森鴎外

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(もり おうがい)
Ougai Mori October 22, 1911.jpg
外(1911年)
誕生 1862年2月17日
日本の旗 日本
石見国津和野
(現・島根県津和野町
死没 1922年7月9日(満60歳没)
墓地 禅林寺
職業 小説家
評論家
翻訳家
劇作家
陸軍軍医
官僚
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 博士医学文学
最終学歴 東京大学医学部
活動期間 1889年 - 1922年
ジャンル 小説
翻訳
史伝
主題 近代知識人の苦悩
文学活動 ロマン主義
高踏派
代表作 舞姫』(1890年)
ヰタ・セクスアリス』(1909年)
青年』(1910年)
』(1911年)
阿部一族』(1913年)
山椒大夫』(1915年)
高瀬舟』(1916年)
渋江抽斎』(1916年、史伝)
処女作 『於母影』(1889年)
配偶者 登志子(1889年 - 1890年
志け1902年 - 1922年
子供 於菟(長男)
茉莉(長女)
杏奴(次女)
不律(二男)
(三男)
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(もり おうがい、1862年2月17日文久2年1月19日)– 1922年大正11年)7月9日)は、明治大正期の小説家評論家翻訳家劇作家陸軍軍医軍医総監中将相当)、官僚高等官一等)。位階勲等従二位勲一等功三級医学博士文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。

目次

[編集] 人物

石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部[1]卒業。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称される。

大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「」などを発表。乃木希典殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。

晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館奈良国立博物館京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

1862年2月17日文久2年1月19日)、石見国津和野(現島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井家御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子[2]として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった[3]

藩医の嫡男として、幼い頃から論語孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[4]、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。

1872年明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社[5]に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れた。

[編集] 陸軍軍医として任官

1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)[6]

定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩漢文に傾倒し、和歌を作っていた[7]

なお語学に堪能な外は、後年、執筆に当たってドイツ語など西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した[8]

1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。卒業席次が8番であり[9]、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した[10]

なお、妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していた[11]

[編集] ドイツ留学

外記念館、ドイツ・ベルリン

入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻[12]を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日フランスマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに入った。

最初の1年を過ごしたライプツィヒ(1884年11月22日–翌年10月11日)で、生活に慣れていない外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった[13]

また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館アルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日–翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5ケ月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会や宮廷劇場などに出入りした。その間、2人の大切な友人を得た。1人は外の指導者ザクセン軍医監のウィルヘルム・ロートで、もう1人は外国語が堪能な同僚軍医のキルケ[14]である。なお、ドレスデンを離れる前日、ナウマンの講演に反論し、のちにミュンヘンの一流紙で論争となった。

ミュンヘン(1886年3月8日–翌年4月15日)では、ミュンヘン大学ペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の原田直次郎近衛篤麿など名士の子息と交際し、よく観劇していた。

次のベルリン1887年4月16日–翌年7月5日)でも、早速北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った[15]

9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26日・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった[16]

会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの『戦争論』を講じた。なお、留学が一年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。

同年7月5日、石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を4首おくった)やパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。9月8日横浜港に着き、午後帰京。同日付けで陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[17]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる[18]

[編集] 初期の文筆活動

1889年(明治22年)1月3日読売新聞の付録に「小説論」[19]を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記)[20])を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)[21]

このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)[22]、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。

1889年(明治22年)に東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を[23]1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)[24]講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。

[編集] 日清戦争出征と小倉「左遷」

1894年(明治27年)夏、日清戦争勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の日清講和条約の調印後、5月近衛師団つきの従軍記者正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の外を訪ねた[25]

清との戦争が終わったものの、外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督樺山資紀等とともに台湾に向かった。4ヶ月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。

1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)[26]

なお、その頃より、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった[27]1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」のなかで、「児玉せき」との交情をあばかれた[28]

外旧居(北九州市小倉北区鍛冶町

1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」[29]された。19世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた[30]

またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なクラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、井上光師団長などの依頼で翻訳をはじめた[31]。その内部資料は、ほかの部隊も求めたという。

小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、そのころ外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた[32]

私生活でも、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、とくに後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た[33]

新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻・赤松登志子結核で死亡したのち[34]、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう1人は同郷の俊才福間博[35]である。

2人は、外の東京転勤とともに上京し、外の自宅近くに住み、交際をつづけた[36]

[編集] 軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動

1902年(明治35年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる活動が目立っていた。

1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争第2軍軍医部長として出征[37]

1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した[38]

なお同年9月、美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任をつとめた[39]

1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省警保局長が陸軍省を訪れた8月、外は陸軍次官石本新六から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。

慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)した1910年(明治43年)は、5月に大逆事件の検挙がはじまり[40]、9月に東京朝日新聞が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感がただよう年に「ファスチェス」(発禁問題)、「沈黙の塔」(学問と芸術)、「食堂」(クロポトキン無政府主義等を記述)などを発表。

