本多勝一

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ほんだ かついち
本多 勝一
生誕 1932年1月28日(82歳)
日本の旗 日本 長野県
出身校 千葉大学薬学部卒業、京都大学農学部卒業(中退説あり)
職業 ジャーナリスト

本多 勝一(ほんだ かついち、1932年[1]1月28日 - )は、日本ジャーナリストである。

人物[編集]

青少年時代[編集]

長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる。少年時代は自然に親しむ一方、漫画を描くことを趣味にしていた。第二次世界大戦中、日本軍が秘密兵器でアメリカ合衆国本土に上陸する漫画を描いていたが、その途中で日本が降伏してしまったという。手塚治虫を師と仰ぎ、手紙を出して返事を貰い、紙上で漫画の描き方を指導されたこともある。現在でも手塚作品を宮崎駿のアニメと並んで高く評価している。

1950年昭和25年)3月、長野県飯田高等学校卒業。高校在学中は京都大学木原均にあこがれて生物学を志すも結局進学できず1954年昭和29年)3月に千葉大学薬学部を卒業し薬剤師免許取得後、1954年4月に京都大学に進学したとされる。この当時の事情について、インタビュー(著書「貧困なる精神」に収録)の中で本人が語るところによると、生物学と遺伝学の勉強をするため農学部への進学を希望していたが、父親が、経営する雑貨店で医薬品の調剤と販売をするため、理系に強かった息子に薬学部への進学と薬剤師の免許取得を強く希望した。このため父親と対立し、親の商売の都合により希望していない学部に進学するくらいなら大学に行かないと宣言した。その後、父親から、薬学部へ進み薬剤師免許取得をした後に好きな学部へさらに進学しても良いという妥協案が出され、これに従うことになった。そして千葉大卒業後に京都大に入学。京都大学では山岳部に所属し、のち探検部の創設にかかわったとされている。探検部時代にヒマラヤ山脈からヒンドゥークシュ山脈奥地にかけての合同調査隊に加わり、その体験をまとめて初の著書となる『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』を刊行した(1958年角川書店)。京大探検部を朝日新聞社が援助したところから朝日新聞と縁が生じ、同年10月朝日新聞東京本社校閲部に研修生として途中入社。このため京都大学のほうは卒業していないらしいとも言われている。推薦人は朝日新聞社主上野精一だった。同期に筑紫哲也がいる。

『朝日新聞』記者時代[編集]

ルポルタージュ活動[編集]

1959年昭和34年)から1962年(昭和37年)まで朝日新聞北海道支社に勤務した後東京本社に転じ、短期間とはいえ現地で実際に生活を共にした上で取材した人類学系の探検ルポ三部作『極限の民族』(『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』)により全国的に高い評価を得た。このうち、『カナダ=エスキモー』の報道については、文藝春秋から第12回菊池寛賞を(藤木高嶺カメラマンとともに)受賞している[2]。この時期の専門分野は自然探検を主題とする文化人類学的なルポルタージュであり、北海道支社時代の記事をまとめた『きたぐにの動物たち』もその一つである。

本多はスター記者としての高い評価を背景に、日本の一般市民にとってアクセスが困難という意味では探検の要素をもつものの、実質的な面においては社会派報道となる分野へと進出した。その最初のものとなるのが1967年(昭和42年)5月から11月にかけて朝日新聞の朝夕刊に6部に分けて連載されたベトナム戦争ルポ「戦争と民衆」であった。この連載はその後1968年(昭和43年)に『戦場の村-ベトナム-戦争と民衆』としてまとめられて刊行され、同年の毎日出版文化賞を受賞している。この路線の延長で特に有名なのは、中国で取材した旧日本軍についての連載記事(その中の1章が南京事件についての記事)を再編集した『中国の旅』で、これは連載当時から大きな反響を呼んだが、これ以後、本多への評価は極端に分かれていくことになった。

「日本語」への関心[編集]

日本語に対する関心も深く、『日本語の作文技術』『実戦・日本語の作文技術』では、読点の打ち方や一つの被修飾部に複数の修飾部を必要とする場合の並べ方といった、分かりやすい日本語を書くための文章の書き方を明確にルールとして提唱している。また、独自の観点からアメリカ合衆国を「アメリカ合州国」と呼ぶこと、また第二次世界大戦占領軍によって強制され定着した方法から日本語として合理的な、桁数の多い数字の4桁区切り表記へ戻ることを主張している。

また、日本において標準語が偏重され方言が軽んじられていることを批判している。一方で、普通語(標準語)以外の地方語が徹底的に弾圧されていた文化大革命期の中国を「共通語と方言(または少数民族言語)との間に階級差別のない関係」を実現したとして賞賛する発言[3]も残している。

なお、本多は大江健三郎の辛辣な批判者として知られるが、その文章にも厳しい批判を加え、「悪文」の典型として指弾している。

野球に対する嫌悪[編集]

