主張に影響しており、またブーヘンヴァルトは絶滅収容所ではなかったので、そこでガス殺人を目撃しなかったという彼の主張は意外ではないと指摘している。また、ラッシニエは自分の主張の証拠を挙げておらず、自分が断言したことに矛盾する情報は無視している点も批判されている。なお、陰謀によるホロコーストの捏造というテーマは他の作家によっても取り上げられている[8]

ラッシニエと同時期に、ルーマニア系のユダヤ人であるブルグ(Burg)も、戦後語られ出した「ガス室」などによるユダヤ人大量殺戮の主張に疑問を抱き、収容所を自ら調査するなどしている。ユダヤ人であるブルグが、ホロコーストへの疑義を提出したことは興味深いとされる。

初期のホロコースト否認論者の一人にヒトラーを信奉するアメリカ人のフランシス・パーカー・ヨッケー (Francis Parker Yockey, 1917 - 1960) がいる。ヨッケーの1962年に出版された著書『帝国』 (Imperium) には「歴史と政治の哲学」 (philosophy of history and politics) という副題が付けられ、反ユダヤ主義的分析に満ちていた[9]

米国・コロンビア大学の歴史家ハリー・エルマー・バーンズ (Harry Elmer Barnes, 1889 – 1968) は晩年になってホロコースト否認の姿勢をとるようになった。バーンズは優れた経歴をもつ立場的には主流派に属する歴史家であり、歴史修正主義運動の初期の指導者の一人である。戦間期には反戦的な著述家で、第二次世界大戦が終わると、ドイツと日本への批判は米国の参戦を正当化するための戦時プロパガンダに過ぎず、その正体が暴かれる必要があると考えた。バーンズの反戦的で、主流に属する歴史修正主義的な著作は一部のリバタリアンに現在でも尊敬されている。

バーンズは晩年の著作でホロコーストを戦時プロパガンダに含まれるとした。大半のリバタリアンはバーンズの業績を評価しつつも、そのホロコースト否認論は受け付けなかったが、同様に反戦的歴史修正主義の立場をとってきたリバタリアン著述家の幾人かはバーンズに倣ってホロコースト否認の姿勢を示した。ジェームス・マーティン (James J. Martin) はその一人である[10]。現在のホロコースト否認論者の一部は、彼らの主張に信頼性を与えるためにバーンズの名前を用いている。ウィリス・カート (en:Willis Carto) はその最も顕著な例である。

初期のホロコースト否認論者の中で目立つ人物としてアメリカ人の歴史家デイヴィッド・ホガン (David Hoggan, 1923 – 1988) がいる。1961年発表の主に第二次世界大戦の原因を論じた『強制された戦争』 (Der Erzwungene Krieg) では、1939年以前のナチスの反ユダヤ主義行動の影響を軽視あるいは正当化したと批判されている。1969年には、ホロコーストを否認する最初の本の一つである『600万人の俗説』 (The Myth of the Six Million) を執筆した。これはロサンジェルスに本拠を構える、反ユダヤ主義文献を専門とする小さな出版社であるヌーンタイド・プレス (Noontide Press) から刊行された。ホガンは複数の一流大学の教授の経歴を持っていたため、ホロコースト否認論運動の初期のスターの一人となった。

[編集] 1970年代

1970年代にホロコースト否認運動は大きな盛り上がりを見せる。

ドイツでは、ホロコーストに疑問を投げ掛ける議論が戦後厳しく規制されたため、当時の関係者を含めた多くのドイツ人は戦後永く沈黙していた。しかし、1974年にアウシュヴィッツ周辺のモノヴィッツで天然ゴムに代わる素材の開発に従事していた元親衛隊員のティエス・クリストファーセン (Thies Christophersen, 1918 - 1997) が『アウシュヴィッツの嘘』と題された回想を出版し反響を巻き起こした。クリストファーセンによれば、確かにドイツのユダヤ人政策には批判されるべき点があったが、戦後のアウシュヴィッツ像はあまりにも誇張されたものであり、少なくともクリストファーセンがアウシュヴィッツ周辺で勤務していた当時、アウシュヴィッツとその周辺に収容されていたユダヤ人他の被収容者は虐待などされていなかった。すなわち、戦争末期は別として、大戦中前半はアウシュヴィッツにおけるユダヤ人の待遇は決して戦後語られているようなものではなく、例えば食事をはじめとする待遇は劣悪ではなかったという。また、被収容者のための売春宿があったことや、当時アウシュヴィッツに勤務していた同僚のドイツ人の中には、ユダヤ人と友情を結んで戦後も文通を続けた者などもいた事実を挙げて、戦後のアウシュヴィッツ像は虚偽であると主張している。更には、クリストファーセン自身が、ビルケナウ収容所における衛生状態の劣化に懸念を抱いて、ユダヤ人の処遇を改善するよう上司に提案したことがあったことや、ユダヤ人の中にはドイツよりもソ連を恐れる者がいて、ソ連に対するドイツの勝利を期待していたユダヤ人がいたことなどをも述べている。

1976年にアーサー・バッツ (Arthur Butz, 1933 - ) 著『20世紀の法螺:ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅説に対する異議申し立て』 (The Hoax of the Twentieth Century: The Case Against the Presumed Extermination of European Jewry)、1977年デイヴィッド・アーヴィング著『ヒトラーの戦争』 (Hitler's War) が刊行された。これらの本は否認論者の主張の大半の根拠として現在も重要視されている[11]

1978年にはフランスのソルボンヌ大学で文書鑑定を専門としていたロベール・フォーリソン (Robert Faurisson) がフランスの『ル・モンド』紙に「ガス室」の存在に疑問を投じる記事を発表し「フォーリソン事件」 (Faurisson affair) が起きた。フォーリソンは「ガス室」を欺瞞 (fraud) と呼び、「この欺瞞の犠牲者は、(ドイツの)支配者たちを除くドイツ人と、全てのパレスチナ人だ」と述べ、この問題がパレスチナ問題と密接に関係することを指摘している。フォーリソンはその後、ホロコースト否認論の長老的な歴史家となり、マルコポーロ事件後には日本の見直し論者である西岡昌紀と木村愛二に助言を与えるなどしている。こうした言論のために1989年に反対者に襲撃され、重傷を負った。

1979年、大戦中ドイツ空軍部隊将校として自らアウシュヴィッツを短期間訪れた経験を持つ西ドイツの判事ヴィルヘルム・シュテークリッヒ (Wilhelm Stäglich, 1916 - 2006) は、裁判官の視点からニュールンベルク裁判をはじめとする戦後の「戦犯」裁判を徹底的に再検証し、ホロコースト絶滅物語を検証する『アウシュヴィッツの神話』 (Der Auschwitz-Mythos) を刊行したが、1980年にはシュトゥットガルト裁判所の命令によりドイツ国内で頒布禁止となった。ドイツで発売されたその日に書店から回収されたと伝えられている。

[編集] 歴史見直し研究所

1978年、米国でウィリス・カート (Willis Carto) によって歴史見直し研究所 (IHR) が創設された。これは「ホロコーストの俗説」に公に異議を唱えることを専らとする組織であり、英語圏における見直し論の広がりにおいて中心的な役割を果たしている。IHRは科学的な歴史修正主義を標榜するために、ネオナチの背景を持たないジェームス・マーティン (James J. Martin) やサミュエル・エドワード・コンキン三世 (en:Samuel Edward Konkin III) のような象徴的な支持者を歓迎し、またラッシニエやバーンズの著作を販売し、ホロコースト否認論はネオナチだけでなく幅広い支持者のベースを持っていることを示すことを試みている。しかし、批判者によればIHRの支持者のほとんどはネオナチや反ユダヤ主義者であり、他のトピックに関する名ばかりの記事を収めたり、主流的歴史家による形ばかりの本を販売したりしてはいるが、実際に出版配布されている資料の圧倒的多数はホロコーストを巡る事実に疑問を呈することを専らとしている[12]

例えばIHRのウェブサイト内の「IHRについて」 (About the IHR) という項目では、IHRは「我々の組織はホロコーストを否認しない」と主張しているが、ホロコーストについての主流的見解の多くの要素をはっきりと否認し、それらを「大嘘」だと呼んでいる。IHRの定期刊行物には次のように書かれている。

数多くのユダヤ人が強制収容所やゲットーに追放された事実、あるいは多くのユダヤ人が第二次世界大戦で殺害された事実については論争は存在しない。修正主義の学者たちは証拠を提出している。この証拠はヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するというドイツの計画は存在しなかったこと、600万のユダヤ人が戦時中に死んだとする推定が当てにならない誇張であることが示されている。この証拠に対して「絶滅派の連中」(exterminationists) は反駁することができずにいる。ホロコースト、すわわち約600万というユダヤ人が皆殺しにされた (そのほとんどがガスによる) と伝えられていることは悪い冗談であり、これはキリスト教徒や、教養があり誠実で正直な人ならどこの人にも悪い冗談とみなされるべきことである。[13]

評論家は、IHRが自分たちをホロコースト否認論者ではないと述べることによって人々をミスリードする性質のあることに注目している。例えば、『サンフランシスコ・エクスプレス』 (The San Francisco Express) 紙において、ポール・レイバー (Paul Raber) は修正主義者の「言葉のゲーム」について次のように述べている:

(IHRがホロコーストを否認しているかどうかを) 問うことは、IHRの「ホロコースト」という言葉をめぐるゲームを引き起こすように見受けられる。彼らはハンプティ・ダンプティ式に、その言葉に好き勝手に意味を与えようとする。…… (IHRという組織の長である) マーク・ウェバーによれば、……「『ホロコースト』という言葉によって、ユダヤ人に対する政治的迫害や、何件かの散発的な殺害を意味するのならば、また、実際に発生した1件の残酷な出来事のことを言うのならば、誰もそれを否定しない。」……つまり、IHRはホロコーストが起きたということを認めないわけではなく、ただ、「ホロコースト」という言葉は、人々が習慣的に「ホロコースト」という言葉を使って表しているもののことをいうわけではない、としているのだ。[14]

「歴史見直し研究所」は「殺人を目的としたガス室がアウシュヴィッツに存在したという(検証可能な)証拠」に対して50,000米ドルの賞金を公に提示した。アウシュヴィッツの生存者メル・メーメルスティーンMel Mermelstein)が証拠を提出したが、それは無視された。そこでメーメルスティーンは「歴史見直し研究所」を相手に訴訟を起こし、もとの50,000米ドルの賞金と、さらに個人的苦痛に対する損害賠償としての40,000米ドルを受け取った。裁判所は、ホロコーストが発生したことは法的に争う余地のない事実であると宣告した。

