戦陣訓

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戦陣訓』(せんじんくん)は、1941年1月8日に当時の陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。

現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。

目次

[編集] 構成

「戦陣訓」は「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。

  • 本訓(其の一)
    • 第一「皇国」
    • 第二「皇軍」
    • 第三「皇紀」
    • 第四「団結」
    • 第五「協同」
    • 第六「攻撃精神」
    • 第七「必勝の精神」
  • 本訓(其の二)
    • 第一「敬神
    • 第二「孝道」
    • 第三「敬礼挙措」
    • 第四「戦友道」
    • 第五「率先躬行」
    • 第六「責任」
    • 第七「生死観」
    • 第八「名を惜しむ」
    • 第九「質実剛健」
    • 第十「清廉潔白」
  • 本訓(其の三)
    • 第一「戦陣の戒」
    • 第二「戦陣の嗜」


[編集] 示達と流布

[編集] 背景

当時、中国戦線では戦況が膠着状態に入ったことにより、将兵の士気は落ち、放火、掠奪、強姦が問題となった。軍紀建て直しの必要性を感じた陸軍は、「焼くな」「盗むな」「殺すな」の「三戒」を徹底させ、規律ある軍人となるような方法を模索していた。そこで、「戦陣訓」というかたちで、軍規を徹底させることを主眼においており、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節のみが主旨であったわけではない[1]

当時の陸軍大臣であった畑俊六が発案し、教育総監部が作成を推進した。当時の教育総監であった山田乙三や、本部長の今村均も関わっている。国体観・死生観については井上哲次郎山田孝雄和辻哲郎紀平正美らが参画し、文体については島崎藤村佐藤惣之助土井晩翠らが参画している。

[編集] 戦陣訓の浸透

陸軍省が制定し、1941年昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた[2]。また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。

軍人への浸透のため、陸軍省は『軍隊手牒』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。翌1942年の版からは軍隊手牒に印刷することとした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。

『戦陣訓』の軍隊内部への浸透を示すものとして、「奉読することが習慣になっていた」という再評価・調査報告[3]や同様の体験談がある一方で、『軍人勅諭』は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかった事例[4]も見られ、浸透の程度は不均一であったと言えよう。ただし、丸暗記を否定するもので、戦陣訓の内容は理解していることが当然とされていた。東條英機と対立していた石原莞爾陸軍中将(『戦陣訓』発令の同年8月東條により罷免され予備役)は、1941年9月には著書で『戦陣訓』の重要性を力説[5]していながら、「軍人勅諭を読むだけで充分」と部下には一切読ませなかったという説がある。しかし、玉砕戦において自決した諸将兵は死んでいるために彼らの『戦陣訓』に関する正確な詳しい証言は得ることができない。

昭和18年、中支の戦場において『戦陣訓』を受け取った、のちの戦記作家・伊藤桂一(当時・陸軍上等兵)は一読したあと 「腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。「戦陣訓」は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」を抛(ほお)つたのは、実に激しい羞恥に堪えなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。」と証言している。

  • 平成20年新潮文庫 兵隊たちの陸軍史 伊藤桂一著

一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出ている[6]。このほかに、「戦陣訓カルタ」[7]なども作られた。また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる[8]

なお、現在でも陸上自衛隊中央音楽隊による演奏の行進曲「戦陣訓」(発売:日本クラウン)がある。

[編集] 「生きて虜囚の辱を受けず」

一部では、大東亜戦争中で発生したとされる日本軍の所謂バンザイ突撃玉砕(=全滅)、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。

本訓其の二第八「名を惜しむ」の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を題材とした小説や映画・ドラマなどで日本軍の人命軽視の行動を否定する際に引用されることも多い。戦時中は例えば戦国時代に「生きて虜囚の辱を受けず」を実践した人物をモデルとして映画法による国策映画鳥居強右衛門』(日活1942年)が作られ、この一節は推奨されていた。

