東條英機

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  • 東条英機
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日本の旗 日本の政治家
東條 英機
とうじょう ひでき
東條英機
軍装を着用した東條
生年月日 1884年7月30日[1]
出生地 日本の旗 東京府東京市
没年月日 1948年12月23日(満64歳没)
死没地 日本の旗 東京都豊島区
出身校 陸軍大学校卒業
前職 陸軍航空総監
称号 Japan-army-1938-1945 17-1-.gif 陸軍大将
従二位
勲一等旭日大綬章
功二級金鵄勲章
配偶者 東條かつ子
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内閣 東條内閣
任期 1941年10月18日 - 1944年7月22日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第31代 陸軍大臣
内閣 第2次近衛内閣
第3次近衛内閣
東條内閣
任期 1940年7月22日 - 1944年7月22日

日本の旗 初代 軍需大臣(兼任)
内閣 東條内閣
任期 1943年11月1日 - 1944年7月22日

日本の旗 第25代 商工大臣(兼任)
内閣 東條内閣
任期 1943年10月8日 - 1943年11月1日

日本の旗 第53代 文部大臣(兼任)
内閣 東條内閣
任期 1943年4月20日 - 1943年4月23日

その他の職歴
日本の旗 第66代 外務大臣(兼任)
1942年9月1日 - 1942年9月17日
日本の旗 第64代 内務大臣(兼任)
(1941年10月18日 - 1942年2月17日
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東條 英機(とうじょう ひでき、1884年明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年昭和23年)12月23日)は、日本陸軍軍人政治家階級陸軍大将位階従二位勲等勲一等功級功二級新字体東条 英機(とうじょう ひでき)とも表記される[2]

陸軍大臣内閣総理大臣第40代)、内務大臣第64代)、外務大臣第66代)、文部大臣第53代)、商工大臣第25代)、軍需大臣初代)などを歴任した。

目次


[編集] 概要

現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。

階級位階勲等功級陸軍大将従二位勲一等功二級永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。日本の対開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣参謀総長を兼任した。敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され、1948年11月12日絞首刑の判決が言い渡され、1948年12月23日巣鴨拘置所死刑執行された。享年65(満64歳)。

[編集] 生涯

[編集] 生い立ちと経歴

若い頃の東條

東條英機は1884年(明治17年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた[3]

東條家は江戸時代宝生流ワキ方能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考え、この反長州閥の考えは英機にも色濃く受け継がれた[4]

番町小学校四谷小学校学習院初等科(1回落第)、青山小学校東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校入学、陸軍士官学校卒業(17期生)。

[編集] 陸軍入隊

1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。

1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸大に挑戦して失敗。東条のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山岡村寧次が集まった[5]。1911年に長男の英隆が誕生。1912年(大正元年)に陸大に入学。1914年大正3年)には二男の輝雄が誕生。1915年(大正4年)に陸軍大学校を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。

1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。

1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。1935年(昭和10年)9月21日には、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止した[6]1936年(昭和11年)12月1日に陸軍中将に昇進。

[編集] 関東軍参謀長

1937年(昭和12年)3月1日、関東軍参謀長に就任する。日中戦争支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという[7]

[編集] 陸軍次官

1938年(昭和13年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局額田課長に無理やり行わせる[8]。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣大臣の下、多田参謀次長、中島総務部長、飯沼人事局長と対立し、板垣大臣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果多田次長は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた[9]

[編集] 陸軍大臣

1940年第2次近衛内閣の閣僚らと

1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣第3次近衛内閣陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。

1941年(昭和16年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。

[編集] 首相就任

1941年10月18日総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らと

木戸幸一内大臣らは、政権を投げ出した近衛文麿首相の後任として、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、天皇を敬愛していた東條を敢えて首相に据えることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により日米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。

天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。

木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている[10]。 東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國昭が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。 また東條自身、政治を人気取りと妥協で行うものだとして、「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたとして、自身の意思と反して無理やり首相に据えられたことに同情する意見もある。

日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、1941年(昭和16年)10月18日に、第40代内閣総理大臣内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する[11]第2次近衛内閣第3次近衛内閣と日米開戦に近づく政策を実行した政権指導者であった近衛文麿[12]を引継いだが、日米開戦を回避させるため、いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻した。 この年『戦陣訓』を作成し布達している[13]

