大江健三郎

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大江 健三郎
(おおえ けんざぶろう)
Paris - Salon du livre 2012 - Kenzaburō Ōe - 003.jpg
大江健三郎(2012年、パリにて)
誕生 1935年1月31日(79歳)
日本の旗 日本愛媛県喜多郡大瀬村
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学士東京大学1959年
最終学歴 東京大学文学部仏文科
活動期間 1957年 -
ジャンル 小説評論随筆
主題 政治核兵器祈り赦し救済
代表作 飼育』(1958年)
芽むしり仔撃ち』(1958年)
個人的な体験』(1964年)
万延元年のフットボール』(1967年)
洪水はわが魂に及び』(1973年)
同時代ゲーム』(1979年)
新しい人よ眼ざめよ』(1983年)
燃えあがる緑の木』(1993年 - 1995年)
取り替え子』(2000年)
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1958年)
新潮社文学賞(1964年)
谷崎潤一郎賞(1967年)
野間文芸賞(1973年)
読売文学賞(1983年)
大佛次郎賞(1983年)
川端康成文学賞(1984年)
伊藤整文学賞(1990年)
ノーベル文学賞(1994年)
朝日賞(1995年)
レジオンドヌール勲章(コマンドゥール)(2002年)
処女作 「奇妙な仕事」(1957年)
配偶者 大江ゆかり
子供 大江光長男
親族 伊丹万作岳父
伊丹十三義兄
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ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1994年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見る者を当惑させるような絵図に描いた[2]

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、日本小説家、活動家。愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトル実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。

その後、豊富な外国文学の読書経験などにより独特の文体を練り上げていき、国家主義などの人類的な問題と、故郷である四国の森や、知的障害者である長男(作曲家の大江光)との交流といった自身の「個人的な体験」、更に豊富な読書から得たさまざまな経験や思想を換骨奪胎して織り込み、それらを多重的に輻輳させた世界観を作り上げた。作品の根幹にまで関わる先人たちのテクストの援用、限定的な舞台において広く人類的な問題群を思考するなどの手法も大きな特徴として挙げられる。1994年日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。

主な長編作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』など。1995年に『燃えあがる緑の木』三部作完結、これをもって最後の小説執筆としていたが、武満徹への弔辞で発言を撤回し執筆を再開。以降の『宙返り』から、『取り替え子(チェンジリング)』に始まる『おかしな二人組(スウード・カップル)』三部作などの作品は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置づけている。また戦後民主主義の支持者として社会参加の意識が強く、国内外における問題や事件への発言を積極的に行っているが、その独特の視座における発言が議論を呼ぶこともある。

来歴[編集]

生い立ちから作家デビューまで[編集]

1935年1月31日愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちの大江の文学世界の形成に大きく関わることになる。1941年、大瀬小学校入学、この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1947年、大瀬中学校入学。この年新憲法が施行され、「戦後民主主義」に立脚した自身の思想を形成するうえで多大な影響を受けた。1950年愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを原因に翌年愛媛県立松山東高等学校へ編入。このときのいじめの体験はのちに『芽むしり仔撃ち』で題材とされている。高校時代は石川淳小林秀雄渡辺一夫花田清輝などを愛読。東高では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。東高在学中、同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。

1953年に上京、予備校に通ったのち翌1954年東京大学教養学部文科二類(現在の文科Ⅲ類)に入学。学生演劇の脚本として「天の嘆き」「夏の休暇」を執筆、教養学部学友会機関紙に「火山」を掲載し銀杏並木賞受賞。このころパスカルカミュフォークナーノーマン・メイラー安部公房などを愛読、とりわけサルトルに関心を抱く。1956年文学部フランス文学科に進み、かねてから愛読していた渡辺一夫に師事、この頃よりサルトルを原書で読み始める。学生演劇の脚本「死人に口なし」を執筆、また戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに当選。同年10月、立川基地拡張反対のデモに参加した。

1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載され、『毎日新聞』で平野謙の激賞を受ける。これを契機として同年『文学界』に「死者の奢り」を発表し、学生作家としてデビュー。「他人の足」「石膏のマスク」「偽証の時」を次々に発表。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となり、川端康成井上靖舟橋聖一の推薦を受けるが、この回は開高健の『裸の王様』が受賞した。デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも安岡章太郎川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している[1]

芥川賞作家として[編集]

デビューの翌1958年、自身初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を発表。同年、「飼育」で第39回芥川賞を23歳で受賞。1956年の石原慎太郎に続いて当時最年少タイでの受賞となった。選考委員の川端康成は、「芥川龍之介と大江健三郎では時代も、才質も作風も違うが、23、4の学生が、異常な題材を小説に仕上げた点を芥川と似通ったものと解釈し、芥川龍之介の名前を冠した賞に加えたいと思った」とした。一方、舟橋聖一は前回の芥川賞の選考に異議を唱える立場から、「飼育」よりも「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行っている。