1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」とした上で、

無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。

[41]

と結んだ。

また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本と激しく対立した。ついに医務局長の外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている[42]

1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」[43]などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説もつづけていた。

1912年大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、外独自の小説作品の最初のもの」[44]である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた[45]

これを機に歴史小説[46]に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」などののち、史伝「渋江抽斎」に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)[47]1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した[48]

[編集] 晩年

永明寺の墓

1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半つとめて退き、予備役に編入された。その後、1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)に[49]、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した[50]

さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇のと元号の考証・編纂に着手した。しかし『帝諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した[51]

1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、萎縮腎肺結核のために死去。満60歳没。

余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

で始まる最後の遺言7月6日付け)が有名であり[52]、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓 」とのみ刻された。向島弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折墓碑銘を筆した。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災後、東京都三鷹市禅林寺[53]と津和野町の永明寺に改葬された。

[編集] 人物評

[編集] 評論的啓蒙活動

外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。

外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「論争的啓蒙」などと評される。もっとも、30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健なものに変わっていった。さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。

[編集] 幅の広い文芸活動と交際

肩書きの多いことに現れているように、外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地をまわる文学青年(正宗白鳥など)が続出した。

戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集をつとめる雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)[54]、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた[55]

ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」をつくっており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない[56]

翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた[57]。その外は、上記のとおり東京美術学校(現東京藝術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などをつとめた[58]

交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり[59]、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。

文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。伊藤左千夫平野万里上田敏佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋吉井勇石川啄木木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)[60]

また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した[61]。 その外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。

[編集] 軍医として

軍服姿の

上記にもあるように、外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学し、帰国した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任をつとめた。その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。日清戦争日露戦争に出征した外は、小倉時代をのぞくと、つねに東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。

ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、医学界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。

日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎日露戦役従軍日誌」)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」はいろいろな解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。

なお、脚気問題について外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた[62]

脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)がつぎ込まれた。予算に制約がある中、脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある[63]

反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある[64]

なお、晩年の外は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった[65]

[編集] 脚気惨害をめぐる議論

陸軍の脚気惨害をめぐって、外の責任に関しての議論はたえない。そのうち外への批判として、(副食物が貧弱な)米食を麦食に変えると脚気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麦食を排除しつづけた姿勢について激しい非難がある。[66]。実際に日露戦争で陸軍兵士の3万人近くが脚気で苦しみ戦死でなく病死した事実、同じ時期に海軍兵士の脚気患者がほぼ皆無であったにも拘らず海軍の食事を取り入れずに通達や要望などを握りつぶしたことが近年ようやく明らかになり、著名な小説家としての名誉もかなり低くなっている。

逆に外を擁護するものとして、以下の見解がある[67]

  • 陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任をおう大本営陸軍部野戦衛生長官日清戦争石黒忠悳日露戦争小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。
  • 外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)[68]にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。その別のものとは、白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる[69]
  • 外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学にもとづく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒にゆがめられたためとの見解を示した[70]

以上を端的にいえば、外が脚気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。つづけて外への批判が起こった理由として、

  • 海軍の兵食改良を批判しすぎたこと。
  • 論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと。
  • 日清戦争時に上官の石黒に同調したこと。

が挙げられた。

[編集] 年譜

史跡・森外生家

※日付は1872年までは旧暦

[編集] 主な作品

森鴎外

[編集] 小説

  • 舞姫 (『国民之友』、1890年1月)
  • うたかたの記 (『国民之友』、1890年8月)
  • 文づかひ (吉岡書店、1891年1月)
  • 半日 (『スバル』、1909年3月)
  • 魔睡 (『スバル』、1909年6月)
  • ヰタ・セクスアリス (『スバル』、1909年7月)
  • 鶏 (『スバル』、1909年8月)
  • 金貨 (『スバル』、1909年9月)
  • 杯 (『中央公論』、1910年1月)
  • 青年 (『スバル』、1910年3月–11年8月)
  • 普請中 (『三田文学』、1910年6月)
  • 花子 (『三田文学』、1910年7月)
  • あそび (『三田文学』、1910年8月)
  • 食堂 (『三田文学』、1910年12月)
  • 蛇 (『中央公論』、1911年1月)
  • 妄想 (『三田文学』、1911年4月)
  • (『スバル』、1911年9月–1913年5月)
  • 灰燼 (『三田文学』、1911年10月–1912年12月)
  • 百物語 (『中央公論』、1911年10月)
  • かのように (『中央公論』、1912年1月)
  • 興津弥五右衛門の遺書 (1912年10月、『中央公論』)
  • 阿部一族 (『中央公論』、1913年1月)
  • 佐橋甚五郎 (『中央公論』、1913年)
  • 大塩平八郎 (『中央公論』、1914年1月)
  • 堺事件 (『新小説』、1914年2月)
  • 安井夫人 (『太陽』、1914年4月)
  • 山椒大夫 (『中央公論』、1915年1月)
  • じいさんばあさん (『新小説』、1915年9月)
  • 最後の一句 (『中央公論』、1915年10月)
  • 高瀬舟 (『中央公論』、1916年1月)
  • 寒山拾得 (『新小説』、1916年1月)

