ノート:戦陣訓

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日本軍人が捕虜投稿しなかった理由に、当時アメリカは日本人を猿と人との中間の生き物として取り扱ったことや、それを裏付ける大手メディアによる大量の宣伝があったそうですね。米軍がその意識で日本人を取り扱ったために捕虜投降がしにくかったのではという説もあるそうです。また米軍はドイツ人が投降してきたら同じ人間として取り扱ったが太平洋戦争においてはそのような意識が薄く捕虜をとるめんどくささを考えて射殺した部隊もあったという米軍の研究報告もあるそうです。 まあ戦中はナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺、その正確な規模が知られてなかったという面もあったようですが。実際民間人を含めたキルレア数が白人相手とそれ以外だと桁違いに違っていたと主張する人も居るようですね。ちなみに今回の話の出展はNHKアーカイブスやヒストリーチャンネルです。まあ元仕官候補の爺さんの話とか聞いてると中国との長い戦争の後の、おまけ的な太平洋戦争の頃になると狂信的なまでの戦意が日本を覆ったなんて面も確かにあったようですけど。結局第2次大戦中はどの国も相当頭がおかしかったということでしょう。アメリカによる東京大空襲と主要都市への無差別爆撃、原爆投下はユダヤ人大量虐殺と同列の行為だし。ヨーロッパ各国は東南アジアへの植民地主義を戦後に復活させようとしたら抵抗運動に合いましたし。なにより第2次大戦はナポレオンが発明した国家総動員に大量の生産力と物資輸送能力があいまって際限なく悲惨な戦争を長引かせましたしね。日本軍による狂信的なまでの軍隊至上主義もどうしようもなかったし。 --以上の署名のないコメントは、60.236.197.249会話/Whois)さんが 2006年8月3日 (木) 23:11 (UTC) に投稿したものです。[返信]

  • あの、スイマセンがつかぬ事を聞きます。

以前来た時、決戦訓のページがあったと思ったんですが。 --124.25.222.193 2006年10月11日 (水) 07:01 (UTC)[返信]

なお、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」のみが戦後流布しているが、その影響力については疑問も呈されている(詳しくは戦陣訓参照)。改変なさるのは結構なのですがこの項に対する整合性をお願いします。 --以上の署名のないコメントは、219.53.160.72会話/Whois)さんが 2006年12月24日 (日) 14:42 (UTC) に投稿したものです。[返信]

「...事実は見られない」にまで要出典タグが貼ってありますが、「ない」ものに出典が有るわけないのだから剥がします。事実が見られるなら、その出典を示すのが先では?   Kome 2007年2月7日 (水) 15:16 (UTC)[返信]

>研究者が強制して無いと言っている文章を提示すればよいのです。実物があるかないかではありません。
実物があるかないかについて書いてあるところにタグが貼ってあるのだから研究者は無関係。話をすりかえないで下さい。   Kome 2007年2月8日 (木) 14:42 (UTC)[返信]


「戦陣訓」の解釈の個所に「要出典」のタグを付けました。「戦陣訓」の「第八 名を惜しむ」を普通に読むと「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」の意に読めます。それを「軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになったり、同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事になるのであるから、そういった軍人として恥ずべき行いはやってはいけない。」という意味に解釈するには根拠が必要と思い、「要出典」のタグを付けました。「第六 責任」「第七 生死観」からのつながりからみてもあとからこじつけたような解釈に見えます。「本訓 其の三」の「第二 戦陣の嗜」には「後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。 屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。」、「万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。 」ともあります。もう一度、全文を読まれてはいかがでしょうか。戦陣訓全文もし、上記の意味で書こうとしいたのなら、かなり表現力が無いと言えましょう。上記の意味に解釈している研究者がいるのなら、その根拠を知りたいので、是非とも出典を示していただきたく存じます。示していただけないのであれば、削除すべきものと存じます。--AOKI.SAYAKA 2007年2月11日 (日) 17:55 (UTC)[返信]

ちょっと教えていただきたいのですが、虜囚=捕虜でよろしいのでしょうか? 何冊か辞書を調べてみたのですが、とらわれの人、とりこという意味で間違いないと思うのですが、捕虜としてあるものもあれば必ずしもそう載ってるものでばかりではない様に思います。ハーグ陸戦条約での俘虜という言葉でも、捕虜という言葉でもなく、あえて虜囚としてあるのは、もっと広義な意味合いがあるようにも取れます。 個人的には捕虜という意味合いがあると解釈していますが、こういう場合は解釈論になるので、一概にこうと決めるのはどうかとも思います。どなたかこのあたり詳しいお方はいらっしゃいませんでしょうか?

