三島事件

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三島事件
Ministry of Defense2.JPG
舞台となった市ヶ谷駐屯地[注釈 1]。現在は統合幕僚監部等が所在する防衛省の中枢となり、渦中となった東部方面総監部は朝霞へ移駐している。
場所 市ヶ谷駐屯地
日本の旗 日本 東京都新宿区市谷
座標 北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.69278度 東経139.72861度 / 35.69278; 139.72861座標: 北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.69278度 東経139.72861度 / 35.69278; 139.72861
日付 1970年(昭和45年)11月25日
午前10時58分頃 – 午後0時20分頃 (JST (UTC+9))
概要 三島由紀夫森田必勝ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問。陸上自衛隊東部方面総監を拘束、幕僚らを斬りつけ、三島がバルコニーで自衛官に演説を行う。その後総監室で三島と森田が割腹自殺する。
武器 日本刀
死亡者 2人(三島由紀夫、森田必勝)
負傷者 8人(幕僚)
他の被害者 東部方面総監、幕僚、自衛官
犯人 楯の会メンバー5人(三島由紀夫、森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)

三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1]

この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、海外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした異常な行動に一様に驚きを示した[2]

経緯[編集]

総監室を訪問する

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫楯の会のメンバー4名(森田必勝小賀正義小川正洋古賀浩靖)と共に、東京都新宿区市ヶ谷自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)、陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室を訪問[注釈 2][注釈 3]。玄関で沢本泰治三佐に出迎えられた三島らは正面階段を昇り、原勇一佐に案内され総監室に通された。応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、益田兼利東部方面総監(陸将、57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を連れてきた理由を説明する[4][注釈 4]

ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」[注釈 5]と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、“関兼元”と記された鑑定書を見せた。そして、刀を抜き、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づき、ハンカチでなく日本手拭を渡した[6]。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った[4]

総監を拘束する

三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返した。この時、午前11時5分頃であった。三島は使った手拭を小賀に渡し、鳴りを「パチン」と響かせて刀をに納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。つづいて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づく。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した[4]

お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本泰治三佐が異変に気づいて報告。原勇一佐が正面ドアを開けようと体当たりする[注釈 6]。室内から「来るな、来るな」と森田必勝の叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊警視庁に通報する。第一報から12分後には警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着した。午前11時20分頃、両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し三島は、「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを日本刀・“関孫六”で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚らが次々と総監室に突入をして来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが、逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた[3]

応戦が続き、小テーブルや椅子、灰皿が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した(この際に突入を試みた自衛官は、佐原勇1等陸佐、佐川辺晴夫2等陸佐、中村菫正2等陸佐、2等陸曹2名並びに山崎皎陸将補、東部方面総監部幕僚副長吉松秀信1等陸佐(陸士54期)、寺尾克己3等陸佐、清野不二雄1等陸佐、1等陸尉1名、3等陸曹1名)。怪我をした自衛官らの中には、右肘と左掌背部に重傷を負わされた幕僚幹部もいた。左手で刀をもぎ取ろうとしたために掌の腱が切れた。しかし、この重傷を負った総監部三部の防衛班長・中村菫正(のぶまさ)二佐は、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語り、自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した[7][注釈 7]

退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下に差し出したそれと同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松秀信副長が三島に対応し、三島は昼12時までに自衛隊員を集めることを求めた。要求書には、「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊はこの間、午後1時10分までの2時間、一切の攻撃を行わないこと、当方よりも攻撃しない。条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」などと書かれてあった[8]

バルコニーにて演説を行う

午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、当日、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は警察の監視下に置かれ、三島の要求通り現場には召集されなかった。午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する[4]

正午の合図が市ヶ谷駐屯地の空に響くや、“七生報国”(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻をし、日本刀・“関孫六”の抜身を持った三島がバルコニーに立った[注釈 8]。右背後には森田必勝が仁王立ちし、正面を凝視していた。昼食を食べ始めていた自衛官達はそれを中断して本館前に集まった[3]。自衛官達から、「三島だ」、「何だあれは」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた[9]。憲法改正のための決起を促す演説であった。演説の内容は散布された檄文とおおよそ一致する。上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターが騒音を出し旋回していた。自衛官達は、「聞こえねえぞ」、「ばかやろう」、「引っ込め」、「下に降りてきてしゃべれ」などと叫んだ[3]。彼らには、総監が人質にされ、幕僚らが斬られて怪我をさせたらしいことの情報が伝わっていたため[3]、「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」といった野次が飛び、この問いに対し三島は「抵抗したからだ」と答えている[8]

その場にいたK陸曹は、「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」とし、「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語っている[9][注釈 9]。「男一匹が、命をかけて」(三島演説)臨んでいた三島は「静聴せい!」と再三叫んだものの、野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消されて、わずか10分ほどで演説を切り上げた[10]。なお、この日、第三十二普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などのどちらかといえば三島の想定した“武士”ではない隊員達であった[3]

― 俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。そうした自衛隊の四年なんてのはだな、最後の三十分にだ、最後の三十分にいるだから今立ってんだよ。

三島由紀夫、バルコニーにて[注釈 10]

三島は神風連の精神性に則り、マイクを使用していなかったが[注釈 11]、この光景をテレビで見た作家の野上弥生子は後に、もしも自分が母親だったら「(マイクを)その場に走つて届けに行つてやりたかつた」と言っていたという[12]。また水木しげるは、『コミック昭和史』(講談社)最終巻で、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは「戦後育ちばかりで、個人主義享楽主義になっていたから」だとしている。現場に居合わせたテレビ関係者などは、演説はほとんど聞こえなかったと証言しており、残されている録音でも、野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡孝夫は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている[13][注釈 12]。なお、この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけである。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、それでも物資か通信かといった隊員らに向けて怒号を発する三島の演説全てを録音することに成功しスクープとした[注釈 13]

諦めを言い帝を讃美して自決へ

声を枯らし「それでも武士か。それでも武士か。まだ諸君は、憲法改正のために立ち上がらないと、見極めがついた」。演説を終えた三島は、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った。なお、演説前か演説後に三島が恩賜煙草を吸ったかどうかは不明であるが、この現場に恩賜煙草は持参している[14][注釈 14]。三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と総監に話しかけた。三島はその後、上半身裸になり、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした[15]。また、割腹した血で“武”と指で色紙に書くことになっていたので、小賀が三島に色紙を差し出すと、「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した[14][15]

そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤァ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。総監が、「やめなさい」、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。介錯人の森田は自身の切腹を控えていたためか、この時、介錯を三度失敗し(刀先がS字型に曲がってしまったのは、この時の衝撃ともいわれる)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断する。最後に小賀が短刀で首の皮を胴体から切り離した[4]。続いて森田も切腹し、古賀が一太刀で介錯した。そして、小賀、小川、古賀の3名は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両名の首を並べて合掌し、総監の拘束を解いた。3名の涙を見て総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した[15]。午後0時20分過ぎ、3名は総監室正面入口から総監を連れ出て、日本刀を自衛官に渡し、警察に逮捕された[4]

慶応義塾大学病院法医学解剖室・斎藤銀次郎教授の解剖所見によると、三島の所見は、「頸部は3回の切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長163センチ。45歳だが30歳代の発達した若々しい筋肉。脳の重さ1440グラム。血液A型。」であった[9][15]。小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったという[3]。また一太刀が顎に当たり大臼歯が砕けており、を噛み切ろうとしていたとされる[3]。警察の検分によると、介錯に使われた日本刀・“関孫六”は、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた[9][15]。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、“関孫六”の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩坂弘牛込警察署で確認している[16][14]

現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった[注釈 15]。三島由紀夫、本名・平岡公威は享年45。森田必勝は享年25。自分の名を「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという[6]

事件後[編集]

ノーベル文学賞候補として報道され[注釈 16]。多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決のニュースは、日本国内だけでなく世界各国に配信され注目を集めた。その波紋は論議を起こし、今日まで回想を含め、様々な出版物が刊行されている。

自衛隊関係者の反応

自決と聞いて、幕僚T三佐は、「まさか、死ぬとは。すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べ、K陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語った[9]。事件翌日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたという。しかし、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた[9]。また、事件後に、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部にではあるが、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという[9]

その一方、釈放された益田総監が自衛官達の前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、自衛官達から、「いーぞ、いーぞ」、「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いたという[9]。その場で取材していた東京新聞の記者は、その光景になんともがまんできなかったとし、新聞のコラムに、「三島の自決に対する追悼ではもちろんない。民主主義に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた“社長”へのねぎらいであり、サラリーマンの団結心といったところだろうか。残された隊員へ、マイクで指示が出た。『みなさんは勤務に服してください。どうぞ、そうしてください』と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。(中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態」などと書いた[9]

当時防衛大学校長だった猪木正道は三島と檄について、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と振り返っている[18]

事件の日、精鋭部隊はほとんど空っぽで、その代わりに、通信や、資材や、補給のような、後方支援部隊が残って三島の決起呼びかけに立ち会い、それから20年余りのち、日本は、1991年の自衛隊ペルシャ湾派遣を皮切りに自衛隊海外派遣を開始し、後方支援部隊として国際的な活動の一角を担うことができるようになった。

葬儀、共謀者の処分、記念碑建立等

事件翌日の1970年(昭和45年)11月26日、慶応義塾大学病院で首と胴体をきれいに縫合された遺体はに納められた[14]。森田の遺体は兄・治に引き渡され、渋谷区代々木火葬場荼毘に付された[19]。三島の遺体は弟・千之に引き渡され、パトカーの先導で三島の自宅へ運ばれ、密葬が行われた。父・は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、遺体の顔は生きているようで、楯の会の制服が着せられ刀が胸のあたりでしっかり握りしめられて添えられていた。これは警察官達が、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった[14]。原稿用紙と万年筆も棺に納められ、三島の遺体は品川区桐ヶ谷斎場で午後6時10分に荼毘に付された[14]

森田の通夜も11月26日午後6時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日の11月27日、葬儀は11月28日に、カトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、納骨された。三島の家からは弟・千之が出席した[19]。森田の戒名は「慈照院釈真徹必勝居士[6]。小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、嘱託殺人不法監禁傷害暴力行為建造物侵入銃刀法違反の6つの容疑送検される[4]

1970年(昭和45年)11月30日、三島の自宅で初七日法要が営まれた。三島は、「自分の葬式は必ず式で、ただし平岡家としての式は式でもよい」と遺言していた[14]。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。三島の遺言では「〈文〉の字は不要である」とあったが、「文人として育って来たのだから」という遺族の思いから〈武〉の字の下に〈文〉の字も入れることとなった[14]。同年12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋豊島公会堂で行われた。これが後に「憂国忌」となる。司会は川内康範藤島泰輔、実行委員は民族派学生で、集まった人々は3000人以上となる(主催者発表は5000人)。会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まった[19]

1970年(昭和45年)12月17日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖が、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴された[19]

三島由紀夫の墓

翌年の1971年(昭和46年)1月14日府中市多磨霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。この日は三島の誕生日でもある。同年1月24日、午後1時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた。喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成で、三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人などと、一般参列者のうち先着180名が列席した。イギリスBBC放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを断った[9]。一般弔問客は8200人以上で、私服・制服警察官、機動隊も警備にあたった[19]。一般参列者は会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけ、中には、「追悼三島由紀夫」ののぼりを立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあった[9]

1971年(昭和46年)1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた[19]

1971年(昭和46年)3月23日、「楯の会事件」第一回公判東京地方裁判所で開かれた。被告の家族らと平岡梓、瑤子が傍聴する。公判は1972年(昭和47年)4月27日の第18回まで開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖に懲役4年の実刑判決が下された。判決文の最後は「被告人らは、宜しく〈学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る〉べきことを銘記し、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する。よつて主文のとおり判決する」で締めくくられていた[20]

1971年(昭和46年)9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づく。翌日の9月21日、石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見。府中警察署に届け出る。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままだった[19]

1971年(昭和46年)11月25日埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建つ。揮毫は三島瑤子。生前、三島が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載される[19]

三島由紀夫と自衛隊[編集]

1966年(昭和41年)8月、三島は小説『奔馬』の取材で奈良県大神神社を訪れ、その足で広島県江田島海上自衛隊第一術科学校などを見学する。同年10月、三島は自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将藤原岩市などに接触し、体験入隊許可のための仲介や口利きを求める。同年12月、小沢開策から『論争ジャーナル』創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、同誌の万代潔が三島宅を訪ねて来る[19]

1967年(昭和42年)1月、雑誌『論争ジャーナル』の編集長・中辻和彦と副編集長・万代潔が三島宅を訪問し、雑誌に寄稿を依頼しに来る。中辻と万代は3日に1度の割で訪れるようになる。また、同月には日本学生同盟(日学同)の持丸博も三島宅を訪問し、日本学生新聞に寄稿を依頼する。この頃三島は新潮社の担当編集者の小島喜久江に、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と語ったという[12]。同年3月、三島の自衛隊45日間の体験入隊が許可される(1、2週間ごとに一時帰宅するという条件つき)。同年4月12日から5月27日まで、単身で自衛隊体験に入隊する。まず、久留米陸上自衛隊幹部候補生学校隊付となる。離校後、陸上自衛隊富士学校で、山中踏破、山中湖露営などを体験後、富士学校幹部上級課程に属し、菊地勝夫一尉の指導を受ける。5月11日以降は、レンジャー課程に所属した後、習志野第一空挺団に移動し、基礎訓練を体験する。この頃から三島は、民兵組織・「祖国防衛隊」構想を固めていく。また、この頃、日学同、「論争ジャーナル」の学生達が、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との意向を三島に伝え、三島、日学同、「論争ジャーナル」派の三者関係が徐々にできあがる。しかしその後、三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」と、反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じ始める(のち、祖国防衛隊へ移籍し、学生長となった持丸博は日学同を除籍となる)[6]

1967年(昭和42年)6月19日銀座の喫茶店「ビクトリア」で行われた三島由紀夫と早稲田大学国防部代表との会見で、三島は初めて森田必勝(早稲田大学教育学部在学)と顔を会わせる。森田も日学同に所属していた。同年7月2日から1週間、森田は三島と共に自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊し、戦車に試乗する。森田は、そのときのことを綴った「早大国防部活動日誌」で、「それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職が有利だとか言っている連中のサラリーマン化現象は何とかならないのか」と述べ、「(自衛隊員が)憲法について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた[21]

1967年(昭和42年)10月、三島は小説『暁の寺』の取材で訪れたインドで、インディラ・ガンディー首相、ザーキル・フセイン大統領、陸軍大佐と面会する。中共に対する日本の国防意識の欠如について危機を抱く[22]。帰国後の同年11月、三島は「論争ジャーナル」のメンバーと民兵組織・祖国防衛隊の試案を討議し、祖国防衛隊構想パンフレットを作成する。同年12月、この試案を、元上司・藤原岩市から見せられた陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝が、藤原の仲介で三島と会食する。巷でノーベル文学賞候補と騒がれている三島に対し、「文士でいらっしゃるあなたは、やはり書くことに専念すべきであり、書くことを通してでも、あなたの目的は達せられるのではありませんか」と問う山本に、三島は「もう書くことは捨てました。ノーベル賞なんかには、これっぽちの興味もありませんよ」と、じっと目を見据えてきっぱりと答えた。この瞬間、山本は背筋にピリリと火花が走り、「これは本気なのだ」と確信し、三島と一緒にやれると思った。と同時に、この人には大言壮語してはならぬと感じたいう[23]。持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と言ったという[3]

1968年(昭和43年)2月25日、論争ジャーナル事務所で、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博ら11名は血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と記され、三島は“平岡公威”(本名)で署名している[24]。同年3月、持丸を新たに副委員長とした「論争ジャーナル」が三島と1か月間、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地へ自衛隊体験入隊し、そこに日学同の森田必勝も随行参加する。春休み帰省中にスキーで右足を骨折し、治療中にもかかわらず訓練に参加し頑張る森田に、三島は感心し注目する。体験入隊終了後、学生一行は三島邸で慰労会の夕食に招かれる。その後、森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と記す[6]。森田は北方領土返還運動などに尽力していた。また、三島は、祖国防衛隊構想に政財界の協力を得るために与良ヱに相談していたが、この頃から持丸博を通じ、桜田武日本経営者団体連盟代表常任理事)らへの接触を始めて、初面談を持つ。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、同年3月18日、三輪良雄にその旨の書簡を送る[25]

1968年(昭和43年)4月上旬、堤清二の厚意により、五十嵐九十九ドゴールの制服もデザインしたという)がデザインした制服の完成を祝して、三島は祖国防衛隊隊員らと共に、青梅市の愛宕神社に参拝に赴く。同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談する。桜田は前回より理解を示し、「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核隊員のみを無名称で置き「祖国防衛隊」の任務とすることで合意する。同年5月、山本舜勝による祖国防衛隊の中核要員への集中講義、訓練支援が開始され、6月1日、市中で総合演習(張り込み、尾行、変装など)を行う。同年6月15日全日本学生国防会議が結成され、森田必勝が初代議長に就任。その大会で三島が万歳三唱する。同年7月25日、学生らを引率した第2回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われた。その一方、結局は桜田武(日経連)からの支援協力が中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、私兵など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという。三島のプライドはひどく傷ついた[23])、この頃、祖国防衛隊の名称を「楯の会」(万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾れは」より由来)とすることに決定し、同年10月5日虎ノ門教育会館で三島と初代学生長・持丸博ら中核会員40名が、「楯の会」の正式結成を記者会見発表する[19]

1968年(昭和43年)10月21日、三島と楯の会会員ら、山本舜勝と陸上自衛隊調査学校の学生らは、国際反戦デーの左翼デモ(新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査する。また、これからの左翼デモにおける自衛隊治安出動の可能性と、その援護、魁となる斬り込み隊要員・楯の会の今後の行動計画、憲法改正・自衛隊国軍化計画を練る。この頃、森田必勝は山本に、「誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか」と訊ねる。同年12月、三島邸に楯の会の中核会員と山本らが集まり、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画も模索する。また、三島が山本に、「いつ起つのか」という質問に、山本が、「暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱されたときと、治安出動の際だ」と答えると三島は、「そのときは、あなたのもとで中隊長をやらせていただきます」と言ったという[23]

1969年(昭和44年)1月18日、反日本共産党系の新左翼学生らが占拠する東京大学安田講堂を機動隊が強制排除する事件(東大安田講堂事件)が起こる(排除完了は1月19日)。三島は、新左翼学生の自爆によって共産主義日本主義が結びつくことを防ぐため、「ヘリコプターで催眠ガスを撒いて眠らせてくれ」と警視庁に電話する。同年2月1日、「論争ジャーナル」側と日本学生同盟側との架け橋役であった森田必勝はしだいに「論争ジャーナル」側に完全に傾き、小川正洋(明治学院大学法学部在学)ら5名と共に日本学生同盟を正式に脱退する。この日学同脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団である。同年2月19日、山本舜勝の指導の下、板橋区松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が23日まで行われた。同年3月1日、楯の会会員を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、29日まで行われ、ヘンリー・スコット=ストークスの取材を受ける。この時、「なぜ楯の会に入ったのか」と問われた森田は、「三島に随いていこうと思った。三島は天皇とつながっているから」と答えたという[26]。同年4月13日、ロンドンのテムズ・テレビが楯の会の市ヶ谷会館での例会の取材に来て訓練の様子を撮影する。同年4月28日、三島と山本舜勝は、沖縄デーの新左翼全学連のゲリラ活動やデモを視察する[19]

1969年(昭和44年)5月11日、港区愛宕の青松寺境内の精進料理・醍醐で、三島と山本ら自衛隊幹部が会食する。同年5月23日、楯の会特別訓練の初日。26日まで行う。三島はこの頃から、楯の会の7、8名に居合を習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田俊夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡す。同年6月下旬、山本舜勝と5名の自衛官と、三島らが山の上ホテルで会食。皇居死守の具体的なクーデター計画などについて話し合い、三島は山本に、「すでに決死隊を作っている」と決断を迫るが、山本は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と反対する。自衛官らは三島に賛同していたが、山本の賛同が得られずに終わる[23]。同年7月26日、楯の会会員を引率した第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、8月23日まで行われる。この頃から、楯の会主要古参メンバーの中辻和彦、万代潔らと三島との間に、「論争ジャーナル」の資金源(中辻らが田中清玄に資金を求めていたこと)をめぐって齟齬が生じ始め、同年10月3日に中辻、万代ら数名が楯の会を正式退会する[27]

1969年(昭和44年)10月12日持丸博(楯の会・初代学生長)も退会。村松剛によると、持丸は、三島の「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」という提案を断り、楯の会を退会したという[27]。持丸は、会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた。三島は山本舜勝に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという[23]。持丸の代わりに森田必勝が学生長となり、『論争ジャーナル』編集部内にあった楯の会事務所も森田宅に移転した。この中辻らの退会問題について、林房雄は、「彼ら(NとM)は小沢開策氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。(中略)ある“大先輩”の一人は、『ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連中みたいな奴らばかりだった』とまで極言した。(中略)『楯の会』はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された」のだと述べている。そして、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、三島は林房雄に、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と電話してきたという[28]

1969年(昭和44年)10月21日、三島と楯の会会員は、再び国際反戦デーの左翼デモ(10.21国際反戦デー闘争)の状況を確認するが、新左翼は機動隊に簡単に鎮圧され、もはや自衛隊の治安出動に乗じた憲法改正、自衛隊国軍化への道がないことを認識する。同年10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、森田必勝は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し憲法改正を発議させたらどうか」と提案するが、武器の問題などで実行困難と三島は返答する。同年11月3日、午後3時から、国立劇場屋上で、楯の会結成一周年パレードを行う。演奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。藤原岩市元陸将、三輪良雄元防衛庁事務次官が祝辞を述べる。同年11月16日、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われるが、再び機動隊に簡単に鎮圧され自衛隊の治安出動は絶望的となる。同年11月28日、三島宅で、最終的計画案の討議を再び山本舜勝と行うが、山本から具体策が得られず終わる。同年12月22日、三島と楯の会は、陸上自衛隊習志野駐屯地で、落下傘降下の予備訓練を行う。訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説く。これに基づき、後に、阿部勉を班長とする憲法改正草案研究会が楯の会内に組織され、毎週水曜に討議が行われる[19]

1970年(昭和45年)1月末、三島宅での会食後、「(クーデターを)やりますか!」という三島の問いに対し、山本舜勝は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答する[23]。同年3月1日、楯の会会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、28日まで行われる。この頃から、森田必勝と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同年3月末、突然、三島は和服に日本刀を携えて山本舜勝宅を訪問する。帰り際、「山本一佐は冷たいですな」と言う[23]。同年4月10日、三島は小川正洋に「最終行動」に加わる意志があるかどうか打診し、小川は承諾する。同年5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義(神奈川大学工学部在学)、小川正洋が集まる。楯の会と自衛隊がともに武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴える方法を討議する。同年6月2日、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの体験入隊を、4日までする[19]

1970年(昭和45年)6月13日、三島、森田、小賀、小川はホテルオークラ821号室に集合。具体的な決起の計画(自衛隊の弾薬庫を爆破すると脅すか、あるいは三十二連隊長を拘束するか、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させ、国会占拠・憲法改正を議決させる計画など)を討議する。楯の会2周年記念パレードに東部方面総監を招き、その際に総監を拘束する案なども提案される。同年6月21日、三島ら4名は、山の上ホテル206号室に集合。拘束相手を三十二連隊長に決定する。同年7月5日、三島ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に日本刀を積んで三十二連隊長室に赴き連隊長を監禁することを決定する。小賀は三島から渡された20万円で中古の41年型白塗りコロナを購入する。同年7月下旬、三島ら4名は、決起を共に行う楯の会メンバーを誰にするか相談する。この頃、四日市市に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島を一人で死なせるわけにはいかん」などと言ったという[6]。同年8月下旬、三島ら4名は、古賀浩靖(神奈川大学法学部既卒)を仲間に加えることを決定する。同年9月2日、森田と小賀に、「生命を貸してくれ」と頼まれた古賀浩靖は、同志に加えてくれたことを感謝する。9月9日、三島は銀座4丁目のフランス料理店に古賀を招き、計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語る。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」、「ここまで来たら、地獄の三丁目だよ」と言う[4]

1970年(昭和45年)10月2日、三島、森田、小賀、小川、古賀は銀座の中華料理店・第一楼に集合。11月の楯の会例会を午前11時に開始し、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練開始後、三十二連隊長を拘束することを決定し、確認する。また、自分達の決起の行動を捻じ曲げないで、そのまま報道してもらうための信頼できる新聞記者2名を呼んでおくことも決める。同年10月17日、三島は持丸博を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状は(著名した者の多くは去ったので)焼却したいから持って来てほしいと頼む。同年10月19日、三島、森田、小賀、小川、古賀は、東条会館で、楯の会の制服を着用し記念撮影をする。同年10月23日、夜、三島は山本舜勝宅を訪ねる。同年10月27日、血盟状を、持丸とともに劇団浪曼劇場の庭で焼却する。しかし、このとき持丸は血盟状のコピーを内密にとっておく[29]

1970年(昭和45年)11月3日、六本木サウナ・ミスティーに三島、森田、小賀、小川、古賀が集合。檄文と要求書の原案を検討する。三島は、全員自決するという計画を止めさせ、小賀、小川、古賀らに拘束した連隊長を護衛し、連隊長が事件の責任をとって自殺しないよう無事に釈放する任務と、逮捕後の法廷で楯の会の精神を明らかにするという任務を指示する。森田は、「俺たちは、生きても死んでも一緒じゃないか。又、あの世で会えるんだ」と言った。三島は前日、森田にも、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と説得していた。しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った。そう古賀に語った。同年11月10日、森田、小賀、小川、古賀は、菊地勝夫一等陸尉との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、三十二連隊隊舎前を下見する。同年11月19日、三島ら5名は、新宿伊勢丹会館後楽園サウナに集合し、演説などの時間配分を打ち合わせする[4]。森田が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訪ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた[4][14]

1970年(昭和45年)11月21日、決行当日の11月25日に三十二連隊長が不在であることが判明する。三島ら5名は、中華第一楼に集合。協議の末、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定する。三島は益田兼利東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつける。森田ら4名は、ロープ、バリケード構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用の布などを購入する。同年11月23日、三島、森田、小賀、小川、古賀はパレスホテル519号室において、決起の最終準備(垂れ幕、檄文辞世の句など)と、予行演習を行う。翌11月24日、三島ら5名はパレスホテルで再度の予行演習をする。午後2時頃、三島は、徳岡孝夫伊達宗克に翌日呼び出しの取りつけの電話と、午後3時頃、新潮社の編集者・小島喜久江に明朝10時半に『天人五衰』の原稿を取りに来るように電話を入れる。午後6時頃、三島ら5名は、新橋の料亭・末げんで別れの会食をする。午後8時頃、小賀の運転する車で帰宅。三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言う。森田は西新宿の下宿に帰宅後、同居していた楯の会会員の田中健一に、翌日、市ヶ谷会館で渡すべき封書を託す[6]。小川と古賀は、小賀の戸塚の下宿に帰宅。午後10時頃、三島は自宅の敷地内の両親宅に挨拶に来る[14]

1970年(昭和45年)11月25日、三島は午前10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、具体的な呼び出し地などを指定する。そして、午前10時13分頃、森田、小川、古賀が同乗し、小賀の運転するコロナが三島宅に到着。三島を乗せて自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。市ヶ谷に向かう車中、高速道路を通って神宮外苑附近にさしかかったとき、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」と言ったという。古賀は検察調書の中で、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と述べている[4]

決起に至った要因[編集]

自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島は最初の単身自衛隊体験入隊後の1967年(昭和42年)5月27日の時点では、「いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます」と公けのインタビュー向けには応えながら、以下のように述べている[30]

私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかにはいる、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです。

三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」[30]

さらに三島は、「いまの制度がそうさせるのか、陛下のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣を羽田で迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊の儀仗を避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました」とも述べている[30]

また1967年(昭和42年)11月の福田恆存との対談では、高坂正堯の憲法への苦心を尊重しながらも、自分は憲法に対して「現実主義の立場に立ちたい」が、「現状肯定主義」ではあってはならないと思うとし、このまま日本国憲法第9条を改正しないまま「解釈」で「縄抜け」するという論理的なトリックに三島は疑問を呈しつつ、「ぼくはもっと憲法を軽蔑している」と述べ[31]、憲法改正への法的手続(国会の三分の二と、過半数の国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条がクーデターでしか変えられないと語っている[31]

このように、日本国憲法第9条の第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』なかで、自民党の第9条第2項に対する解釈や、共産党社会党の日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲堅持の矛盾姿勢を、「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因」をなしているものと見て、両者の国体をないがしろにする姿勢を批判している。また、演説の中でも、自衛官らに、「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫し、ばらまいた『檄文』のなかで「生命尊重のみで、は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」と訴えた[32]

三島の自決の決心に影響を与えた動因の一つには、自決前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決もあった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の〈本気〉といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記しており、この青年の至誠と壮絶な死が三島の出処進退に及ぼしていた心情が看取されている[33]

三島の自殺には様々な側面から諸説が挙げられ、その要因の一つとして、三島が少年時代にレイモン・ラディゲの夭折に憧れていたことなどや[34]、『豊饒の海』で副主人公・本多の老醜を描いていることなどから、自身の「老い」への忌避が推察される向きもあるが、新潮社の担当編集者だった小島千加子によると、『豊饒の海』執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島が言っていたことがあるという[35]。また月刊誌『中央公論』の編集長であった粕谷一希によると、三島は、「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言い(なお、三島と荷風とは系図上では遠戚関係にある)、その一方で、「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという[36]。なお、三島の老いへの考えは一面的ではなく、「自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう」とも述べ[37]、「室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる」とも語っている[38]。小島千加子にも、以前には「川端康成佐藤春夫などは、年をとって精神の美しさが滲み出て来た良い例」とも言っていたという[39]

また、三島にはヒロイズムつまり英雄自己犠牲に対する憧れがあることがエッセイなどから散見される。その中の一つとして三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して新聞に発表した文章で、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている[40]。また、『行動学入門』のなかでは、以下のように語っている。

かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた。(中略)会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて少年雑誌劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。

三島由紀夫「行動学入門[41]

そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、自決前に『男の死』(三島の死により未刊)という残酷な死に方の写真集の要請を快諾していたり[42]平田弘史時代物劇画を好きだと語っていることなどからうかがえ[43]切腹に対する官能的な嗜好やこだわりも、自身が映画制作した小説『憂国』や、榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』から看取される[44]。切腹について三島と語り合ったことのある中康弘通は、切腹に興味を持つ傾向の人々は男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛と崇高な自己犠牲の悲愴美を、思春期の心に刻みつけて以来、条件反射のように、愛と死の両極を結ぶ媒体として、切腹の意義を把握している」と解説し[45]、そういった人々でも、自殺に切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と述べている[45]

なお、三島は1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得てゐない約束』というエッセイを寄稿し、その中で、自身の戦後25年の「空虚」を振り返り、それを「鼻をつまみながら通りすぎた」とし、以下のようにその時代について語っている[46]

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年[46]

三島はその戦後民主主義を否定しつつも「そこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる」と告白し、多くの作品を積み重ねても、自身にとっては「排泄物を積み重ねたのと同じ」で、「その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない」と断じ、最後の一節では以下のような訣別を表明している。この文章は、実質的な「遺書」の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。

二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」[46]

ちなみに、三島が決起の時点ですでに死を決意していたことは、事件前の9月に「楯の会」メンバーの古賀浩靖に向かって、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたことから明らかで[4]、8月には「諌死」という漢字の読みを「kanshi」とノート片に書いて、ヘンリー・スコット=ストークスに渡していることなどから、自決がクーデターの実行ではなく、「諫死」(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いであったことがうかがえる[26][6]林房雄は、三島が林との対談の中で、政治家たちは詩人文学者が予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら[47]、「三島君とその青年同志の諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている[47]

また、三島の自決への要因の一つとして欠かせないものには、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人でもあった蓮田善明が敗戦に際し、国体護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある[48]。1945年(昭和20年)8月19日、戦地のジョホールバルで蓮田は、中条豊馬大佐の、軍旗の決別式での天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。三島は翌年11月17日に成城学園素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた[注釈 17]

三島と同じ戦中世代であり知人であった吉田満は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは、「〈戦争に死に遅れた〉事実」に胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島を鑑みて、次のように考察している[49]

出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、『いかに死ぬか』という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。(中略)戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」[49]

また1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本に滞在していたというインド人ビジネスマンのM.K.シャルマは、三島の行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世でありとあらゆる栄光を手に入れたが、戦時に自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。兵役を逃れたことは男児としての証明に欠けるだけでなく、彼にとって、民族の一人としての資格に欠けることだったのだろう。この劣等感は、名声を手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたのにちがいない」と述べている[50]

杉山隆男は、三島が滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、「自衛隊について〈知りすぎた男〉になつてしまつた」[51]と言っていたことに触れ、「じっさい〈知りすぎた〉三島は、『檄』にも書きとめた通り、〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べている[52]。さらに、「隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようがないのである」と杉山自身が悟った自衛隊観を述べつつ[52]、「私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか」と推察している[52]

島田雅彦は、三島が『文化防衛論』のような論文を書き、そうした「イデオロギーを支えるべく言葉の伽藍」を小説において創作しながらも、その一方で「サブカルチャーの帝王としてのポジション」を作っていった理由は、安保反対左翼全盛の時代にイデオロギーをストレートに出しても全面的に支持が得られるはずもないため、民主主義的に支持を取りつけなければならなかったからだと考察し[53]、それは「戦後民主主義の守護神」という位置を占めるようになった「戦後の天皇そのものの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたのではないかと述べている[53]。そしてそのやり方は、石原慎太郎のように文学者政治にかかわるという方向ではないが、「一人で三島党みたいなものの勢力を伸ばしていく手口」であり、三島の意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている[53]

また島田は、今日の文学が、「この日本を変えるとか、日本の政治を変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまって存在していることに触れつつ、「今の時点の後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治に敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学に深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への逆転さよならホームラン的コミット、文学の革命が社会の革命になるということをどこかで信じていたのではないか」と述べ[53]、かつての自由民権運動の担い手たち等の、政治運動にコミットした文学者たちが抱いていた理想主義は持ち得なかったかもしれないが、「苦い現実認識を伴いつつ、過去の文学者と政治のかかわり方の一変形を三島に認めるのは可能かもれない」と考察している[53]

田中美代子は、三島が遺稿『壮年の狂気』の中で[54]、〈現代一般の政治家・実業家知識人はそれほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「三無事件」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間の狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〈檄〉の指摘する沖縄問題もいまだに解決をみず、現憲法はいわばゴルディウスの結び目であり、三島事件は、内外の情勢に照らし、改憲の不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違えた象徴的行動だった」と考察している[55]

磯田光一は、三島のなかに、「戦後の安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発、戦後国家のはんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代の価値観に逆行する道を行く動因の一つ」になったと述べている[56]。そして、その小説家の生涯がたとえ「三島由紀夫」という名の「仮面劇」であったとしても、「その仮面のそなえていた妥協を知らない歩み」は、三島が唱えた政治思想の評価に多くの批判や問題が残されているにせよ、「その芸術上の豊かな達成とともに、人間の精神的価値を証明しようとする誠実な試みの一つであった」として、「自身の行為を時代へのアンチテーゼと意識していた三島は、その評価をのこされた人びとにゆだねたのである」としている[56]

裁判での陳述など[編集]

生き残った3人への公訴は、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要など刑事訴訟法の枠内の外形的なものに留まり、改憲論議については、法廷自体意見を左右し、支援団体(全国学協、日本青年協議会、11・25義挙正当裁判要求闘争実行委員会など)が三島の論文『問題提起』を提出したにもかかわらず、弁護団も「現行憲法の批判は司法裁判所の関与するところではない」として証拠物件とはしなかった[55]

大越護弁護人は最終弁論で、「国家のためにする緊急救助の法理」の適用を主張したが、櫛淵理裁判長は、「国家公共機関の有効な公的活動を期待しえないだけの緊急な事態が存在していたとは到底認められない」として被告らは懲役4年の実刑となった[注釈 18]。なお、被告らの裁判中の陳述などは以下のものである。

小賀正義

「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生(三島)からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は占領軍が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。(中略)日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは軍国主義者ではない。永遠に続くべき日本の天皇の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」[4]

「天皇の地位は、天皇が御存在するが故に、歴史的に天皇なのであって、大統領議員を選ぶように多数決で決まるものではないのです。菊は菊であるからこと菊なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様に、天皇を選挙やそれに類するもので否定することはできないのです。それなのに(国民の)『総意に基づく』とあるのは現行憲法が西洋の民主概念を誤って天皇に当てはめ、天皇が国民と対立するヨーロッパの暴君のように描き出したアメリカ占領軍の日本弱化の企みです。それ故、現行憲法を真に日本人と自覚するならば黙って見過ごすわけにはできないはずです。三島先生と森田大兄の自決は、この失われつつある大義のために行なった至純にして至高、至尊な自己犠牲の最高の行為であります。『死』は文化であるといった三島先生の言葉は、このことを指していたのではないかと思います」[4]

小川正洋

「自衛隊が治安出動するまでの空白を埋めるのが、楯の会の目的だった。国がみずからの手で日本の文化と伝統を伝え、国を守るのを憲法で保障するのは当然である」[4]

「三島先生の『右翼は理論でなく心情だ』という言葉はとてもうれしいものでした。自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。(中略)楯の会の例会を通じ、先生は『左翼と右翼との違いは“天皇と死”しかないのだ』とよく説明されました。『左翼は積み重ね方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信じるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが神風特攻隊の行動原理“あとに続く者ありと信ず”の思想だ。(中略)武士道とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ』と教えてくださいました。(中略)私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」[4]

古賀浩靖

「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。(中略)その傾向をさらに推し進めると、日本の歴史、文化、伝統を破壊する恐れがある。(中略)この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法はマッカーサーサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」[4]

「現実には、日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」[4]

「狂気、気違い沙汰といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった」[4]

大越護弁護人

「まれにみる鋭敏な頭脳の持主である三島の脳裏には、この美しい日本が、ガラガラと音をたてて崩れてゆく姿が、捉えられていたに違いない。三島の畢生の大作『豊饒の海』これと同名の月の海は、その名の華麗さに似ず、死の海であり、廃墟の世界である。これと同様、三島の脳裏には、経済的には益々豊かになる日本が、精神的には月の海のように荒廃してしまうのが映っていた。われわれは、その危機の一つを最近、連合赤軍の事件で示された。あの事件こそ、道義が根底から失われていることを、最も端的に示すものである。三島の親友である村松剛は、その著書『三島由紀夫―その生と死』に、『日本人は繁栄のぬるま湯につかり、氏の頼みとしていた自衛隊も、当にはならなかった。どうしたらこの事態を動かし得るか、氏は死をもって諌める道を選んだ』と書いている。こうして、三島と森田は、割腹自決をし、社会を覚醒させようとした」[4]

その他[編集]

演説の録音には「去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて」とあるが、これは1969年(昭和44年)10月21日に新宿で発生した10.21国際反戦デー闘争のことを指す。

三島は自決の1週間前11月18日に行った1時間ほどの対談インタビュー(相手: 古林尚)でフランスの哲学者バタイユの「死とエロティシズム」を語った[58]。この対談は、東京・馬込にある三島宅で録音されている[59][60]

事件直後に、師の川端康成は市ヶ谷駐屯地へ行ったが、警察の現場検証中で総監室には近づけなかった[61]。三島の知人の佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)や、三島と親しかったが、自決の年の6月に三島から政治姿勢を批判された石原慎太郎(当時参議院議員)も現場には訪れたが、石原は入室しなかった[62][注釈 19]。佐々淳行は現場に着いたときの模様を、「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[64]

「楯の会」は1971年(昭和46年)2月28日に解散を宣言した[19]。なお事件に参加した一人の古賀浩靖は事件当時、「生長の家」本部の講師をしており[9][注釈 20]、服役出所後には「生長の家」副総裁であった谷口清超(のち総裁)の娘と結婚し、荒地浩靖と改姓、教団幹部として活動をおこなった。出所後に古賀に会ったという元楯の会の会員の伊藤邦典は、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、ただ掌を上に向けて、何かの重さ(三島と森田の首の重さ)を持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという[11]

1984年(昭和59年)に発刊された写真週刊誌『フライデー』創刊号の「14年目に発見された衝撃写真―自決の重みをいま」に、三島の生首のアップ写真が掲載されたことを受け、三島の妻・平岡瑤子が講談社に強硬抗議、出版が差し止められた。このことにつき平岡瑤子は、同年末に行われた伊達宗克徳岡孝夫によるインタビューで、「(江戸時代の)さらし首同様の行為です」と述べた[65]

三島事件の被害者の一人である元幹部自衛官・寺尾克美は、後年の退官後、加害者である三島の行為を「義挙」と総括し、憲法改正を訴える日本会議の活動家となった[66][注釈 21]。寺尾によると、事件から約1か月後(1月13日)、負傷した自衛官たちへ三島夫人がお詫びの挨拶回りをしていたという[66][19]

余談だが1949年(昭和24年)に発生した弘前大学教授夫人殺人事件では、三島事件に影響を受けて1971年(昭和46年)に真犯人が名乗り出たため、冤罪で懲役囚になっていた人物は、後に再審が開かれ無罪判決となった[67]

三島事件前後の日本に関する出来事[編集]

三島事件前後に勃発した世界のクーデター[編集]

映画化[編集]

テレビドラマ化[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 事件当時は「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」というひらがな混じりの表札が掛かっていた。
  2. ^ 総監部業務室の中尾良一三曹が事前に、警衛所(門番)へ「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線を入れていたため、門番の鈴木偣二曹が助手席の三島に敬礼すると、三島も敬礼した[3]
  3. ^ この東部方面総監部は1874年(明治7年)から1879年(明治12年)まで陸軍士官学校で、大日本帝国陸軍期は、陸軍大臣室であった。かつて大本営陸軍部、陸軍省参謀本部などが置かれ、大日本帝国陸軍のメッカでもあった。五・一五事件二・二六事件などの事件の現場ともなった。戦後は極東軍事裁判の法廷となって日本の軍部が裁かれた所でもある。
  4. ^ 三島は、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と紹介した[4]
  5. ^ 駐屯地の門で自衛官に日本刀の所持について質問されているが三島は「指揮刀」だと言って通過している[5]
  6. ^ 原勇一佐は報告を受けてすぐに廊下から正面入口側の曇りガラスの窓にセロハンテープを貼り(少し透明に近づくため)、内部を窺った[4]
  7. ^ 中村二佐はその後、陸幕広報班長、第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、1981年(昭和56年)7月、陸将で定年退官した[7]
  8. ^ なお、このバルコニーは、かつて太田道灌江戸城防衛のために展望台を置いた所でもある
  9. ^ K陸曹はその当時の心境を次のように述懐している。「野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った」[9]
  10. ^ 檄文では次の通り。「われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう」(「待つた(待った)」、「待たう(待とう)」は旧仮名遣い。「自ら冒瀆する者」とは、自衛隊を否定する現行憲法に自ら従う自衛隊のこと)
  11. ^ 三島がマイクや拡声器を使わず肉声にこだわったのは、神風連の精神性に少しでも近づくことに重きを置いたからであった[11]。また、林房雄との対談『対話・日本人論』(1966年)の中でも、それを示唆するような神風連の精神を三島は語っている。
  12. ^ また徳岡は、演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙・写真共に、銀行の貸金庫に現在保管しているという[13]
  13. ^ 文化放送で、この事件を担当した若手記者三木明博は、同社の社長に就任している。
  14. ^ 三島は園遊会で貰った恩賜煙草を、事件前々日の予行演習のホテルで、「現場で煙草を吸うくらいの時間はあるだろう」と言い、他の荷物と一緒にアタッシュケースに入れるように森田らメンバーに渡していたことが、裁判を傍聴した三島の父親が語っている[14]。また、三島が恩賜のたばこを生前に所持していたことは、山本舜勝の著書『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)の247頁にも書かれてある。山本は最後に三島宅を訪問した際に恩賜のたばこを貰っている。
  15. ^ 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(三島由紀夫)、「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」(森田必勝)、「火と燃ゆる 大和心を はるかなる 大みこころの 見そなはすまで」 (小賀正義)、「雲をらび しら雪さやぐ 富士の根の 歌の心ぞ もののふの道」(小川正洋)、「獅子となり 虎となりても 国のため ますらをぶりも 神のまにまに」(古賀浩靖)
  16. ^ 事件当時はマスコミから「候補者」と呼ばれるにとどまっていたが、2014年になって1963年度の選考で最終段階より一つ前の6人に残っていたことがスウェーデン・アカデミーの資料によって明らかになった[17]
  17. ^ 三島が蓮田に献じた哀悼の句は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」
  18. ^ これに関し、裁判を傍聴していた三島の父・平岡梓は、裁判長が審理を離れて独断的な陽明学論や武士道論を展開したことに疑問を呈している[57]
  19. ^ 自民党の内部にいながら、自民党批判をマスコミに向けてする石原の姿勢を「士道」ではないとして三島が批判した[63]
  20. ^ なお、他のメンバーの小賀正義の母も「生長の家」に入信していた[9]
  21. ^ 寺尾によると、益田総監が全責任を取って辞任をする際、総監と中曽根防衛庁長官が膝詰め談判したが、その時の記録テープには、中曽根康弘が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」と言い、「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額が退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるという[66]。寺尾はそれを聞き、「腸が煮えくりかえる思いがした」と語り、歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根だけで、総理大臣にまで登りつめた後は、「憲法改正ができないので〈専守防衛〉という〈政治的捏造語〉を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化して」きたと批判している[66]

出典[編集]

  1. ^ 保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫、2001年)
  2. ^ 柴田勝二『三島由紀夫―作品に隠された自決への道』(祥伝社、2012年)
  3. ^ a b c d e f g h i 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 伊達宗克編『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)
  5. ^ 室伏哲郎 『日本のテロル 変質するバイオレンス130年史』 世界書院2000年、217頁。
  6. ^ a b c d e f g h 中村彰彦『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』(文藝春秋、 2000年)(文春文庫、2003年)
  7. ^ a b 原竜一熱海の青年将校―三島由紀夫と私』(新風舎、2004年)
  8. ^ a b 『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』(新潮社、2003年)
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
  10. ^ 三島由紀夫演説文”. 2014年10月14日閲覧。
  11. ^ a b 鈴木亜繪美(監修・田村司)『火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡』(柏艪舎、2005年)
  12. ^ a b 小島千加子「最後の電話―衝撃の日」(ポリタイア 1973年6月号に掲載)『三島由紀夫と檀一雄』)(構想社、1980年。ちくま文庫、1989年)に所収。
  13. ^ a b 徳岡孝夫「”あの事件”から四十年―三島由紀夫と私(前編)」(月刊誌・正論 2010年10月号に掲載)
  14. ^ a b c d e f g h i j k 平岡梓『倅・三島由紀夫』(文藝春秋、1972年)
  15. ^ a b c d e 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
  16. ^ 舩坂弘『関ノ孫六 三島由紀夫、その死の秘密』(光文社カッパ・ブックス、1973年)
  17. ^ Candidates for the 1963 Nobel Prize in Literature三島、63年ノーベル賞候補 最終6人に残り、あと一歩
  18. ^ 猪木正道『国を守る』(実業之日本社、1972年)
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  20. ^ 東京地裁昭和45年(刑わ)第7648号同47年4月27日判決・刑月4巻4号857頁
  21. ^ 森田必勝『わが思想と行動 遺稿集』(日新報道、1971年。新装販2002年)
  22. ^ 三島由紀夫「インドの印象」(毎日新聞1967年10月20日、21日付のインタビュー記事)
  23. ^ a b c d e f g 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  24. ^ 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」(『決定版 三島由紀夫全集第32巻・評論7』付録・月報)(新潮社、2003年)
  25. ^ 三島由紀夫「三輪良雄への書簡」(昭和43年3月18日付)
  26. ^ a b ヘンリー・スコット=ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(清流出版、1998年)
  27. ^ a b 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
  28. ^ 林房雄『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)
  29. ^ 持丸博と佐藤松男との共著『証言三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋、2010年)
  30. ^ a b c 三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」(サンデー毎日 1967年6月11日号掲載)
  31. ^ a b 三島由紀夫(福田恆存との対談)「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)。『源泉の感情』(河出書房新社、1970年)
  32. ^ 三島由紀夫「檄」(1970年11月25日市ヶ谷駐屯地にて)
  33. ^ 三島由紀夫『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年。文春文庫で1996年再刊)
  34. ^ 三島由紀夫「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年)
  35. ^ 小島千加子「日々の分れ―死への一里塚」(『三島由紀夫と檀一雄』)(構想社、1980年)29-30頁 (ちくま文庫で再刊、1996年)
  36. ^ 粕谷一希『作家が死ぬと時代が変わる―戦後日本と雑誌ジャーナリズム』(日本経済新聞社、2006年)
  37. ^ 三島由紀夫「私の顔」(毎日新聞 1954年9月19日付)
  38. ^ 三島由紀夫「『純文学とは?』その他」(雑誌・風景 1962年6月号掲載)
  39. ^ 小島千加子「作中人物への傾斜」(『三島由紀夫と檀一雄』)(構想社、1980年。ちくま文庫、1996年)
  40. ^ 三島由紀夫「年頭の迷い」(読売新聞 1967年1月1日号に掲載)
  41. ^ 三島由紀夫『行動学入門』(文藝春秋、1970年。文春文庫、1974年)
  42. ^ 椎根和平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社、2007年。新潮文庫、2009年/増補版 河出書房新社、2012年10月)
  43. ^ 三島由紀夫「劇画における若者論」(サンデー毎日 1970年2月1日号に掲載)
  44. ^ 堂本正樹『回想回転扉の三島由紀夫』(文藝春秋、2005年)
  45. ^ a b 中康弘通「非装美に魅せられた作家 三島由紀夫の死――ナルシスはなぜ……」(月刊噂 1973年8月号に掲載)
  46. ^ a b c 三島由紀夫「果たし得てゐない約束」(サンケイ新聞夕刊 1970年7月7日号に掲載)
  47. ^ a b 林房雄「弔辞」(新潮 1971年2月号に掲載)
  48. ^ 小高根二郎蓮田善明とその死』(筑摩書房、1970年。新版島津書房、1979年)
  49. ^ a b 吉田満「三島由紀夫の苦悩」(雑誌・ユリイカ 1976年10月号に掲載)、『吉田満著作集 下巻』(文藝春秋、1986年)に所収。
  50. ^ M.K.シャルマ(訳:山田和)『喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文藝春秋、2001年。文春文庫、2004年)。初出は雑誌『諸君!』1998年6月号-2000年10月号に掲載。
  51. ^ 三島由紀夫「滝ヶ原分屯地は第二の我が家」(たきがはら 1970年9月25日創刊号に掲載)
  52. ^ a b c 杉山隆男『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館、2007年)
  53. ^ a b c d e 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」(古井由吉平野啓一郎との座談)(新潮・三島由紀夫没後三十年臨時増刊 2000年11月号に掲載)
  54. ^ 旧版『三島由紀夫全集35』(新潮社、1976年)に所収。
  55. ^ a b 『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)
  56. ^ a b 磯田光一『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』(新潮社、1983年)
  57. ^ 平岡梓『伜・三島由紀夫―没後』(文藝春秋、1974年)
  58. ^ 秋山駿大岡信高橋英夫三好行雄 「三島由紀夫は語る―最後のインタビュー」『三島由紀夫 (群像 日本の作家 18)小学館1990年、207頁。ISBN 4095670185
  59. ^ 三島由紀夫、古林尚 『三島由紀夫 最後の言葉 (新潮カセット)』 新潮社、1989年ISBN 9784108007024
  60. ^ 三島由紀夫、古林尚 『三島由紀夫 最後の言葉 (新潮CD)』 新潮社、2002年ISBN 9784108300910
  61. ^ 川端康成「三島由紀夫」(新潮 1971年1月号に掲載)
  62. ^ 石原慎太郎「三島由紀夫の日蝕―その栄光と陶酔の虚構」(新潮「没後20年三島由紀夫特集」1990年12月号に掲載)。『三島由紀夫の日蝕』(新潮社、1991年)
  63. ^ 三島由紀夫「士道について―石原慎太郎氏への公開状」(毎日新聞夕刊 1970年6月11日号に掲載)
  64. ^ 佐々淳行「そのとき、私は……」(諸君! 1999年12月号に掲載)
  65. ^ 伊達宗克徳岡孝夫によるインタビュー・平岡瑤子「三島家十四年の歳月」(月刊誌・諸君! 1985年1月号に掲載)
  66. ^ a b c d 寺尾克美「三島由紀夫事件の真相」(2012年10月12日に講演)(三島由紀夫メルマガ、2012年11月12日号に掲載)[1]
  67. ^ 井上安正『冤罪の軌跡―弘前大学教授夫人殺害事件』(新潮社、2011年)

参考文献[編集]

  • 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
  • 伊達宗克編『裁判記録 「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)
  • 福島鑄郎編『再訂 資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)、初版は1975年刊
  • 徳岡孝夫五衰の人 三島由紀夫私記』(文藝春秋、1996年/文春文庫、1999年)、第10回新潮学芸賞受賞、文庫版解説・関川夏央
  • 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
  • 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)
  • 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  • 中村彰彦『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』(文藝春秋、2000年/文春文庫、2003年)
  • 杉山隆男『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館、2007年/小学館文庫、2010年)、文庫版解説・松本健一
  • 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年/文春文庫、1999年)、文庫版解説・鹿島茂
  • 板坂剛鈴木邦男 『三島由紀夫と一九七〇年』(鹿砦社、2010年)
  • 保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫、2001年)
  • 柴田勝二『三島由紀夫―作品に隠された自決への道』(祥伝社新書、2012年)
  • 『新潮 臨時増刊・三島由紀夫没後三十年』(新潮社、2000年11月号)
  • 森田必勝『わが思想と行動 遺稿集』(日新報道、1971年。新装販2002年)
  • 『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』(新潮社、1983年)
  • 『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)
  • 『三島由紀夫事典』(明治書院、1976年)

関連項目[編集]

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Nuvola apps kaboodle.svg 三島由紀夫没40年 - TOKYO MX公式YouTube。