また、同1958年に、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。

1959年、東大卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。同年書き下ろし長編『われらの時代』刊行。この作品から青年であることへの鬱屈と虚無感、グロテスクに閉塞したセクシュアリティを主題の一環として前面に押し出すようになり、痛烈な批判を受けたものの、この作品によって第一の作風転換を遂げる。同年に武満徹と知り合う。1960年、伊丹ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。

1961年、「政治と性」を主題とした作品「セブンティーン」を『文學界』1月号に、続編「政治少年死す―セブンティーン第二部」を翌月号に発表。浅沼稲次郎暗殺事件に触発され、犯人の山口二矢をモデル人物として、「性に耽溺し、政治に陶酔する右翼少年」(文庫本裏の梗概より)を描くが、「風流夢譚事件」と同様にこの作品をめぐって文藝春秋等に右翼団体から脅迫が行われた。このため「政治少年死す」はその後の単行本に収められていない。ただし『大江健三郎全作品1』所収の自筆年譜によれば、本作が「現在までの短編集に採録されていないのは、作家自身の意志によるものではない」としている[2]

1963年、長男のが頭蓋骨異常のため知的障害を持って誕生。重い「障害を持つ子」の誕生は、戦後社会に希望を持てない青年と、その社会に対する絶望的な反抗や呪詛を独自に描いてきた作家にとって、精神的な転機をもたらした。1964年、光の誕生をうけての擬似私小説的作品『個人的な体験』で第11回新潮社文学賞受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親「鳥(バード)」が、様々な精神遍歴の末、想像力によって現実に向き直るに至るまでを描いた作品であり、もともとサルトルによってその意識を深められた「想像力」の概念は、これ以降の大江にとって非常に大きな主題・手法のひとつとなった。ただしこの作品のプロットについては、ジョン・アップダイク走れウサギ』(1960年)との類似、ないし本歌取りの可能性を指摘する声もある[3]。同年、広島に何度も訪れた体験や世界原水爆禁止大会に参加した体験を元にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始。これ以降の大江は、障害を持つ子供を中心とした「個人的な体験」と、広島・長崎の被爆や戦争という「人類固有の悲劇」とを対応させ、自身の主題として深めていく。

ノーベル賞受賞まで[編集]

大江健三郎(2008年)

1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表、最年少(2010年現在破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞。万延元年(1860年)に四国の村で起こった一揆と、100年後の安保闘争とを重ね合わせ、閉鎖的情況における革命的反抗を描き大きな反響を呼んだ。この頃前後から70年代の作品で顕著になる大江独特の文体は、格や注釈、修飾・被修飾の対応関係などが混濁するためしばしば難解で悪文であるとも言われるが、近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる(散文)詩的な言語として、ノーベル文学賞に選出された際の受賞理由として挙げられている(ただしその後大江は作品にあわせて文体を適宜調整する書き方も行っている)。今日では大江の代表作・最高傑作などと名高い作品ではあるが、かつて大江を評価していた江藤淳は厳しく批判し、以後は長い対立関係が形成された。

日本社会と地続きの異常な小世界群を描き出した短篇集(『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年))を経て、1971年に発表された中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」[4]では、前年の三島事件を受けて現行の天皇観を批判的に問い直すことを主題とし(巻頭の短文に三島への揶揄的な記述も見られる)、その後のカタストロフ的なヴィジョンを援用した『洪水はわが魂に及び』(1973年、野間文芸賞受賞)、『ピンチランナー調書』(1976年)では天皇制や核の問題を考えつつ、リアリズムを超越した世界観を描き始める。ここで大江の後期のテーマである「魂の問題」「祈り・赦し」といった宗教的な問題に深く接近していき、更なる転換を遂げる。40代から山口昌男らの文化人類学の影響を受け、1979年に発表された『同時代ゲーム』において「村=国家=宇宙」の歴史を書く主人公の物語を描いたが、文芸評論家[誰?]からは名声を確立したあとの「奢り」のようなものとして批判を受けた。ただし大江自身は、宇宙の創建者である「壊す人」や魂の問題を取り上げたものとして、自身の作品の中でも重要なものと位置づけている。

1982年、連作集『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』を発表、翌年に第34回読売文学賞受賞。なお、武満徹はこの連作集の第一作「頭のいい「雨の木」」に触発された「雨の樹」(レイン・ツリー)を作曲した。連作第二作「「雨の木」を聴く女たち」は、この曲の初演を受けて執筆されており、小説中にコンサートの場面が出てくる。1983年の『新しい人よ眼ざめよ』では、ブレイクの詩を引用し、ブレイクのテクストやそれにまつわる研究を繰り返し読むことで導かれた思考を大江自身の子供の言葉と重ね合わせつつ、静謐な筆致で私小説的に私生活を描き、第10回大佛次郎賞受賞。1985年には連合赤軍事件を思想的に総括した『河馬に噛まれる』、1986年には『同時代ゲーム』の世界観を現実世界と照応させるこころみとして『M/Tと森のフシギの物語』、1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにして自身の半生・思想の遍歴・主題の変遷などを叙事的に描いた『懐かしい年への手紙』を発表、自身の作風の総括的な仕事を連続しておこなった。1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公[5]とし、子供を失った女性の悲劇と再起までを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞した。1989-1990年に発表された連作『治療塔』および続編の『治療塔惑星』では、広義のSFの枠組みとイェイツの詩(既存の詩歌の引用に大きな手法上の役割を持たせるのも後期作品の特徴の一つ)を借りながらと人類救済の主題を描いている。