スポーツでは野球嫌いで知られている。朝日新聞社では新人は必ずやらされるという高校野球の取材も、「野球は嫌いだ。甲子園は愚劣だ」と言い続けたため、ついにその機会は無かったという。新渡戸稲造の『野球と其害毒』(『東京朝日新聞』連載)の後を承け、『貧困なる精神』のすずさわ書店版第21集は『新版「野球とその害毒」』のサブタイトルで、野球害毒論を説いた。また、本多は野球の守備位置による運動量の差(投手が圧倒的に多い)などを挙げ、「野球は二流スポーツ」と断じている。また、高校野球の過密スケジュールによる選手の酷使についても取り上げている。

プロ野球も嫌悪しており、特に江川事件などを理由にアンチ巨人、親会社(コクド[4])を理由にアンチ西武である。また、広島ファンの筑紫哲也が巨人の金満補強を嘆いて『週刊金曜日』に「野球自体への興味が薄れつつある」と書く[5]と、本多は「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ」と皮肉めいた感想を返した[6]

『週刊金曜日』創刊以降[編集]

朝日新聞社を退職後、1993年平成5年)に筑紫哲也、久野収らと週刊誌『週刊金曜日』を創刊し、現在同誌の編集委員を務めている。著書は朝日新聞時代から退職後に至るまで多数。代表的作品としては『貧困なる精神シリーズ』が知られている。

1994年平成6年)、雑誌『噂の眞相』に木村愛二が「ホロコースト」の内容には再検証の余地があり、「ホロコースト」はイスラエル建国と関わりがあった可能性があると論じた記事「『シンドラーのリスト』が訴えたホロコースト神話への大疑惑」(同誌1994年9月号)を発表。以前から木村と交友があった本多は、木村の問題提起に関心を抱き、木村に『週刊金曜日』誌上で「ホロコースト」を見直す視点からの連載開始を要請した(この連載依頼のファックスは、木村によって公開されている)。しかし、1995年1月にマルコポーロ事件が起きると、『週刊金曜日』誌上で木村を批判、攻撃するキャンペーンを開始した事から、木村から名誉棄損で提訴された(この訴訟は、木村側の実質敗訴で終わっている)。

2002年平成14年)、以前週刊金曜日の編集者だった山中登志子(『買ってはいけない』の著者の一人でもある)に請われて、「独断と偏見を無責任に編集すること」を唱う『月刊あれこれ』創刊編集長に就任した(2003年3月創刊)。本多自身も恋愛を話題にした記事を執筆するなどした[要出典]。『月刊あれこれ』は同年中に休刊し、メールマガジンの形で続刊を出した(月3回発行)。しかしこれも、2008年8月29日号を最後に休刊している。

現役の記者として有名になったときから、公式写真での姿を含めた公の場ではぼさぼさの黒髪(後に白髪)のカツラサングラスを着けた変装をしている。彼自身がインタビューで説明(著書『貧困なる精神』収録)するところによると、「相手は自分の顔を知っているが、自分は相手の顔を知らない」という状態を避けるためである。記者として顔と名前が広く知られてしまうと、対面した人が最初から記者だと分かってしまうので、素顔を隠すことは取材に際して有益である。また、記事や発言に対して反感を持つ者の中に狂信的な者や暴力的な者がいた場合、容貌が判らなければ襲撃を避けられる。この変装については、小林よしのりが、本多が執筆依頼に訪れた際に自身の変装について語った様子を漫画『ゴーマニズム宣言』で描いたことで、広く知られるようになった。漫画では、普通の眼鏡をかけ黒髪が後退した穏やかそうな初老の男性として描かれているが、小林は「そっくりに描くことは避けた」と注釈している。

本多と敵対する論客のなかには長野県長野市(本多の言葉を借りれば『信濃国善光寺平の連中』)出身者がおり、代表的な人物としては日垣隆花岡信昭兵頭二十八があげられる。

生年月日について[編集]

本多の生まれは長野県下伊那郡大島村上新井であるが、生年は著書によって1931年昭和6年)、1932年昭和7年)、1933年昭和8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版(1972年朝日新聞社)によると1931年であり、同書文庫版(1981年朝日新聞社)によると1933年であり、『殺される側の論理』(1982年朝日新聞社)によると1932年であるという。生年月日を記した唯一の資料『現代日本人名録98』によると、1932年1月28日生まれだが戸籍上は1931年11月22日生まれであるという。ただし殿岡昭郎『体験的本多勝一論』(2003年日新報道)によると、1987年3月3日京都地裁で開かれたベトナム僧尼団焼身自殺をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「1933年4月28日生まれである可能性がある」と発言しており、生年月日は未だに明らかでない。『しんぶん赤旗』では1931年生まれと自ら語っている[7]

肯定的評価[編集]

言葉に対する意識[編集]