"現在では東条英機の信奉者たちが『戦陣訓』の歴史的意味をなるべく小さくし、海軍や一般国民には全く流布していなかったかのように見せかけるように努力している。" は基本方針に出ている「偏見を避ける 中立的な観点に基づいて記述されなければなりません。すなわち、異なった観点について公平に好意的に表現しなければなりません。 他の参加者に敬意を払う ウィキペディアの参加者は、異なる国籍・文化を持ち、大きく異なった観点を持っています。百科事典作りを成功させていくためには、他の人との協力関係が必要です。協力関係を築くためには、他の人に対して敬意をもって礼儀正しく接することが重要になります。」 にどう見ても合致しないと思いますので、削除いたしました。--218.139.18.25 2007年2月14日 (水) 14:09 (UTC)[返信]

上記、了解いたしました。しかし、「削除」のような大きなことは次回からIDを申請し、ログインしてから行って下さい。『ウィキペディア(Wikipedia)』について熟知なさっているようですからIDもお持ちではないかとも思います。それから相談ですが、「中立的な観点」から言えば、「『軍人勅諭』は」から始まる段落のうち、根拠(出典)が示されない記述については「偏見を避ける」ために削除の必要があるかと思います。ご意見がもしあればお聞かせ下さい。--Kafuka1964 2007年2月14日 (水) 14:36 (UTC)[返信]

了承いたしました。大変失礼いたしました。 「『軍人勅諭』はから始まるところも、この文章を書いた執筆者が出典長期にわたり出せないときは同感です。(ひとつは聞いたことがあるので加えてあげましたが、ほかは聞いたことないので、執筆者が載せるの待ってます) それと提案なのですが、ここは戦陣訓の項目なので、軍部の捕虜の扱いに対して述べられている "太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった酒巻和男(海軍兵学校卒)は真珠湾攻撃で、小型潜水艇「特殊潜航艇」に海軍少尉として乗船した。しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられた。大本営は同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した。そして坂巻の家族は人々によって「非国民」と非難された。[8]"や東条英機に対して述べられている"東条英機は『戦陣訓』示達の同年10月18日に内閣総理大臣に就任し、1944年7月22日まで務めた。しかし敗戦後に自殺に失敗して占領軍の虜囚となり、国民の非難を(同情も)集めた。"は、別の項目(たとえば、旧軍の捕虜の扱いを新設するとか、東条英機の件は東条英機の項目にとか)に移動するほうがよいかと思いますが、いかがでしょうか?なんだか生きて虜囚の辱めを受けずの項目から、話が枝葉に分かれすぎて、戦陣訓の説明から別なものになってるように感じましたので。項目別にしてリンク張ったほうがわかりやすいとおもうのですが、いかがでしょうか。--218.139.18.25 2007年2月14日 (水) 15:11 (UTC)[返信]

戦陣訓の歴史的な意義の中心は『生きて虜囚の辱を受けず』にあります。これがどのように成立し、どのように流布し、人々にどのような影響を与えていったのかということを立体的に捉える(説明する)必要があるでしょう。問題は東条評価にまで関わっています。履歴を見ても東条との関係の記述(特に自殺未遂について)は常に暴力的な削除にあっています。
捕虜1号の話は虜囚は社会的に責められたことを示すデータです。東条の総理就任(陸軍大臣兼務)は「戦陣訓」の海軍への流布の可能性を示すデータです。
現段階では個々のデータがバラバラな感じがありますが、徐々により分かりやすいものにしていきたいと思います。現在は投稿者が個々に集められるデータを寄せ合っている段階です。別項目に分化するのは時期尚早ではないでしょうか。当座はこの項目の中での細分化が目標と思います。--Kafuka1964 2007年2月14日 (水) 15:55 (UTC)[返信]