近年、IHR内部で権力抗争が起き、ウィリス・カートは追い出された。カートの後を引き継いだマーク・ウェーバー (Mark Weber) の指導の下で、IHRはカート時代よりもはるかに公然とネオナチ志向を採るようになっている。カートはIHRから追放されたあと、バーンズ・レヴュー (Barnes Review) 誌を創刊した。バーンズ・レヴューもホロコースト否認を専門とする雑誌である。

最近出された記事では、憎悪を喚起するグループを監視している篤志家の組織によると、IHRのようなホロコースト否認論のグループは米国内で支持者 (特に金銭的支持者) を見つけるのに難儀しているということである。結果として、IHRその他の否認論者グループのスポークスマンは中東地域へと旅行し、現地の過激派グループと緊密な関係を結ぼうとしている。IHRのスポークスマンはテロリストのグループに関わっている疑いのある人々と度々会っていると伝えられている[15]

IHRは反対グループから暴力による襲撃を繰り返し受けている。特に1984年7月4日にはIHRに敵対するグループによって放火され多くの資料が焼失した。見直し論者側はこれを焚書に等しい行為であると糾弾している。

[編集] キーグストラ事件

1984年、カナダの高校教師であったジェームズ・キーグストラ (James Keegstra) は授業で資料の一部としてホロコーストを否定し反ユダヤ主義的主張をしたとして告発された。キーグストラと弁護士のダグ・クリスティー (Doug Christie) はカナダ刑法 (現319条2項) はカナダ憲法第9条b項の違反だと主張した。事件は最高裁判所まで上訴され、そこで、彼が有罪と宣告された根拠となる法律は表現の自由を制限しているが、これは正当なものであるという判決 (R. v. Keegstra) が下され、キーグストラは有罪と宣告され、解雇された。

[編集] ブラッドリー・スミスとCODOH

1987年、ブラッドリー・スミス (Bradley R. Smith) により「ホロコーストに関する公開討論委員会」 (略称CODOH) と呼ばれるグループが創立された。CODOHは、ホロコーストが行われたのか否かを問題とする新聞広告をアメリカ合衆国内の大学学生新聞を中心に打つ試みを繰り返している。掲載の諾否は新聞によって異なるが、編集長がどちらの判断を下しても、ほとんどの新聞は表現の自由を理由として、あるいはスミスの意見は不快であるから適切な処置として新聞からは遠ざけられるべきだという理由で、自らの判断を擁護する論説を掲載している。この広告キャンペーンによって、1990年代初期に多くの学生新聞にCODOHの広告が掲載され、全国的な議論を巻き起こし、ニューヨーク・タイムズのような大新聞でもその社説の題材とされた。2000年以降、いくつかの例外を除いて学生新聞のほとんどが広告を拒否するようになり、CODOHの新聞広告キャンペーンが不活発な状態に陥いる一方、かつてのようには論争を引き起こさなくなっている。ブラッドリー・スミスはその後、ホロコースト否認論を普及させるためのさまざまな手段を取っているが、ほとんど成功していない。

[編集] ツンデル裁判とロイヒター・レポート

カナダ居住者のエルンスト・ツンデル (Ernst Zündel) はサミスダット・パブリッシング (Samisdat Publishing) という小さな出版社を運営していた。この出版社はイギリスのネオナチ指導者、リチャード・ヴァーラル (Richard Verrall、本名リチャード・ハーウッド) の著書『本当に600万人も死んだのか?』 (Did Six Million Really Die?) といったホロコースト否認に関する書物を出版していた。1985年、ツンデルは「ホロコーストを否定する書物を配布、出版した」として「虚偽の報道」罪で裁判にかけられ、オンタリオ州地方裁判所によって有罪と宣告され、15箇月の禁固刑を言い渡された。この事件は大きく注目され、多くの活動家が表現の自由を訴えて、ツンデルの表現の権利を擁護しようと介入した。1992年にカナダ最高裁判所が「虚偽の報道」法は憲法違反だと宣言し、彼の有罪判決は覆された。ヴァーラルの『本当に600万人も死んだのか?』については、カナダ最高裁判所は「歴史家の業績を誤り伝え、証人の証言を誤って引用し、証拠を捏造し、存在しない公共機関を引用している」と断じた。

この裁判において、1988年にツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒターに依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。ただし、このレポートに対しては「ロイヒターは工学の学位を持たず、また実績においても、彼は専門家としての能力に欠ける」との批判がある。実際、裁判でもロイヒターは証言をしたものの、彼が工学修士ではなく哲学修士であること、ビルケナウのガス室に関する資料を十分に読むことなくレポートを書いていることを指摘され「専門家による証言」とはみなされなかった。

その後、ツンデルは自分のウェブサイトを立ち上げて自身の主張を宣伝した。このウェブサイトに対する告訴に対して、2002年1月、カナダ人権裁判所カナダ人権法に違反しているとの判決を下し、ツンデルに対し憎しみを呼ぶようなメッセージを送ることを止めるよう命令した。2003年2月、アメリカ合衆国移民帰化局テネシー州において移民法違反の容疑でツンデルを逮捕し、数日後カナダに身柄を送還した。そこでツンデルは難民認定を受けようとした。ツンデルは2005年1月まで拘留され、その後ドイツに追放された。ドイツの法律によれば、憎しみを呼ぶようなプロパガンダを展開したことでツンデルは訴追される可能性がある。

[編集] アーノ・メイヤー

プリンストン大学教授で、米国では左翼とみなされていた歴史家アーノ・メイヤーは、祖父が収容所で命を落としたユダヤ人であり、「否定論者」には分類されていないが、1980年代末に『天はなぜ曇らなかったのか?』 (Why Did the Heavens Not Darken?) において、(1)ドイツははじめからユダヤ人を絶滅する計画ではなかったと考えられる、(2)アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは故意の殺害ではなく、病死や飢餓の犠牲者であった、等の考察を述べ、議論を巻き起こしている。メイヤーのこうした問題提起は、ニューズ・ウィークでも大きく取り上げられている。

日本のマルコポーロ事件の記事(「戦後世界史最大のタブー『ナチ・ガス室』はなかった」)は、このユダヤ人歴史家メイヤーの見解に興味を持った論者が書いた記事であった。

[編集] ルドルフ・レポート

1993年には、当時マックス・プランク研究所で化学による博士課程にあったゲルマー・ルドルフルドルフ・レポートがロイヒター・レポートと同様の結論を提示した。反駁の試みとしてはインターネット上で発表された Richard J. Green のものがあるが、内容は政治的な面についてのものである。化学の学位を持つ者による学術的反論はほぼ皆無とされる。というのも、レポート内でルドルフは「化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできない」という主張をしており、化学的な論争を回避しているからである。ゲルマー・ルドルフは採取したサンプルの分析依頼のために無断でマックス・プランク研究所の名前を使用したため、同研究所を解雇されている。

[編集] デイヴィッド・アーヴィングとリプスタット裁判

デイヴィッド・アーヴィングは1977年に『ヒトラーの戦争』を発表し、その著書がベストセラーとなったことから、ホロコースト否認論の代表的な論客と見なされている。

1998年、アーヴィングはアメリカ人作家のデボラ・リプスタット (Deborah Lipstadt) がその著書『ホロコーストの否認』 (Denying The Holocaust) の中で自身に対する名誉毀損を行ったとして、彼女と出版社のペンギン・ブックス (Penguin Books) に対して訴訟を起こした。リプスタットの叙述の中には、アーヴィングが証拠を故意に歪曲したり誤り伝えたりして自身の思想的立場に合わせているいう批判が含まれていた。この訴訟により、イギリスの個人の世評の保護を主目的とする名誉毀損関連法のもとで、リプスタットと出版社にたいして、真実を不当に軽視していないこと、また、彼女の記述が真実、もしくは真実であると考えるに十分な証拠があること、すなわちアーヴィングがホロコーストを否定し、そしてホロコーストは実際に起きたことを立証する重荷を背負うことになった。

リプスタットとペンギン社はイギリスの弁護士アンソニー・ジュリアス (Anthony Julius) とケンブリッジ大学の歴史家リチャード・エヴァンス (Richard J. Evans) に法廷での弁護を依頼した。エヴァンスは2年をかけてアーヴィングの研究を調べ上げ、アーヴィングが事実を誤り伝えている証拠を提出した。これはアーヴィングが捏造された文書をそうであると知りながら情報源として用いていたことも明らかにしていた。一方、アーヴィング側の証言者として呼ばれた人々の中には、米国の進化心理学の教授であるケヴィン・マクドナルド (Kevin B. MacDonald) がいた。裁判長のチャールズ・グレイ (Charles Gray) はエヴァンスその他によって提出された証拠を重要視し、リプスタットを支持した長文の判決文を書き、アーヴィングを「右翼的で親ナチ的な論客」 (“right-wing pro-Nazi polemicist”) と呼び、リプスタットとエヴァンスによる批判の正当性を認めた[16]

オーストリアではホロコースト否認は犯罪であり、アーヴィングが1989年に行った演説を理由に逮捕状が出されていた。アーヴィングは逮捕状が出たのを知っており、オーストリアへの入国は禁止されていたが、2005年、オーストリアへ行くことを選択し、逮捕された。裁判の罪状認否の際においてアーヴィングは、ホロコーストを否認した容疑について有罪を認め、ホロコーストに関する意見を変えたと主張した。すなわちアーヴィングは、「私は当時の知識を基にそれを言ったのだが、1991年にアイヒマン文書のことを知り、その時にはもはやそのようなことは言っていなかったし、今も言うつもりはない。ナチスは確かに何百万人ものユダヤ人を殺害した」と法廷で証言した。

アーヴィングに対する判決を聞いたリプスタットは「検閲が勝っても私はうれしいとは思わないし、検閲によって戦いに勝てるとは思わない……ホロコースト否認論者たちと戦うのは、歴史と真実によってだ」と述べた[17]。なお、アーヴィングはウィーンの州裁判所で禁錮3年の実刑判決を受けたが、控訴審で残りの刑期を免除された。しかし、オーストリア内務省の決定で、アーヴィングは国外退去処分とされた。

[編集] フランスにおける否認主義の広がり

フランスではホロコーストの否認は1990年代に否認主義 (négationnisme) として顕著になってきたが、この動きは遅くとも1960年代にはピエール・ギヨーム (Pierre Guillaume) などのフランス極左政治家の中に存在していた。ギヨームは1960年代にラ・ヴィエイユ・トープ (La Vieille Taupe) という本屋に関わっていた。

1990年代には、フランス共産党の理論的指導者であったフランスの左翼系哲学者ロジェ・ガロディー(Roger Garaudy)が、「ガス室」をはじめとする「ホロコースト」の内容に疑義を提出し、イスラエルがこの話を利用してきたと論じた。ガロディーは左翼系知識人であったが、1990年代にイスラム教徒に改宗していたため、彼のこうした問題提起は、アラブ諸国においてこの問題への関心が高まる切っ掛けとなった。

近年、フランスの極左及び極右運動家は共に否認論を過激化させ、その主張はしばしばホロコーストを越えて広がり、広範な反ユダヤ主義に転じている。この中には「ユダヤ人資本家」へのマルクス主義的批判、ホロコーストと聖書に書いてあるカナン人虐殺とを結びつける試み、シオニズムに対する批判、反ユダヤ主義を正当化・一般化するようとするいわゆる「陰謀的ユダヤ人恐怖症」といった扇動行為が含まれる[18]

[編集] インターネット上の論争

1990年代半ば以降、インターネットが大衆化するにつれてホロコースト否認論者やその他のグループを含む多くの組織が新たに国際的な登場をしてきた。多くの各国政府当局者がインターネットは憎悪を煽るグループが自分たちのメッセージを広範囲に及ぶ読者に伝えることを可能にしたと述べており[要出典]、結果としてホロコースト否認論が人気を得るのではないかと見なされている。

[編集] ヴァルザー論争

1998年、作家のマルティン・ヴァルザーフランクフルト書籍見本市の平和賞受賞講演で、ホロコーストがドイツ人に対して「道徳的棍棒」として使われていると述べて「ヴァルザー論争」が起こった。

[編集] 「ホロコースト産業」論

近年、ユダヤ人の指導者たちがホロコーストを利用して金銭的または政治的な利益を得ているとして、「ホロコースト産業」 (Holocaust industry) や「ショアー・ビジネス」 (Shoah business) という用語が一部で流行している。

1996年、スイスの主要銀行に対し、ホロコースト犠牲者のものとされる休眠口座に眠る預金の返還を求めるユダヤ人の集団訴訟が起こされた。ドラミュラ大統領兼経済相はこれを「ゆすり・たかり」と非難し、後に謝罪を余儀なくされる。1998年、休眠口座の調査は続行中だったが、銀行側が今後支払い要求に応じないことを条件に12億5千万ドルを支払うことで政治決着した。2001年10月13日、英紙タイムズはスイスの独立請求審判所による調査の結果を報じた。休眠口座の総額は6千万ドル程度に過ぎず、ほとんどは少額で、処理した10,000 件近い請求のうち確認できた口座は200件だった。ユダヤ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインは、2002年、このようなユダヤ人団体の行動をホロコーストを利用して利益を得ているものとして批判する『ホロコースト産業』を著した。

フィンケルスタインはホロコースト生存者の息子であり、ホロコーストの事実については完全に認めているが、ユダヤ人団体からホロコースト否定論者とされ非難を浴びた。実際には『ホロコースト産業』はあくまでも「ホロコーストを利用して私腹を肥やすユダヤ人エリート」を批判するものであり、ホロコースト否定論を唱えているわけではない。しかし、彼の言葉は金銭的かつ政治的利益のためにホロコーストが「偽造された」と信じているホロコースト否認論者たちによっても取り上げられているため、フィンケルスタインは自分の研究が不当に利用されていると考えている。フィンケルスタインの研究はノーム・チョムスキーラウル・ヒルバーグら一部の識者を除き、主流的ユダヤ人コミュニティの大部分や多くの学者たちからは拒絶されている[19]

また、P・ヴィダル=ナケは具体的な企業名を挙げてはいないが、歴史修正主義を批判し、「歴史資料のでっち上げと偽造のための企業」[20]存在を指摘している。

2001年2月にドイツのシュピーゲル誌が発表した世論調査結果によると「ユダヤ人団体は、自身が利益を得るために、独に対し過度の補償要求をしていると思うか」との設問に対し、ドイツ人の15%がそうだと答え、50%が部分的にせよそうだ、と回答している。また2003年12月に行われたイギリスのガーディアン誌の世論調査では「ユダヤ人は自分たちの利益のためにナチス時代の過去を利用し、ドイツから金を取ろうとしているか」という質問に全体の1/4が「そう思う」と返答し、1/3が「部分的だが真実」との認識を示すなど「ホロコースト産業」論は現在のドイツでも広く受け入れられている。

[編集] イスラム世界において

イスラム教国家においては、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が、結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコースト否認論が近年急速に台頭してきている。中東では、パレスチナの政治グループだけでなくシリアイランの政府の人間がホロコースト否認の発言を公表したり宣伝したりしており[21]、2005年にはイランアフマディーネジャード大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けた。

ホロコースト否認論はイスラム世界では比較的新しい動きである。名誉毀損防止同盟 (ADL) の副理事ケネス・ジェイコブソン (Kenneth Jacobson) はハーレツ (Haaretz) 紙のインタヴューに応えて次のように述べている。

西側の学者によるホロコースト否認論を適用することはイスラム世界において比較的新しい現象である。彼らに受け入れられている姿勢は、ホロコーストが起こったことは真実だが、パレスチナ人がその代償を負担するべきではないと主張することである。イランのマフムード・アフマディーネジャード大統領の発言は、彼が2つのアプローチを混ぜ合わせていることを示している。[22]

ファタハの協同設立者の一人でパレスチナ解放機構の指導者の一人であるマフムード・アッバースはモスクワ東洋大学で1982年に歴史学の博士号を取得したが、その学位論文は『ナチスとシオニスト運動の指導者との秘密の関係』と題するものであった[23][24]。なお、ソ連は1960年代からナチスとシオニスト指導部との秘密の結びつき (en:Zionology) を主張し、それを押し進めてきていた。彼がその博士論文を基に1983年に書いた『もう一つの顔: ナチスとシオニスト運動との秘密の関係』 (The Other Face: The Secret Connection Between the Nazis and the Zionist Movement) では次のように述べられている。

しかしシオニスト運動の関心事は (ホロコーストの死者) を誇張し、それによって利益を拡大することにあるようだ。これは彼らが国際的世論とシオニズムとの連帯を勝ち得るために (600万という) この数字を強調させる動機になっている。多くの学者がこれまでに600万という数字について議論し、ユダヤ人の犠牲者数を数十万人に修正するという驚くべき結論に達した。[25]

アッバースはまた、2006年3月にハーレツ紙のインタヴューでこう述べている。

私はホロコーストについて詳細に書いており、数字について議論するつもりはないと言っている。私は歴史家の議論を引用したのであって、そこではさまざまな数の犠牲者が言及されていた。ある者は1200万人と書き、他のある者は80万人と書いていた。私にはその数字について論争しようとは思っていない。ホロコーストはユダヤ民族にとって恐ろしくかつ許すことのできない犯罪であり、人間には受け入れることの出来ない類の人道に対する罪である。ホロコーストは恐ろしいことであって、私がそれを否認したなどとは誰にも言わせない。[26]

ホロコースト否認は、現在、さまざまなアラブ人指導者によって恒常的に宣伝され、それが中東全域の各種メディアを通じて広まっている[27]。2002年8月にはアラブ連盟のシンクタンクで、アラブ首長国連邦副首相のスールタン・ビン・ザーイェド・アル・ナハーヤン (Sultan Bin Zayed Al Nahayan) が議長を務めるザーイェド協同追求センター (Zayed Center for Coordination and Follow-up) がアブダビでホロコースト否認シンポジウムを開催した[28]。ハマースの指導者たちもまたホロコースト否認を宣伝している。アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィーはホロコーストは全く起きなかったこと、シオニストたちはナチスの行動の黒幕であること、シオニストたちがナチズムに資金提供していたことを主張している。2000年4月のハマスによるプレスリリースでは「いわゆるホロコーストは何の根拠もなく主張され創作されているものである」と述べられている。

[編集] アフマディーネジャード

2005年12月の演説で、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードはホロコーストがイスラエルを守るために広められた「おとぎ話」だと述べ、自身のレトリックを展開して、国際的非難の新しい波を誘った。

アフマディーネジャードは「彼らはユダヤ人の虐殺の名の下に伝説を捏造し、神よりも、宗教よりも、預言者たちよりも高い位置にそれを捧げ持っている」と述べ、またユダヤ人を迫害したのはドイツやオーストリアとして、迫害の責任を負うのはイスラエルの国家のために土地を手放しているパレスチナ人ではなくドイツやオーストリアであり、イスラエルはこれらの国々だに移転するべきだと主張した。さらにイスラエルのユダヤ人をアメリカ合衆国に移住させることを提案している[29]

2006年4月24日には、「究極の真実を明らかにするために」ホロコーストの真の規模を独立の立場から再び査定することを求めた。

こういった発言はすぐに激しい国際的議論をかき立てた。イスラエル、ヨーロッパ、米国の政府高官は即座にこれを非難した。イスラエル政府のある高官はパレスチナ問題に対する「ナチ式の解決」を提案したイラン大統領を非難した。ドイツ連邦議会の6つの政党全てがホロコースト否認論を非難する決議文に署名した[30]。米国ではイスラム教徒公共問題協議会en:Muslim Public Affairs Councilがアフマディーネジャードの発言を非難した[31]

一方、ハマースの政治指導者であるハーレド・マシャール (Khaled Mashal) はアフマディーネジャードの発言を「勇敢だ」と評価し、「イスラム教徒はイランを支持するだろう。それはイランが彼らの想い、特にパレスチナの人々の想いを言葉にしてくれるからだ」と述べた[32]

アフマディーネジャードは最近、ロバート・フォーリソン (Robert Faurisson) のような有名なホロコースト否認論者たちを招き、「ホロコーストを検証」する会議を開こうとしているといわれている。

[編集] 日本

政治的には護憲派であり、左翼とみなされてきたジャーナリストの木村愛二が、1994年、月刊誌『噂の真相』に「シンドラーのリストが訴えたホロコースト神話への大疑惑」と題したガス室やユダヤ人絶滅計画の存在を疑う内容の記事を寄稿した(同誌1994年9月号)。1995年には著書『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)を発表した。木村のこうした問題提起に触発された本多勝一は、一時的にではあるがホロコースト見直し論に関心を抱き、当時、本多が編集長を務めていた『週刊金曜日』に木村による「ホロコースト見直し論の連載を企画した。