東條率いる陸軍は中国からの撤兵という要求をがんとしてはねつけており、「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」と述べている。

現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條である。1941年(昭和16年)12月23日に封切られた日本ニュース第81号『鉄石一丸の戦時議会』がそれで、東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。

[編集] 太平洋戦争(大東亜戦争)

[編集] 開戦

1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスアメリカ宣戦布告太平洋戦争大東亜戦争)に突入した。その後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋アメリカ本土オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。 この時の東條は冷静そのもので、天皇へ報告を真っ先に指示し、米英大使館への処置には、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っているが、8日夜の総理官邸での、食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である。」「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね。」などと発言している。[14]

[編集] 海軍による真珠湾攻撃と東條

連合国は東京裁判でハワイへの攻撃は東條の指示だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)。 但し実際には、東條が真珠湾攻撃を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、参謀総長を兼任して以降である。

小室直樹栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としている[15]が、昭和16年8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月5日には永野海軍軍令部総長と杉山陸軍参謀総長が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を奏上し裁可を受けており、ハワイ奇襲実施についてもこのときに正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。[16][17]。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されている[18]し、そもそも東條自身、東京裁判において12月1日の御前会議によって知っていたと証言している[19]

[編集] 東條首相罵倒事件

オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等のため、ガダルカナルの飛行場を是が非でも奪還したい海軍はこの付近に大兵力を投入し、さらに陸軍にも応援を要請した。過去3度にわたるガ島奪還作戦はいずれも失敗し陸軍の輸送船団は殆どが撃沈されたが、参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画した[20]。 参謀本部は輸送船の増船を政府に要求するが東條はそれを拒否する(元々東條はこの方面の作戦には反対で、過去に投入した船団は全滅状態であり、また参謀本部の要求を通すと国内生産が維持できないため)。 このため参謀本部の田中新一作戦部長は首相官邸に直談判に行き、討論の末、政務側の東條らに「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねばならぬ。」と穏やかに諭した。 これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりに予算を政府側に認めさせた。しかし奪還作戦は中止されガ島撤退が確定する。その後もニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが殆どが撃沈されている(ダンピールの悲劇など)。なお、この方面の海軍側の司令官は井上成美であったが途中で更迭されている。[21]

[編集] 大東亜会議主催

東條は1942年(昭和17年)に外務大臣( - 9月17日)、1943年(昭和18年)には文部大臣( - 4月23日)・商工大臣軍需大臣(以上内閣総辞職まで)を兼任。同年には大東亜会議を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。

東條は「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。

しかし、1942年(昭和17年)9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。

[編集] 三職の兼任

統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、戦況が悪化してもその情報を政府になかなか報告せず、また民需を圧迫する徴用船舶増強など無理な要求を出しては東條を悩ませた。山本五十六戦死直後の1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などから来る様々な弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」[22]と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案であった。

1944年(昭和19年)2月17日、18日のトラック島の壊滅を知り、東條はついに参謀総長兼任を決意し[23]、2月19日に、木戸内大臣に対し、「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、参謀総長を自分が兼任する」と言い上奏。天皇が「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。[24]2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山総長の勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山元は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部~第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした[25][26]。海軍軍令部の永野総長も抵抗したが、海軍の長老格伏見宮博恭王の意向もあって嶋田海相が総長を兼任することになった[27]

行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣軍令部総長の兼任)は、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾し、天皇統帥権に抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。例えば秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判した[28]。首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。これに関連して、過度の権力集中にヒトラーを引き合いに出して苦言を呈した側近に対し「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えたという話[29]がある。ただし、特に独ソ不可侵条約締結の頃には、東條に限らず「あの伍長上がりに振り回され…」等と、ヒトラーを侮蔑する陸軍将官が多かったとも言われている。 1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという[30][31]