1993年9月より、『新潮』において自身最長の三部作『燃えあがる緑の木』の連載を開始。連載中の1994年10月13日にノーベル文学賞を受賞、川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者となる。12月7日にストックホルムで行われた晩餐会での基調講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。11月より『燃えあがる緑の木』刊行開始。四国の村を舞台とした「救い主」による伝承の復活・教会の「救い主」一派への攻撃・村民と教会の激しい対立といった筋立ての中に、アウグスティヌスイェイツを引いての考察で「魂の救済」の主題を突きつめつつ、それまでの全自作の集大成を行った。1995年1月、1994年度朝日賞受賞。

後期の仕事(レイト・ワーク)[編集]

大江健三郎、2005年

1995年に当初自身の「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結したが、1996年に武満徹の告別式の弔辞において新作を捧げる発言をし、1999年の『宙返り』で執筆活動を再開した。テロを防ぐために「棄教」した教祖「師匠(パトロン)」による波乱と殺人の中での教団の再建を描いており、三人称の語りを導入するなど様々な意味での転換作となった。以降の創作活動は大江自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と形容している。

伊丹十三の死をうけて書かれた『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)、『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)は、すべてに「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。三部作最後の『さようなら、私の本よ!』では、三島由紀夫と戦後の問題を自身の人生と重ね合わせ、デビュー作の『奇妙な仕事』に回帰するという複雑な構成を取った。三部作をはさんで2002年には、自身の唯一のファンタジーとして児童向けに『二百年の子供』を発表している。その後2007年には、お蔵入りとなった映画を再度作り上げようと奮起する「おかしな老人」たちの老いらくの冒険譚『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』が新潮社、2009年には、身辺の凶事の中で父の水死を描こうとする作家の巻きこまれた騒ぎをヴァラエティに富んだ語り口で描く『水死』が講談社よりそれぞれ発売された。

『燃え上がる緑の木』の後日談的総括ともいえる『宙返り』以外の「後期の仕事」は、すべてが自身を重ねあわせた小説家・長江古義人をめぐる虚実入り乱れた物語であり、自身をめぐる物語に虚構の騒動を交えて自身の思考を語りなおす、という手法が踏襲されている(この形式には大江自身も自覚的であり、『水死』の作中にも「老作家のあいも変わらぬ自己模倣」などといった韜晦のような表現がある)。また、全編にわたって先行する文学・芸術などからの放縦な引用に加えて、過去の自作の引用・再話・換骨奪胎・再構築が行われている。

創作以外の活動としては、2006年に大江健三郎賞が設立されるにあたり、次代の若き作家を称揚する動きをみせている。

政治思想[編集]

戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、「護憲」の立場から核兵器憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。

1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。また芸術院会員となったり文化勲章を受けたりする文学者の姿勢には批判的であり、ノーベル文学賞は“スウェーデン国民から贈られたと言えるもの”として賞を受けたが、その直後に天皇からの親授式を伴う文化勲章文化功労者のセット授与が決定した際には、「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」として受章を拒否した。2002年にはシラクフランス大統領からレジオンドヌール勲章(コマンドゥール)を授与された際には、1995年のフランスによる核実験強行に強く抗議したことに触れつつ、「いま新しい任期に入られる大統領から勲章をお受けするのは、フランス共和国がヨーロッパの核軍縮に果たされるはずの役割に期待を抱くからです」と述べている[6]

2003年の自衛隊イラク派遣の際は「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した[7]。2004年には、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。

東アジア外交については、2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺紀念館などに訪れた。北京大学付属中学校で行われた講演では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に触れて「日本と日本の若い世代の将来を最大限に損ねるものだ」と述べた。2012年9月28日には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の本島等、元「世界」編集長の岡本厚ら進歩派の知識人、文化人ら1300人と共同で発表。尖閣諸島竹島も過去に日本が侵略したものだという立場を示した[8]。尖閣諸島に「領土問題は存在しない」とする日本政府の立場を批判する一方で、台湾の馬英九総統の対話提案を高く評価している[9]

沖縄戦裁判[編集]

2005年8月に梅澤裕と赤松嘉次の遺族が、名誉毀損で賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。