[編集] 戯曲

[編集] 詩歌

[編集] 翻訳

[編集] 史伝

[編集] 随筆

  • サフラン(『番紅花』1914年3月)
  • 空車(むなぐるま) (『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1916年5月)
  • 礼儀小言(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1918年1月)

[編集] 家族 親族

[編集] 先祖

典医としての森家(森氏)は、1650年前後(慶安年間)から1869年明治2年)の版籍奉還に及ぶ。

玄佐━玄篤━玄叔━周菴━玄佐━玄碩━玄叔━周菴━秀菴━立本━秀菴━白仙━静泰━┳林太郎
                                       ┣篤次郎
                                       ┣喜美子
                                       ┗潤三郎

[編集] 妻子

  • 先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘)
    • 長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)
  • 後妻 - 志け
    小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972年)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌『青鞜』の賛助員になった。
    • 長女 茉莉(まり、随筆家・小説家)
    • 次女 杏奴(あんぬ、随筆家)
    • 次男 不律(ふりつ、夭折)
    • 三男 (るい、随筆家)

4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。

[編集] 弟妹

  • 弟 篤次郎(三木竹二
    明治期を代表する劇評家で、内科医。演劇雑誌『歌舞伎』を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』、渡辺保編、岩波文庫、2004年)。
  • 喜美子
    明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鴎外の思い出』岩波文庫、1999年。『森鴎外の系族』岩波文庫、2001年)。
  • 義弟 小金井良精
    喜美子の夫。初期の文部省派遣留学生(鴎外の前年にドイツ留学)。24歳で帰国し、27歳のとき高給のドイツ人教官に代わって東京帝国大学医学部教授に就任。後年、帝国大学医科大学学長(現東京大学大学院医学系研究科研究科長・医学部長)等をつとめた[72]

小金井夫妻の孫の1人が小説家の星新一

[編集] 傍系

  • 西周
    鴎外の曾祖父の次男、森覚馬が西家を継いで生まれた子。幕末明治維新の西洋法学者・啓蒙家で、貴族院議員元老院議官などの要職を歴任。上京後の一時期、鴎外少年は、西周邸から進文学社に通学した。

[編集] その他

  • 常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。
  • 軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。鴎外を見つめていた子供たちの1人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげ、子供たちが散るように去ってしまったことにかなり落胆したそうである。
  • 1892年(明治25年)に東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)に建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。
  • 細菌学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、果物などの食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。
  • 酒は飲めず、大の甘党だった。あんパンや「消毒してあって、滋養に富んでいる」焼き芋が好物であった[73]。娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭茶漬けにして食べていたという。
  • 風呂嫌いで、盥を前に身を清めるのが日課であった。

[編集] 脚注

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  1. ^ 入学時は第一大学区医学校予科
  2. ^ 祖母も養子であり、祖父母の代で森家の血筋が絶えていた。このため外は、親戚の西周と血がつながっていない。
  3. ^ 外誕生の前年、祖父の白仙が東海道土山宿で病死したため、とくに祖母は外を白仙の生まれ変わりといって喜び、後年、外が留学と出征から無事帰国するたびに、はらはらと涙を落としたという(小金井(1999))。
  4. ^ 平川ら(1997a)、15頁。なお同書は、学生、作家、軍医、家庭人の側面から、外の実像にせまった。
  5. ^ ドイツ人教員がいて生徒の1割強が華族の身分。当時の父親の収入を踏まえると、西周が学費も世話をしたという説がある。
  6. ^ 校名が頻繁に変更されたように当時は、大学制度確立の過渡期にあたる。外が入学した明治6年度は、予科(旧制高等学校に相当する課程)の入学年齢制限が14歳–17歳であった(明治7年度は15歳以下の入学が見合わされており、明治8年度は入学年齢制限が16歳 - 20歳に引き上げられた)。また9月入学の予定であったものの、明治6年度は、定員100名に達しなかったため、学生募集が続けられた。最終的に実年齢をいつわった11歳の外のほか、17歳の上限年齢を超えた18歳と19歳の応募者も入学した(計71名)。なお、本科に進めるのは30名にすぎず、上級の落第者と編入生を加え、予科生は厳しい競争にさらされた。ちなみに、予科71名の新入生はドイツ語の能力で3クラスに分けられており、外の属した中位のクラスでストレートに本科を卒業したのは24名のうち11名、下位のクラスでストレートに本科を卒業したのは41名のうち2名であった(平川ら(1997a)、129–134頁)。
  7. ^ 平川ら(1997a)、112-118、142頁。なお、依田學海から漢文を、佐藤応挙から漢詩と和歌を、伊藤松渓(孫一)から漢詩を学んでいた。
  8. ^ 自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」に主人公の哲学者金井湛の体験として「寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。」と記された。
  9. ^ 卒業席次が8番となった理由として、卒業試験の最中に下宿が火事になって講義ノート類を焼失したり、外科学のシュルツ教授が外の講義ノートに漢文の書き込みを見つけて反感を買ったりした等が挙げられる。また妹の回想には、下宿に同居して外の世話をしていた祖母が、卒業試験前に文学書を読みふける外を心配するくだりがある。しかし、首席で卒業した三浦守治東京帝国大学教授が門下生に