日本語の数詞呼称に基づいたアラビア数字表記の区切り方の提唱、日本人の英語表記・発声についても姓→名の順にすべきとの主張(他のアジア諸国人については欧米でも姓→名の順にされている。日本のみの特有の表記)、英語をイギリス語、後にはアングル語と呼称する案など、日本に浸透したアングロサクソン系文化の相対化を意図した問題提起を行なっている。英語が世界共通語とされる事への反発があり、自著の冒頭にも、そうした独特の表記ルールを一覧表として掲げている。また、鉄道車内の英語案内放送について、「日本語の地名は、英語風のアクセントイントネーションではなく、きちんと日本語で発音されるべき」との苦情を表明してもいる。本多が日本語に抱くこのような問題意識は、左派寄りの論者には世界における民族国家の対等・平等を目指すものとして歓迎され、右派寄りの論者からも、民族主義的表現として支持されている。これらの主張は、自著『殺す側の論理』『殺される側の論理』にまとめられている。本多の政治的な性向には、第二次世界大戦で敗北して以来の日本の対米従属に反発する反米ナショナリストの色合いが強い。この点は、民族・国家間の支配・被支配関係を嫌う左寄りの思想陣営と、自らの民族に価値観の重心を置く右寄りの思想陣営両方に受け入れられている。常に戦争被害者の側に立つ弱者擁護の立場から、イデオロギーを越えて共感する声も存在している。

少数民族関係[編集]

ベトナム戦争について[編集]

  • 著書『戦場の村』で、世界的にもカメラマン以外のジャーナリストがほとんど赴かなかったベトナム戦争の最前線を取材。ベトナム戦争下のサイゴンの一般家庭に入り込み、戦争の悲惨さを身をもって体験し、それをルポルタージュした。
  • 当時、謎の組織とされていた南ベトナム解放民族戦線を世界のジャーナリストの中で初めて取材した。
  • 『戦場の村』に始まる彼の一連のベトナム戦争ルポ(『北爆の下』『北ベトナム』『ベンハイ河を越えて』『再訪・戦場の村』)は世界各国で翻訳され、ベトナム反戦運動にも大きな影響を与えた。
  • 『ベトナムはどうなっているのか?』で、南北統一後のベトナム社会主義共和国の問題点についても取材している。

中国大陸での日本軍について[編集]

  • 1970年代に『中国の旅』(及びその写真集版『中国の日本軍』)で、日中戦争から太平洋戦争の時期の、中国大陸で日本軍が行ったとされる行為(平頂山事件七三一部隊南京事件三光作戦)を報道した。
  • 同様の問題の裏づけとして、長沼節夫との共著『天皇の軍隊』において、日本軍側からの視点によるルポルタージュも著している。
  • 1980年代には『南京への道』でさらに深く「南京事件」の問題を追求。この問題については共著も多く著している。
  • 度重なる南京事件否定論者からの批判にも、公開書簡を何度も送付するなど徹底した反論を行なっている。
  • 「南京大虐殺」の「ニセ被害者」とされた李秀英の名誉回復を進めた。展転社#李秀英名誉毀損裁判の記事を参照。
  • 家永教科書裁判でも原告(家永)側証人として証言している。
  • 中国における本多の評価は高く、抗日戦争祈念博物館には「日本人の中にはこのように物の分かる人物がいる」と紹介され、著書が丁寧に展示されている。
  • アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』については、記述に多数の誤りがあるとして批判し、日本語版の出版を巡り訂正などを訴えた。

反米・反体制姿勢について[編集]

これについては同調者は次のように見ている。

  • 反米保守など現れる以前から、アメリカ合衆国覇権主義に批判的である。一方、中国や韓国による反日的な主張には一貫して同調する姿勢を維持している[要出典]
  • 軍縮反核運動を支持し、安全保障を論じる保守派に対しては「愚劣」「バカ」などの辛辣な言葉を用いて批判することが多い[要出典]
  • 「反体制」を標榜しつつ、実態は「反自民」との批判もある。極端に左翼的な報道姿勢を続けている[要出典]

登山・探検・冒険について[編集]

  • 登山についての実地体験の本を数々手がけている。
  • 自らの体験もあり、登山家については、未踏峰に挑んだ長谷川恒男などに好意的であるが、親交のあった植村直己については、商業路線に飲み込まれていく点について存命中の対談時から手厳しい評価を下している。植村については、武田文男との共同編集による『植村直己の冒険を考える』(文庫版題名は『植村直己の冒険』)を著している。
  • 堀江謙一が単独太平洋横断を成し遂げた時、日本国内では堀江の「密出国」をとがめる声が多かったが、「冒険家精神」を訴え、堀江を擁護した。石原慎太郎による週刊プレイボーイ誌上での堀江に対するペテン師評価に対しては激しく反論した。
  • また、記録映画監督の斉藤実、報道写真家の石川文洋、プロ・スキーヤーの三浦雄一郎を冒険家として高く評価している。
  • 南極点初到達を争った探検家のロアール・アムンセンロバート・スコットに関する著書『アムンセンとスコット』を著し、その中でアムンセンの探検家としての資質を高く評価している。