大江が1970年の著書『沖縄ノート』にて、赤松嘉次陸軍大尉について「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定した上、多くの誹謗中傷を書いたと訴えられたものである。

しかし大江は、『沖縄ノート』には2者の名前はないこと(これは原告も認めている)、「罪の巨塊[10]」という表現で沖縄戦での日本政府・軍の責任を批判したものであり、名誉毀損ではないと反論している。また執筆のソースとなったのは沖縄タイムス社の『鉄の暴風』であり、執筆当時として信頼に当たるものだし、本人も体験者の話を聞いた上で書いたと述べている。一方で、大江は現地取材を一切行わずに『鉄の暴風』をそのまま引用している[11]

2008年3月、大阪地裁は大江の記述は真実と信じる十分な理由があり、名誉毀損は成立しないとして原告の請求を棄却。2008年10月、大阪高裁は控訴を棄却。2011年4月、最高裁は上告を棄却。遺族らの敗訴が確定した。

原子力発電所に対する立場[編集]

1968年5月28日紀伊国屋ホールで「核時代への想像力」と題して講演し、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。こ​のエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて​反対したいとは決して思わない」と述べた[12]

しかし、2011年の東日本大震災福島第一原子力発電所事故に際して、米誌「ニューヨーカー」に「歴史は繰り返す」を寄稿し、「原発建設は人命軽視の姿勢を示すもので、広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」と述べている[13]

北朝鮮関連の発言[編集]

  • 1961年、「わがテレビ体験」(『群像』)において以下のように述べている。「結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。 そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。 それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった」[14]
  • 1965年、「二十歳の日本人」において以下のように述べている。「北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。 ぼくらは、いわゆる共産圏の青年対策の宣伝性にたいして小姑的な敏感さをもつが、それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た。 逆に、日本よりも徹底的に弱い条件で米軍駐留をよぎなくされている南朝鮮の青年が熱情をこめてこの北朝鮮送還阻止のデモをおこなっている写真もあった。 ぼくはこの青年たちの内部における希望の屈折のしめっぽさについてまた深い感慨をいだかずにはいられない。 北朝鮮の青年の未来と希望の純一さを、もっともうたがい、もっとも嘲笑するものらが、南朝鮮の希望にみちた青年たちだろう、ということはぼくに苦渋の味をあじあわせる。日本の青年にとって現実は、南朝鮮の青年のそれのようには、うしろ向きに閉ざされていない。しかし日本の青年にとって未来は、北朝鮮の青年のそれのようにまっすぐ前向きに方向づけられているのでない」[15]
  • 2009年6月2日九条の会の講演において、核保有国と非核保有国との間に信頼関係がなければ、核廃絶は始まらない。私たちが不戦の憲法を守り通す態度を貫くなら、北朝鮮との間に信頼を作り出す大きな条件となるのではないかという旨の発言を行った[16]

批判[編集]

大江健三郎(2007年)
  • 毎日新聞1958年6月25日夕刊に掲載されたコラム「女優と防衛大生」において、大江は「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学校生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」と述べた。小川和久杉山隆男はその著作(「リーダーのいない経済大国」、「兵士を見よ」「兵士に告ぐ」「兵士は起つ」)で防衛大学校生やその卒業生を傷つけるものと批判した。
  • 大江は1982年に、小田実小中陽太郎中野孝次が中心となった『核戦争の危機を訴える文学者の声明』[17]に呼びかけ人として賛同している。この声明に対し本多勝一が、反核運動に批判的であるばかりか軍備拡張に熱心な意見に賛同している文藝春秋から文学賞(芥川賞)を貰ったり、それらの審査委員をするなどして協力しているのは「体制・反体制の双方に『いい顔』をみせる」非論理であるばかりか利敵行為ですらあると批判し、大江に公開質問状を送った(大江は無回答)。また本多は大江がノーベル文学賞を受賞した際にも『週刊金曜日』誌上で集中的に批判的に取り上げた。本多による一連の批判について、大江は『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)の中に描いている。
  • 1970年のルポルタージュ『沖縄ノート』には、作品内で集団自決を強制したとされている元守備隊長を「屠殺者」と表現した箇所があるが、「虐殺」を「屠殺」になぞらえることに対しては、差別表現であるとして部落解放同盟が苛烈な確認・糾弾を行ってきた歴史がある(言葉狩り参照)。それにもかかわらず、部落解放同盟が『沖縄ノート』や大江健三郎を非難しないのは、悪質な差別であると同時に大江健三郎の神格化がなされていると評論家の呉智英は指摘している[18]。また同書では、渡嘉敷島の住民を『土民』と表現しているが、これも差別的表現と丸木政臣はしている[19]。同書については、経済学者の池田信夫は同書の事実誤認が発覚した後においても訂正をせずに重版をしてきたとして、岩波書店と大江を同時に批判した[20]小林よしのりは、日本軍の描き方などを究極の差別ブンガクと批判している[21]
  • 秦郁彦は、1967年の中国核実験の成功について大江が「(キノコ雲を見守る中国の研究者らの表情を)いかにも美しく感動的であった」と評していることを批判した[22]
  • その他、谷沢永一石平なども大江の対外姿勢を批判している[23][24]

