伊丹万作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| いたみ まんさく 伊丹 万作 |
|||||
| 生年月日 | 1900年1月2日 | ||||
|---|---|---|---|---|---|
| 没年月日 | 1946年9月21日(満46歳没) | ||||
| 出生地 | |||||
| 民族 | 日本人 | ||||
| 職業 | 映画監督 | ||||
| 家族 | 子:伊丹十三 孫:池内万作 女婿:大江健三郎 |
||||
|
|||||
伊丹 万作(いたみ まんさく、本名:池内義豊、1900年1月2日 - 1946年9月21日)は、昭和初期に活躍した映画監督。日本映画の基礎を作った監督の一人である。映画監督、俳優の伊丹十三は実子。小説家の大江健三郎は娘婿。
目次 |
[編集] 来歴・人物
愛媛県松山市湊町に生まれる。1912年、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学する。中村草田男、伊藤大輔などと同人雑誌を作り、文才を競った。卒業後、叔父を頼って上京する。程なく、伊藤と同居するようになり、少年雑誌の挿絵などを書いていた。一時期病気の父を見舞うため郷里へ帰ったが、映画監督をしていた伊藤のもとで脚本を書くようになった。因みに伊丹万作の名は伊藤がつけた。
1927年、谷崎十郎プロに俳優として入社する。1928年、片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼脚本家として参加する。同年『仇討流転』で監督デビュー。以後『国士無双』『赤西蠣太』など独特の風刺の効いた作品を発表し、映画界随一の「知性派」として大監督のひとりに数えられた。
1938年の『巨人伝』を最後に監督を辞め、1940年に京都へ帰り、日活で、『無法松の一生』や『手をつなぐ子等』の脚本を書いた。これらの作品は、盟友稲垣浩監督の手で映画化された。
脚本家としては弟子を取らなかったとされるが、橋本忍だけには目をかけアドバイスをし、実質的な弟子だった。
1946年9月21日死去。46歳だった。
2010年6月に、ちくま学芸文庫から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。
[編集] 代表作
- 仇討流転(1928年)
- 春風の彼方へ(1930年)
- 国士無双(1932年)
- 武道大鑑(1934年)
- 忠次売出す(1935年)
- 赤西蠣太(1936年)
- 新しき土(1937年)
- 権三と助十(1937年)
- 巨人伝(1938年)
[編集] 著書
- 『静臥雑記』 国際情報社出版部、1943年
- 『伊丹万作全集 全3巻』 筑摩書房、1961年、新装版1973年、第3版1982年
- 『伊丹万作エッセイ集』 大江健三郎編、筑摩叢書、1971年、ちくま学芸文庫 2010年