その他[編集]

  • 北海道に特別の愛着を持ち、僻地と揶揄されかねないところまで、実際に足を運び、ルポルタージュしている。
  • 少年・少女向けの作文指導をしている。
  • 教育問題(『子供たちの復讐』)、環境問題(『日本環境報告』)など様々なジャンルのルポルタージュを手がけている。
  • 太平洋戦争に関しては、アジアに対しては日本の侵略戦争、英米に対しては帝国主義国家間の覇権争いの戦争だったととらえている。
  • 1980年代末期から1990年代初期の東西冷戦崩壊期には東ドイツソビエト連邦を取材し、ルポルタージュしている。

批判[編集]

中国関連[編集]

1970年代初頭、朝日新聞社内に広岡知男社長や森恭三論説主幹の指導によって安保調査会が結成され、反米親中を旨とする編集方針が定まると共に思想的転回を遂げたとされる。『WiLL2006年8月号p.71によると、この時期の本多は任錫均という朝鮮系の左翼理論家から多大な影響を受けたという(この件に関して、本多自身はいくつかの著書で「被害」と言っている)。

『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が百人斬り競争を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こされた。

2005年8月24日東京地裁は、『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である[8]とし、また「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを指摘した場合」(109頁)が死者に対する名誉毀損の判断基準であるとして、その上で、本多勝一の著述が「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない[9]」と判断して、60年余り前の記事を訂正しなかったことについて先行する違法行為がなく、また、民法724条の除斥期間が経過している[10]として原告の請求を棄却した。原告は控訴したが、2006年5月24日東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は最高裁判所上告したが、2006年12月22日最高裁は上告を棄却した。なお秦郁彦が、犯人とされる旧日本陸軍大尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で100人斬りの捕虜殺害を自ら公言していたと、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。

著書『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけて写真を掲載。しかしこの写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。この写真は南京大虐殺紀念館でも長い間、日本の残虐行為の写真として展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている[11]。また、『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけて写真を掲載。しかしこの写真は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という日本側が撮った写真であったことが示されている[12]

渡部昇一は、本多が在日朝鮮人であり南京大虐殺(南京事件)を盛り上げたと述べ、南京事件は事実無根であるとしている[13]

文藝春秋との裁判[編集]

ベトナム戦争終結後、ベトナムのカントーにある永厳寺で、12人の僧侶が集団自殺をした。これは宗教政策への抗議ではないかとの疑いをもたれた。 この事件を取材した本多は自著で、サイゴン当局の説明では、僧侶が色情によって無理心中事件を起こしたものであり、政治的な背景は無かったということだった、と述べた。

これを受けて殿岡昭郎が、「諸君!」(1981年5月号)において、ベトナム統一仏教会最高委員会に接触し、焼身自殺が共産主義への抗議の殉教である証拠、確証を得たとしたうえ、「本多氏はハノイのスピーカー役を果たしている」として、虚偽を報じたので「筆を折るべきだ」などと批判した。

これに対し本多は、その部分の記述はあくまで当局の側の言い分であることを明記しており、そのうえで、当局の発表をもって結論とはできないとまで書いてあるのだから、殿岡の批判は曲解に基づいたものであると反論し、「諸君!」編集部へ抗議の手紙を送った。

さらに本多は、当時殿岡が助教授を務めていた東京学芸大学に、文を正しく読解せずに非難する学者がいても良いのかという質問状を送付する。これについて、同大学は無視することにしたと殿岡は説明するが、その3ヵ月後に殿岡は同大学を退職している。このことと本多の質問状との関係は不明である。

その後、本多は、「諸君!」の投書欄に反論を投稿したが掲載を拒絶されたため、同誌の発行元である文藝春秋と殿岡を相手取って、東京地方裁判所に損害賠償請求の訴えを起こす。殿岡の本多への批判は、本多が書いた記事の曲解に基づくものであり、その訂正を求めても応じなかった。このため読者に誤解をさせ名誉毀損であるとするものであった。

1992年2月25日、東京地方裁判所は、掲載された文に本多の記事が引用されているため読者には元の文がわかるとして、本多の請求を棄却する判決を言い渡した。

カンボジアについてのルポルタージュへの批判[編集]

1975年のプノンペン陥落直後に相次いで発表した『欧米人記者のアジアを見る眼』『カンボジア革命の一側面』という2本の記事、特に後者の「例によってアメリカが宣伝した 『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。」というくだりとその後の文面の改変が批判派と擁護派の間で論争の的となっているが、擁護派が沈黙した。

