森田必勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

森田 必勝(もりた まさかつ、昭和20年(1945年7月25日 - 昭和45年(1970年11月25日)は日本政治活動家で、楯の会のメンバー。

目次

[編集] 生涯

昭和20年(1945年)7月25日、三重県四日市市大治田に、父・森田和吉(四日市市内部小学校校長)と母・たまの間に次男として誕生。上に兄が1人(治)と姉が3人(富士子、高根、妙子)いた。 必勝3歳のとき(昭和23年)に相次いで両親を病気で亡くす。以後、兄・治は行商のかたわら学業に励み、市内南中学校の英語教師となり家計を支える。そして姉・高根が(富士子は他家に嫁いでいたため)必勝の母親代わりとなる(のちに必勝が小学校5年のとき高根は他家に嫁ぐ)。

昭和33年(1958年)、必勝はカトリック系の男子校海星中学校に入学。まだこの当時、森田必勝には右翼的思想はなく、中学3年(昭和35年10月12日)の日記には「今日、僕が政治家で一番好きであったところの社会党浅沼委員長が、17歳の山口二矢という暴漢に刺殺された。本当に可哀想だ」[1]と記している。しかし、同年12月2日の日記には「ぼくもあと10年たったら四日市市議になり四日市の発展を国民生活の向上、すみよい町にするために立候補しようと思う」と記されており、すでに郷土愛や政治的な志があった。

昭和36年(1961年)付属の海星高校へ進み柔道部に所属。高校2年のとき生徒会長に立候補し当選する。この頃、校風のカトリックの影響からか、高校2年(昭和37年5月11日)の日記には「母へ。 僕の母、白い手、黒い髪、白い大きな目、いつも天のどこかで僕を見守り、愛撫してくれる。お母さん、僕、今日学校で寝た。かんにんだよ。でもどこかでお母さんの声が、必勝、あと十分だからがんばりなさい、と聞こえてきたよ。(中略)そうか、お母さんのいる天国へ僕も行こうか。お父さんも待っていてくれると思うけど、きっと仲が良いんでしょうね。僕も今、そんな友達を求めているんだけどなかなか現われない。僕は自分なりに夢をもっているつもりだけれど実際、自分でも何になるか判りません。でも悪い人間にはならないつもりです」と記されている。 他にも「おれはこれくらいのことでへこたれはしないが、やはり母がいないのが寂しい」という記載もある。また結婚願望も強く、初恋の女の子についても綴られている。

この頃、建設相河野一郎にあこがれて政治家を志していた森田必勝は、高校3年(昭和38年)の7月23日、河野宛に手紙を出す(返事はなかった)。さらに同年11月に平塚の河野事務所や河野の弟・河野謙三を訪問するが、無精ひげやボサボサ髪を注意され、四日市へ帰宅する。 昭和39年(1964年)、森田は早稲田大学政治経済学部を受験したが不合格となり、2年間の浪人期間を過ごす。この頃の日記には「最近の国際情勢を見ていると、頭がおかしくなりはしないかと心配だ。まず第一に頭にくるのは、中国核実験、しないでもいいものをしやがって全く頭へ来る。バカにつける薬は無しってところだ」と記されている。

昭和41年(1966年)、早稲田大学教育学部の受験に合格し、空手部に入部。クラスで年長者の森田はクラス委員に選出される。この頃、学内の左翼に対する憎しみが芽生え、日記には「共闘会議は何の権利があってバリケードを築けるのだろう?ヤツラの方法が僭越に思えてならない」と記している。鈴木邦男によれば、森田は高校時代までは左翼的思想を持っており、早稲田大学入学後、全共闘に参加しようと考えたものの、学内で我が物顔に振舞う左翼よりも、右翼の方が在野精神があると見て右翼活動に参加したという[2]。 やがて森田は、革マル反日共系)、民青日共系)ら左翼が壟断するクラス委員総会で、民族派右翼青年の斉藤英俊と出会う。同年5月の日記には「きのうクラス委員会で、早稲田精神丸出しの勇敢な先輩と知り合った。総会で、革マルの一方的な議事進行と、独善的な議事内容に怒って革マルのヤツらに単身、喰ってかかっていた。(中略) 左翼に対決して学園正常化のために奮闘しているグループがあることを初めて知る。それでこそワセダ精神だ!」と記されている。森田は斉藤に誘われ、同年11月14日、「左翼に牛耳られた早稲田の正常化を目指す」と標榜する民族派学生組織「早稲田学生連盟」(のちの日本学生同盟)の結成に参加した。日学同には全国39大学72サークルも集結し、持丸博も参加していた。