[編集] 退陣

戦況の悪化に伴い連合国軍により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。そこで絶対国防圏を定め大部隊をもってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の守備を増強したが、1944年6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦の敗北により戦力差は更に拡大し、1944年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕した(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。グアムテニアンも次々に陥落する。内閣改造の意向を示した東條に対して、木戸内大臣は、1.東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、2.嶋田繁太郎海軍大臣の更迭、3.重臣の入閣を要求。木戸の要求を受け入れて東條は、内閣改造に着手しようとしたが、岸信介が造反し、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかったのである)。東條の内意を受けた四方諒二憲兵隊長は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼な」と怒って岸に辞任を迫ったが岸は「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ!」と言い返し、脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。

東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた[32]。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、梅津美治郎参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となったとされる[33][34]。赤松秘書官は回想録で、周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまったとしている[35]

広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。[36]

[編集] 東條英機暗殺計画

東條暗殺の実行犯となる予定だった柔道家の木村政彦

戦局が困難を極める1944年には複数の東條英機暗殺が計画された。

1944年9月には陸軍の津野田少佐と柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉、実行犯として使われることになっていた(「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか増田俊也)。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。計画実行直前に東條内閣が総辞職して決行されなかった[37]

また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった[38]

[編集] 重臣

辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめた。

[編集] 終戦工作への態度

1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏[39]。「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた[40]。だが、御前会議の天皇の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條に決起を期待して尋ねてくると、東條の答えは「陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正大尉に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。[41]

戦争初期、1942年8月20日にアメリカ抑留から帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており[42]、終戦について早い段階から視野に入れていたことも判明している。

[編集] 敗戦と自殺未遂

自殺未遂後GHQのアメリカ軍病院で手当を受ける東條
回復後の健康診断を受ける東條

1945年(昭和20年)8月15日終戦の詔勅、9月2日には戦艦ミズーリにおいて対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。 東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑がかからないようにしている。その頃、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」。「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する。」と複雑な心中を吐露しており、[43]果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。

GHQによる救命措置

銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」、「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。

未遂に終わったことについて

これまでにも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。

拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の朝日読売毎日の各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった[44]

なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説[45]や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説[46]もある。

東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。

米軍MPによる銃撃説

なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、イキナリ拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている[33]。 歴史家ロバート・ビュート保阪正康も銃撃説を明確に否定している[46][47]。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。

戦陣訓

下村陸相は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた[33]

重光葵は「敵」である米軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した[48]。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていたという[34]

[編集] 東京裁判

東京裁判は、戦勝国が検事と裁判官をかねて敗戦国の「開戦責任」と「経過責任」を断罪する「勝者の裁き」であった[49]

スケープゴートを引き受けた東條

GHQのマッカーサーは、日本の占領統治は天皇を利用するために、天皇の戦争責任を問わない方針を定めたが、連合国の中には天皇の戦争責任を問うべきだとする国もあった。 1946年3月6日マッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内光政海軍大臣をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東條に全責任を負わせるようにすることだ。」と語り、米内は「同感です」と答えて東條に天皇を守るためにスケープゴートとなるよう要請し、東條はそれを受け入れたとされている[50][51]。 東條は東京裁判をとおして「自己弁護」は行わず、この戦争は「侵略戦争」ではなく「自衛戦争」であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言した[52]。また東條は、責任は自分にあって天皇にはないと主張し、この点では天皇の免責を目指すキーナン首席検事と同じであった。東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した[53]

[編集] 判決と処刑

極東裁判にて、被告台に立つ東條
戦後のものか、珍しいネクタイ姿の東條

東條は1948年(昭和23年)11月12日極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑判決を受け、12月23日巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。

東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎有末精三石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[54]

辞世の句は、

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき
散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは
今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ

[編集] 仏教への信仰

晩年は浄土真宗信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師花山信勝の影響で浄土真宗に深く信心した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎木村兵太郎土肥原賢二広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。

浄土真宗に深く学ぶようになってからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。

また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。

さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。

処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。

さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき
明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む
日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく

[編集] 遺骨

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

小磯國昭弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市興亜観音に運ばれ隠された。1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には愛知県幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。

東條英機はみずからが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出していた[55]が、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀している。

なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。

[編集] 軍官僚としての実力

渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる[56]。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。

1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。[57]

[編集] 東條に仮託される批判

政治的敵対者を陰謀をもって死においやるという手法を利用したという批判が東條にはつきまとう。

竹槍事件[58]では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとした。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と批判的な記事を書いたためであったとされる。