    余ガ大学ニ在ルヤ同級生ニ森林太郎ノ俊才アリ、高橋順太郎ノ勉強アリ。共ニ畏敬セル競争者ナリキ

    と語ったなど、卒業席次上位10名の中で他者より5 - 7歳年下の外は、なかなか優秀であった。(2007)、38頁。
  10. ^ 外の陸軍省入りには、当時の軍医総監林紀とじっこんの間柄である西周の助力も働いていたようで、1882年(明治15年)5月には同期の中で初の「軍医本部付」となった。(2007)、41–42頁。
  11. ^ 小金井(1999)、35–37, 39頁。
  12. ^医政全書稿本』全十二巻の前部は、陸軍衛生制度のほか、軍隊での儀礼や法制、経理、給与、設営などが取り上げられた。また、その後部は、軍陣衛生の各論で構成された。二十歳の外は、そうした膨大な内容の稿本を十ヶ月ほどで編集したのである。(2007)、45頁。
  13. ^ 外は、ドレスデンに移った年のクリスマス休暇で、ライプツィヒに出かけた。予定を延ばして滞在したものの、12月30日さらに滞在をすすめる人たちに別れを告げた。金子(1992)、15–18頁。
  14. ^ キルケの名は、ドレスデン滞在時の日記に17回登場し、外がドレスデンを離れた後も、つきあいが続いていた(金子(1992)、42頁)。
  15. ^ 近代細菌学の開祖とされるコッホは、ミュンヘン大学の恩師ペッテンコーファーと対立していたが、北里柴三郎の勧めもあり、外はコッホにも師事した。
  16. ^ 9月26日は、オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒の問いなり」と発言。翌27日の最終日は、石黒忠悳の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の谷口謙とともに乃木希典川上操六の両少将を訪問したとき、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう。(2007)、66–67, 70–73頁。
  17. ^ 現在、来日したドイツ人女性について3人の名が挙がっている。植木(2001)は、年上の既婚者エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert。ヴィーゲルトWiegertの可能性も指摘された)説を否定し、遺産を得ていた仕立物師の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert)(1872年12月16日- 1951年)説を新たに唱え、AnnaとLuiseが外の子供達の名(杏奴、類)と一致すること等も指摘した。外と「エリス」―ドイツ・ベルリン。しかし、その後に刊行された林(2005)小平(2006)は、植木説ではなく、従来の主流である年上の既婚者説をとった。2010年11月19日、植木説に基づくTV番組NHKハイビジョン特集「外の恋人~百二十年後の真実~」(90分)が放送された。放送直後、今野(2010)が刊行され、当時15歳のドイツ人女性が単身来日でき、また偽名でも日独間を行き来できる可能性があったこと等を明らかにした。2011年3月、六草いちかエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト説を発表した。その根拠として、名前、出生地、帰国後の職業、外帰国時の年齢(21歳)、外の娘の名前:茉莉と杏奴(エリーゼのミドルネームと妹がアンナ)等を挙げた。六草(2011)外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致
  18. ^ 小堀(1981)、195-196頁。
  19. ^ 日本で最初に、ゾラの文学的傾向の実体を紹介するものとなった。ちなみに、日本でゾラの自然主義の影響が出始めたのは、明治30年代である。(2007)、100頁。
  20. ^ 新声社の同人は、落合直文市村瓚次郎井上通泰三木竹二外の実弟)、小金井喜美子(実妹で既婚)、外本人の計6名。ただし竹二は、「於母影」の共訳に参加していない。(2007)、103頁。
  21. ^ 『しがらみ草紙』は、3号に坪内逍遥幸田露伴の、4号に山田美妙石橋忍月の文が掲載され、その地位が高まった。最盛期に2,000部が売られた。
  22. ^ 外の「翻訳」(広義)ぶりの現代的意味は、長島(2005)が参考になる。ちなみに、『外全集』53巻(岩波書店、1951-1956年)の内訳は、著作編33巻、翻訳編18(戯曲10、小説6、戦論・医事2)巻、別巻2である。
  23. ^ 日清戦争後、東京美術学校に復職した後、審美学西洋美術史を講じた(新関(2008)、180頁)。
  24. ^(2007)、202頁)は、「遅れた社会に科学を育てるには条件が必要。それは「標準」である。「芸術」の「標準」として外は乾いた日本の土壌に「審美学」を植え付けようとした」と指摘した。
  25. ^ 当時遼東半島にいた外などとの交際は、遼東五友の交わりといわれた。その五友とは、新聞『日本』の正岡子規中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨外の5人である(佐谷(2009)、54頁)。なお、子規との交際は小倉に転勤するまでつづき、不折とは生涯つづいた。
  26. ^ 1月に創刊された『めさまし草』は、3月から「三人冗語」が掲載され、9月以降これに依田学海饗庭篁村(あえば こうそん)・森田思軒尾崎紅葉等が加わり、「雲中語」として評判になった。紅葉川上眉山正岡子規高浜虚子落合直文などが文を寄せた。また「於母影」の共訳者であった井上通泰の実弟、柳田国男松岡国男名で歌評を書いており、夏目漱石の俳句も掲載された(3号)。
