広島電鉄650形電車

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広島電鉄650形電車
652号車
652号車
車両定員 80(着席32)人
車体長 12,380mm
車体高 3,845mm
車両質量 15.04t
軌間 1435mm
モーター出力 38kw×2
主電動機 SE-133
制御装置 KR-8 直接式
駆動装置 吊り掛け
ブレーキ方式 SM-3 直通制動
製造メーカー 木南車両
備考 台車:ブリル77E
被爆3日後に撮影された651号車
修理を行い現在も営業運行中
岸田貢宣の撮影
広島・原爆の日に市内を走行する650形電車(651・652号車)
保存された654号、運転台
2006年7月21日撮影 広島市交通科学館
台車
2008年6月8日撮影 千田車庫

広島電鉄650形電車(ひろしまでんてつ650かたでんしゃ)とは、広島電鉄路面電車である。半鋼製のボギー車で、1942年に木南車両で651~655の5輌が製造された。これまで事故により655が、老朽化により654が除籍され、現在651~653が在籍している。

広義の意味における被爆電車としては150形も在籍し、また熊本電鉄モハ71についても被爆電車と呼ばれる事があるが、特記しない限り大概この電車を指す。

目次

[編集] 概要

車体は、ノーシル・ノーヘッダで、窓配置はC3-D4D4D。両端の扉は1枚引戸、中央の扉は両開扉、客用窓は2段式である。同メーカーで製造された呉市電600形と同型であり、大阪市電1651形(のちに一部が広島電鉄に譲渡、750形)の全長を短縮したものといえる。内装は木造ニス塗りで美しく整備され、客用扉、窓枠も木製のままである。

制御方式は直接制御式で両端の運転台にKR-8形制御器を搭載。制動は直通制動のSM-3と、日本の路面電車では標準的な装備である。

台車は米国ブリル製77Eで、600形と共に中古品を調達して装備した可能性がある。 これは、台車内側に主電動機を釣り掛ける77Eは、極力短軸距を求めることの多い路面電車では、大阪市電や阪神国道線などの例はあるものの、外側釣り掛けの76Eなどと比べあまり多く見られる形式ではないこと、製造当時戦時下であり、新品の本形式を輸入することはほぼ不可能であったこと、車体は低床仕様にもかかわらず製造当時高床台車であったことなどによる。いずれにしても、郊外高速電車用の27Eや27MCB2などがほぼ日本国内から一掃された今、現役のブリル台車として貴重な存在であるといえる。

集電装置はZパンタで車体中央の屋上に装備。冷房機は三菱CU77Aを1台搭載する。

[編集] 車歴

木造車である旧大阪市電の300形や旧京王電気軌道23形の500形(初代)等を除けば4輪単車ばかりであった中、エアブレーキ装備の鋼製ボギー車は、600形 (初代)と共に大変近代的な車輌として迎えられたといわれる。

1945年8月6日の原子爆弾の投下(→広島市への原子爆弾投下)で全車が焼損と全半壊した。このうち、651-654の4輌は、被爆翌年の1946年3月までに原形に近い形で復旧した。しかし、被害程度がいちばん大きかった655のみ1948年11月とずれ込んだ。また、同時期に車体新製された700形(初代)によく似た張り上げ屋根・埋め込み前照灯となった。その後、1953年に低床化された。

1967年に655は大型トラックと衝突する事故で大破、廃車された。残る4輌は、1975年ワンマン化が行なわれた。この時、最後部扉が閉鎖され座席が延長されている。更に、1982年に方向幕を電動大型化及び入念な車両整備、1986年に冷房化された。

このように手を入れられたため、同時期に登場した600形 (初代)、後に登場した700形(初代)800形 (初代)より長く使われる事になった。


1985年頃から報道等により被爆電車として大いに注目されるようになる。しかし、車両の大型化や高性能化が進んだ2000年頃になると、小型ゆえに収容力が劣り、また最高35km/h程度しか出ない当車は予備的存在となっていた。ラッシュ時等に3、5系統で1両が運行されているかどうかという状況である。