また、逓信省工務局長松前重義勅任官待遇だったにもかかわらず42歳(徴召集の年限上限は45歳)で二等兵として召集し、南方に送った。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている[59]。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった[60]。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、40代の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ[33]。(以後の松前の経歴は当該項を参照のこと)[61]

旧加賀藩主前田本家当主で陸軍軍人であった前田利為侯爵は、東條を「頭が悪く先の見えない男」として批評していた[62]。しかし、東條が台頭すると前田は予備役に編入された。1942年(昭和17年)4月に召集された前田は、9月5日ボルネオ守備軍司令としてクチンからラプラン島へ移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から遺品と遺骨の一部が収集された。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも寺内総司令官が弔辞で戦死とした。11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條は馬奈木ボルネオ守備軍参謀長に対して「今回は戦死と認定することはできない」とし、東條の命を受けた富永人事局長によって「戦死」ではなく「戦地ニ於ケル公務死」とされた。これにより前田家には相続税に向けた全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた[63]。但し、その後同じく飛行機で消息を絶った古賀峯一大将は戦地での公務死であるにもかかわらず戦死とはならなかった。

尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。

政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一有馬英治浜田尚友に対して、東條が懲罰召集したとする主張がある[64][65]

東條の不興をかって前線送りになった将校は多々おり、例えば陸軍省整備課の塚本清彦少佐は戦局に関して東條に直言し、即日サイパン送りとなった。塚本は1944年(昭和19年)6月13日、第31軍の守備参謀として送り出され、1ヵ月後グアムで玉砕している。[66]

第17師団の師団長だった平林盛人中将は、太平洋戦争初期に進駐していた徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しかった。しかし、平林は東條と馬が合わなかったといわれる。彼もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された。[67]

特高、憲兵の利用

特高警察と東京憲兵隊を重用し、民間人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題があると秦郁彦は批判している。[要出典]1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した[68][69][70]。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している[71][72]。また秦郁彦は、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音夫検事に対して、その報復として召集令状が届いたとしている。[73]

[編集] 民政に対する態度

「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている[74]

ゴミ箱あさり

また、区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり[要出典]、旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという[75][76]。これに関連して、1943年(昭和18年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「そんな事は、朝早く起きて、街の塵箱をあさっとる奴にでも聞け」と答えた。塵箱あさりとは東條首相のことである。東條は烈火の如く怒り、西尾を予備役とした[77]

言論統制に関して

中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度がうかがえたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している[78]

[編集] 評価

[編集] 批判的な評価

[編集] 政治姿勢に対する批判

自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)[79]

カミソリ東條の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされる一方、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった彼を「東條上等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという[79]

[編集] その他、国内での批判など

秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。

司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。

元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている[80]

福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理大臣の採点表』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下へのやさしい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。

[編集] 好意的な評価

[編集] 昭和天皇からの信任

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれがうかがえる。

昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、参謀本部の反対を押し切って正当な軍事裁判を行ったこと、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。また内閣退陣のときの東條の態度に関しても、いさぎよく立派なものであったと述べている[81]

東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と同情的に回想し、内閣の末期には田中隆吉などのいかがわしい部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、東條という人間は本来は話せばよくわかるすぐれた人物であったと高く評価している[82]

『昭和天皇独白録』は昭和前期の政治家・軍人の多くに対し、きわめて厳しい昭和天皇の評価がいわれているが(たとえば石原莞爾広田弘毅松岡洋右平沼騏一郎宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたがわかる。

[編集] 国内の好意的な評価

重光葵の評

重光葵は「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている[83]

徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比-

徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物欠乏」を挙げて「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている[84]

井上寿一の評

井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。 国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している[85]

来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢-

来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている[86]

山田風太郎の評

山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている[87]。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。

  • 東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
  • GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
  • 敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。

[編集] 外国からの好意的な評価

バー・モウの評

ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。

レーリンクの評

東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。

トケイヤーの評

ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、1937年(昭和12年)にハルビンで開催されたドイツの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し、当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている[88]