  27. ^ 池内(2001)、67頁
  28. ^児玉せき(32)なる女を十八、九の頃より妾として非常に寵愛し、かつて児まで挙けたる細君を離別してせきを本妻に直さんとせしも母の故障によりて果たす能わず」とある。現代教養文庫、1992年、14頁。なお児玉に関し、森まゆみが「無縁坂の女」として章を立て、いきさつ等を記した。森まゆみ(2000)、297-343頁。
  29. ^ この人事は、外本人の受け止め方を別にして当時の状況を踏まえれば、左遷と言えるのか疑問視する声もある(松本 (1997)、108-111頁)。なお、その小倉転勤は、前任者の江口襄(作家江口渙の父。なお渙の『わが文学半生記』青木文庫、1953年には父の友人として外の名が何度か登場)が着任後わずか8ケ月で辞職(軍医の開業禁止を受け、病院での診療に専念)したために行われた穴埋め人事である。このため、後任の外は、ほかの新設5師団の軍医部長5名と同じように1902年(明治35年)3月まで在任した。
  30. ^ 「[[外漁史とは誰ぞ]]」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「北清事件の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(矢野竜渓『新社会』の評論で社会主義などを記述)(池内(2001)、73-92頁)。
  31. ^ 末弟の森潤三郎は、『戦争論』の翻訳について「この事は軍人社会に兄の声望を重からしめ、山県元帥に名を知られる因となった。」と書いた(森潤三郎(1942)
  32. ^ 後年、小倉時代を素材にした短編小説『鶏』で表れたように、田中美代子は、小倉での生活によって「それまで一途に中央志向に凝り固まっていた外は、だが次第に、日本の懐深く息づいている土着の魂というべきものに目覚めていったのではなかろうか。」と指摘した([[#森外1996|森外(1996)]]、「解説」)。また、「上京して以来、(中略)ドイツでの留学生活を除いて、外の生活の場であり続けた東京と比べると、人々の生活・行動規範が緩やかで、ある意味で自由奔放な北九州のローカル都市・小倉と、そこで生活する人々の生活風俗は、外にとって異質で、新鮮な世界を意味していた」(末延(2008)、112、114頁)。
  33. ^ 貝原益軒(博多)の墓を皮切りに、加藤清正(熊本)、高山彦九郎(久留米)、広瀬淡窓(大分県日田)など、文人と武人の墓を探して参り、墓碑を筆記した。また東京に出張する途中、客死した祖父、森白仙(1861年、東海道の土山宿で没)の墓も参った。末延(2008)、117頁。
  34. ^ 西周等とともに幕府派遣留学生であった赤松則良海軍中将の長女、登志子との結婚生活は、1年半ほどで破綻した。 1888年(明治21年)9月8日外が帰国した直後、9月12日にドイツ人女性が来日して10月17日に離日した出来事をきっかけに、留学中より西周から話のあった縁談が急に進み(9月18日に祖母が、10月17日に母と弟の竹二が西邸を訪問)、翌年2月24日に外と登志子は結婚した(森まゆみ(2000)、148頁)。外の弟2人、登志子の妹2人、女中が同居し、また新居には同人などが数多く出入りした。後年、幸田露伴は、外宅に行くと夜12時になっても1時になっても引き留められたと回想し、内田魯庵も、夜が更けたので帰ろうとすると「マダ早いよ、僕の処は夜が昼だからね。眠くなったらソコの押入から夜具を引きずり出してゴロ寝をするさ。賀古なぞは12時が打たんけりや来ないよ」といわれ、実際に賀古鶴所が12時すぎに来たのに数回出会ったと回想した。1890年(明治23年)1月に小説「舞姫」が発表されると、9月13日に長男於菟が生まれたものの、10月4日外は同居する弟2人を連れて赤松家所有の家を出て行った(仲人の西周が激怒し、外は西邸の出入りを禁じられた)。 離婚の理由は、登志子の容姿や嫁姑問題(平川ら 1997a、177–178頁)など、いくつか推測されてきたものの、わかっていない。なお、於菟によれば、父外は母に結核をうつされたと祖母が語ったという。その真相は不明であるが、少なくとも外は、1909年に戯曲「仮面」(離婚して2年後に結核が発症したことを示唆)をつくり、また没する10年ほど前から結核が発症していた。森まゆみ(2000)、137-183頁。(2007)、98-99頁。
  35. ^ 1875年(明治8年)5月に島根県安濃郡で生まれ、37歳で没。外は随筆「二人の友」を発表しており、のちに芥川龍之介第一高等学校でドイツ語を習った福間を回想して随筆「二人の友」を発表した。
  36. ^ ただし僧侶の玉水は、敬愛する外の後を追うように上京したものの、嫁姑問題にかかわったため、森家に出入りできなくなり、失意のうちに東京を離れた。なお小倉の新婚時代には、家主の10歳くらいの娘で、外にかわいがられた盲目の八重も、「お祖母さんがそんなに毎日伺ってはお邪魔じゃろうと申しますが、また伺いました」といって外宅によく来ていた。ときには、「お祖母さんが怒ると私の事を穀盗人と申します。そう言う時は森さんがそれはそれは御親切に慰めて下さいます」と、目に涙をたたえて外の新妻に訴えることもあった。小堀(1981)、150頁。
  37. ^ 凱旋した1906年(明治39年)1月12日には、親族のほか、佐佐木信綱上田敏小山内薫など一同で祝宴が催された。