1995年、当時厚生省職員であった医師の西岡昌紀が「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を『マルコポーロ』誌に掲載したことが国際的非難を呼び、最終的に『マルコポーロ』紙は廃刊となった(マルコポーロ事件)。記事の中で西岡は、「ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害した事は明白」として当時のドイツのユダヤ人政策を支持する立場ではないことを明確にした上で、ドイツは確かにユダヤ人を迫害したが「絶滅」までは計画しておらず、収容所でユダヤ人が大量死した原因は発疹チフスなどによるもので、アウシュヴィッツ等の収容所に処刑のためのガス室は存在しなかった、連合国はそれら病死したユダヤ人の死体の映像をガス室の犠牲者であったかのように発表・宣伝した、などと論じた。なお、この記事は、数回のシリーズの第一回として書かれた記事で、見直し論側の見解を全て述べたものではなく、木村愛二は『アウシュヴィッツの争点』などで『マルコポーロ』の記事がイスラエル建国とホロコーストの関係に全く言及していない点を繰り返し批判している。『戦争論』などの著者である小林よしのりはこの事件の際にホロコースト見直し論を激しく攻撃した。西岡自身は、パソコン通信上の発言と1997年の著書『アウシュウィッツ「ガス室」の真実:本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道)において、細部の記述には誤りがあったと自ら認めつつ、ホロコースト否認の立場を維持している。

1997年4月、木村愛二は木村の論を斥けた梶村太一郎金子マーティンおよびその論を掲載した『週刊金曜日』(本多勝一編集)を名誉毀損で告訴した。結果、1999年2月16日に木村は敗訴。判決文には「ホロコーストは世界にあまねく知られた歴史的事実」と述べられている[33]

[編集] ホロコースト否認論への批判

ホロコースト否認論に対しては、イスラエルやユダヤ人社会からは強い批判が寄せられている。また著名人や学者の多くが反対する発言をしている。

ホロコースト研究センター (The Holocaust Research Center) の所長ウィリアム・シャルマン (William Shulman) は否認論を「まるでこれらの人々が2度殺されたようだ」と述べた[34]。この発言は思想家ジャン・ボードリヤールの心に響き、ボードリヤールは「絶滅行為を忘れることは絶滅行為の一部なのである」と発言している[35]

2006年コフィ・アナン国際連合事務総長は次のように述べた。

ホロコーストを思い起こすことはホロコーストがなかったとか誇張されていると主張する人々に対する強い叱責の意味を持つ。ホロコースト否認論は頑迷な人々の仕事である。彼らの誤った主張は、それがいつ、どこで、誰によって行われるものであっても、私たちは拒絶しなければならない。[36]

2007年に行われた国連総会本会議においては、ホロコーストを「歴史的事実」と再確認し、虐殺を否定する言動を非難する決議案が米国に主導されて提出され、全会一致で採択された。イラン代表による批判があり、同代表が虐殺自体を否定することはできるはずとして、採決に参加しなかった。

[編集] ホロコースト否認論批判の主張

「修正主義」という用語を用いずとも、主流派の歴史家たちもホロコーストの諸側面に関する見解を研究し修正する作業を続けている。しかし令名が高い歴史家でホロコーストの基本的な規模や大要について異議を唱えた者はいない。サザンメソジスト大学 (Southern Methodist University) の歴史家ドナルド・ニューイク (Donald Niewyk) は次のように述べている。

ホロコーストの主要点は意図的に目を閉じている人々以外にとっては疑いもなく明らかなことである。歴史家たちはホロコーストの説の中で証拠が不完全か曖昧な部分に注意を向けている。これらは決して些細なことではない。しかしホロコーストにおけるヒトラーの役割、迫害に対するユダヤ人の対応、ナチス支配下のヨーロッパ内外での傍観者の反応のような問題にも目を向けるべきである。[37]

主流派の歴史学者の大半はホロコースト否認論を史学的研究でないと看做しており、またホロコースト否認論を議論するとこの議論が正当な研究分野であると思われてしまうのではないかと懸念している[38]。しかし、否認論者の主張に真っ向から取り組む議論もあり、それによれば、ホロコーストが起きなかったというホロコースト否認論の複数の論点は分厚い史料と矛盾している。デボラ・リプスタットに代表されるこのような取り組みは、ホロコースト否認論者そのものを正当化しないように気を払いながら、ホロコースト否認論の方法や動機について意識を喚起しようとしている。その目的についてリプスタットは次のように説明している。

我々は否認論者たちの主張に応えようと時間を費やしたり努力を向けたりする必要はない。調査結果を自由勝手に偽造したり、脈絡のない引用をしたり、あるいは多数の証言を単に退けてしまうような人々によって持ちかけられた議論に応じることは終わりのないことである。本当の学者と異なり、否認論者たちはデータや証拠を、例えそれがどんなものであっても尊重しようとしない。彼らはあるイデオロギーに傾倒しており、彼らの「調査結果」とやらはそのイデオロギーを支持するためにそれに合わせられたものである。[39]

ホロコースト否認論の批判者によれば、ホロコースト否認論が不合理だと広く看做されているのは、合理的調査の大原則である「証拠の原則」を守っていないからである。

ある命題や弁証を支持するためには、主張者は証拠を提示しなくてはならない。証拠の価値やそれが支持する結果はその本質による。例えば、噂は通常正当な証拠として認められないが、目撃者は証拠と認められる場合がある。他からの受け売りの話は証拠として認められないが、申し立てられた問題を証明する公式で日付があり書名のある文書は証拠として認められる。証拠が提示されると、主張者の申し立ては一個の問題として扱われ、証拠は精査される。主張者には証明責任が生じる。主張者の対話の相手が主張者の証拠に疑問を呈したならば、対話者は自分自身の主張をしなくてはならない。例えば、これやあれやの証拠は偽物であるという主張である。こうなると証明責任は対話者の方に移ることになり、証拠基準は元の主張が立てられたのと同一程度となる(証明責任の転換)。主張者の証拠は一見自明なものとして、証拠としての価値能力においていかなる力をも持つことになる。対話者は主張者に異議を唱えるためにさらなる証拠を要求してそれでもって作られるような懐疑的推量や仮想の可能性に答えるというやり方は全くできない。もしこれが通れば、主張者の証明責任は不合理な水準に押し上げられてしまう。

ホロコーストのケースに上記のことを適用すると、生存者、目撃者、歴史家は全体として主張者と看做することができる。生存者、目撃者、歴史家によって提出された証拠は圧倒的であり、ホロコーストが行われたことが「合理的な疑いを超える程度に」判明しており、証言されたような状態でホロコーストが行われたことは、知識人の間では支配的な見解である。しかし、ホロコースト否認論はナチス自身が作成し戦争で失われなかった何万ページという文書と写真を無視するか、最小に評価している。

ホロコーストが疑わしいと考えることができるきわめて明確に信頼できる理由が存在しない限りは、これら主張者に対してその証拠がそれまで証明された以上に「完全に真実で」あることを証明せよと要求するのは不合理である。もしホロコースト否認論者がこの証拠に疑いを投げかけるならば、証明責任は否定論者の側に転換され、彼らは非常に高い基準を要求されることになる。否認論者は少なくとも、ホロコーストの証拠とされることがらが何千という鑑識眼のある査定者によって捏造され、誤り伝えられ、誤解されているのだということを「蓋然性の均衡」をもって証明しなくてはならない。それができるまで、論じるのが必要だと認められるだけの「証拠の原則」を否定論者は満たすことがない。それまでは、ホロコースト否認論は不合理な見解であると認識され続けることになる。

結果としてホロコースト否認論者たちは、偽造された書類をヨーロッパ大陸全体で定着させる大規模な「ユダヤ人の計画」といったような陰謀論を造りだす必要に迫られている。否認論者は証拠とされている文書はイリヤ・エレンブルグ(Ilya Ehrenburg)の「ソヴィエト反ファシスト連盟」を始めとしたソ連の反ファシスト(=反西側諸国)プロパガンダに基づくもので、当然のことながら信頼できないと主張している。また、ニュルンベルク裁判の法廷で証言したドイツ政府高官、ドイツ軍兵士やナチス親衛隊員、強制収容所職員に対しての拷問や自白の強制があったことは彼らにとって当然の前提となる。

この点においてホロコースト否認論は一般的な陰謀論とは異なる。すなわち陰謀論は「証拠の原則」に則ろうとするが、提示する証拠が批判者からは不十分と見なされるのに対して、ホロコースト否認論は批判者に対して不合理に高い証拠基準を設け、それによって歴史家の証拠が不十分であると批判するからである。

否認論者の主張する「事実」や「証拠」に関しては、裁判の場で提出された証拠も含めて数多くのものが提出されている。しかし、独立した調査によって、これらの主張は欠陥のある調査、偏向した証言、さらには意図的に捏造された証拠に基づいていることが明らかとなっており、裁判での吟味や、査読誌の掲載基準に耐えることができないものである。ホロコースト否認論への対抗者たちは、証拠が替えられたり造られたりした数多くの事例に対する詳細な説明を積み上げてきている(ニツコー・プロジェクトなど)。

インターネット上で否認論者の主張に対抗している活動家のケン・マクヴェイは1994年のインタヴューにおいて、ホロコースト否認論者の「手口」を次のように表現している。

彼ら(否認論者)が「アウシュヴィッツでは誰も死んでいないということが K.K.キャンベル(K.K. Campbell)の有名な著書の82ページに書いてある」と挙げたら、アメリカ連邦議会図書館に行ってK.K.キャンベルのその本の82ページを開いてみるといい。そこには実際には「ダッハウではいい日和だった」ということが書いてある。議会図書館なんかに行っている暇のある人間なんてほとんどいないのだから、連中はこういうことを言うだけでごまかそうとする。だがこれを読んでみれば誰でも思うはずだ「間違いだって簡単に分かることなのにいったい誰がそんな嘘をつくのだろうか」と。

Eye誌(オンラインウェブ雑誌)、1994年11月10日

異なる事実の合成によって誤った結論へ導されることもある。頻繁に使われるのは、非常に薄いガス室の扉の写真である。この写真はガス室が実際には人々の皆殺しには使用されなかったかもしれないという心証を与える。人々は殺されるくらいなら扉を破るはずだからだ。だが、この写真は実際のガス室の扉であっても、シラミ駆除のためのガス室に使われたものと推測されている。

また、ホロコースト否認論の主張や提出する証拠は、中立的で学術的な提示を離れて見えすいた個人的な攻撃に終始している例を数多く証明されている。「自分とは反対のことを述べるあらゆる証拠に対する自身の軽蔑の念を、最も語気を荒げた道徳口調で表現」したり、「偽造文書を採用してそれを真理の色合いで塗り直す」ことを行う [40]。特に、ホロコースト否認論者による出版物や声明の多くは反ユダヤ主義によって染められており、ホロコースト否認論者はその対抗者を表現するのに「シオニスト協力者」とか「ユダヤ偏愛者」とかいった人種差別的な言葉を頻繁に使う。