[編集] 腹心の部下とされる人物

  • 鈴木貞一
    陸軍中将。
  • 加藤泊治郎
    陸軍中将。憲兵司令部本部長など。
  • 四方諒二
    陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。中野正剛が自刃した当時の東京憲兵隊長。
  • 木村兵太郎
    陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。
  • 佐藤賢了
    陸軍中将。陸軍省軍務局長など。
  • 真田穣一郎
    陸軍少将。参謀本部第一部長など。
  • 赤松貞雄
    陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東条秘書官機密日誌』を残している。
  • 田中隆吉
    陸軍少将。
  • 富永恭次
    陸軍中将。陸軍省人事局長、陸軍次官など。
評価

東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある[89]

  • 三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
  • 四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄

田中隆吉富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた[90]。 田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い[91]。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で他の二人の将官が予備役編入される中、半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動して温泉で英気を養うなど評判最悪の男で、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている男である[92]

[編集] パーソナリティ、エピソード

  • 学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった[93]
  • 非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。また、メモに記録し、兵士の名前を覚えた。総理在任中は官邸のスタッフを自宅に招いて食事をしたり運動会や宝探しなどを行った。[要出典]
  • タバコは吸うものの、はほとんど嗜まず、たまに疲れたとき晩酌するほどであり、決して深酒するようなことはなかった。飲み方も一合瓶で予め飲む量を目算して、それ以上は決して飲まないという強い自制心があった。[要出典]
  • 女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。次妹の息子山田玉哉(陸軍中佐)が末妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を官邸に呼びつけ殴打した。東條の目には涙が浮かんでいたという[94]
  • 1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた[95]
  • 日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた[96]
  • 部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた[97]
  • 精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例をあげれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている。[98]

[編集] 遺言

東條の遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。

家族に宛てたもの

日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の1945年(昭和20年)9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。

処刑を前にした時のもの

処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた1948年(昭和23年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として世紀の遺書に収録されている[99]

逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)

1945年(昭和20年)9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、1952年(昭和27年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。[100]

[編集] 子孫

1941年東條かつ子(左)、東條由布子(中央)と

長男の東條英隆は、弱視のため兵役免除を受け、鴨緑江発電職員であった。

次男の東條輝雄は、零戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11航空自衛隊C-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年まで務めた。輝雄の子息であり、英機の孫にあたる東條正城は心理学者の道をあゆみ、専修大学教授等を歴任したが、2001年に死去している。

三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。

他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。

1985年にA級戦犯合祀が問題になった際、当時の首相・中曽根康弘が、自身もA級戦犯板垣征四郎の息子である参議院議員板垣正を使って白菊遺族会[101]会長・木村可縫(木村兵太郎の妻)ら遺族に分祀を迫ったが、東條次男の輝雄は、「遺族が発音すべき筋合いの話ではないでしょう」と板垣に言い、結果、話は立ち消えとなった。輝雄は2005年にも「合祀にしろ、分祀にしろ、遺族が希望を申し出るような話ではなくて、靖国神社自身が判断されることだと思っています。もし、分祀をすると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれど、連族は『それはいけない』と言う立場にはないと考えています」と語っている[102]

現在もA級戦犯分祀反対を唱える東條由布子は孫(本名:岩浪淑枝、英隆の子)だが、東條家の人ではない。

ひ孫に当たる東條英利は、自身が代表を勤める株式会社カルチャージで神社人というサイトを運営する傍ら、神社ライターとしても活動している。

2000年代の読売新聞の社説に、東条英機の娘の孫(東條からすれば玄孫)のうち、一人は米軍軍人と、もう一人は韓国人とそれぞれ結婚しているという記事が掲載された。孫娘二人のうち、前者の米軍軍人の話では「東條に子孫が居るとは知らなかった、ヒトラーは子孫が居ないので、東條にもいないだろうと考えていた。」と述べている。後者については孫の話として「何人でもよかったが、たまたま彼と相性があっただけ。」と証言している。

[編集] 栄典

[編集] 東條英機を描いた作品

東條は独特の風貌(剥げ頭とちょび)とロイド眼鏡、甲高い声音を持つ。東條役の俳優にとっては、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せば、たとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることができた。