作品[編集]

著作は英語フランス語ドイツ語ロシア語中国語スペイン語などに翻訳されているものも少なくない。
なお現在新潮文庫から出版されている初期の短篇集は、文庫オリジナルの再編集が施されている。

小説[編集]

  • 「火山」『学園』1955年9月
  • 「奇妙な仕事」『東京大学新聞』1957年5月
  • 死者の奢り」『文学界』昭和32年8月号(1957年7月
  • 飼育」『文学界』昭和33年1月号 - 芥川賞受賞作
  • 死者の奢り』(短編集)文藝春秋、1958年
  • 芽むしり仔撃ち』(中編)講談社、1958年(のち新潮文庫)
  • 見るまえに跳べ』(短編集)新潮社、1958年
    • 見るまえに跳べ/暗い川おもい櫂/不意の唖/喝采/戦いの今日
  • われらの時代』(長編)中央公論社、1959年7月(のち中央公論文庫、新潮文庫)
  • 『夜よゆるやかに歩め』(長編)1959年、中央公論社
  • 死者の奢り・飼育』(短編集)新潮社 <新潮文庫>
    • 死者の奢り/他人の足/飼育/人間の羊/不意の唖/戦いの今日
  • 『孤独な青年の休暇』(短編集)新潮社、1960年
    • 孤独な青年の休暇/後退青年研究所/上機嫌/共同生活/ここより他の場所
  • 『青年の汚名』(長編)1960年、文藝春秋(のち文春文庫)
  • 「セブンティーン」『文学界』・「政治少年死す—セブンティーン第二部」『文学界』、1961年
  • 遅れてきた青年』(長編)新潮社、1962年(のち新潮文庫)
  • 『叫び声』講談社、1963年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)
  • 性的人間』(中短編集)新潮社、1963年
    • 性的人間/セブンティーン/不満足
  • 『日常生活の冒険』(長編)文藝春秋、1964年(のち新潮文庫) - 伊丹十三をモデルとしたもの
  • 個人的な体験』(長編)新潮社、1964年8月(のち新潮文庫) - 新潮社文学賞(英訳題 A personal matter ノーベル賞対象作)
  • 万延元年のフットボール』(長編)講談社、1967年、(のち講談社文芸文庫) - 谷崎潤一郎賞(英訳題 The silent cry ノーベル賞対象作)
  • 『性的人間』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1968年
    • 性的人間/セブンティーン/共同生活
  • われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(連作短編・中編集)新潮社、1969年(のち新潮文庫)
    • 第1部 なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの
    • 第2部 ぼく自身の詩のごときものを核とする三つの短篇(走れ、走りつづけよ/核時代の森の隠遁者/生け贄男は必要か)
    • 第3部 オーデンブレイクの詩を核とする二つの中篇(狩猟で暮したわれらの先祖/父よ、あなたはどこへ行くのか?)
  • 空の怪物アグイー』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1972年
    • 不満足/スパルタ教育/敬老週間/アトミック・エイジの守護神/空の怪物アグイー/ブラジル風のポルトガル語/犬の世界
  • 『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(中編集)講談社、1972年(のち講談社文芸文庫)
    • みずから我が涙をぬぐいたまう日/月の男(ムーン・マン)
  • 洪水はわが魂に及び』(長編)新潮社、1973年(のち新潮文庫)
  • 『見るまえに跳べ』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1974年
    • 奇妙な仕事/動物倉庫/運搬/鳩/見るまえに跳べ/鳥/ここより他の場所/上機嫌/後退青年研究所/下降生活者
  • ピンチランナー調書』(長編)新潮社、1976年(のち新潮文庫)
  • 同時代ゲーム』(長編)新潮社、1979年(のち新潮文庫)
  • 『現代伝奇集』(短編集)岩波現代選書、1980年
    • 頭のいい「雨の木」/身がわり山羊の反撃/『芽むしり仔撃ち』裁判
  • 「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』(連作短編集)新潮社、1982年(のち新潮文庫) - 読売文学賞
    • 頭のいい「雨の木」/「雨の木」を聴く女たち/「雨の木」の首吊り男/さかさまに立つ「雨の木」/泳ぐ男—水のなかの「雨の木」
  • 新しい人よ眼ざめよ』(連作短編集)講談社、1983年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) - 大仏次郎賞
  • 「河馬に噛まれる」『文学界』、1983年 - 川端康成賞
  • いかに木を殺すか』(短編集)文藝春秋、1984年(のち文春文庫)
    • 揚げソーセージの食べ方/グルート島のレントゲン画法/見せるだけの拷問/メヒコの大抜け穴/もうひとり和泉式部が生れた日/その山羊を野に/「罪のゆるし」のあお草/いかに木を殺すか
  • 河馬に噛まれる』(連作短編集)文藝春秋、1985年(のち文春文庫、講談社文庫)
    • 河馬に噛まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/「浅間山荘」のトリックスター/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先だつ苦痛について/サンタクルスの「広島週間」/生の連鎖に働く河馬
    • 講談社文庫版 : 河馬に噛まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先立つ苦痛について/生の連鎖に働く河馬
  • M/Tと森のフシギの物語』(長編)岩波書店、1986年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫)- (英訳題 M/T and the narrative about the marvels of the forest ノーベル賞対象作)
  • 懐かしい年への手紙』(長編)講談社、1987年(のち講談社文芸文庫) - (仏訳題 Lettres aux années de nostalgie ノーベル賞対象作)
  • キルプの軍団』(長編)岩波書店、1988年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫)
  • 人生の親戚』(長編)新潮社、1989年(のち新潮文庫) - 伊藤整文学賞
  • 『治療塔』(長編)岩波書店、1990年(のち講談社文庫)
  • 静かな生活』(連作短編集)講談社、1990年(のち講談社文芸文庫)
    • 静かな生活/この惑星の棄て子/案内人(ストーカー)/自動人形の悪夢/小説の悲しみ/家としての日記
  • 『治療塔惑星』(長編)岩波書店、1991年(のち講談社文庫)
  • 『僕が本当に若かった頃』(短編集)講談社、1992年
    • 火をめぐらす鳥/「涙を流す人」の楡/宇宙大の「雨の木(レイン・ツリー)」/夢の師匠/治療塔/ベラックヮの十年/マルゴ公妃のかくしつきスカート/僕が本当に若かった頃/茱萸(ぐみ)の木の教え・序
  • 燃えあがる緑の木』三部作(長編)、新潮社(のち新潮文庫)
    1. 『「救い主」が殴られるまで』1993年
    2. 『揺れ動く(ヴァシレーション)』1994年
    3. 『大いなる日に』1995年
  • 宙返り』(長編)講談社、1999年(のち講談社文庫)
  • 取り替え子(チェンジリング)』(長編)講談社、2000年(のち講談社文庫)
  • 憂い顔の童子』(長編)講談社、2002年(のち講談社文庫)
  • 二百年の子供』(長編)中央公論新社、2003年(のち中公文庫)
  • さようなら、私の本よ!』(長編)講談社、2005年(のち講談社文庫)
  • 『おかしな二人組(スゥード カップル)」三部作』講談社、2006年
    • 『取り替え子』/『憂い顔の童子』/『さようなら、私の本よ!』の特装版
  • 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(長編)新潮社、2007年(のち新潮文庫『美しいアナベル・リイ』へ改題)
  • 『水死』(長編)講談社、2009年(のち講談社文庫)
  • 『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』(長編)講談社、2013年