[編集] ホロコーストの証拠

ホロコーストの存在とその本質は非常に官僚的だったドイツ政府及びドイツ軍自身によって詳細に文書化されている。ホロコーストは何カ国もの間で長年にわたって指揮統括組織によって行われた一大事業であり、証拠となる書類を大量にあとに残している。ナチスドイツは敗色が濃厚となるとホロコーストの証拠を消し去ろうと試みたが、重要な証拠資料は残されたままだった。戦争の終盤、ナチス・ドイツの戦力は非常に急速に崩壊したため、ドイツ国内で証拠を消滅させる試みはほとんど不成功に終わった。ナチスの敗北の後、何トンもの文書が見つかり、各地の強制収容所の近くに掘られ多数の死体が投げ入れられた穴からは何千もの死体が完全には腐敗しない状態のまま発見された。そういった物的証拠や文書による証拠の中には、殺されたユダヤ人の数に関する多数のナチスの報告書、収容所へユダヤ人を搬送した列車の記録、何トンものシアン化合物やその他の整理された毒物、写真、フィルム、破壊されずに残った収容所の構造物そのものが含まれている。

ヘフレ電報。親衛隊大隊指揮官ヘフレからアイヒマン宛て、1943年1月11日付け電報。

例えば、ルブリンの親衛隊大隊指揮官ヘルマン・ヘフレ (Hermann Höfle) が1943年1月11日にベルリンの親衛隊上級大隊指揮官アドルフ・アイヒマンに宛てて送った「ヘフレ電報」 (Höfle Telegram) では、ラインハルト作戦 (Einsatz Reinhard) の最初の年である1942年ルブリンマイダネク)、ベウジェツ (Bełżec)、ソビブル (Sobibór)、トレブリンカの4箇所の強制収容所で合計1,274,166人が死亡したことが報告されている。この電報は2000年にイギリスのキュー(Kew)にある第二次世界大戦の資料を保管している公文書庫で発見された。ヘフレ電報にある数字は、親衛隊統計官のリヒャルト・コルヘアRichard Korherr)博士が1943年1月18日に親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーによって下された命令により作成し、同年3月に発表したいわゆるコルヘア報告Korherr Report)の内容と合致するものである。コルヘア報告では、控えめな数字として総勢2,454,000人のユダヤ人が絶滅収容所に追放されるか特別行動部隊によって殺害されたことが示されている。

特別行動部隊という殺人部隊の状態を完全に把握した報告書は、アメリカ陸軍ゲシュタポの文書保管所を捜索した際に発見された。戦争犯罪裁判などで証言した元特別行動部隊隊員によってその正確性は証明されている。

地図「特別行動部隊Aによって実行されたユダヤ人処刑」

右に示された写真は特別行動部隊Aによって実行されたユダヤ人処刑を表す地図で、特別行動部隊の隊長によって1941年12月に作成された報告書にあったものである。「秘密帝国問題」と題されたこの地図は、バルト海沿岸地域で銃殺したユダヤ人の数を示しており、下部には「いまだ我々の手元にいるユダヤ人の推定数は128,000」と書かれている。特別行動部隊の多数の報告書は屋外の処刑だけで150万人以上が殺害されたことを詳述している。犠牲者の大半はユダヤ人であった。

数々の写真は大量にあるホロコーストの証拠の一部をなす。特別行動部隊の兵士だった個人が所有していたアルバムにあった1941年9月(ユダヤ暦正月)に撮影された写真では特別行動部隊のメンバーがウクライナのヴィンニツァ(Vinnitsa)でその地の最後のユダヤ人を殺害しようと準備している様が映し出されている。ユダヤ人は多数の死体を埋める穴の前で跪かせられており、「ヴィンニツァの最後のユダヤ人」という貼り紙がしてあった。ヴィンニツァとその周辺出身の28,000人のユダヤ人の全てが虐殺された。

ホロコーストはドイツやドイツの占領地域に進攻した連合軍第二次世界大戦の終わりまでドイツに追従していた枢軸国によっても目撃されている。提出された証拠の中には、連合軍が収容所に踏み込んだときに解放された囚人たちや付近の住人(その中には収容所内で労働する者もいた)の証言の他に、収容所の存在を示したフィルムやスチル写真も存在している。

ホロコーストを生き延びた何千という人々による証言は、捕まったドイツ政府高官たちがニュルンベルク裁判やその他の機会に行った証言と共に、もっとも有力な証拠となっている。ホロコースト否認論者たちは、これらの証人は拷問を受けたこと、ナチス党員のルドルフ・フェルディナント・ヘスは知らない言語 (英語) で書かれた「血染めの自白調書」に署名させられたと伝えられていること、ニュルンベルク裁判は適切な司法手続きに則っていなかったことを主張して、これらの証言を無視している。

しかしこういった主張は恣意的な史料操作によっている。例えばヘスの証言は署名された自白調書だけで構成されているのではない。ヘスは裁判にかけられる前に2部にわたる回想録を書いており、ニュルンベルク裁判以外の場でも広範囲にわたる証言をしている。さらに、ヘスの証言はペリー・ブロード (Pery Broad) のような元アウシュヴィッツ職員による書面による説明とも矛盾していない。ブロードはヘスが所長だったときアウシュヴィッツに配置されていた。ヘスの証言は、ヨハン・クレーマー (Johann Kremer) によって綴られた日記や、何百人もの収容所警備官や犠牲者による証言とも合致する[41]

[編集] 「ユダヤ人絶滅政策」の不在

ホロコースト否認論者は、アドルフ・ヒトラーによって書かれたり署名されたりした露骨で議論の余地のないほどの命令書、すなわちドイツやポーランドのユダヤ人を殺害する特別命令が存在しないことを挙げている。

確かに現在までそのような総統命令は発見されていないが、ヒトラーがホロコーストを知っていたということを立証するためには総統命令は必要不可欠なものではない。そしてヴァンゼー会議に付随した書類、特別行動部隊 (Einsatzgruppen) の報告書、その他の一次資料はナチス指導部上層の大半が中央集権化されたホロコースト計画を理解していたことを圧倒的に証明している。特にヴァンゼー会議の状況において、間違いなくナチス政権上層部がホロコーストに帰着した命令を下したということは証明されている。従ってホロコーストが中央で計画されたということと、ホロコーストの計画と実行におけるナチス指導部の役割は、学者や歴史家にとって全く疑いの対象ではない。

ホロコースト否認論を批判する人々は、ナチスの文書には彼らの行動を扱うときには「殺害」や「死」といった明確な用語を用いているものはほとんどないことを指摘している。ナチスの人間はほぼ常に「ユダヤ人の絶滅」でなく「ユダヤ人問題の最終的解決」といった暗示的な言い回しを使って話したり書いたりしていた。ヨーロッパのユダヤ人を殺害する意図に関してヒトラーの発言の中で最も多く引用されるものは、彼が1939年1月30日にドイツ帝国議会で行った演説である。そこでは次のように述べられている。

本日、私はいま一度預言者となろう。もしヨーロッパ内外の国際的ユダヤ人資本家が諸国を再度の世界戦争に陥れることが成功したら、その結果は地球のボリシェヴィキ化やそれによるユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅である。[42]

囚人処刑に関するヒムラーからヒトラーへの報告書第51号(1942年12月)

右に掲げられた写真はヒムラーからヒトラーへ送られたナチス・ドイツ占領下のポーランドで行われた囚人処刑に関する報告書で、この書類はホロコーストで行われた大量虐殺行為に対してヒトラーの共謀と是認があったことの証拠としてニュルンベルク裁判の際に提出された。南ロシア地方、ウクライナ地方、ビャウィストク地方にて、無法者の共犯者と容疑者として4ヶ月の間にユダヤ人だけで36万3211人が殺害されている。

[編集] ガス室否定
1943年2月9日から2月11日の間にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で撮影された写真。当時建設中だった第2死体焼却炉複合施設のガス室が撮影されている。ツィクロンBが投入された4つの煙突状の構造物がはっきりと見える。

ホロコースト否認論者は、民間人を虐殺するために建設されたというガス室は決して存在せず、ガス室とされている構造物は他の目的に使用されたものであると主張している。またガス室の多くは戦後にわざわざ公に見せるために建設されたものだという主張もある。この主張を強めるものとしてしばしば引き合いに出されるのがロイヒター・レポートである。この報告書では、1988年にアウシュヴィッツのガス室で採取された標本を検査したところ、シアン化合物が一切検出されなかったとされる。

しかし、1988年シアン化合物が検出されなかったのだから、それから40数年前もアウシュヴィッツではシアン化合物は一切使用されなかったのだという議論には問題がある。

1990年2月にクラクフ法医学研究所所長のヤン・マルキェヴィチJan Markiewicz)と彼の調査チームは、「マイクロディフュージョン法」を用いて、アウシュヴィッツ内にある殺人用ガス室だと疑われる部屋、シラミ駆除用ガス室、管理棟のそれぞれから採取した標本中のシアン化合物の解析を再度行った[43]。照査標本では陰性の結果が出たが、シラミ駆除用ガス室と殺人用とされるガス室からはシアン化合物の残留物が検出された。この検出されたシアン化合物の量は標本によって大きな違いがあった。50年にもわたって風雨にさらされたことが標本の違いの原因と推測されているが[44]、シアン化合物が見つかるべきところから見つかり、照査標本からは検出されなかったということは絶対的な結果である。

ホロコースト否認論者のもう一つの主張は、ガス室にはツィクロンBが投入された穴が存在していなかったということである。ロイヒターの言葉を借りれば「穴がなければ、ホロコーストもない」ということである。英国放送協会(BBC)はそれに応えて、この主張を通すなら大量の書類を無視しなければならないことを示している。

否認論者は、物理的証拠がないのはビルケナウのガス室の屋根の上にはツィクロンが大量に送り込まれた穴が一つもなかったからだと何年もの間主張してきた。(ガス室のいくつかではツィクロンBは屋根を通じて送り込まれたが、他のガス室では窓から投げ込まれた。)屋根は戦争の終わりにダイナマイトで爆破された。そして今日ばらばらになって放置されている。しかし最初に4つあった穴のうち3つは新しい書類ではっきりと確認されている。それらの穴の位置は目撃者の証言、1944年に撮影された航空写真、1943年に地上で撮影された写真と具体的に一致している。この物的証拠は、ツィクロンが投入された穴は建物が建設されたときにコンクリートの外壁に空けられたものであることを明白に示している。