[編集] 小説

[編集] 映画

[編集] テレビ

[編集] 参考文献

[編集] 一次資料及び当事者の証言、回想録

  • 小田俊与 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し
  • 花山信勝 『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』朝日新聞社 1949年 ISBNコード無し
  • 田中新一 『田中作戦部長の証言』芙蓉書房 1956年
  • 寺崎英成 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』 ISBN 4163450505 (寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーが編集に協力)
  • 木戸幸一・木戸日記研究会『木戸幸一日記』東京大学出版会 1966年 ISBN 9784130300117
  • 参謀本部 『杉山メモ』原書房 1967年2月 ISBN 9784562001040
  • バー・モウ『ビルマの夜明け』太陽出版 1973年6月 (1995年再版)ISBN 9784884691141
  • 全国憲友会連合会 『日本憲兵正史』 全国憲友会連合会本部 1976年10月
  • 細川護貞 『細川日記』中央公論新社 1978年8月
  • 赤松貞雄 『東條秘書官機密日誌』文藝春秋 1985年
  • 加瀬俊一 『加瀬俊一回想録』山手書房 1986年5月
  • 保阪正康『東条英機と天皇の時代(上)-軍内抗争から開戦前夜まで』、伝統と現代社、1979年12月。ISBN 4167494019
  • 同上 『東条英機と天皇の時代(下)-日米開戦から東京裁判まで』、伝統と現代社、1980年1月。ISBN 4167494027
  • 佐藤早苗『東条英機「わが無念」-獄中手記・日米開戦の真実』、光文社、1991年11月。ISBN 4334970664
  • 同上『東條英機 封印された真実』、講談社、1995年8月(絶版)。 ISBN 4-06-207113-4
  • 伊藤隆・広橋眞光・片島紀男 編『東條内閣総理大臣機密記録・東条英機大将言行録』東京大学出版社 1990年 ISBN 4-13-030071-7 c3031
  • 重光葵 『巣鴨日記』(文藝春秋昭和27年8月号掲載)

[編集] その他

  • 平泉澄『日本の悲劇と理想』 原書房 1977年3月
  • 平泉澄『悲劇縦走』 皇學館大学出版部 1980年9月
  • 東條由布子『祖父東條英機「一切語るなかれ」』増補改定版(『文春文庫』)、2000年3月 ISBN 4-16-736902-8
  • 東條由布子編『大東亜戦争の真実』、ワック、2005年8月、 ISBN 4898310834 (1948年発行「東條英機宣誓供述書」を改題、ワック版ではGHQ発禁第一号と宣伝されているが完全な誤りである。GHQの検閲は1945年の占領直後から始まっているため、花田紀凱が宣伝用に話を作ったものと思われる。)
  • 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special』、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
  • 伊藤俊一郎 『至誠・鉄の人 東条英機伝』(天佑書房、1942年)
  • 山中峯太郎編 『一億の陣頭に立ちて 東条首相声明録』(誠文堂新光社、1942年)
  • 『大東亜戦争に直面して 東条英機首相演説集』(改造社、1942年)
  • 『必勝の大道 東条総理大臣議会演説答弁集』(同盟通信社、1943年)
  • 牛村圭『「戦争責任」論の真実』PHP研究所 2006年
  • 深田祐介『黎明の世紀-大東亜会議とその主役たち』文藝春秋 1991年
  • 森下智『近衛師団参謀終戦秘史』 私家版 2006年
  • 森下智『水戸教導航空通信師団事件秘史 昭和の彰義隊の悲劇』 私家版 2009年