その中で、2003年8月に広島テレビの原爆の日の特別番組の予告が地元タウン誌に載った際、当形式が2004年春に引退予定である旨が掲載され、一層の注目を浴びることになる。この時は広島電鉄側は否定したが、結局5100形の増備に伴い、2006年6月26日のダイヤ改正を以って653号・654号の2両が定期運用を離脱した。

運用を離脱した車両については、653号は除籍されず、事実上の動態保存車として江波車庫にて休車扱いで保管、平和学習や原爆記念日などを中心に活用すると、2006年の引退時に地元メディアに報道された。引退後、江波車庫で保管されていたが、2008年夏頃より一時期、ICカード工事のため不足する車両を補うため営業運行に使用された。654号は除籍のうえ広島市に寄贈され、同年7月21日より広島市交通科学館で屋外保存・展示された。当面は露天展示だが、追って屋根が設けられる予定である。

この運用離脱に関する顛末は、地元メディア鉄道趣味媒体のみならず、全国紙などでも報道された。とりわけ広島市民の関心の高さを示す結果になった。

650形は、主に平日の朝夕ラッシュ時等で営業運転されている。

[編集] 各車状況

  • 651:1942年10月竣工:千田車庫所属
    • 2009年1月に運賃箱がICカード(PASPY)対応に取り替えられた。
  • 652:1942年10月竣工:千田車庫所属
    • 651号と同じように、PASPYに取り替えられた。
  • 653:1942年10月竣工:千田車庫所属
    • 2006年6月に引退。江波車庫にて保管されていた。
    • 2008年夏頃より一時期、ICカード工事予備車として運用された。
  • 654:1942年10月竣工:2006年6月廃車 広島市交通科学館へ寄贈・静態保存
  • 655:1942年10月竣工:1967年3月事故廃車

[編集] 被爆電車としての存在

核兵器による被害を受けても走り続ける当形式は、原子爆弾の被害を直に受けた「歴史の生き証人」である。修学旅行や遠足で広島市を訪れた生徒が当形式を使用した貸切電車に乗車することも多い。また毎年8月6日前後には、その650形が使用され当時の被爆者から証言を聞くといった被爆体験の後世への継承が行われている。 当形式は、被爆の生き証人という大きな使命を背負い、また、代替車両が存在しないため、老朽化による引退問題が常に注目されている。

「終戦まで運転士として働いた少女たちの誇りと喜び、悲しみの詰まった被爆電車」というような表現での報道がなされるなど、この車両に思いを馳せる市民は多い。653、654の運行最終日には報道各社の取材ラッシュがあったほか、記念のヘッドマークが取り付けられて多くの市民が別れを惜しんだ。所有者の広島電鉄側も、2006年に被爆電車へのメッセージを募集し、651・652両車車内に掲出することなどを行なっている。

[編集] 原子爆弾による被害

  • 651:中電前附近(爆心地から約700m)で走行中に被災、半焼:1946年3月復旧
2004年8月、被爆3日後に撮影された、爆風により脱線・黒焦げになった当車の写真が発見された。TVや新聞で大きく報道され、写真は原爆資料館に寄贈された。なお、被爆時に651に乗車していたが飛び降りて助かり、その後50年以上生存した人がいた。[1]
  • 652:宇品(現在の広島港)附近で走行中に被災、小破:1945年8月復旧
被爆直後の広島市内を走り悲しみにくれていた広島市民を大いに勇気付けたとされる。
  • 653:江波附近で走行中に被災、大破:1945年12月復旧
  • 654:江波附近で走行中に被災、大破:1946年2月復旧
  • 655:広島駅前で停車中に被災、全焼:1948年11月復旧

なお、車内の運転台後部に「650形電車の由来」なる被爆時の状況などを1両ごとに解説した説明書が掲げられている。

  1. ^ このため、この車両に掲示されている説明文の英語版には、「The motorman and about80 passengers except one surviver were killed by the heat(後略)」(運転士と約80人の乗客は一人の生存者をのぞいて、熱によって死んだ)と記述されている。

[編集] ギャラリー

[編集] 参考文献

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