一方、昭和42年(1967年)1月5日、東京都豊島区にある育誠社という出版社から月刊誌「論争ジャーナル(編集長は中辻和彦、副編集長は万代潔)が発刊された。中辻と万代は3日に1度の割で作家三島由紀夫を訪問していた。持丸も三島を訪問し、日本学生新聞に寄稿を依頼する。三島は同年4月12日から5月27日ま単身で自衛隊体験入隊し、民兵組織祖国防衛隊」構想を固めていく。

同年4月、森田は斉藤と、防衛問題を研究する早大国防部結成し、日学同運動に挺身する。この頃の日記には「日文研でも早稲田祭で『紀元節考』の展示をやったが、ぼくらも少しは民族の正気回復のために役立ったのだろう。しばし『古事記』や『日本書記』の由来や日本人の祖先について討論。先輩達の博識におどろいた。考えてみれば、ぼくらの高校の歴史教科書は、民族のロマンなんかぜんぜん教えてくれなかった。日教組が悪いことにして先輩達に質問集中」と記している。 また、この頃、三島由紀夫が祖国防衛隊構想を練っていることは、日学同メンバーに伝わってきていた。森田の感想は「世界的に著名な作家が私兵軍団を作るなんてヘミングウェイみたいだね」というものだった[3]

同年6月19日、銀座の喫茶店「ビクトリア」で行われた三島由紀夫と早大国防部代表との会見で、森田は初めて三島と顔を会わせる。これ以前に森田ら代表は三島に、自分たちも自衛隊体験入隊したいとの希望を伝えていた。「論争ジャーナル」のメンバーも体験入隊への随行を希望したと言われ、三島、日学同、「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかしその後、三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」と、反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じ始める。

同年7月2日から1週間、森田は三島と共に自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊し、戦車に試乗する。森田は、そのときのことを綴った「早大国防部活動日誌」で、「(自衛隊員が)憲法について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた。また森田は体験入隊以前から、徳富蘇峰の歌の一節「俺の恋人、誰かと思う、神のつくりた日本国」を愛吟するようになる。 昭和43年(1968年)3月、持丸博を新たに副委員長とした「論争ジャーナル」が三島と1ヶ月間、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原分屯地へ自衛隊体験入隊し、そこに森田も随行参加する。春休み帰省中にスキーで右足を骨折し、治療中にもかかわらず訓練に参加し頑張る森田に、三島は感心し注目する。体験入隊終了後、一行は三島邸で慰労会の夕食に招かれる。その後、森田は三島への礼状に「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と記す。

昭和43年(1968年)4月、森田は早大国防部部長に選出される。同年6月15日、全日本学生国防会議を結成、初代議長に就任。その大会で三島が万歳三唱する。同年11月、日学同中央執行委員を兼任する。同年12月、全国大会で大会実行委員長を務め、北方領土返還運動などに尽力する。一方この頃、三島の祖国防衛隊構想に民間企業団体(経団連)の支援協力が得られず、同年10月5日、祖国防衛隊の名称が「楯の会」となる(万葉集防人歌「今日よりは 顧みなくて大君の 醜の御楯と出で立つ吾は」より由来)。同年10月21日、森田、三島ら楯の会隊員は、国際反戦デーの左翼デモの状況を見学。これからの左翼デモにおける自衛隊治安出動の可能性と、その援護、となる斬り込み隊要員・楯の会の今後の行動計画、憲法改正・自衛隊国軍化計画を練る。

昭和44年(1969年)、「論争ジャーナル」と「日学同」との架け橋役であった森田はしだいに「論争ジャーナル」側に傾き、同年2月「日学同」を脱退する。脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団である。「楯の会」隊員でもあった森田は、同年4月、十二社のメンバーと政治結社「祖国防衛隊」(三島の祖国防衛隊と同名)を結成し、隊長となる。 同年10月、「楯の会」初代学生長・持丸博の退会により、森田が「楯の会」学生長になる。同年10月21日、森田、三島ら楯の会隊員は、再び国際反戦デーの左翼デモの状況を確認、左翼は警察に簡単に鎮圧され、もはや自衛隊治安出動に乗じた憲法改正、自衛隊国軍化への道がないことを認識する。