また、ホロコースト否認論者のガス室に関する主張の多くは、誤った説明を根拠としている。例えば歴史見直し研究所はガス室に関する証言は当てにならないと主張している。すなわち、「ヘスはその自白の中で、ガス処理をした後10分してユダヤ人たちの死体をガス室から引き出すとき、彼の部下はタバコを燻らしていたと言っている。ツィクロンBは爆発物ではなかったのか?間違いなく爆発物である。ヘスの自白は明らかに虚偽のものである」といった主張をしている。

しかし、この主張は疑いなく間違いである。ニツコー・プロジェクトやその他の情報源が指摘しているように、ツィクロンBが爆発性であるためには最低でも56,000ppmの濃度が必要であり、それに対して人間を殺害するのに使用される量は300ppmである。このことはメルク・インデックス(The Merck Index)やCRC化学物理ハンドブック(CRC Handbook of Chemistry and Physics)のような一般の化学物質の参照ガイドには必ず明示されている。事実ナチス自身の書類でも「爆発の危険: 1立方メートル当たり75グラムのシアン化水素(HCN)。通常の使用量1立方メートル当たりおよそ8-10グラムは、したがって爆発性はない」と示されている(ニュルンベルク裁判資料番号NI-9912)。

あるいは「ビルケナウのガス室や火葬炉とされている場所では、そのような大きさの建物の残骸に相当する充分な量の瓦礫が存在しない」という主張があるが、歴史家たちは解放後に地元のポーランド人農民が戻ってきて、冬になる前に家を再建するための材料を必要としていたため、再利用できるレンガを残骸から大量に持ち去ったと指摘する。廃物を利用した人々が使えるレンガを探したときに投げ捨てた大量の廃棄物が火葬炉の場所の近くに残っている。

ホロコースト否認論者が頻繁に疑問を呈しているもう一つの証拠は死体が焼却された後の灰はどうしたのかということである[45]。しかし、1体の死体を焼却したときに生成される灰は靴箱1つを一杯にするくらいであり、その処理は難しいことではない。ある程度の量の灰が近くの川や沼地に積まれていたことはアウシュヴィッツの航空写真が示している。またその他の灰は近くの畑で肥料として使われたという、詳細に書類化されている証拠が存在する。トレブリンカの写真は収容所長によって撮影されているが、これには大量の灰が掘削機で一面に撒かれているところが写っている。

[編集] 死亡数の誇張

「600万人」という数字については、しばしば死者は100万人だけだ、あるいは「戦時死傷者」は30万人だけだという風に、より少なく主張されることがある。

死者数についての論争でしばしば引用されるものの1つに「ブレイトバード文書」(Breitbard Document)がある[46]。すなわち、アーロン・ブレイトバート(Aaron Breitbart)の手になるこの文書によれば、アウシュヴィッツにある「1940年から1945年の期間にナチの殺人者の手によって400万の人々がここで苦しみ亡くなった」と記されている記念碑が、1990年に「その多数はヨーロッパのさまざまな国から連れてこられたユダヤ人であった150万の男性、女性、子供たちがこの地で人知れず殺された。願わくばこの地が永遠に人類にとっての絶望と警告の叫びならんことを」と記された新しいものに替えられている。

ホロコースト否認論者たちはこの数字の不一致にとびつき、殺されたユダヤ人の数は少なくとも実際より250万は少ないはずだと主張し、まさにホロコーストの犠牲者数が誇張されている動かぬ証拠だと主張した。

しかし、サイモン・ウィーゼンタール・センターによると、犠牲者の数が以前の石碑の場合と比べて少なく表されるようになったのは、ソヴィエト連邦が「アウシュヴィッツ=ビルケナウでの非ユダヤ人の死者数を意図的に誇張していた」からである。この石碑はソヴィエト連邦当局によって据えられたものであり、冷戦下で西ドイツ政府と対立していたという事情を考える必要がある。冷戦が終結し、それに伴いポーランド共産主義政権が崩壊した結果、数字が書き換えられたのである。またソ連によって示された400万という数字には、約200万人の非ユダヤ人が含まれていた。なにより、そもそも西側諸国の歴史家たちはこの400万という数字をユダヤ人犠牲者の数を計算するのに用いてきておらず、アウシュヴィッツで殺害された人々の推定数は100万から150万の間で一貫している[47]

『ワールド・アルマナック』によればホロコーストの前後でのユダヤ人人口はむしろ増えているとする点についても、史料を精査することで恣意的な史料操作が認められる。すなわち、1945年から48年の『アルマナック』は唯一利用可能であった1938年のデータを使用しており、1949年版では世界のユダヤ人人口は11,266,600人となっている。その上さらに、1939年時点の世界のユダヤ人人口を上方修正して16,643,120人としている。したがって、これによれば、1939年と1949年とのユダヤ人人口の違いは540万人となる。

加えて、戦争前後のユダヤ人人口は情報源によって大きく数字が異なるが、ホロコースト否認論者たちはその中で自分たちの主張に合致する数字を選択的に採用しており、またその情報源が十分信頼できるものであるかの評価を避けている。例えば、『ワールド・アルマナック』の示す世界のユダヤ人人口は1982年版では14,318,000人、1990年版では18,169,000人、1996年版では13,451,000人となっている。すなわち、1982年から1990年の間に370万人のユダヤ人が増加し、逆に1990年から1996年の間に450万人のユダヤ人が消失したのか、それとも『ワールド・アルマナック』が世界のユダヤ人人口を正確に見積る目的においては特に信頼できる情報源ではないか、のどちらかである。一方、アメリカユダヤ人年鑑では1932年版の年鑑で世界のユダヤ人人口を15,192,218人、そのうち9,418,248人がヨーロッパに居住しているとし、それに対して1947年版の年鑑では次のように記されている。

世界のユダヤ人人口の見積はアメリカユダヤ人統一送金委員会 (The American Jewish Joint Distribution Committee) によって整理された(アメリカ合衆国とカナダを除く)。そしてこの見積は現在得られるさまざまな見積の中では最も信ずべきものである。この数字は、ナチスによる550万人以上のヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の結果、世界のユダヤ人人口がその3分の1を失い、1939年の約16,600,000人から1946年の約11,000,000人にまで減少したということを明らかにしている。ヨーロッパでは戦前のユダヤ人人口約9,740,000人のうち推定3,642,000人しか残っていない。

この選択性向はホロコースト否認論者がナチス自身によって作成された文書でさえもしばしば無視してしまう事実につながっている。ヴァンゼー会議でのメモに明示されているように、ナチスはヨーロッパのユダヤ人人口については900万から1100万という数字を使用していた。事実、コルヘア報告にあるように、ナチスは進行中のユダヤ人人口減少を几帳面に記録していた。コルヘア報告では1942年12月中の「最終的解決」の進行状況が示されている。

1937年における世界のユダヤ人総人口は一般的に1700万人前後と見積もられており、そのうち1000万人以上がヨーロッパにいる……1937年から1943年初頭にかけてユダヤ人の数は、部分的には中央ヨーロッパや西ヨーロッパにおける過度のユダヤ人死亡率により、部分的にはここでは脱出した分と数えられているがとりわけより人口の多い東方領土への避難により、推定400万人減少したはずである。だからといって東ヨーロッパ占領地域におけるソヴィエト=ロシア・ユダヤ人の死者についてはその一部しか記録されていない事実は見過ごされてはならない。ヨーロッパ・ロシアの他の地域や前線における死者はまったく含まれていないのである……全体として1933年から、すなわち国家社会主義ドイツ労働者党政権初期の10年間においては、ヨーロッパのユダヤ人はその人口の半分を失ったことになる。

死の収容所での死者数を誇張している複数の例が報告されていることは、事態を複雑にしている。死者数について曖昧な点があると否定論者たちはそれに必ずとびつき、彼らの見解の正しいことを証明するものとして利用している。それにもかかわらず、莫大な数の死者が出た (絶滅対象となった民族的集団、宗教的集団、少数民族や身体的、精神的障害者まで勘定すると実際は1100万人近くに達する) という証拠は主流的な情報源によって示されており、圧倒的である。

[編集] 否認主義の動機の考察

学者や各国政府当局は、ホロコースト否認論者が、圧倒的な証拠が存在しているにもかかわらずこのような悲劇は単なる空想に過ぎないと描写しようとする努力を続ける動機、すなわち「なぜ人々はホロコーストを否認するのか?」という疑問を追求している。

米国の国家社会主義白人党指導者ハロルド・コヴィントン (Harold Covington) が1996年7月24日、多数のネオナチ支援者(多くは人種差別的思想を背景にしたホロコースト否認論者)に送った電子メールでは、この「なぜ?」という質問に対する最終的な答えを示している。この答えは、否認論批判者の多くが用いている論法と同じである。

ホロコーストを除いたら何が残るだろうか?連中にとって大事なホロコーストがないとしたら、ユダヤ人とはいったい何だ?人類の歴史にとって最も大規模で皮肉なペテンを犯す国際的な無法者、暗殺者、不法占拠者の汚い小集団に過ぎない……数年前に私は歴史修正主義についてのテレビ番組を観たことを覚えている。そこではデボラ・リプシュタットの次のような趣旨の発言で終わっていた。「ホロコースト修正主義の真の目的はナチズムを容認できる政治的選択肢の一つとすることにある。」私は通常ユダヤ人の言うことは一切信じないが、そのとき私がこう叫んだことを思い出す。「ビンゴ!その通りだ!このレディーに葉巻を一本!」

ハロルド・コンヴィントン「修正主義について」(ウィンストン・スミスのペンネームで書かれた)、NSNet Bulletin 第5号、1996年7月24日

[編集] ホロコースト否認を禁じる法律

ホロコースト否認は次のヨーロッパ10カ国で違法である。フランス (Loi Gayssot) 、ベルギー (Belgian Negationism Law) 、スイス (刑法261条bis ) 、ドイツオーストリア (article 3h Verbotsgesetz 1947) 、ルーマニアスロヴァキアチェコリトアニアポーランド (国家記銘院1998年12月18日議決法第55条) 。ホロコースト否認はイスラエルでも違法である。カナダやイギリスのように、ホロコースト否認を禁止する法律はなくとも名誉毀損や民族間の憎しみの助長を禁止する法律がある国も存在する。

ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されているが、人種差別禁止法を名目に「ホロコースト否定」を取り締まる国もある。国際人権規約批准国では、B規約20条2項「国民的、人種的または宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」を根拠とする以外に、基本的人権たる表現の自由を制限することが難しい。このため、ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることが多い。2005年11月にオーストリアにおいてホロコーストの事実性を否定してきたイギリス人の歴史家デイヴィッド・アーヴィングが「ナチス政策の正当化とホロコースト否定のため」逮捕された例もある。