本多は当初カンボジアでのクメール・ルージュによる自国民大虐殺について懐疑的で、記事や著作の一部でクメール・ルージュの上層部が事態に関与していない可能性を匂わせていたこともあった。 本多はカンボジアクメール・ルージュに対して批判的な報道をしたニューヨーク・タイムズ紙のシドニー・シャンバーグ記者の記事(後にピューリッツァー賞受賞。映画『キリング・フィールド』も参照)を「欧米人記者の眼による救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない欧米人記者による不幸な記事といえよう」と否定的に論評し、クメール・ルージュがプノンペンの市民を村落部へ強制移住させたことも「搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なこと」と好意的に論評している[14]。 なおこのようにポル・ポトを好意的に評価し、虐殺を否定したのは本多だけでなく、和田俊(ポル・ポト派を「アジア的なやさしさに満ちあふれている」と評価)や井上一久(『朝日ジャーナル』1975年7月11日号にて「ポルポトの虐殺を訴える亡命クメール人には明らかにCIA、DIAの手先とわかるものが多い」と主張)など当時の朝日新聞記者に共通する傾向である。

一方これに対して批判派はプノンペン陥落当時の各種メディアの報道や本多勝一の著作のその後の改訂・変更を調査し、以下のような根拠を挙げて、本多勝一は紛れもなく虐殺否定論者であった、しかもその後その前歴を隠蔽するべく著作を改竄しているとしている。

   "プノンペン陥落と同時に市民への大虐殺が行われた"(本多による原文では「アメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』によって
   全市民がただちに虐殺されたとも思われぬ」)という文言はオリジナル記事発表後10年以上も経ちポル・ポト政権が倒壊して現地調査が
   可能になった1990年の増刷時に書き加えられたものであり、それまで本多の著作に「プノンペン全市民虐殺説」が当時あったことを示す
   文言がない。
    1975年4月(プノンペン陥落)当時、キッシンジャー国務長官を含む米政府の代表者が、プノンペンの「全市民がただちに虐殺された」
   と述べた事実はない。(「全市民」ではないが、相当数が殺戮されたという趣旨のブリーフィングは行なっている。)
    アメリカ政府によるカンボジア情報のブリーフィング内容や同じ時期のシドニー・シャンバーグら米国ジャーナリストによるカンボジ
   ア報道がおおむね正しかったことが後日確認されている。一例として、プノンペン陥落直後に旧政府軍将兵が大量処刑されたと伝えた米
   Time誌1975年8月4日号の記事は、おおむね事実に則したものであったことが後年の本多自身の取材によって裏付けられている。
    本多は『欧米人記者のアジアを見る眼』で一層強硬なクメール・ルージュ擁護と虐殺否定論(「もちろん、合州国のキッシンジャーら、
   ノーベル『平和』賞を受けた詐欺師たちは、プノンペンで解放軍による大虐殺が行なわれたというデマを言いふらした」)を展開してい
   た。『欧米人記者のアジアを見る眼』は後年の『本多勝一著作集』に収録されておらず、『カンボジア革命の一側面』に加えられた改変
   と併せて、1975年当時に本多が虐殺否定発言をしていたことが読者にわからないように操作されている。本多の改定を知った読者有志が
   その真意を問い質す公開質問状を送ったのに対し、2度にわたる督促にもかかわらず編集業務の多忙を理由として1年以上も回答しなかっ
   た(その間にも登山には出かけていた)。
    その後ようやく本多が『潮』に寄稿した弁明文には、かつて自分が「全くウソだった」と書いていたが、それを後の版で書き換えたこ
   とが記されておらず、さらに読者からの質問文そのものも掲載されていないため、事情を知らない読者には意味の通じないものになって
   いる。またこの弁明文は「当時ポルポト派が期待される存在であった」事が自分の虐殺否定の原因になったとの趣旨だが、その一方で
   「検証カンボジア大虐殺」において他のポルポト擁護者を激烈な口調で非難している。更に同書にて虐殺を否定した人間を「似非ジャー
   ナリスト」と評した井上一久も、当時は虐殺を否定していた。

これらの批判に対し、本多擁護派は「ただし実際には陥落=即虐殺ではなく、地方への強制疎開であった」としてさらに弁護を試みている。

また、『カンボジア革命の一側面』や『中国の旅』などの自著の内容を、特に注記せずに「時代の変化に合わせる」として変更していることを「改竄」として批判する向きもある。

以下はそのひとつとされる『カンボジア革命の一側面』の書き換えの一例である。

   「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や
   反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。」
   →「アメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中
   にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」

このような書き換えを本多勝一が読者に明記せず行なっていることについては、『週刊金曜日』の初代編集長を務めた和多田進や、本多の著作を多数刊行していることで知られるすずさわ書店の経営者・大矢みかも「本多さんの態度がフェアだとは思えません」と明言している。

その他、括弧の付加・除去、名詞の前に「自称」という字句を挿入、「~とされている」、「~はずである」、「少なくともタテマエとしては」などの字句の挿入、「全くウソだった」、「深い感動を覚えながら」、「驚いた」などの削除、「大問題だ」、「強く批判してゆくべきだ」などの挿入も多数行なっている。これらは一貫して、かつて本多が手放しで社会主義、特に毛沢東政権を礼賛していた筆致を和らげる方向での書き換えとなっている、と批判者は見ている。