評論・随筆等[編集]

  • 『世界の若者たち』新潮社、1962年 - 中国レポートのほか、大鵬島津貴子大藪春彦黒柳徹子らとの対談
  • 『ヨーロッパの声、僕自身の声』毎日新聞社、1962年
  • 『厳粛な綱渡り』文藝春秋、1965年(のち文春文庫、講談社文芸文庫)
  • ヒロシマ・ノート』岩波書店 <岩波新書>、1965年
  • 『持続する志』文藝春秋、1968年(のち講談社文芸文庫)
  • 『壊れものとしての人間』講談社、1970年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)
  • 『核時代の想像力』新潮社 <新潮選書>、1970年
  • 沖縄ノート』岩波書店 <岩波新書>、1970年
  • 『鯨の死滅する日』文藝春秋、1972年(のち講談社文芸文庫)
  • 『同時代としての戦後』(作家論集)講談社、1973年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)
  • 『状況へ』岩波書店、1974年
  • 『文学ノート 付15篇』新潮社、1974年
  • 『言葉によって-状況・文学*』新潮社、1976年
  • 『小説の方法』岩波書店 <岩波現代選書>、1978年(のち同時代ライブラリー、岩波現代選書)
  • 『表現する者-状況・文学**』新潮社、1978年
  • 『方法を読む=大江健三郎文芸時評』講談社、1980年
  • 『核の大火と「人間」の声』岩波書店、1982年
  • 『広島からオイロシマへ―’82ヨーロッパの反核・平和運動を見る』岩波書店 <岩波ブックレットNo.4>、1982年
  • 『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』岩波書店、1984年
  • 『生き方の定義-再び状況へ』岩波書店、1985年
  • 『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮社、1985年(のち新潮文庫)
  • 『新しい文学のために』岩波書店 <岩波新書>、1988年
  • 『最後の小説』講談社、1988年(のち講談社文芸文庫) - 劇シナリオ「革命女性」を含む
  • 『ヒロシマの「生命の木」』NHK出版、1991年
  • 『人生の習慣(ハビット)』岩波書店、1992年
  • 『文学再入門』NHK出版、1992年
  • 『新年の挨拶』岩波書店、1993年(のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫)
  • 『小説の経験』朝日新聞社、1994年(のち朝日文芸文庫)
  • 『あいまいな日本の私』岩波書店 <岩波新書>、1995年 ISBN 4004303753
  • 『あいまいな日本の私 : Japan,the ambiguous,and myself The Nobel Prize speech and other lectures』(英文)講談社インターナショナル、1995年
  • 『日本の「私」からの手紙』岩波書店 <岩波新書>、1996年
  • 『私という小説家の作り方』新潮社、1998年(のち新潮文庫)
  • 『鎖国してはならない』講談社、2001年(のち講談社文庫)
  • 『言い難き嘆きもて』講談社、2001年(のち講談社文庫)
  • 『「話して考える」(シンク・トーク)と「書いて考える」(シンク・ライト)』集英社、2004年(のち集英社文庫)
  • 『「伝える言葉」プラス』朝日新聞社、2006年(のち朝日文庫)
  • 『大江健三郎作家自身を語る』(尾崎真理子聞き手・構成)新潮社、2007年
  • 『読む人間-読書講義』集英社、2007年(のち集英社文庫)
  • 『定義集』朝日新聞出版、2012年