1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法130条第3項で禁じられており、オーストリアにも同様の法律がある[48]。これはドイツが第二次大戦の教訓から「自由の敵には自由を与えない」とする、いわゆる「戦う民主主義」を採ったためであるが、同時に国家による「言論弾圧」に対する「嫌悪感」を生み出すとの立場もある。

2003年のヨーロッパ委員会による「サイバー犯罪に関する協約への追加議定書」[49]は、コンピュータシステムを通じて行われる人種差別的で外国人排斥的な行為の犯罪化に関する協約で、第6条に「大量虐殺や人道に対する犯罪の否認、著しい矮小化、是認、正当化」が上げられているが、まだ法律化されていない段階にある。

ホロコースト否認を禁止している国々のうち半分 (オーストリア、チェコ、ドイツ、ルーマニア、スロヴァキア) はホロコーストの加害者である。これらの国の多くのでは、ナチの象徴などナチズムに関連する他の要素も禁止している。加えて、ホロコースト否認を特別に禁止している国々では、ヘイトスピーチを禁じるなど、公的な場での発言を制限する法体系が存在していることが指摘されている。グッテンプラン (D. Guttenplan) によると、これは「米国やイギリス、元イギリス植民地のような判例法 (Common law) の国々と、大陸ヨーロッパの大陸法 (Civil law) の国々との違いである。大陸法の国々では法律は一般により規範的である。また、大陸法の体制下では、裁判官はより多く尋問者として振舞い、証拠を分析するほかに証拠を集めたり提示したりする。」[50]

2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。 『エルサレム・ポスト』(2004年7月20日)の伝えるところでは、ユダヤ人のホロコースト犠牲者は100万人に満たないという内容の博士論文を書いたことがある「ホロコースト否定論者」・パレスチナ解放機構の事務局長アッバース(前首相)を標的として極右政党国民連合が提出した法案であった。

だが、こうした法律では否認論を押しとどめ切れていないのも実情である。というのは、ホロコースト否認論は欧州圏外、とくにアメリカ合衆国において顕著な高まりを見せているためである。それが、インターネットの普及の著しい米国や日本から、隔絶できないネット情報によって逆輸入されている。米国では、民間の人権擁護団体が経済力によってホロコースト否認論の出版物やインターネットサイトをなくそうとしているが、そのたびに類似のインターネットサイトが乱立し、逆にそれが話題性を作ってしまいホロコースト否認論を広めてしまっているところがある。

[編集] ホロコースト否認論と表現の自由の関係

ホロコースト否認論者の多くは彼らの著作は「自由な表現の普遍的な権利」の下に収まると主張し、これらの法律を自分たちの信条の裏づけとみなして、真実は法律で強制される必要はないと主張している。ホロコーストが起きたことを否定しない人々のうちにもそのようにして表現の自由を制限することに反対している人がいる。代表的な人物としてノーム・チョムスキーがあげられる。セルジュ・ティオンがはっきりした承諾もなくチョムスキーの論文の1つをホロコーストを否認する論文を収めた本のはしがきとして利用して騒動となった (Faurisson affair)。

表現の自由を主張する人物の中には、デイヴィッド・アーヴィングと法廷で闘ったデボラ・リプスタットもいる。しかし、実際にはケーブルテレビ局 C-Span がアーヴィングとの法定闘争を扱った彼女の著書を取り上げた際、一方の当事者であるアーヴィングのインタビューも放送しようとしたことに対し猛烈な抗議を行い中止に追い込み、公平な両論の提示を妨害しているとの指摘もある。

ホロコースト否認論者たちは自分たちの言説や出版物に対する刑罰に直面すると、時に、人権と基本的自由の保護のための条約 (欧州人権条約) の第10条に頼ろうとする。この第10条は表現の自由を保障するものである。しかし欧州人権裁判所は否定論者の訴えを認容できないものだということで首尾一貫している。欧州人権条約の第17条によると、この条約のどの条項も、その中に表現されている権利や自由を少しでも侵害することを狙いとする行為を正当化する目的で解釈される可能性はない。人道に対する罪を広めるために表現の自由を引き合いに出すことは、欧州人権裁判所の判例によると、まず第一に欧州人権条約が採択された精神に反することになる。したがって、こういった事例において自由表現を当てにすることは基本的権利の乱用である。

日本では、1994年、筑紫哲也がTBSのNEWS23のテレビコラム「多事争論」においてホロコースト否認に対する言論規制の問題に触れ、ドイツにおける言論規制強化を「他山の石」と呼んで、一定の共感を表明した。木村愛二は『アウシュヴィッツの争点』(1995年)の中でこうした言論規制の動きに警鐘を鳴らし、西岡昌紀も『アウシュウィッツ「ガス室」の真実』(1997年)の中で、ホロコースト否認論者に対する言論規制の動きを「ファシズムと呼ぶべきもの」と呼んで批判した。江川紹子はマルコポーロ事件の直後、月刊『』(1995年4月号)において、マルコポーロの西岡の記事を支持しないと明言した上で、サイモン・ヴィーゼンソール・センターが文芸春秋に対して行なった広告ボイコットの手法を「民主主義の枠を超えている」と述べて非難している。月刊誌『噂の真相』は、マルコポーロ事件後文春で行われたセミナーを批判する記事において、この問題を巡る言論弾圧の空気を批判している。このほか、ジャーナリストの長岡義幸などもこうした言論規制の動きを批判している。一方、これに対して、見直し論を批判する歴史学者などはこうした言論規制の是非については沈黙する傾向が目立つ。また、『正論』、『諸君!』などに頻回に執筆する保守系言論人も、この問題を巡る言論規制の問題については態度を不鮮明にしている。こうしたホロコーストを巡る言論の自由と規制の現状については、フリー・ジャーナリストの田中宇が、歴史上の事実関係については見解を述べない形で中立的な視点から総括した「ホロコーストをめぐる戦い」(2005年12月20日)を自らのメールマガジンで発表している。

[編集] 他のジェノサイド否認

他のジェノサイドや虐殺の行為はホロコースト否認と似た形の否認と矮小化が試みられている。[要出典]これらの行為をリスト化すると非常に大きいものになり、証拠を得ることはしばしば困難である。これは政府が否認に加担していたりするからである。例えばネイティヴアメリカン研究の分野における議論好きな学者で活動家のウォード・チャーチル (en:Ward Churchill) は、ホロコースト否認の概念は、ロマのような他の人々もナチに絶滅させられそうになったことの重大性と、ネイティヴ・アメリカンが抹殺されそうになった事例のような他の「ホロコースト」が置き去りにされている事実に当てはまると断言している。

以下の事例は「ジェノサイド」とされるものであって「ジェノサイド」であったかどうかは関係ない。また在否について議論があるものもある。

他の例のいくつかは次のようなものである:

  • 日中戦争中およびその前後に上海南京などでおこなわれた中国政府による漢奸狩り
  • 日中戦争中、日本軍が行ったとされる南京大虐殺。(議論あり。南京大虐殺論争を参照)
  • 中華人民共和国では、現在に至るまでチベット大虐殺を否認している。
  • トルコによるアルメニア人虐殺はトルコ政府が否認している。トルコの歴史家たちは約50万人のトルコ人がアルメニア人によって殺害されこの状況の結果として東アナトリアのトルコ人がアルメニア人を殺害し始めたのだと言っている。オスマン・トルコ政府は、自分たちはアルメニア人をシリアに移送することでジェノサイドを防いだのだと主張していた。2005年にトルコ政府は公文書を公開し、それらを英語に翻訳した。タイイップ・エルドアン (Tayyip Erdoğan) 大統領はアルメニア政府も公文書を公開すべきだと述べた。エルドアンはトルコ・アルメニア委員会はジェノサイドが行われたのかどうかについて議論して結論を出すべきだと述べた。トルコの著述家の一部はアルメニア人虐殺に関する国家の公式見解に対抗したために迫害されているが、トルコはヨーロッパ連合 (EU) への加盟を目指しているので、現在の状況は近い将来その様相を変化させる可能性がある。
  • 第二次世界大戦中のクロアチア人組織のウスタシャ (en:Ustaše) がヤセノヴァツ (en:Jasenovac) その他の場所で何十万人ものセルビア人を殺害したことは、クロアチア大統領のフラニョ・トゥジマン (en:Franjo Tuđman) や現在のクロアチアの多くの人々が否認するか、数を少なくする傾向がある。
  • 民主カンプチア (en:Democratic Kampuchea、現カンボジア) でクメール・ルージュによって組織的に行われた大量殺害はジェノサイドとしてほとんどあまねく知れ渡っているが、これは現在の評論家のうち、特に政治的に左派に属する人々によって否認されるか矮小化されることがある。ノーム・チョムスキーを批判的に見る人々は、チョムスキーがそういう否認や矮小化をしているとして非難している (1, 2) 。チョムスキーの見解は主としてクメール・ルージュの対抗者たちに対する嫌悪に根ざしており、チョムスキーは彼らを帝国主義者と看做している。人身攻撃 (en:Argumentum ad hominem) 参照。チョムスキーは現在、カンボジアで起こったことをジェノサイドと呼んでいる。ノーム・チョムスキーへの批判 (en:Criticism of Noam Chomsky) を参照。
  • 1975年から1999年までの期間がインドネシア東ティモールを支配していたが、そのときインドネシアによって行われた虐殺行為もまた否認されている。犠牲者20万人という数字は、東ティモールのカトリック教会により1982年に初めて差し出されたものであるが、もともと70万人近くいた人口の3分の1近くに相当する。この数字は誇張だとしてインドネシア政府が拒絶している[2]が、東ティモールの受容・真実・和解委員会による2006年1月の報告書では18万人という数字が示されている[3]
  • ボスニア・ヘルツェゴビナセルビア系住民によるスレブレニツァの虐殺は、セルビア人の民族主義者の間では存在の否定したり事実を矮小化したりする主張があるものの、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 (ICTY) では「検察 対 クルスティッチ」と題された刑事訴訟事件でその事実が容認されている。

元米国国務省職員で「ジェノサイド・ウォッチ」 (Genocide Watch) の創設者であるグレゴリー・スタントン (Gregory H. Stanton) はジェノサイドの展開をリスト化して、否認をその最終段階としている: 「否認はジェノサイドに必ず引き続く8つめの段階である。これはさらに大量殺人的な虐殺に対する最も確実な指標の1つである。ジェノサイドを犯した者は墓穴を掘り返し、遺体を焼却し、証拠を隠し、目撃者を脅迫する。彼らは1つの犯罪にも関わっていないと主張し、しばしば犠牲者に起きたことを非難する。」[51]