  38. ^ 慣例として前任者(小倉「左遷」人事をした小池正直)の推薦が必要であった。その小池は、7歳年上であったが、外とは同窓生であり、かつて外を採用してもらえるように陸軍軍医監石黒忠悳に熱い推薦状を提出していた。学生時代の2人を知る緒方収二郎は、外を「強記は実に天才」、小池を「沈黙謹厳」と評した((2007)、41、310–311頁)。また小池は、7ヶ月間の外遊から帰国後、トップの医務局長に就任するまでの半年間、外と毎月1–2度会っていた。老朽軍医の淘汰を断行した小池の初回人事では、その淘汰で空いたポスト二つのうち第二師団(仙台)ではなく、近衛師団(東京)の軍医部長に外をつけた。外が小倉にいた1900年(明治33年)5月末、小池医務局長の推薦にもとづく軍医の叙勲が行われ、外は小池と同等に勲四等に叙せられた。 日露戦争後、第一軍–第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは外だけであり、会議などでも外がナンバー2の地位にあることが明確にされた。以上のように、外に関する小池の人事では、小倉「左遷」だけが特異であった。その理由として山下(2008)は、「左遷」人事をした小池には外への悪意がなく、「左遷」には別の理由があったとした。また「左遷」人事の背景として、日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽、陸軍大臣高島鞆之助とその後任桂太郎など台湾での出来事を知る将官による責任追及とその反動(山県有朋元帥や大山巌元帥や児玉源太郎などと懇意である石黒忠悳(衛生の総責任者)の保身運動)という複雑なものを挙げた。
  39. ^ (2007)、837頁。新関(2008)、180頁。
  40. ^ 外は、1910年(明治43年)12月10日、被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたとの説がある。なお同年12月14日与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、外から一週間にわたって無政府主義社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。平川ら(1997b)、303–306頁。
  41. ^ [[#森外2000|森外(2000)]]、「文芸の主義」138–140頁。初出1911年4月。
  42. ^ 陸軍に絶大な影響力をもつ山縣有朋とは、親友の賀古鶴所をとおして関係があった。1906年(明治39年)6月10日外と賀古が佐佐木信綱井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山縣に話のついでに告げたところ、山縣も力をそえることになった((2007)、285頁)。その歌会常盤会は、山縣が他界するまで15年間つづいた。もっとも5ケ月後、前年から体調を崩していた外も他界した。なお、外が山縣の誕生祝の宴に初めて招かれたのは、陸軍省医務局長を退く前年の1915年である。
  43. ^ 末延は、小説「鼠坂」についての見出しに「「剣」に屈服した新聞記者」と副題をつけた(末延(2008)、246–281頁)。
  44. ^ 池内(2001)、137頁。
  45. ^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある(池内(2001)、147–157頁)。
  46. ^ 外の歴史小説は、「阿部一族」、「大塩平八郎」、「堺事件」、戯曲「曾我兄弟」(1914年3月)まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。 「安井夫人」(1914年4月)以来、「山椒大夫」、「じいさんばあさん」、「最後の一句」、「高瀬舟」など家族の情を主体としたものが多くなっていく。(2007)、655頁
  47. ^ 「空車」に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内(2001)、198–207頁。
  48. ^ 唐木順三にしたがえば、「礼儀小言」は大正期の日本人の暮らしと思想のあまりの大変動に恐怖を感じた明治人、外の大正的なるものに対する深刻な憂いの表明である(片山(2007)、106頁)。
  49. ^ 帝室博物館では月・水・金曜日(8時から16時まで)に、図書寮では火・木・土曜日(8時から13時まで)に勤務した。 なお、博物館総長として毎秋、正倉院の虫干しに立ち会わなければならず、奈良や京都に1ケ月ほど滞在していた。また、総長就任の4年間で博物館の歳出が大幅に増え、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法があらたまり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。(2007)、705-707、785頁。
  50. ^ すでに臨時宮内省御用係として1913年(大正2年)2月から、勅語令旨など、特別な文章の起草、執筆にかかわっていた。 1915年(大正4年)5月には、即位式前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」をつくった。なお、御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章へのかかわりは1921年(大正10年)頃まで続いた。(2007)、625、702–703頁。
  51. ^ 一連の経緯は、猪瀬(2002)が詳しい。
  52. ^ ただし、遺言を残した翌7月7日に天皇と皇后から葡萄酒が下賜され、8日に摂政宮(のちの昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。なお外本人は、遺言を残した6日夜半から容体が悪化し、7日夕刻から昏睡状態に入っており、没した翌10日の東京朝日新聞が最期の様子を次のように報じた。

