三島事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

三島事件(みしまじけん)とは、1970年11月25日に、著名な作家三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。楯の会事件とも呼ばれる。

目次

[編集] 概要

1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(当時は、東京都新宿区市ヶ谷駐屯地)の総監室[1]を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。

総監の益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、総監がに納めた瞬間を合図に総監に飛び掛り縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた自衛官もいた。また総監室も金額としては数百万円相当(当時)の被害を受け、後に平岡(三島の本名)家が弁償している。

三島らは、自衛官と詰めかけたマスコミ陣に向け30分間演説することを要求しそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をした。しかし自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容についての反発も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた[2]

この時三島はマイクを用意しておらず、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。また水木しげるは、『コミック昭和史』(講談社)最終巻で、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは「戦後育ちばかりで、個人主義・享楽主義になっていたから」だとしている。現場に居合わせたテレビ関係者などは、演説はほとんど聞こえなかったと証言しており、残されている録音でも、野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡孝夫は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。また徳岡は、演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙・写真共に、銀行の貸金庫に現在保管しているという[3]。なおこの演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけである。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとした[4]

総監室に戻った三島は、森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち[要出典]恩賜煙草を吸い[要出典]、上半身裸になり「ヤアッー!」と叫び自身の短刀を突き立てた。この時、介錯人の森田は自身の切腹を控えていた為か、手の震えで二度失敗し(刀も曲がってしまったともいう)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって一刃の元に刎ね、続いて切腹した森田必勝の介錯も行なった。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、が傷口から外に飛び出し、を噛み切っていたことも検死報告されている。

ノーベル文学賞候補として報道され[5]、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決は、日本国内だけでなく世界各国で注目を集め論議を起こし、今日まで回想を含め、様々な出版物が刊行されている。

[編集] 決起に至った理由

自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島はこれらの檄文と遺書を事件直前に、「楯の会」の会員を通じNHK記者の伊達宗克サンデー毎日記者の徳岡孝夫に託していた。

日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞」と断じていた。演説で、三島は自衛官らに「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。

三島の自決の決心に決定的に影響を与えたのは三島の自決の前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決であった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し[6]、ここからは江藤青年の至誠と壮絶な自決が三島の出処進退に多大な影響を受けたことが読み取れる。

自殺の原因には諸説が挙げられるが、更にその一つとして考えられるのが、自身の「老い」への恐怖である(三島自身「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と友人に語っている。なお荷風とは、系図上では遠戚関係にある)[7]新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていた[8]

そして更に一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に「年頭の迷い」と題して『読売新聞』に発表した文章のなかで、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。

そして更にもう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのものに対する官能的なフェティシズムがある。そのことは1960年に榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』からも明瞭に看取される。

三島は、同年7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得ていない約束』[9]の題名で寄稿している。その中で、戦後民主主義を「偽善というおそるべきバチルス」と断言し、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来た」ことに負い目を感じていた、と告白する。そして、これまでの自分の作品は排泄物に過ぎず、「その結果賢明になることは断じてない」とまで言い切る。そして、文章の最後で「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来への絶望を吐露している。この文章は、実質的な『遺書』の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。

三島が死に急いでいたことは檄文に、元来は「昭和四十四年十月二十一日」(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべき箇所を、「昭和四十五年十月二十一日」と書いていることなどからも伺える。検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたという[10]

[編集] その他

演説の録音には『去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて』とあるが、これは1969年10月21日に新宿で発生した10.21国際反戦デー闘争のことを指すと思われる。

事件直後に、現場の総監室には師の川端康成(実際は現場検証中で入室しなかったとされる)や、三島と親しかった佐々淳行(当時警察庁幹部)が訪れた。三島と親しかったが、(三島が自決の年に、石原の政治姿勢を批判したことで)交流を絶った石原慎太郎(当時参議院議員)も、現場には訪れたが入室はしなかった。

「楯の会」は1971年2月28日に解散を宣言した。なお事件に参加した一人古賀浩靖は、服役出所後に生長の家[11]副総裁であった谷口清超(のち総裁)の娘と結婚(清超の実家を継ぐため)荒地浩靖と改姓、教団幹部として活動をおこなった。

余談だが1949年に発生した弘前大学教授夫人殺人事件では、三島事件に影響を受けて1971年に真犯人が名乗り出た。冤罪で懲役囚になっていた人物は、後に再審が開かれ無罪判決となった。

1984年に発刊された写真週刊誌フライデー」創刊号に、三島由紀夫の生首写真が掲載されたことを受け、三島の妻の平岡瑤子が講談社に強硬抗議、出版が差し止められた[12]

[編集] 関連文献

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ なお大日本帝国陸軍期では、陸軍大臣室であり、先の大戦時は、建物は大本営であった。
  2. ^ 三島由紀夫演説文”. 2007年8月26日閲覧。
  3. ^ 『“あの事件”から四十年―三島由紀夫と私(前編)』、「正論2010年10月
  4. ^ 文化放送で、この事件を担当した若手記者三木明博は、同社の社長に就任している。
  5. ^ 2011年現在ノーベル財団が公表している文学賞の過去の候補者リストには三島は含まれておらず、マスコミ報道で「候補者」と呼ばれたにとどまる。なお、ノーベル賞の候補者並びに選考過程には50年間の守秘義務があり、三島が実際に候補者となっていたかどうかは今後の資料公開によって明らかになる。
  6. ^ 『決定版 三島由紀夫全集 (35)』(新潮社、2003年)
  7. ^ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』p.442(夏目書房、2000年)
  8. ^ 小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』、29-30頁、構想社、1980年/ ちくま文庫で再刊(1996年)
  9. ^ ちくま文庫版『文化防衛論』に再録(2006年)
  10. ^ 伊達宗克編『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社)
  11. ^ 「楯の会」には、多くの若者信者が参加していた。
  12. ^ 同年の伊達と徳岡によるインタビューで、「(江戸時代の)さらし首同様の行為です」と言及した。

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス