原子爆弾

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原爆 から転送)

原子爆弾(げんしばくだん)、または原爆は、ウランプルトニウムなどの原子核が起こす核分裂反応によって爆発させる核兵器である。

原子爆弾の威力は通常兵器と比べ極めて大きく、無差別かつ大量に殺戮する大量破壊兵器であるため、この兵器の保有・使用に伴う危険性は世界中で危惧されており、現在では他の核兵器と共に包括的核実験禁止条約核不拡散条約などで規制する動きがある。

長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日

目次

原子爆弾の開発

原子爆弾はアメリカ合衆国が最初に開発し、1945年7月16日ニューメキシコ州アラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で最初の原爆実験が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。

詳細はマンハッタン計画トリニティ実験を参照

また実際の戦争で使用された原子爆弾は、太平洋戦争末期の1945年に日本の広島市に投下されたリトルボーイ(濃縮ウラン型)と長崎市に投下されたファットマン(プルトニウム型)の2発である。

これらの原子爆弾は大量の放射線を放出し、また放射能を有する塵などを多量に排出したため、被害は爆発の熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる放射線障害や白血病などの病気を被爆者に引き起こし、その影響は現在も続いている。

詳細は#原子爆弾の使用による被害の項を参照

原子爆弾の理論と構造

核分裂に関する理論

エネルギー

原子爆弾は放射性元素の核分裂反応で放出されるエネルギーを利用する爆弾である。TNT火薬などの通常兵器に用いられる物質が化学反応によって原子間の結合エネルギー(原子を構成する電子軌道のエネルギー)を解放するのに対して、原子爆弾では原子核を構成する核子の質量エネルギーが運動エネルギーとして解放される。

核分裂

原子核を構成する核子は核力によって強く束縛されているため、通常はこの結合を切ってエネルギーを取り出すことは困難だが、原子番号の大きな原子核では、中性子をぶつけるなどして比較的小さなエネルギーを与えると原子核が液滴のように二つに分裂することがある。これを原子核分裂と呼ぶ。この核分裂によって、分裂前後の核子の結合エネルギーの差分が外部に放出される。

詳細は核分裂反応を参照。

連鎖反応

核分裂の際には通常数個の中性子が外部に放出される。そのため、核分裂を起こす物質が隣接して大量に存在する場合には、核分裂で放出された中性子を別の原子核が吸収してさらに分裂する、という反応が連鎖的に起こることがある。このような反応を核分裂の「連鎖反応」と呼ぶ。核分裂性物質の量が少ない場合には連鎖反応は短時間で終息するが、ある一定の量を超えると中性子の吸収数と放出数が釣り合って連鎖反応が持続することになる。この状態を「臨界」といい、臨界となる核分裂性物質の量を臨界量と呼ぶ。発電等に用いられる原子炉ではこの臨界状態を保持して一定のエネルギー出力を得ている。核分裂性物質が臨界量を大幅に超えて存在する場合には、分裂反応を繰り返すごとに中性子の数が指数関数的に増加し、反応が暴走的に進む。この状態を「超臨界」または臨界超過と呼ぶ。原子爆弾では核分裂性物質を短時間で超臨界の状態にする必要がある。

詳細は反応度 (原子力)を参照。

ウランとプルトニウム

核分裂反応を起こす物質(核種)はいくつか存在するが、原子爆弾にはウラン235またはプルトニウム239が用いられる。

ウラン原爆

広島に投下された原子爆弾
(リトルボーイ)
  • ウラン235は広島に投下された原子爆弾で用いられた。天然ウランに含まれるウラン235の割合はわずか0.7%で残りは核分裂を起こしにくいウラン238である。そのため、原爆に用いる為にはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる。放射能が少ない為に取り扱いは容易であるが、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。ウランは後述の砲身方式、爆縮方式のどちらでも使用可能である。
  • ウラン濃縮による原爆製造は初期設備投資は比較的安価だが、電力を大量に消費し運転経費がかかる上、同じ核物質の量でプルトニウムより少ない数の原爆しか作れないため、原爆1個あたりの製造コストはプルトニウム原爆より高価になる。一方で、ウラン濃縮施設はプルトニウム生産黒鉛炉と違って地下に設置しやすく大量の赤外線を放射しないので偵察衛星に位置を察知されにくい。また、砲身方式は必要臨界量が多く製造効率が甚だ悪いものの、核実験なしでも核兵器を持てる。そのため核開発初期段階の国はウラン原爆と砲身方式の組み合わせを選択する場合が多い。イランの核開発もウラン原爆計画が主体である。
  • マンハッタン計画で、ウラン235が臨界質量以下の小片を2つ合体させ、臨界質量以上にすることにより容易に核分裂連鎖反応を開始できることが明らかになったため、広島型原爆には後述の砲身方式が選択された。砲身方式においてウラン原爆の臨界量は100%ウラン235の金属で22kgとされている[1]。広島型原爆ではウラン235が約60kg使用されたとされる(全ウランに対するウラン235の割合が80%の濃縮ウラン75kg)[2]

プルトニウム原爆

長崎に投下された原子爆弾
(ファットマン)
  • プルトニウム239は自然界には殆んど存在しない重金属であるが、原子炉(燃料転換率の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウランのような大量の電力を消費する濃縮過程を必要せず、原子炉で電力が得られるという利点もある。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある[1]
  • プルトニウムは放射能が強いため取り扱いは難しく、生産に黒鉛炉または重水炉再処理工場の建設費がかかるが、副産物として電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、核兵器量産に向く為、現在は5大国と北朝鮮の核兵器生産はプルトニウムが主体である。
  • しかし通常の工程で生成されるプルトニウムには、プルトニウム240が兵器として使用できる許容量を超えるレベルで含まれており、このプルトニウム240は高い確率で自発核分裂を起こす性質を持っている。このため、砲身方式ではプルトニウム全体が超臨界に達する前に一部で自発核分裂が起きて爆弾が四散してしまうなど、効率の良い爆発を起こすことが難しい。したがって密度の低いプルトニウムを球状にし、爆縮によって密度を高め核分裂連鎖反応を開始させる爆縮方式が用いられる。また核分裂連鎖反応が開始されてからプルトニウム239が飛散して終了するまでの反応効率が砲身方式よりも高いというメリットもある。長崎に投下された原子爆弾にはこのタイプが用いられた。
  • 尚、爆縮方式を用いる場合でもプルトニウム240の含有量が7%を超えると過早爆発の原因になり、核兵器製造に向かない。日本の原子力発電で使われている軽水炉の使用済み燃料抽出プルトニウムはプルトニウム240を22-30%前後含有し、プルトニウム240を分離しないと核兵器に使えない。核兵器製造にはプルトニウム240含有量が7%以下の兵器用プルトニウムが得られる黒鉛炉やカナダ型重水炉もしくは高速増殖炉(日本には常陽もんじゅがある。)を使うのが普通で、北朝鮮の原爆計画の主力であるプルトニウム計画は黒鉛炉、イラン原爆計画において傍流であるプルトニウム原爆計画では重水炉が使用されている。

ミニ・ニューク

  • 技術の進歩で使用目的に適した爆発力を持つよう小型化されるようになったものをミニ・ニュークという。少ない核物質で多くの核弾頭を製造可能な反面、一発あたり威力もやや少なくなる。
  • 米国の核物理学者トーマス・コクラン博士[3]は爆縮方式の場合、より少量で超臨界が可能であることに着目して臨界量を分析しなおし、今日では従来より少量の核物質で超臨界が可能であり、プルトニウム原爆は最新技術では1.5kg、途上国の技術でも2kgでの超臨界が可能であると発表した。またウラン原爆は爆縮方式なら3-5kgでの超臨界が可能と見られている。
  • 長崎型原爆が20キロトンを超えていたのに対し、北朝鮮が2006年に行った核実験では中国への事前通知が4キロトン、実験結果が0.8キロトンだったことから、限界までプルトニウムを節約した小型核弾頭実験に挑んで、結果はやや過早爆発気味であったのではないか、という観測もある。

構造

原子爆弾の構造。上:砲身方式、下:爆縮方式

原子爆弾の構造は単純である。本質的には、臨界量以下に分割した核分裂性物質の塊を瞬間的に集合させ、そこに中性子を照射して連鎖反応の超臨界状態を作り出し、莫大なエネルギーを放出させる、というものである。ただし実際には、爆弾に用いる物質の性質に応じて大きく2種類の構造が用いられる。

砲身方式

砲身(ほうしん、英:Gun barrel、ガンバレル)方式はウラン[4]を臨界量に達しない2つの物体に分けて筒の両端に入れておき、投下時に起爆装置を使って片方を移動させ、もう一つと合体させることで超臨界に達するものである。合体の容易性から構造は凹型と凸型の組み合わせ、または筒型と柱型の組み合わせとなる。広島に投下されたリトルボーイがこの方式を採用した。しかしリトルボーイでは、60キログラムとされるウランのうち実際に核分裂反応を起こしたのは約1キログラムと推定されている。その他のウランは核分裂を起こさずに四散した。初期の核砲弾用弾頭などの量産例はあるが、砲身方式を積極的に選択する意義は少ないため、核開発・製造において主流ではない。

爆縮方式

爆縮(ばくしゅく、英:Implosion、インプロージョン)とは英語のexplosion「爆発」という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語で、「爆縮」はその和訳である。爆縮方式とはその名の通り、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市に投下されたファットマンで採用された。 プルトニウムは自発核分裂の確率が高く、プルトニウム原爆は過早爆発防止の為にこの方式でのみ実用可能となるのに対し、ウラン原爆は爆縮方式、砲身方式のどちらでも可能である。

詳細は爆縮レンズを参照。

しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、高度な計算に使用できるほど高性能なコンピュータがなかったマンハッタン計画時、数学者ジョン・フォン・ノイマン達の10ヶ月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。砲身方式の原爆は実地テストなしで広島に投下されたが、爆縮方式の爆弾はこのような高精度の動作が求められたため、ニューメキシコ州アラモゴードトリニティ実験で設計通りに作動することを確認するテストが行なわれた。この方式は前述の砲身方式より効率が良い。核分裂連鎖反応が始まって核物質を四散させようとする圧力が働いても、爆縮による内向きの圧縮力が押さえこみ、核分裂が継続するためである。そのため、第二次世界大戦以後製造された原子爆弾は、核開発の初期段階で製造されたものを除きプルトニウム型・ウラン型ともに爆縮方式である。

改良型の原子爆弾

第二次世界大戦後は、東西冷戦の激化とともに、アメリカ合衆国ソビエト連邦を中心に重要な兵器として原子爆弾の改良が進められた。核出力を100キロトン以上に強大化した大型原爆や、熱核反応をプラスして300キロトン程度に増強した強化原爆が開発された。

また、この動きとは逆に日本投下時には4~5トンもあった爆弾重量を軽減させる開発も行われ、大砲原子砲)より発射される核砲弾280mm砲W9など)や、歩兵一人で使用可能な核無反動砲デイビー・クロケット、核出力は0.02キロトン)も製作された(いずれも現在は退役)。

過早爆発

プルトニウム原爆において、反応材のプルトニウム240含有量が7%を超過、爆縮が不完全、軽量化のため爆縮火薬を削減しすぎた余裕のない設計、などの場合では、爆縮方式であってもプルトニウム240の自発核分裂の発生する外向きの爆風が、TNT爆縮火薬の内向きの圧力に打ち勝ってプルトニウム239の塊が充分に核分裂を完了する前に吹き飛ばしてしまう。この現象が過早爆発であり、プルトニウム239の一部しか核分裂しないため、爆発力が計画値を大幅に下回ってしまう。2006年の北朝鮮の核実験は過早爆発気味だったのではないかと見られている。

ただし、核実験の場合は計測器を装着し実験するため、一回目の実験に失敗した場合でも、プルトニウム239の高濃縮化、爆縮火薬の威力向上や同期の改善など、生産する核兵器の信頼性を高める事は可能であり、むしろ実験データを基に「どの程度の品位向上/爆縮威力改善が必要か」といった技術レベルの向上が可能である。したがって核実験が過早爆発という結果である場合にも、「技術レベルが低く正常に機能する核弾頭を作ることができない」という事を意味しない。