以下は『中国の旅』の書き換えの一例である。

   「この宣伝隊はプロレタリア文化大革命中に各地で組織され、修正主義追放に重要な役割を果たした。」
   →「プロレタリア文化大革命中に各地で組織され、『修正主義追放』に重要な役割を果たした。」

週刊金曜日編集、経営面での批判[編集]

『新潮45』2000年12月号で、週刊金曜日を退社した元社員の西野浩史は「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」という文章を発表し、

  • 井上ひさしが編集委員を退任した理由に「本多が(井上の友人である)大江健三郎を強く批判しているのに板ばさみになった」というものがあったにもかかわらず、それを隠蔽し「超多忙」などの理由とした。
  • ホロコースト否認に強い興味を抱いた本多は、その立場に立つ木村愛二の論文を掲載しようとしたが、周囲に強く反対され、やむを得ず掲載を見送った。本多は、西野の面前で「“木村愛二の原稿を載せるな”と言われた。編集長が副編集長に折れることがリベラルなのか」などと直接反対したMデスクについて批判した。
  • 週刊金曜日社内で結成された労組にきわめて冷淡で「過半数になったら会社を転覆させる気か」などの言葉を投げつけた。

など、直接自分が体験したこととして回想している。

西野の批判に対して本多は沈黙しており、反論を行っていない。

その他[編集]

NHK受信料支払拒否[編集]

本多はNHK受信料支払い拒否を古くから行って来た一人である。本人は「運動としてやっているわけではない」と称しているが、著作を通じて広く知られており、NHK営業担当者と非公式に対談したこともある。受信料拒否のパイオニアの一人といってもよいだろう。提言に共感した人々が「NHK視聴者会議」(NHKによる「視聴者会議」ではない)というグループを作っている。なお本人は、自宅にテレビがあることを明言している。

本の内容[編集]

最初に、郵政省(当時)の省内誌の原稿を頼まれるところから話は始まる。その原稿に「受信料は払わなくて良い」と書き、当然の如く不採用となる。そしてNHK受信料拒否運動のシンボルのようになり、「NHK職員の奥さん」からクレームの電話がかかってきたりする。そういったエピソードがユーモラスにつづられる。

年賀状[編集]

本多は年賀葉書は通常より安価にすべきと主張しており、敢えて年賀状ではなく「寒中見舞い」状を出す習慣を続けている。

しかし、昭和天皇の病気による自粛が続いていた1989年は、自粛への反発からわざと年賀状を出した。

リクルート接待問題[編集]

1996年、フリージャーナリストの岩瀬達哉が、講談社の雑誌『Views』に発表した「株式会社朝日新聞社の研究」(後に「朝日新聞社の研究」と改題して『新聞が面白くない理由』に収録)において、本多および疋田桂一郎ら朝日新聞記者が1987年の安比高原スキー場へのスキー旅行に際して、ホテル代やリフト券代、江副浩正との会食などの接待を受けていたと報じた。同行した記者の一人の配偶者が、当時安比高原スキー場を運営していたリクルートコスモスの幹部であり、さらに翌1988年発覚のリクルート事件において、政治家らへ譲渡された未公開株はリクルートコスモス株であった。本多は自身が編集長を務める雑誌『週刊金曜日』や、雑誌『噂の真相』での自身の連載記事・コラムで岩瀬の記事を捏造記事だと反論した上、岩瀬に対し「講談社番犬」「狂犬」「売春婦よりも本質的に下等」「(フリージャーナリストは)卑しい職業」といった言葉を浴びせた。このため、岩瀬から名誉毀損で提訴され、本多も反訴した。裁判は双方の控訴・上告を経て2005年3月の上告棄却で確定し、双方が損害賠償を命じられたが、確定内容となった2004年9月の東京高裁判決において、本多らの支払った金額は費用の半額程度であり接待自体は存在したと認定された(岩瀬の名誉毀損は、本多らが全く支払っていなかったとする記述に対する名誉毀損)。さらに、本多に対して命じられた賠償金額は、岩瀬に対してのものを上回った。

なお、本多が連載コラム中において反論を執筆し続けた雑誌『噂の眞相』は、1998年10月にリクルート接待問題についての特集記事を組んだ。徹底した調査の結果、「貴殿(本多)らがリクルートから接待旅行を受けたことは明白な事実である」と認定し、真実は曲げられないと判断した上で、本多の連載を打ち切った。

政治的スタンス[編集]

2001年の日本共産党の集会で来賓として挨拶し、政党が離合集散してばかりいる中で、一貫している政党は日本共産党だけであるから、シンパとか追従ではない現実的な選択として、日本共産党を応援するしかないと述べた。

