島崎藤村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
島崎 藤村
(しまざき とうそん)
Shimazaki Toson2.jpg
誕生 島崎 春樹(しまざき はるき)
1872年3月25日
日本の旗 日本 筑摩県第八大区五小区馬籠村
(現・岐阜県中津川市
死没 1943年8月22日(満71歳没)
日本の旗 日本 神奈川県大磯町
職業 詩人
小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 明治学院普通部本科
活動期間 1897年 - 1943年
ジャンル
小説
文学活動 ロマン主義
自然主義文学
代表作 若菜集』(1897年、詩集)
破戒』(1906年)
』(1908年)
』(1911年)
新生』(1919年)
夜明け前』(1935年)
主な受賞歴 朝日文化賞(1936年)
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日明治5年2月17日)- 1943年昭和18年)8月22日)は、日本詩人小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾中山道馬籠[1](現在の岐阜県中津川市)生れ。

文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1872年3月25日明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村[1]長野県を経て現在の岐阜県中津川市)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。生家は代々、本陣庄屋問屋をつとめる地方名家で、祖は相模国三浦半島の津久井(現在の横須賀市)の出。父の正樹は17代当主で平田派国学者だった。

1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。在学中は馬場孤蝶戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉西行などの古典書物も読み漁った。明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。この間、1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。

『文学界』と浪漫派詩人[編集]

卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『』で描かれる。

1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。

藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男が伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを元に書いたもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲「千曲川旅情の歌」も同じ詩集からのものである。

小諸時代から小説へ[編集]

1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『』で描かれることになる。

1907年(明治40年)に発表した「並木」は、孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。1908年(明治41年)『』を発表、1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。1917年(大正6年)に慶應義塾大学文学科講師となる。1918年(大正7年)、『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。

1927年昭和2年)、「」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。1940年(昭和15年)に帝国芸術院会員、1942年(昭和17年)に日本文学報国会名誉会員。

米英との戦争が迫る中、1941年(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)

1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

親譲りの憂鬱[編集]

島崎藤村は自作でさまざまに、「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、

  1. 父親と長姉が、狂死した。
  2. すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。
  3. 後に姪の島崎こま子と不倫事件を起こしたが、こま子の父である次兄広助の計らいによって隠蔽された。兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた

等の事情による。

年譜[編集]

  • 1872年3月25日明治5年2月17日) - 筑摩県の馬籠村[1]に生れる。
  • 1878年(明治11年) - 神坂小学校に入学。
  • 1881年(明治14年) - 兄とともに上京。泰明小学校に通う。
  • 1886年(明治19年)
    • 3月、泰明小学校を卒業。
    • 11月、父・正樹、死去。
  • 1887年(明治20年)9月 - 明治学院普通部本科に入学。
  • 1888年(明治21年)6月 - 木村熊二から受洗。
  • 1891年(明治24年)6月 - 明治学院を卒業。
  • 1892年(明治25年)10月 - 明治女学校の教師となる。
  • 1893年(明治26年)
    • 1月、北村透谷星野天知らと『文学界』を創刊する。
    • 教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞め、キリスト教を棄教する。
  • 1895年(明治28年)
    • 5月、透谷が自殺。
    • 長兄が公文書偽造行使の疑いで下獄。
  • 1896年(明治29年) - 10月、母・縫、死去。
  • 1897年(明治30年) - 8月、処女詩集『若菜集』を出版。
  • 1898年(明治31年) - 4月、東京音楽学校選科入学。
  • 1899年(明治32年)
    • 4月、小諸義塾に赴任。
    • 明治女学校卒業生、函館出身で網問屋の次女・秦冬子と結婚。
  • 1900年(明治33年)
  • 1902年(明治35年) - 3月、次女・孝子、生誕。
  • 1904年(明治37年) - 4月、三女・縫子、生誕。
  • 1905年(明治38年)
    • 4月、上京。
    • 5月、縫子死去。
    • 10月、長男・楠男、生誕。
  • 1906年(明治39年)
    • 3月、『破戒』を自費出版。
    • 4月に孝子、6月にみどりがそれぞれ死去。
  • 1907年(明治40年) - 9月、次男・鶏二、生誕。
  • 1908年(明治41年)
  • 1910年(明治43年)
    • 1月より「」を『読売新聞』に連載。
    • 8月、四女・柳子、生誕。妻・冬子、死去。
  • 1913年大正2年) - 4月、手伝いに来ていた姪・こま子と過ちを犯しこま子が懐妊したため、関係を絶つためにフランスへ渡る。
  • 1916年(大正5年)
    • 7月4日、帰国。こま子との関係が再燃する。
    • 9月、早稲田大学講師に就任。
  • 1918年(大正7年) - 5月より「新生」を『東京朝日新聞』に連載。
  • 1929年昭和4年) - 4月より「夜明け前」を『中央公論』に連載。
  • 1935年(昭和10年) - 日本ペンクラブを結成、初代会長に就任。
  • 1943年(昭和18年)8月22日 - 神奈川県大磯町にて死去、満71歳。戒名は文樹院静屋藤村居士。大磯町地福寺に埋葬された。

主な作品[編集]

詩集[編集]

  • 若菜集(1897年8月、春陽堂)
  • 一葉舟(1898年6月、春陽堂)
  • 夏草(1898年12月、春陽堂)
  • 落梅集(1901年8月、春陽堂)
  • 藤村詩集(1904年9月、春陽堂)※上記4冊を合本したもの。

小説[編集]

  • 旧主人(1902年11月、『明星』)
  • 破戒(1906年3月、自費出版)
  • (1908年10月、自費出版)
  • (1911年11月、自費出版)
  • 桜の実の熟する時(1919年1月、春陽堂)
  • 新生(1919年1、12月、春陽堂)
  • ある女の生涯(1921年7月、『新潮』)
  • (1926年9月、『改造』)
  • 夜明け前(1929年1月、1935年11月、新潮社)

写生文[編集]

童話[編集]

  • 眼鏡(1913年2月、実業之日本社)
  • ふるさと(1920年12月、実業之日本社)
  • おさなものがたり(1924年1月、研究社)
  • 幸福(1924年5月、弘文館)

記念館[編集]

フィクションにおける島崎藤村[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c 2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂馬籠越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。 所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。しかし藤村本人は、「信州人」意識を強く持っている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]