花田清輝
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年(明治42年)3月29日 - 1974年(昭和49年)9月23日)は、作家・文芸評論家・新聞記者。東北大学金属材料研究所教授であった花田黎門は息子。アニメ脚本家の花田十輝は孫。
来歴・人物 [編集]
福岡県福岡市生まれ。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)から第七高等学校に入学するも読書に熱中し、出席日数不足で2度続けて落第し退学する。その後九州帝国大哲学科の聴講生を経て、京都帝国大学文学部に選科生として入学するも、父親の事業の失敗により学費が払えず、1931年11月、京大文学部英文科を除籍される。しかし滝川事件が起こると、古谷綱正・高木養根らとともに文部省による大学自治への干渉に反対する文学部の運動を指導した。その後上京し、高校時代の友人辛島紅葉の義兄にあたる三浦義一の家に一時滞在した。その後、新聞広告を見て、朝鮮人ジャーナリスト李東華の秘書をつとめる。この時期には、中野正剛の実弟中野秀人と盟友関係となり、1939年には中野秀人らと「文化再出発の会」を結成し、中野正剛から資金を得て雑誌『文化組織』を創刊。『自明の理』や『復興期の精神』としてまとめられる一連の文章を発表した(しかし、中野正剛の近くに居たことは、戦後吉本隆明との論争において、「東方会の下郎」と誹謗される根拠となった)。また1943年に大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談を批判した「虚実いりみだれて」を発表し、大東塾関係者に暴行を受け、謝罪文を書かされる。『時局月報』『木材通信』『軍事工業新聞』記者なども経験する。
戦後、新日本文学会に入会し、『近代文学』の同人になる。また、出版社・真善美社(中野正剛の息子の中野達彦・泰雄兄弟が経営)にかかわり、第一次戦後派作家の作品を「アプレゲ—ル新人創作選」として出版する。1950年代前半には雑誌『新日本文学』の編集長となるも、内部対立のため編集長を解任される。1950年代には高見順とのゴロツキ論争、荒正人や埴谷雄高らとのモラリスト論争、吉本隆明との花田・吉本論争を繰り広げた。1961年の日本共産党の第8回党大会にあたって、党の規律にそむいて、党運営を批判する声明書を所属のことなるものたちとの連名で公表、党を除名される。以後、共産党とは距離を置きながら左翼的な立場で評論活動を行う。中華人民共和国の文化大革命を支持したことでも知られる。
「綜合文化協会」や「夜の会」「記録芸術の会」を組織し、映画や演劇の評論も多く手がけ、総合芸術・共同制作の実現を目標とした。日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であり、岡本太郎、安部公房など影響を与えた芸術家も多い。
『花田清輝著作集』全七巻が未来社から、『花田清輝全集』全十五巻・別巻二巻が講談社から刊行された。
作品 [編集]
- 自明の理 (戦後再編集して『錯乱の論理』と改題) 1941.7
- 復興期の精神 1947.5
- 錯乱の論理 1947.11
- 二つの世界 1949.3
- アヴァンギャルド芸術 1954.10
- さちゅりこん 1956.3
- 政治的動物について 1956.7
- 乱世をいかに生きるか 1957.1
- 大衆のエネルギー 1957.12
- 映画的思考 (1962年に収録文章を一部さしかえて『新編映画的思考』とする) 1958.4
- 泥棒論語 1959.2(戯曲)
- 近代の超克 1959.12
- もう一つの修羅 1961.10
- 鳥獣戯話 1962.2(小説)
- いろはにほへと 1962.9
- シラノの晩餐 1963.6
- 爆裂弾記 1963.7(戯曲)
- ものみな歌でおわる 1964.2(戯曲)
- 俳優修業 1964.10(小説)
- 恥部の思想 1965.8
- 小説平家 1967.5(小説)
- 古典と現代 1967.9
- 随筆三国志 1969.11
- 乱世今昔談 (講談社文芸文庫収録にあたって『ここだけの話』と改題) 1970.5
- 冒険と日和見 1971.12
- 室町小説集 1973.11(小説)
- 日本のルネッサンス人 1974.5
- 箱の話 1974.11