ただしこの一文は「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の一部を引用したものであり、全文では無い。「生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし」で知られる「第七 生死観」につづくもので、全文は以下の通りである。

恥を知る者は強し。常に郷党きょうとう家門の面目を思ひ、愈々いよいよ奮励ふんれいしてその期待に答ふべし、生きて虜囚りょしゅうはずかしめを受けず、死して罪過の汚名を残すことなか

『戦陣訓』「本訓 其の二」, 「第八 名を惜しむ」

以下、解釈が分かれているので両論並記とする。(ただし、2番目のものは現時点では論拠が不明な個所が多く、事実性・信頼性は低い。)

  1. 「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」という意味である。戦陣訓で示された規範については『軍人勅諭』の内容とほぼ同じであるが、『国史大辞典』は「生きて虜囚の辱を受けず」の徳目を例にあげて「(軍人勅諭)を敷衍するための説明であるという態度をとっているが」、「新たに強調した徳目も多い」としている[9]。しかし、菊池寛は「これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。」と「話の屑籠」(1941年(昭和16年)『文藝春秋』に連載)に記していることから、当時はその解釈についてはさまざまであった。当時は単に『軍人勅諭』の施行細則とのみ意識し、「新たに強調した徳目」に気づかぬ者もいたのである。
  2. 「軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになったり、同郷の者や故郷の家族から面目の立たないことになるのであるから、そういった軍人として恥ずべき行いはやってはいけない。」という意味である。今日では戦陣訓自身を再評価しようとする研究家・歴史家や、戦陣訓の絶対性を否定する研究者も存在する。

[編集] 降伏・投降の否定の思想

日本兵の降伏拒否や自決は、『戦陣訓』が示達される以前から発生しており、『戦陣訓』によって日本軍の玉砕や自決が強制されたようになったとは考えにくいとする意見もある。例えば、日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋は、日清戦争における清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令[10](これが「生きて虜囚の辱を受けず」の原型であろうとの指摘もある。この点については渡洋爆撃#不時着時の悲劇も参照。)や、俘虜の待遇に関する条約(ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理由とのひとつとして、軍部による「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発した例[11]が有る。

以上のように、「捕虜になれば敵軍によって残虐な扱いを受ける」ということが特に日清戦争において発生したため、日本軍において「捕虜になるくらいなら自決したほうがましである」という思想が出た一因であるという意見もある。

[編集] 俘虜と家族の運命

大東亜戦争中の日本兵は、捕虜となることは不名誉されることが多かったが、それ以前は特にそのようなことはなかった。

1941年12月8日真珠湾攻撃時の俘虜となった日本兵の家族への扱い
太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった酒巻和男海軍少尉(海軍兵学校卒)は真珠湾攻撃で、特殊潜航艇に艇長として搭乗した。しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられた。大本営は傍受したVOAの報道から捕虜第1号の存在を初めて知り、同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した(大本営発表)。酒巻の家族は人々から「非国民」と非難された(酒巻和男『捕虜第一号』新潮社、1949年)。そして、それ以後捕虜になった者たちは親族が「非国民」とされるのを恐れ、偽名を申告し、ジュネーブ条約に基づいて家族に手紙を出すようなことも控えることが多かった [12]。結果、その者達は“未帰還”(戦死またはMIA)となった。

[編集] 戦陣訓と軍機漏洩

日本軍は兵士が捕虜になることを想定せず、捕虜となった場合にどうふるまうべきかという教育も一般兵士に施さなかった。日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を容易く話したため、これが問題となり、以降「捕虜になっても敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底されたという。真珠湾攻撃の際に捕えられた酒巻は海軍兵学校出の将校であったため機密を漏らすことはなかったが、一般兵士はいったん敵軍に捕えられてしまうとどうふるまうべきかを知らなかった。1942年、アメリカは日系二世兵士を中心とするATIS(南太平洋連合軍翻訳尋問部隊)を組織し、捕虜や日本兵の陣中日記から日本軍の情報を割り出していった。捕虜から情報を引き出すには、手厚い待遇が功を奏したが、同時に「捕虜の本名を日本に伝える、という脅し方」も有効であったという[13]