    8日午後の注射以来少しく容体を持直し、午後10時頃には何事か看護の人に言はうと試みていたが聞きとれなかった。それから不安のうちに夜が明けて9日午前4時にわかに容体が変わったので……

    (2007)、811-813、843頁[一部を平仮名にし、句読点を入れた]

    もっとも、死去する前日の8日に従二位に叙せられたことで、大谷(1983)(2000)外最後の遺言を疑問視し、外の叙爵への執着を指摘した。志田(2009)も同書を踏まえ、外が臨終の際に袴をはいていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘した。
  53. ^ 「立ち依(よ)らば、大樹の陰、その名は外、森林太郎」と書いた太宰治は、希望したとおり、外の墓の前(はす向かい)に埋葬された(猪瀬(2002)、9頁)。
  54. ^ たとえば、日本初の西洋風演出による新劇運動として、その後の演劇界に多大な影響を与えた自由劇場の第一回旗揚げで上演されたのは、イプセン作・外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(小山内薫の演出)であった(1909年11月)。 当時の外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている。(平川ら(1997c)、176–177頁)。
  55. ^ 国民歌劇協会が作曲家グルック生誕200年を祝って1914年大正3年)7月2日に上演を予定し、外に訳を委嘱した。ただし、第1稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わず、その後、第2稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった。 しかし、91年後の2005年平成17年)9月18・19日、その幻のオペラは、関係者の尽力により、外が希望したフルオーケストラで初演された(上野・東京藝術大学奏楽堂)。DVD:森外訳オペラ『オルフエウス』紀伊国屋書店、KKCS-65。
  56. ^ たとえば、1889年(明治22年)8月、発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており、同年10月刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。
  57. ^ 田山花袋は、

    私は殊に外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。

    「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月

    と書いた。 日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5ケ月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の外を訪ねており(初対面)、2人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた(平川ら(1997a)、388、403–405頁)。
  58. ^ 外が日本の近代美術史に残した足跡の一つに、実質的編集者として展覧会カタログ『原田先生記念帖』を発行したことが挙げられる。その展覧会とは、1909年(明治42年)11月28日(日曜日)、東京美術学校校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。 故人は、東京美術学校と関係がなかったものの、かつて同校で教鞭をとっていた外が発起人に黒田清輝をまきこみ、校友会倶楽部での展覧会開催が実現した。その展覧会カタログは、全出品作23点の写真と、黒田清輝松岡寿長沼守敬など同時代人による回想とが掲載されており、明治美術史の貴重な資料となっている。また、日本にまだ美術館学芸員が存在しなかった当時、公務(医務局長等)と執筆活動で多忙をきわめていた外がやり遂げたことは、今日の美術館学芸員の先駆的仕事でもあった。新関(2008)、138–140頁。
  59. ^ 弟子の有無に限らず、松本清張による外と漱石の比較が興味ぶかい(松本(1997)、93–97頁)。なお、外と漱石の対比は、生前の外を知る平塚らいてうもしており、(金子(1992)、314-315頁)で読むことができる。
  60. ^ (2007)、299頁。
  61. ^ そうした外の女性観については、[[#森外2006|森外(2006)]]が参考になる。同書には、一葉や晶子やらいてうの評なども集められている。 また、金子(1992)には、外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の外は、1885年(明治18年)9月28・29日にライプツィヒでドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴していた。
  62. ^ その創設の半年前、1908年(明治41年)1月18日海軍軍医本多忠夫1913年軍医総監1915年海軍省医務局長)は、医学雑誌『医海時報』の掲載文に「脚気調査会の設置は、早くからわれわれの切望してきたところである」と記述し、その掲載誌も脚気調査会の設置を強く求めていた(山下(2008)、344頁)。
  63. ^ 山下はつづけて「脚気根絶への道を拓いた森林太郎の功績は、ひときわ高く顕彰しなければならない。(中略)論理主義の森と実践主義の高木兼寛とは見解と手法に相違があり、それが一見対立的な姿に見えた。しかし「脚気の撲滅」という究極の目的は同じであった。(中略)/明治の脚気紛争のなかに出現したこの森林太郎高木兼寛の脚気業績は、医学史上不滅の業績である。末永く顕彰記念しなければならないのである。」と記述した(山下(2008)、461頁)。
  64. ^坂内(2001)、211–231頁)は、外が最後まで細菌説に固執したという見解のもと、1908年(明治41年)7月4日の調査会(第1回会合)で寺内正毅陸軍大臣が麦飯の効用を強く示唆したにもかかわらず、次の会合で示された活動方針から麦飯を含む栄養の問題が排除され、また調査会発足時の委員である都築甚之助が細菌説から栄養説に転じた直後に委員を罷免された等の見解を示し、調査会の活動を否定的にとらえた。たしかに調査方針では、微生物学など「学」のついた研究分野までしか明記されておらず、その第二条に列記された研究分野は、微生物学医化学病理学病理解剖学臨床医学流行病学であり、栄養学がない(山下(2008)、362頁)。もっとも、医化学を修めた佐伯矩によって日本で栄養学が芽生えたのは、調査会が設立されてから6年後の1914年(大正3年)であった。なお初期の調査会では、1910年(明治43年)3月–10月と1911年(明治44年)6月–1912年(大正元年)10月の2回にわたり、食餌試験が行われた。また、坂内(2001)都築が「罷免」されたと理解したのに対し、(山下(2008)、375頁)は「辞任」とする。その都築は、1910年(明治43年)3月の調査会で「脚気ノ動物試験第一回報告」をしており、同年12月9日に委員を辞めた。翌春、東京医学会総会で未知栄養障害説を発表(脚気ノ動物試験第二回報告)しており、のちに森委員長の配慮によって調査会でも発表した。その後も、製糠剤アンチベリベリンの開発とその効否試験など、精力的に研究をつづけた。
  65. ^ 1914年(大正3年)9月に刊行された外と小池正直の共著『衛生新編』(改訂増補第5版、上下2冊、全1,830頁)では、はじめて「脚気」が記載された。ただし、当時脚気の原因をめぐって医学界が混乱していたこともあり、権威者の見解を列記しただけで、外自らの見解を記述していない。山下(2008)、421–422頁。
  66. ^ 志田(2009)、16–18、237頁。
  67. ^ 山下(2008)、471–472、448頁。また山下は、ビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世に対して安易に批判すべきではないとした。特に「基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識がない」門外漢による批判をいましめた。
  68. ^ 後年、寺内は脚気病臨時調査会の第1回会合のあいさつで、自ら長年脚気を患い麦飯で治癒した経験があること、陸軍への麦飯導入を石黒に激しく反対されたことを披瀝(ひれき)し、

    〔日清戦争〕当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして余を詰問せられし一人なりし

    と発言した。
  69. ^ 山下 2008、289頁
  70. ^ 兵食試験をあたかも脚気の試験であったかのように誤用し、試験成績を独断的にゆがめたのが上官の石黒忠悳であった。石黒の誤用により、兵食試験は誤解されたとの見解。山下(2008)、448–449頁。
  71. ^ 史伝の新版は、『鴎外歴史文学集』(全13巻、岩波書店)に、一部の小説作品や、漢詩と共にある。
  72. ^ 歴代医学部長
  73. ^ 嵐山 2000

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

  • 井上通泰:『於母影』の共訳者で、歌会常磐会の創設メンバーの1人。
  • 上田敏:一緒に雑誌『芸文』『万年艸』を創刊する等、親交を深めた。
  • 木下杢太郎:医学生時代、鴎外に進路を相談。後年、鴎外の心境を深く理解した。
  • 黒田清輝東京美術学校の後輩教員。鴎外の依頼を受け、故原田直次郎展の発起人を務めた。
  • 佐佐木信綱:『めさまし草』に歌を発表し、長年にわたって親交を深めた。
  • 太宰治:希望したとおり、鴎外の墓のはす向かいに埋葬された(禅林寺)。
  • 田山花袋:とくに鴎外の審美学(美学の旧称)が好きで、その影響を受けたと書いた。
  • 永井荷風:鴎外の推薦で慶應義塾大学教授に就任。生涯その恩を忘れなかった。
  • 中村不折:鴎外の自宅から別荘の表札、墓碑銘まで書いた。
  • 原田直次郎:ドイツ留学時代からの友人。
  • 吉田増蔵:晩年の鴎外に乞われて上京し、元号勅語皇族名などに関わった。


[編集] 外部リンク

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