2010年6月日本共産党機関紙の『しんぶん赤旗』6月号外に支持者の一人として名前を連ねている[15]。2008年2月1日の「赤旗」創刊80周年によせての寄稿では、新聞をとるなら「赤旗」も併読紙として重要だと購読をすすめている。[16]

2010年9月12日付の「しんぶん赤旗」「読者の広場(投書欄)」に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判する投書を行っている。

住所[編集]

2013年現在、長野県下伊那郡松川町在住。

著書[編集]

  • 『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』角川書店 1958
  • 『カナダ・エスキモー』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1963 のち講談社文庫、朝日文庫  
  • 『ニューギニア高地人』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1964 のち講談社文庫、朝日文庫  
  • 『エスキモー探検記』あかね書房 少年少女20世紀の記録 1965 
  • 『アラビア遊牧民』藤木高嶺写真 朝日新聞社 1966 のち講談社文庫、朝日文庫  
  • 『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』朝日新聞社 1968 のち文庫 
  • 『冒険と日本人』二見書房 1968 のち集英社文庫、朝日文庫  
  • 『生きている石器時代 ニューギニアに人食い部落をもとめて』偕成社 少年少女ドキュメンタリー 1969 
  • 『きたぐにの動物たち』実業之日本社 1969 のち集英社文庫、朝日文庫  
  • 『北爆の下 ベトナムー破壊対建設』朝日新聞社 1969
  • アメリカ合州国』朝日新聞社 1970 のち文庫 
  • 『初めての山』二見書房 1970
  • 『殺される側の論理』朝日新聞社 1971 のち文庫 
  • 『事実とは何か』末来社 1971
  • 『愉しかりし山』仮面社 1971
  • 『ぼくは報道する 民族のすがた・声』筑摩書房 1971 ちくま少年図書館
  • 『山を考える』実業之日本社 1971 のち朝日文庫 
  • 本多勝一著作集』全10巻 すずさわ書店 1972-77 
  • 『殺す側の論理』すずさわ書店 1972 のち朝日文庫 
  • 『戦争を起こされる側の論理』現代史資料センター出版会 1972
  • 『中国の旅』朝日新聞社 1972 のち文庫 
  • 『中国の日本軍』創樹社 1972 
  • 『NHK受信料拒否の論理』未来社 1973 のち朝日文庫 
  • 『北ベトナム』朝日新聞社 1973 
  • 『本多勝一対談集』すずさわ書店 1973
  • 貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』全23集 すずさわ書店 1974-93  
  • 『ベンハイ川を越えて』写真石川文洋 朝日新聞社 1974
  • 『再訪・戦場の村』朝日新聞社 1975
  • 『そして我が祖国・日本』すずさわ書店 1976
  • 『日本語の作文技術』朝日新聞社 1976 のち「実戦・日本語の作文技術」文庫 
  • 『ベトナムはどうなっているのか?』朝日新聞社 1977 
  • 『カンボジアはどうなっているのか?』すずさわ書店 1978
  • 『初めての旅』スキージャーナル 1979  
  • 『北海道探検記』すずさわ書店 1979 のち集英社文庫 
  • 『ルポルタージュの方法』すずさわ書店 1980
  • 『カンボジアの旅』朝日新聞社 1981  
  • 『ルポ短篇集』朝日新聞社 1981  
  • 『わかりやすい文章のために』すずさわ書店 1981
  • 『旅立ちの記』講談社 1982 のち文庫 
  • 『憧憬のヒマラヤ』1982 集英社文庫 のち朝日文庫 
  • 『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』1983 潮文庫 のち朝日文庫 
  • 『食事と性事』1983 集英社文庫  
  • 『そして我が祖国・日本』朝日新聞社 1983    
  • 『麦とロッキード』1983 講談社文庫   
  • 『職業としてのジャーナリスト』朝日新聞社 1984
  • 『日本人は美しいか』1985 講談社文庫   
  • 『アムンセンとスコット 南極点への到達に賭ける』教育社 1986
  • 『五〇歳から再開した山歩き』朝日新聞社 1987 のち文庫
  • 『南京への道』朝日新聞社 1987 朝日ノンフィクション のち文庫 
  • 『山とスキーとジャングルと』山と渓谷社 1987
  • 貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』A~S集 朝日新聞社 1988-2004 
  • 『山登りは道草くいながら』実業之日本社 1988
  • 『検証・カンボジア大虐殺』1989 朝日文庫
  • マゼランが来た』谷川明生写真 朝日新聞社 1989 のち文庫 
  • 『ドイツ民主共和国』朝日新聞社 1990
  • 『日本環境報告』1992 朝日文庫
  • 『アイヌ民族』朝日新聞社 1993 のち文庫 
  • 『先住民族アイヌの現在』1993 朝日文庫
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』Z、Y集 毎日新聞社 1993-94
  • 本多勝一集』全30巻 朝日新聞社 1993-99   
  • 『貧困なる精神 X集 (大江健三郎の人生)』毎日新聞社 1995
  • 『貧困なる精神 W集 (天才と秀才)』毎日新聞社 1996
  • 『滅びゆくジャーナリズム』1996 朝日文庫
  • 『五五歳のときに登った山山』朝日新聞社 1997
  • 『はるかなる東洋医学へ』朝日新聞社 1997 のち文庫 
  • 『リーダーは何をしていたか』朝日新聞社 1997 朝日文庫
  • 『六〇歳の記念に登った山山』悠々社 1997
  • 『母が泣いた日』光文社 1999
  • 『マスコミかジャーナリズムか』2000 朝日文庫
  • 『新・アメリカ合州国』2003 朝日文庫
  • 『わかりやすい日本語の作文技術 大活字版』オークラ出版 2003
  • 『さようなら 惜別の譜』影書房 2004
  • 『中学生からの作文技術』2004 朝日選書
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』T~V集 金曜日 2006-10
  • 南京大虐殺と日本の現在』金曜日 2007
  • 『俺が子どもだったころ』朝日新聞社 2008
  • 『新聞と新聞記者のいま』新樹社 2008
  • 『六五歳ますます愉しい山山』朝日新聞出版 2009
  • 『新・貧困なる精神 携帯電話と立ち小便』講談社 2009
  • 『初めての山へ六〇年後に』山と溪谷社 2009
  • 疋田桂一郎という新聞記者がいた』新樹社 2009
  • 『本多勝一逝き去りし人々への想い』講談社 2010
  • 『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集 24集(「英語」という“差別”「原発」という“犯罪”)』金曜日 2011
  • 『本多勝一の戦争論 「侵略」をとらえる目』新日本出版社 2011
  • 『日本人の冒険と「創造的な登山」 本多勝一ベストセレクション』山と溪谷社ヤマケイ文庫 2012 
  • 『本多勝一の日本論 ロシア、アメリカとの関係を問う』新日本出版社 2012