[編集] 脚注

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  1. ^ 戸籍上は12月30日
  2. ^ 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書における歴史人物名としての表記は「東条英機」、存命中の『職員録』など印刷物における表記は「東條英機」、御署名原本における大臣副書は「東條英機」である。
  3. ^ 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている
  4. ^ 当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別をうけたと言われることがある。もっとも八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗という明確な理由があるという。また、陸軍大将を複数輩出した陸大31期までの首席31名のうち、大将にまで昇進した者は15名に過ぎないことから、首席が大将になれないことは珍しいことではない。ほぼ同世代の一戸兵衛弘前藩)、松川敏胤仙台藩)、柴五郎会津藩)は大将となっており、この世代(1855-60年生まれ)の大将計12名のうち、東北地方出身者3名を除くと、皇族、長野県、静岡県、福井県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、宮崎県それぞれの出身者が1名ずつであり、出身地によって大将への昇進に差別があった事実は認められない。
  5. ^ 須山幸雄『小畑敏四郎』芙蓉書房
  6. ^ 中西輝政2011「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」『歴史街道』277」
  7. ^ 秦郁彦『現代史の争点』文春文庫254~255頁
  8. ^ 額田坦回想録23頁
  9. ^ 額田坦回想録79頁
  10. ^ 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『木戸幸一日記』、『細川日記』など。
  11. ^ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。海軍大臣嶋田繁太郎海軍大将であったため「首相の自分が中将では…」とそれを気にしたともいわれる。
  12. ^ 近衛文麿自身は後日近衛上奏文において操られて満州事変から戦争拡大の道を進んだという見方を持ったことを書き残している。
  13. ^ ただし、司馬遼太郎の『歴史と視点』では、この時点では明文化されたものではなく、1944年ごろになって配布されたものとされている。
  14. ^ 広橋眞光・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』480-481頁
  15. ^ 小室直樹『硫黄島栗林忠道大将の教訓』
  16. ^ 『海軍大学教育』「第三章 真珠湾作戦と海大」実松譲 光人社
  17. ^ 『明治百年史叢書 杉山メモ -大本営・政府連絡会議等筆記- 上下巻』参謀本部編 原書房
  18. ^ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』昭和天皇発言記録集成 下巻(芙蓉書房出版)p.96
  19. ^ 『東京裁判尋問調書』日本図書センター
  20. ^ 『小説太平洋戦争』
  21. ^ 児島襄『太平洋戦争 上』中公新書 (84) 312頁 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ79頁
  22. ^ 広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』27頁
  23. ^ 『東條秘書官機密日誌』128-133頁
  24. ^ 歴代陸軍大将全覧 昭和編 太平洋戦争期』83頁 中央新書クラレ
  25. ^ 額田坦回想録148頁
  26. ^ 『杉山メモ(下)』資料解説27頁
  27. ^ 『杉山メモ(下)』資料解説32頁
  28. ^ 額田坦回想録149頁
  29. ^佐藤賢了回想録』
  30. ^ 細川日記180頁
  31. ^ 吉田裕『昭和天皇の終戦史』34頁
  32. ^ 赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』p.160
  33. ^ a b c d 『額田坦回想録』
  34. ^ a b巣鴨日記
  35. ^ 『東條秘書官機密日誌』160-161頁
  36. ^ 広橋・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』556-557頁
  37. ^ 津野田忠重『秘録東条英機暗殺計画』
  38. ^ 『東条英機暗殺計画と終戦工作』(別冊歴史読本 17)新人物往来社
  39. ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫550頁
  40. ^ 『加瀬俊一回想録』
  41. ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫562~569頁
  42. ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P168
  43. ^ 広橋・伊藤・片島『東条内閣総理大臣機密記録』559頁
  44. ^ 1946年9月16日朝日新聞
  45. ^ 『日本の100人 東条英機』
  46. ^ a b ロバート・J・ビュートー『東條英機(下)』第14章 名誉の失われし時(215-245頁)時事通信社 1961年
  47. ^ 『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫版590頁
  48. ^ 牛村圭『「戦争責任」論の真実』66頁
  49. ^ 『「戦争責任」論の真実』50頁
  50. ^ 『敗戦直後の政治と社会 第1巻』 粟屋憲太郎編集・解説、大月書店〈資料日本現代史 第2巻〉、1980年10月。ISBN 978-4-272-50093-2
  51. ^ 伊勢雅臣 (2005年4月3日). “人物探訪:昭和天皇を護った二人のキリスト者(下)”. 国際派日本人養成講座. 2011年6月2日閲覧。
  52. ^ 『「戦争責任」論の真実』52頁、74-75頁
  53. ^ 『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫 614ページ)
  54. ^ 秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』『昭和史の謎を追う・下』
  55. ^ 「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三○○四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付 いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの
  56. ^ 『野砲四連隊史』
  57. ^ 『現代史の争点』229頁 秦郁彦 文春文庫
  58. ^ 毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい海軍側の証言『証言 私の昭和史』学芸書林、陸軍側の証言『現代史の争点』文藝春秋
  59. ^ 『高松宮日記 第7巻』522頁 1944年(昭和19年)7月補記欄 中央公論社
  60. ^ 秦郁彦『現代史の争点』文春文庫243頁
  61. ^ 『二等兵記』東海大学出版
  62. ^ 『ある華族の昭和史』146頁
  63. ^ 『陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』中公新書クラレ 249-252頁
  64. ^ 纐纈厚『憲兵政治』p.97, 新日本出版社、2008年、ISBN 9784406051170
  65. ^ 吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』
  66. ^ 歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ85頁
  67. ^ 中日新聞2009年12月7日 朝刊「陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説」
  68. ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79頁
  69. ^ この検挙の理由をめぐっては、中野が昭和18年元旦の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある
  70. ^ 但しこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎
  71. ^ 『日本憲兵正史』p.716下
  72. ^ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである。保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79-80頁
  73. ^ 秦郁彦『現代史の争点』210頁文藝春秋
  74. ^ 井上寿一『日中戦争化の日本』 P171-172
  75. ^ 『東條秘書官機密日誌』34-35ページ
  76. ^ 『黎明の世紀』28頁
  77. ^ 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 満州事件・支那事変期』312-313頁中央新書ラクレ
  78. ^ 『私の履歴書 反骨の言論人』2007年10月1日 P277
  79. ^ a b 『秘録・石原莞爾』
  80. ^ 阿川弘之『軍艦長門の生涯』
  81. ^ 『昭和天皇独白録』 文藝春秋社 --参考文献
  82. ^ 前出『昭和天皇独白録』P103-104
  83. ^ 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』P192、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
  84. ^ 徳富蘇峰『終戦後日記IV』25-27頁
  85. ^ 井上寿一『日中戦争化の日本』 P172 ,P186
  86. ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P174
  87. ^ 『戦中派不戦日記』9月17日
  88. ^ なお、帝国陸軍内においてドイツとイタリアとの三国同盟締結を推進したのは当時陸軍次官の東條であった。
  89. ^ 『現代史の争点』
  90. ^ 昭和天皇独白録103頁
  91. ^ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている。田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」(40.8)『「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻』文藝春秋 1988年
  92. ^ 『昭和陸軍の研究 下』438 - 439頁 保阪正康 朝日文庫
  93. ^ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫62 - 63頁
  94. ^ 児島襄「素顔のリーダー」保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫499頁
  95. ^ 平岩米吉『猫の歴史と奇話』
  96. ^ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。
  97. ^ 秘書官赤松貞雄の回想『東條秘書官機密日誌』39頁
  98. ^ 広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』492頁
  99. ^ 『世紀の遺書』巣鴨の章
  100. ^ 『昭和良識派の研究』保阪正康 光人社FN文庫 56頁
  101. ^ 処刑された戦犯者遺族の会。
  102. ^ 週刊朝日2005年7月20「東條英機(次男)輝雄氏が語る靖国」