原子爆弾が与えた影響

広島市

広島被曝図
被爆直後の広島
長崎市で撮影された人間の影
長崎の爆心地公園。レンガ造りの構造物(手前)は旧浦上教会の被爆遺構を建て替え時に移設したもの。黒色の構造物(奥)が原爆落下中心碑

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンの原子爆弾投下への決意[5]により発した大統領命令を受けたB-29エノラ・ゲイ)によって投下された。市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空580メートルで炸裂した[6]爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼んでいた。

爆心地付近は鉄やガラスも熔けるほどの高熱に晒され、石材に焼き付けられた人影が今も残る[7]。また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。

爆風と衝撃波も被害甚大で爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが倒壊した[8]。 爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生した。また投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人も含めて急性障害が多発した(二次被害)。当時の広島市内には約34万2千人がいたが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに14万人が死亡したと推定される。その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。

詳細は広島市への原子爆弾投下を参照。

長崎市

広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29ボックスカー)が長崎市に原子爆弾ファットマンを投下した[9]

投下地点は長崎市北部の松山町171番地[10]テニスコートの上空であった。当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。

詳細は長崎市への原子爆弾投下を参照。

本土上陸作戦の中止

原爆の投下後の8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決定し通告した。このことにより特に欧米では原爆投下が日本に降伏を促したという論が既成事実として受けいられている。ただしこれまで日本は絨毯空爆によりより大きな被害を受けていたこと、さらに中立条約を結んでいたソ連の宣戦布告が重なることなどから原爆投下と日本の降伏との関連はいまだに議論されている。

原爆の投下後の8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決定し通告した。日本の降伏により、1945年11月に予定されていた九州南部への上陸作戦、並びに翌年3月に予定されていた関東地方への一大上陸作戦が中止となった。 この作戦が実行されていた場合、計107万人もの米軍が東京に上陸し、双方合わせて広島と長崎の原爆による死傷者をはるかに上回る戦死者を出しただろうと戦後に米軍当局はコメントしている[11]。このコメントが後年、米国における原爆投下正当化の根拠となった(本土作戦に関する詳細は、米軍:ダウンフォール作戦、日本軍:本土決戦決号作戦を参照)。


関連項目

脚注

  1. ^ a b あとみん 原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト内 原子力百科事典より。(2008年8月現在、メンテナンス中)
  2. ^ 『原子力のすべて』−地球と共存する知恵− 内閣府「原子力のすべて」編集委員会編 第7章第4節より
  3. ^ NRDC Profile: Thomas B. Cochran
  4. ^ プルトニウムは砲身方式では選択されない
  5. ^ トルーマンの日記には、7月25日夜投下決意の記載がある。
  6. ^ 実際の爆心地の中心は戦後の調査で相生橋から300m離れた島病院の上空と推定されている。なお、島病院の院長は不在の為無事だったという。
  7. ^ 最近まで、そこに座っていた人間が石に焼き付けられたものだと思われていたが、近年の調査で、その石材からは人間の組織は発見されなかった。また、目撃情報として黒焦げの死体がそこにあった、というのもある
  8. ^ 爆心地から僅か700m付近で線路から脱線した状態で発見された被爆電車広島電鉄650形電車)は今もなお原形のままで走り続けるなど奇跡的に残った物もある。
  9. ^ 野戦命令17号の第1目標は陸軍造兵廠のある小倉市であったが、8月8日、隣接する八幡市への空襲によって発生した火災の煙が上空に広がっていたために投下目標が視認できず、第2目標の長崎市への投下となった。なお、第2目標も視認できない場合、原子爆弾は持ち帰ることになっており、目標ではない佐世保市など任意目標への投下の可能性はなかった。
  10. ^ 現松山町5番地
  11. ^ 相模湾上陸作戦―第二次大戦終結への道 著:大西 比呂志 ISBN-13: 978-4896601329

外部リンク

爆心地の島病院(現在は島外科)前にあるモニュメント