[編集] 脚注

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  1. ^ Berger, p 154
  2. ^ Negationism is the denial of historic crimes. The word is derived from the French term Le négationnisme, which refers to Holocaust denial.
  3. ^ Omer Bartov, The Holocaust: Origins, Implementation and Aftermath, Routledge, p.12
  4. ^ Gord McFee, Holocaust History Project, Why Revisionism Isn't
  5. ^ 1969年にアーヴィングは、ドイツ人劇作家ロルフ・ホッホヒュース (Rolf Hochhuth) がポーランドのシコルスキ将軍殺害についてウィンストン・チャーチルを糺弾する発言を支持した。この際、デイリー・テレグラフ紙は記者全員にメモを回し、今後はアーヴィングを「歴史家」ではなく「作家」と位置づけるよう指示した。Richard Ingram Irving was the author of his own downfall in The Independent 25 February 2006.
  6. ^ イギリスのニュースメディアにおいてアーヴィングを「修正主義者」とした例。
  7. ^ Michael Shermer and Alex Grobman, Denying History: Who Says the Holocaust Never Happened and Why do they Say it? University of California Press
  8. ^ Deborah E. Lipstadt, History on Trial, Harcourt:2005 ISBN 0060593768
  9. ^ Martin Perry, Anti-Semitism, Palgrave: 2002
  10. ^ Phyllis B Gerstenfeld, Diana R Grant, Crimes of Hate. Sage Press, 2003, p 191
  11. ^ Deborah Lipstadt, Denying the Holocaust: The Growing Assault on Truth and Memory 1994
  12. ^ Richard J. Evans, Lying About Hitler: History, Holocaust, and the David Irving Trial, Basic Books, 2002 ISBN 0465021530.
  13. ^ Journal for Historical Review, 1993, 13, 5, p. 32
  14. ^ Paul Raber, San Francisco Express, January 17, 1992, page 4.
  15. ^ Kevin Coogan, HITLIST, April/May 2002, Berkeley CA, USA [1]
  16. ^ Lipstadt, History on Trial
  17. ^ BBC Report Holocaust Denier is Jailed, February 20, 2006
  18. ^ Richard Joseph Golsan, Vichy's Afterlife, University of Nevada Press, 2003, p 130
  19. ^ See, for example, Omer Bartov, A Tale of Two Holocausts. Review of The Holocaust Industry, by Norman Finkelstein. New York Times Book Review 6 Aug. 2000
  20. ^ 石田夫訳『記憶の暗殺者たち』人文書院1995年p66。
  21. ^ Jewish Virtual Library, MEMRI, ICT.
  22. ^ Amiram Barkat, "Iran pledges to finance Hamas-led Palestinian government", Haaretz
  23. ^ Was Abu Mazen a Holocaust Denier? By Brynn Malone (History News Network)
  24. ^ Abu Mazen: A Political Profile. Zionism and Holocaust Denial by Yael Yehoshua (MEMRI) April 29, 2003
  25. ^ "It seems that the interest of the Zionist movement, however, is to inflate this figure [of Holocaust deaths] so that their gains will be greater. This led them to emphasize this figure [six million] in order to gain the solidarity of international public opinion with Zionism. Many scholars have debated the figure of six million and reached stunning conclusions—fixing the number of Jewish victims at only a few hundred thousand." A Holocaust-Denier as Prime Minister of "Palestine"? by Dr. Rafael Medoff (The David S. Wyman Institute for Holocaust Studies). Abu Mazen and the Holocaust by Tom Gross. PA Holocaust Denial by Itamar Marcus (Palestinian Media Watch). Can Israel survive if it does not defend itself? by Francisco Gil-White (Historical and Investigative Research).
  26. ^ Interview with Mahmoud Abbas by Akiva Eldar, Haaretz. March 30, 2006
  27. ^ ADL on Holocaust Denial, MEMRI
  28. ^ http://www.likud.nl/extr225.html
  29. ^ CNN, Iranian leader: Holocaust a 'myth'
  30. ^ http://www.expatica.com/source/site_article.asp?subchannel_id=52&story_id=26268&name=German+parliament+slams+Ahmadinejad+remarks
  31. ^ Muslim Public Affairs Council
  32. ^ Al Jazeera, "Hamas springs to Iran's defence"
  33. ^ 梶村太一郎ほか『ジャーナリズムと歴史認識』凱風社、1999年、201-288頁。
  34. ^ Sophia Chang Times Ledger, December 16, 2004
  35. ^ Golsan, 130
  36. ^ BBC News, Annan condemns Holocaust denial, January, 2006
  37. ^ Niewyk, 1992
  38. ^ Wilhelm Heitmeyer and John Hagan, International Handbook of Violence Research, Springer: 2003
  39. ^ Deborah Lipstadt, 1992 interview with Ken Stern of the American Jewish Committee
  40. ^ 石田靖夫 P・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』人文書院1995年p21、p27
  41. ^ http://www.holocaust-history.org/auschwitz/hoess-memoirs/
  42. ^ http://www.holocaustchronicle.org/StaticPages/149.html
  43. ^ http://www.nizkor.org/hweb/orgs/polish/institute-for-forensic-research/
  44. ^ http://www.nizkor.org/hweb/orgs/polish/institute-for-forensic-research/table-seven.html
  45. ^ 例えば歴史見直し研究所のホロコーストに関する疑問リストを参照。
  46. ^ http://motlc.wiesenthal.com/site/pp.asp?c=gvKVLcMVIuG&b=901829
  47. ^ http://www.nizkor.org/features/techniques-of-denial/four-million-02.html
  48. ^ 「民主主義に敵対する言論や結社の自由は認めない」という理念は極右と極左の双方に向けられており、旧西ドイツの最高裁判所は1956年にドイツ共産党に対し解散命令を下した。
  49. ^ http://conventions.coe.int/Treaty/en/Treaties/Html/189.htm
  50. ^ D D Guttenplan, Should Freedom of Speech Stop at Holocaust Denial?, Index of Free Expression, 2005.
  51. ^ Gregory Stanton, Eight Stages of Genocide Denial, Genocide Watch

[編集] 参考文献

[編集] ホロコースト否認論者について

  • Richard J. Evans, Lying About Hitler: History, Holocaust, and the David Irving Trial, Basic Books, 2002 (ISBN 0465021530) . As well as the story of the Irving case, this is an excellent case study on historical research.
  • Deborah Lipstadt, Denying the Holocaust: The Growing Assault on Truth and Memory, Plume (The Penguin Group) , 1994. Debunking Holocaust revisionism.(デボラ・リップシュタット著、滝川義人訳『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者の嘘ともくろみ』恒友社、1995年)
  • Donald L. Niewyk, ed. The Holocaust: Problems and Perspectives of Interpretation, D.C. Heath and Company, 1992.
  • Robert Jan Van Pelt, The Case for Auschwitz: Evidence from the Irving Trial. ISBN 0253340160
  • Michael Shermer and Alex Grobman, Denying History: Who Says the Holocaust Never Happened and Why do they Say it? University of California Press ISBN 0520234693
  • MichaelShermer: Why People Believe Weird Things: Pseudoscience, Superstition, and Other Confusions of our Time, Freeman, New York 1997
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  • "Syrian Holocaust Denial" by Mohammad Daoud, Syria Times September 6 2000, retrieved November 08 2005
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  • "Palestinian Holocaust Denial" Reuven Paz, Peacewatch 21 April 2000, retrieved November 08 2005
  • Abbot A., Holocaust Denial Research Disclaimed, «Nature» v. 368, 1994
  • Till Bastian , "Auschwitz und die «Auschwitz-Lüge». Massenmord und Geschichtsfälschung", Beck’sche Reihe München, 1994
  • Francesco Germinario: Estranei alla democrazia. Negazionismo e antisemitismo nella destra radicale italiana, BFS Editore, Pisa 2001
  • Francesco Rotondi: Luna di miele ad Auschwitz. Riflessioni sul negazionismo della Shoah. Edizioni Scientifiche Italiane, Napoli, 2005
  • Valentina Pisanty: L’irritante questione delle camere a gas. Logica del negazionismo, Bompiani, Milano 1998
  • Jean Claude Pressac: "Les carences et incohérences du Rapport Leuchter" «Jour J., la lettre télégraphique juive», 12 decembre 1988
  • Jean Claude Pressac: Auschwitz: Technique and operation of the gas chambers, The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989
  • Jean Claude Pressac "Les Crématoires d’Auschwitz: La Machinerie Du Meurtre De Masse", CNRS editions, Paris 1993
  • Pierre Vidal-Naquet: Les assassins de la mémoire, La Découverte, Paris 1987
  • Pierre Vidal-Naquet:Qui sont les assassins de la mémoire? in Réflexions sur le génocide. Les juifs, la mémoire et le présent, tome III.La Découverte 1995.
  • Brigitte Bailer-Galanda, Wilhelm Lasek: Amoklauf gegen die Wirklichkeit. NS-Verbrechen und revisionistische Geschichtsschreibung.Wien, 1992
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  • Ted Gottfried:Deniers of the Holocaust: Who They Are, What They Do, Why They Do It, Brookfield Conn Twenty-First Century Books, 2001
  • Henry Rousso: Le dossier Lyon III : le rapport sur le racisme et le négationnisme à l’université Jean-Moulin. Paris, 2004
  • Nadine Fresco:Les redresseurs de morts.Chambres à gaz: la bonne nouvelle. Comment on révise l'histoire. Les Temps Modernes, 407, juin 1980
  • Nadine Fresco: "The Denial of the Dead On the Faurisson Affair"1981
  • Georges Bensoussan: Négationnisme et antisionnisme: récurrences et convergences des discours du rejet.Revue d'histoire de la Shoah, 166, mai-août 1999. Centre de documentation juive contemporaine 1999
  • Valérie Igounet:Dossier «Les terroirs de l'extrême-droite»: Un négationnisme stratégique, Le Monde diplomatique (mai 1998)
  • Pierre Bridonneau: Oui, il faut parler des négationnistes, Éditions du Cerf 1997
  • ティル・バスティアン著、石田勇治星乃治彦芝野由和編著『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(白水社1995年、白水Uブックス2005年)

[編集] ホロコースト否認論者ごと

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] ホロコーストの全部または一部を否定しているウェブサイト

[編集] ホロコースト否認に関する報告と批判

[編集] ホロコースト否定論者たちに利用された議論の方法に関する風刺 (英語)

[編集] ホロコースト生存者による証言 (音声 - 英語)

  • Audio Testimony of Dr. Walter Ziffer, Recorded April 11, 2004 2004年4月11日現在ノース・カロライナ州のアッシュヴィル (Asheville) に住んでいるウォルター・ジファー (Walter Ziffer) 教授による討論。収容所での生活とホロコースト修正主義思想について。