共著[編集]

  • 『対話・原爆後の人間』(重藤文夫)新潮社、1971年
  • 『『世界』の40年—戦後を見直す、そして、いま』(安江良介)岩波書店 <岩波ブックレット No.39>、1984年
  • 『私たちはいまどこにいるか ——主体性の再建——』(隅谷三喜男)岩波書店 <岩波ブックレット No.113>、1988年
  • 『ユートピア探し 物語探し—文学の未来に向けて』(井上ひさし筒井康隆)岩波書店、1988年
  • 『自立と共生を語る—障害者・高齢者と家族・社会』(上田敏ほか)三輪書店、1990年
  • 『オペラをつくる』(武満徹)岩波書店 <岩波新書>、1990年
  • 『恢復する家族』(大江ゆかり画)講談社、1995年(のち講談社文庫)
  • 『日本語と日本人の心』(河合隼雄谷川俊太郎)岩波書店、1996年(のち岩波現代文庫)
  • 『ゆるやかな絆』(大江ゆかり画)講談社、1996年
  • 『シンポジウム 共生への志——心のいやし、魂の鎮めの時代に向けて——』(ロナルド・ドーアプラティープ・ウンソンタム・秦)岩波書店 <岩波ブックレット No.528>、2001年
  • 『君たちに伝えたい言葉—ノーベル賞受賞者と中学生の対話』(ハロルド・クロート)読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.25>、2001年
  • 『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』(小澤征爾)中央公論新社、2001年(のち中公文庫)
  • 『「自分の木」の下で』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2001年(のち朝日文庫)
  • 『「新しい人」の方へ』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫)
  • 『暴力に逆らって書く 大江健三郎往復書簡』朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫)
  • 『何を学ぶか 作家の信条、科学者の思い ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」』(白川英樹)読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.34>、2004年
  • 『憲法九条、あしたを変える——小田実の志を受けついで——』(井上ひさし梅原猛他)岩波書店 <岩波ブックレット No.731>、2008年
  • 『冥誕 加藤周一追悼』(鶴見俊輔他)かもがわ出版、2009年

共編著[編集]

  • 『岩波講座文学』岩波書店、全12巻、1975-1976年
  • 『叢書文化の現在』岩波書店、全13巻、1980-1982年
  • 『なぜ変える?教育基本法』(辻井喬他共編)岩波書店、2006年10月、ISBN 978-4-00-024158-8

台本[編集]

  • 『歌劇『ヒロシマのオルフェ』』(芥川也寸志)(CD)カメラータ・トウキョウ、2002年

講演映像[編集]

  • 『私の最後の小説、「燃えあがる緑の木」』(カセット)新潮社、1994年
  • 『大江健三郎 文学再入門』(ビデオカセット)NHKソフトウェア、全12巻、1995年

テレビ番組[編集]

その他[編集]

「無気力(アパシー)青年」の事例検討に参加し、文学者の視点から彼等の内面を語る。
  • SwitchVol.8 No.1 『緑したたる森 萌え出ずる樹 大江健三郎扶桑社1990年3月号)
氏の子供達「イーヨーオーちゃんマーちゃん」が語る、 アンドレイ・タルコフスキーの 映画『ストーカー』の解説と、「四国の森の谷間の村」や「読書遍歴」、 氏と違って (同じく)
「 “ 奇妙な ” ディーセンシー ( 古雅な上品さ・まっとうさ ) 」 のある 『ご母堂』 (88歳)の肖像。

作品の映画化[編集]

個人作品集[編集]