共編著[編集]

  • 『現代の冒険』編著 晩声社 1977 ルポルタージュ叢書
  • 『ペンの陰謀 あるいはペテンの論理を分析する』編 潮出版社 1977
  • 『子供たちの復讐』編 朝日新聞社 1979 のち文庫 
  • 『ベトナム・中国・カンボジアの関係と社会主義とを考える』編 朝日新聞社 1979
  • 『虐殺と報道』編 すずさわ書店 1980
  • 植村直己の冒険を考える』武田文男共編 朝日新聞社 1984 のち文庫
  • 『知床を考える』編 晩声社 1987
  • 『文筆生活の方法』編 晩声社 1987
  • 『裁かれた南京大虐殺』編 晩声社 1989
  • 『天皇の軍隊』長沼節夫共著 1991 朝日文庫
  • 『釧路湿原 日本環境の現在』編 1993 朝日文庫
  • 『南京大虐殺歴史改竄派の敗北 李秀英名誉毀損裁判から未来へ』渡辺春己,星徹共著 教育史料出版会 2003
  • 『山・自然との共生』山岡寛人共著 2004 旬報社ブックス 環境問題の未来
  • 『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』星徹,渡辺春己共著 金曜日 2009

翻訳[編集]

  • 『エスキモーの民話』すずさわ書店 1974 世界の民話シリーズ

脚注[編集]

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  1. ^ 生年を1931年昭和6年)や1933年昭和8年)とする自称やプロフィールもある。記事内「生年月日について」節参照
  2. ^ 1980年代になって、本多は文藝春秋の政治的スタンスや、同社が発行していた雑誌『諸君!』などに掲載された本多に対する攻撃的な論説に反発して、賞品を文藝春秋社に送り返している(「貧困なる精神」の「菊池寛賞を返す」に記述)。
  3. ^ 「世界語と日本語と共通語と方言との関係」(『言語生活』1975年2月号収録)
  4. ^ 批判した当時。のちプリンスホテル西武鉄道。本多は、コクドの環境破壊などを批判する記事やルポを何度も書いていた。
  5. ^ さよなら職業野球(筑紫哲也)(『週刊金曜日』 第329号 2000年9月1日
  6. ^ 巨人「軍」を毎年勝たせたい (本多勝一)(『週刊金曜日』 第336号 2000年10月20日
  7. ^ 「私と『赤旗』」(『しんぶん赤旗』2011年1月31日)
  8. ^ 『「百人斬り訴訟」裁判記録集 』(ムック) : 193頁
  9. ^ 『「百人斬り訴訟」裁判記録集(ムック)』:194頁
  10. ^ 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』 (ムック)
  11. ^ 南京大虐殺紀念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去2008年12月17日 産経新聞
  12. ^ 東中野修道『南京事件「証拠写真」を検証する』
  13. ^ 【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く(桜H26/1/2)
  14. ^ 『欧米人記者のアジアを見る眼』
  15. ^ しんぶん赤旗2010年6月号外 日本共産党に期待します
  16. ^ 「赤旗」創刊80周年によせて 発言/本多勝一さん

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]