[編集] 戦陣訓と玉砕

『戦陣訓』は複数の戦場において、玉砕 [14]を命令する際の命令文中に引用されている。(以下抄録)

アッツ島玉砕
1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令
非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり
なお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷萩報道部長の談話)
サイパン島玉砕
1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一中将、「サイパン島守備兵に与へる訓示」
サイパンの戦いにおいて総切り込みの行動開始時刻決定の際に以下の発表を行った。「断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受**けず』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生きるを悦びとすべし[15]。」この結果、戦死約21,000名、自決約8,000名、捕虜921名となった。そして南雲自身も自決したと伝えられている。(サイパンの戦い参照。サイパン島の民間人についてはバンザイクリフ参照。)
沖縄戦
沖縄戦では日本軍将兵による沖縄県民への集団自決強制が為され、結果、座間味島では少なくとも島民130人が死に追いやられたとされる(2008年3月28日最高裁判所『沖縄ノート』名誉毀損訴訟判決)。

このように、投降を拒否する考えを示すために、わかりやすい表現の一つとして『戦陣訓』が引用されていたことは事実である。さらにアッツ島の玉砕においては、軍属に対しても投降拒否の考えに従うことが命令されている。

また、上記命令が海軍中将から発令されていること、新聞紙上の見出しとして使われていることからも、陸海軍、民間を問わず『戦陣訓』の存在は広く知られていたこと[要出典]が再確認できる。

[編集] 戦陣訓と軍法との関連性

当時の陸海軍の軍法においては、「敵ニ奔リタル者」を罰する逃亡罪の規定(陸軍刑法77条)や、指揮官が部隊を率いて投降することを罰する辱職罪の規定(陸軍刑法40-41条)が存在した。他方、捕虜となることそのものを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在しなかった。しかし、戦陣訓は勅命と解釈されたため、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われていた。ただ、軍法において捕虜となる権利が否定されることは無かった。

当時の大日本帝国憲法下の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。しかし、戦陣訓が一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であり、立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることが明白であったにもかかわらず、当時の軍部にはそのような法制度の認識は無かった。

このような考え方により、現在では降伏をしないなどという思想は時代遅れと考えがちだが、現代でも似たような思想はあり、元傭兵高部正樹によると、傭兵は条約適用外なので拷問を受けるため捕まりそうになると自決をするらしい。その為自決用の弾丸を必ず持っているということである。

[編集] 戦陣訓の歌

戦陣訓は歌謡化もなされ、ビクター、ポリドール、キングの各社競作で作られ、1941年4月に発売された。

新聞記者出身の梅木三郎が詞を付け、軍楽隊の須摩洋朔、俊英が曲をつけ徳山璉が歌ったビクター盤が一番広く普及し歌われた。

[編集] その他の関連エピソード

  • 書籍出版時の著作権は東條が有していたが、印税の受け取りの有無は不明である。当時は軍人や官僚の書籍を出版し、印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮 [16]があったが、『戦陣訓』での東條の印税受領の証拠は無い。
  • 1972年フィリピンルバング島から発見された小野田寛郎元陸軍少尉が、日本へ帰国した際の記者会見で、ビクター盤の「戦陣訓の歌」の3番にある『一髪土に残さずも…』を引用して発言した。
  • 海軍のパイロットであった坂井三郎はインタビューにおいて「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓の一節をあげつつ、「これは強制されたものではない」とことわった上で、「(支給品である)落下傘をもって行ったけれど、座布団代わりに敷いていただけで、バンドは(各パイロットが自発的に)もって行かなかった」と証言している。
  • 中国戦線で従軍していた伊藤桂一は、「軍人勅諭」は筋が通って名文と評価しているが、「戦陣訓」は「世界戦史の中でも最悪の文章」と酷評し「『生きて虜囚の辱めは受けず』なんてことは、言われなくても前線の兵士は分かっているんですよね。文章全体に溢れている督戦的な匂いがいやだった。」として、密かに破り捨て、東條英機は「戦陣訓」を作った責任があると述べている。[17]