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

官職
先代:
近衛文麿
日本の旗 内閣総理大臣
第40代:1941年 - 1944年
次代:
小磯國昭
先代:
創設
日本の旗 軍需大臣
初代:1943年 - 1944年
次代:
藤原銀次郎
先代:
畑俊六
日本の旗 陸軍大臣
第31代:1940年 - 1944年
次代:
杉山元
先代:
田辺治通
日本の旗 内務大臣
第64代:1941年 - 1942年
次代:
湯沢三千男
先代:
東郷茂徳
日本の旗 外務大臣
第66代:1942年(兼任)
次代:
谷正之
先代:
橋田邦彦
日本の旗 文部大臣
第57代:1943年(兼任)
次代:
岡部長景
先代:
岸信介
日本の旗 商工大臣
第25代:1943年(兼任)
次代:
廃止
軍職
先代:
梅津美治郎
日本の旗 陸軍次官
1938年
次代:
山脇正隆
先代:
板垣征四郎
日本の旗 関東軍参謀長
1937年 - 1938年
次代:
磯谷廉介
先代:
岩佐禄郎
日本の旗 関東憲兵隊司令官
1935年 - 1937年
次代:
藤江恵輔
歴代内閣総理大臣
第38・39代
近衛文麿
40
1941年 - 1944年
第41代
小磯國昭

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
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