  • 大江健三郎全作品、新潮社、第1期全6巻、1966-1967、第2期全6巻、1977-1978年
  • 大江健三郎同時代論集、岩波書店、全10巻、1980-1981年
  • 大江健三郎小説、新潮社、全10巻、1996-1997年

選集[編集]

  • 新鋭文学叢書12『大江健三郎集』筑摩書房、1960年
  • 新日本文学全集11『開高健・大江健三郎集』集英社、1962年
  • 角川版昭和文学全集9『開高健・大江健三郎』角川書店、1963年
  • 現代の文学43『大江健三郎集』河出書房新社、1964年
  • われらの文学18『大江健三郎』講談社、1965年
  • 日本の文学76『石原慎太郎 開高健 大江健三郎』中央公論社、1968年
  • 日本文学全集第2集25『大江健三郎集』河出書房新社、1968年
  • 新潮日本文学64『大江健三郎集』新潮社、1969年
  • De Luxe われらの文学7『大江健三郎』講談社、1969年
  • 現代日本の文学47『安部公房・大江健三郎集』学習研究社、1970年
  • 現代の文学28『大江健三郎』講談社、1972年
  • 日本文学全集50『大江健三郎/芽むしり仔撃ち 日常生活の冒険』河出書房新社、1971年
  • 日本文学全集44『大江健三郎 安部公房 開高健』新潮社、1971年
  • 新潮現代文学55『大江健三郎/個人的な体験 ピンチランナー調書』新潮社、1978年
  • 日本の原爆文学9『大江健三郎 金井利博』ほるぷ出版、1983年
  • 昭和文学全集16『大岡昇平 埴谷雄高 野間宏 大江健三郎』小学館、1987年

関連人物[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「解説」『死者の奢り・飼育』新潮文庫、1959年
  2. ^ ただし鹿砦社の『スキャンダル大戦争2』には「風流夢譚」ともども(おそらく著者に無断で)収録されている。
  3. ^ 「文学からみた アメリカン・ポップ・カルチャー」青山南
  4. ^ 初出『新潮』掲載時の原題「死滅する鯨の代理人」。
  5. ^ 篠原茂『大江健三郎文学事典』森田出版、1998年。
  6. ^ 2002年5月8日共同通信
  7. ^ 自衛隊派遣に「怒っている」大江健三郎氏が仏紙で論陣 2003年12月1日朝日新聞
  8. ^ ““反日声明”韓国で大歓迎 大江健三郎氏ら、領土問題「日本が侵略、反省を」 (1/2)”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2012年9月29日). オリジナル2012年10月2日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20121002055042/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120929/kor12092922120005-n1.htm 
  9. ^ 「領土紛争は日本政府のせい」日本の識者ら声明発表へ=韓国
  10. ^ この語については、大江健三郎は2007年11月20日『朝日新聞』朝刊で「他殺死体を指すcorpus delictiという単語」と述べているが、corpus delictiとは法的用語としては「罪体」であり、死体には限定していない。
  11. ^ “名誉回復…沖縄集団自決“命令”の「汚名」着せられた梅沢元陸軍少佐、戦後日本の言論空間「日本軍=悪」と闘い逝く”. 産経新聞. (2014年8月12日). http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140812/waf14081221450026-n1.htm 2014年8月12日閲覧。 
  12. ^ 大江健三郎『核時代の想像力』新潮社、2007年、p120 ISBN 9784106035845
  13. ^ 原発は「原爆犠牲者への裏切り」 大江健三郎さんが寄稿
  14. ^ 「わがテレビ体験」群像昭和36年3月。
  15. ^ 「二十歳の日本人」『厳粛な綱渡り』文藝春秋刊・昭和四十年。 ISBN 4061961470[要ページ番号]
  16. ^ “「九条の会」発足5年記念、大江健三郎さんが講演”. asahi.com (朝日新聞社). (2009年6月2日). オリジナル2009年6月5日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20090605080318/http://www.asahi.com/national/update/0602/TKY200906020371.html 
  17. ^ 後に岩波ブックレットから公刊 ISBN 4000049410
  18. ^ 大江健三郎の“特権” 産経新聞2007年12月1日
  19. ^ わたしと沖縄[1],『生活教育』1996年2月号 pp.86-91,『わが教育の原点』pp90~96収載 ISBN 4406024514
  20. ^ 「大江健三郎という病」
  21. ^ SAPIO(2008/6/25)pp.55-62, 『ゴーマニズム宣言NEO1』 pp.71-78, ISBN 4093890315
  22. ^ 『世界』1967年9月号。秦郁彦『歪められる日本現代史』PHP研究所 2006, p35
  23. ^ 谷沢永一「こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状」クレスト社発行 1995年6月 のちワニ文庫[要ページ番号]
  24. ^ 「大江健三郎 中国土下座の旅」WiLL 2006年12月号[要ページ番号]

外部リンク[編集]