昭和45年(1970年)6月13日、楯の会隊員の森田、三島、小賀正義明治学院大学小川正洋が、決起の計画(自衛隊の弾薬庫、あるいは三十二連隊を占拠し自衛隊員を集結させ、国会占拠・憲法改正を議決させる計画など)を討議する。同年9月、神奈川大学古賀浩靖も計画に参加。 同年11月21日、決行当日は三十二連隊長が不在であることが判明。協議の末、拘束相手を、東部方面総監に変更する。三島は益田・東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時の面会約束(楯の会の例会で表彰する者を総監に紹介するという名目で)をとりつける。

同年11月25日、三島、森田、小賀、小川、古賀は、自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かう。益田・東部方面総監を人質にとり、集合した自衛隊員を見下ろす形でバルコニー上から三島が演説。檄文をばらまく。決起を迫るが果たせず、総監室で三島は切腹する(三島事件)。森田が介錯したものの果たせず、剣道居合の経験者であった古賀が介錯する。続いて森田が切腹。同じく古賀が介錯。

森田必勝は「楯の会」隊長・三島由紀夫とともに割腹自決した。享年25歳。 森田の辞世の句は、「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」。25歳4ヶ月の生涯だった。本人は名の「必勝(まさかつ)」を「ひっしょう」と呼ぶのを好んでいたという。 自決30年後の平成12年(2000年)、出身地三重県四日市銅像が建てられた。

[編集] 人物

  • 林房雄は、「森田青年は実に明るい笑顔を持った、礼儀正しい好青年で、寡黙ではあったが、内に秘めた何物かが、澄んだ彼の瞳から輝き出ていた。初対面の時、彼と何を話したのかは覚えてないが彼の無邪気で、しかも落着いた物腰、時折り真白い歯をみせて人なつっこく笑った顔のすがすがしさが印象に残っている」、「君の童顔と微笑と澄んだ瞳を、すでに老齢の私も決して忘れない」と語った[4]
  • 三島由紀夫が20代前半の頃、かつての担当編集者であった木村徳三は、三島自決後、森田必勝の写真を見たときに、三島の小説『禁色』の主人公、南悠一のモデルとなった実在の男性(ゲイバーブランスウィック」に勤務していたボーイ。若き日の三島が惹かれていたという)の面影と森田が酷似していて驚いたという[5]
  • 昭和44年(1969年)に自衛隊富士学校を取材したヘンリー・スコット=ストークスに、「なぜ楯の会に入ったのか」と問われた森田は、「三島に随いていこうと思った。三島は天皇とつながっているから」と答えたという[6]
  • 三島と森田に空手を教えていた中山正敏は、「森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た」、「空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった」 と語り、また森田の介錯について「有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか」と語った[7]
  • 十二社グループで楯の会の隊員でもあった野田隆史鶴見友昭によると、昭和45年10月頃、森田が「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺る」と言っていたという[8]
  • 三島のかつての担当編集者で、森田と面識があった堤堯によると、「僕は絶対に三島先生を逃しません」と言ったという[9]
  • コカ・コーラが大好物で、ビン入りをラッパ飲みするのが常であったという[要出典]
  • 平成24年(2012年)6月公開の映画「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(監督・若松孝二)では、森田必勝の役を満島真之介が演じた。
  • 実兄の森田治は英語教諭で、後に三重県県議会議員を務めた。

[編集] 関連事項

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 森田必勝遺稿集「わが思想と行動」(日新報道; 新装版、2002年)
  2. ^ 鈴木邦男「失敗の愛国心」(理論社、2008年)
  3. ^ 宮崎正弘「三島由紀夫『以後』」(並木書房、1999年)
  4. ^ 林房雄「森田必勝君の追想」
  5. ^ 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)(底本『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ刊、1982年)
  6. ^ ヘンリー・スコット=ストークス「三島由紀夫 生と死」徳岡孝夫訳(清流出版)
  7. ^ 中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」
  8. ^ 中村彰彦「烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語」(文藝春秋、 2000年)(文春文庫、2003年)
  9. ^ 中村彰彦「烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語」(文藝春秋、2000年)(文春文庫、2003年)
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語