[編集] 脚注

  1. ^ たとえば「本訓 其の三 第一」「戦陣の戒」には次のように記されている 。
    • 六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
    • 七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
    • 八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
    • 九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
  2. ^ 例えば『読売新聞』は「昭和の軍人魂昂揚『戦陣訓』を制定す―けふ全将兵に配布―」と題する記事で「世界動乱に対応し最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では皇軍兵士が座右において実践服行するいはゆる昭和武人鑑ともいふべき「戦陣訓」を新たに制定、七日午後上奏御裁可を経たので八日の陸軍始観兵式の佳日を下し東條陸相の名において全軍に示達、各兵士に一葉宛を配布(後略)」と報道し、『戦陣訓』の全文も掲載している。
  3. ^ 野砲兵第22連隊では「起床後「戦陣訓」を奉読することが習慣になっていた」(武島良成 「京都師団の日常―文献史料による「戦争遺跡」の検証―」『京都教育大学紀要』108号、2006年、40頁。)
  4. ^ 山本七平『私の中の日本軍』下巻、文藝春秋〈文庫〉、1983年、340頁。
  5. ^ 石原莞爾『最終戦争論・戦争史大観』は「蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。『派遣軍将兵に告ぐ』『戦陣訓』の重大意義もここにありと信ずる。」と述べている。(『戦争史大観』の「第二節 歴史の大勢」。1941年9月に東亜聯盟協会関西事務所編『世界最終戦論』として刊行。)本書は数十万部も売れたベストセラーであった。
  6. ^ 国会図書館所蔵目録による調査。
  7. ^ 「戦陣訓カルタ」の画像
  8. ^ 高知工科大学における岡野俊一郎の講演
  9. ^ 国史大辞典編纂委員会『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、1987年、441頁。
  10. ^

    敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。

    1894年8月13日、山縣有朋、平壌にて

  11. ^ 官房機密大一九八四号の三『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二七日の条約」御批准方奏請に関する件回答』
    一、帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し外国軍人の観念においては必しも然らず従て本条約は形式は相互的なるも実質上は我方のみ義務を負う片務的なものなり
    二、俘虜に関する優遇の保証を与えることとなるを以てたとえば敵軍将士が目的達成後俘虜たることを期して空襲を企図する場合には航空機の行動半径倍大し帝国として被空襲の危険大となる等我海軍の作戦上不利を招くに至る恐れあり(原文はカナ)
    アジア歴史資料センター 万国赤十字会議関係一件/赤十字条約改正並俘虜法典編纂ニ関スル寿府会議(一九二九年)関係/条約批准及加入関係 第二巻 分割二 レファレンスコード B04122508600 p.1
  12. ^ ハリー・ゴードン著・山田真美 訳『生きて虜囚の辱めを受けず ―カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走―』清流出版、 1995年
  13. ^ 山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』40頁
  14. ^ 『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕、何能瓦全」(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)による表現。第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅の発表時であった。
  15. ^ 南雲忠一海軍中将「最期の訓示」。全文はこの四倍ほどあるが末尾部分のみ引用した。
  16. ^ 佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家―』中央公論新社〈中公新書〉、2004年。
  17. ^ 保坂正康『昭和の戦争』36-37頁

[編集] 参考文献

  • 大原康男 『帝国陸海軍の光と影』 日本教文社。
  • 森山康平 『図説・玉砕の戦場』 河出書房新社。
  • 内海愛子 『日本軍の捕虜政策』 青木書店。

[編集] 関連項目

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