そうですね。実は数日前に『戦陣訓』を検索エンジンで調べてここに飛んできたのですが、好意的、批判的なHPさまざまある中で、一番中立的にまとまってると思っていたWikiが一番ぐちゃぐちゃになってるようにみえたので、出すぎたまねしてしまいました。解釈まで記載すると、検索エンジンで出てくるHPのように、いかようにも解釈ができるので、100年たっても同意は難しいんじゃないかなと思い、ここは示達と流布までにとどめて、あとは全文載せて、解釈は読者に任せる。そのほかに『生きて虜囚の辱を受けず』の項目を新設して、そこでなぜ旧軍で自決が多かったのかを戦陣訓も混ぜてやったほうがいいのかなと思ったわけです。さらに戦陣訓以前のノモンハン戦などでも『生きて虜囚の辱を受けず』的なものがあるように思いますので、無理にここにおいておくよりも別項目にしたほうがまとまりいいかと思った次第です。ただ、Kafuka1964さんの時期尚早というのもそうなので、細分化は将来的な課題として当座はこのままでもいいかもしれませんね。---218.139.18.25 2007年2月15日 (木) 10:47 (UTC)[返信]

参考文献についてなのですが、 石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」は「蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。『派遣軍将兵に告ぐ』『戦陣訓』の重大意義もここにありと信ずる。」と述べている。(1941年2月12日、京都義方会に於ける講演速記。同年9月に東亜聯盟協会関西事務所編『世界最終戦論』として刊行。) とあるのですが、その文章がこの本のどこに書いてあるのかわかりません。 私の持ってる「最終戦争論・戦争史大観」(中央公論社1993年7月10日初版、1997年5月20日6版)には、最終戦争論が昭和15年5月29日京都義方会に於ける講演速記で同年8月若干追補した。戦争史大観は昭和4年7月長春に於ける公演要領、昭和13年5月新京に於て訂正、昭和15年1月京都に於て修正としかなく、戦陣訓の発布された昭和16年以降の修正・加筆歴が見られません。戦陣訓の発布前の文章に戦陣訓の文句が載るとも思えないのですが、ただ、出版元や版の違う物には昭和16年以降に加筆・修正されたものがあるのかもしれないので、もしこの部分を書いた方がいらっしゃいましたら、できれば出版元、引用ページ等の情報の記載よろしくお願いいたします。-218.139.18.34 2007年3月26日 (月) 11:22 (UTC)[返信]

次のホームページにあります。「青空文庫」です。「第二節 歴史の大勢」にあります。--Kafuka1964 2007年3月26日 (月) 12:30 (UTC)ご指摘の注の記載ミスを発見いたしました。修正いたします。--Kafuka1964 2007年3月26日 (月) 12:37 (UTC)修正いたしました。ご指摘、ありがとうございました。--Kafuka1964 2007年3月26日 (月) 12:52 (UTC)[返信]
第二編の戦争史大観の序説の部分からは16年に修正受けていたんですね。私の持っているのも、戦争史大観のとこにはなかったのですが、第二編の冒頭に注釈がありました。大変勉強になりありがとうございます。-218.139.18.34 2007年3月27日 (火) 14:24 (UTC)[返信]

(1)「『金科玉条』の訓令であったとする事実は見られない」と(2)「『金科玉条』の訓令であったとする事実は見られないとして、戦陣訓の絶対性を否定する研究者もいる。」 は別の意味。(1)の意味なら、見られない事を証明できないのだから、出典を求めることがそもそも間違ってる。(2)の意味なら出典が出てくる可能性はある。以上より要出典の位置を変更します。

以下本題。「戦陣訓が金科玉条の訓令であったか?」という事と「戦陣訓は投降を拒否する考えであったか?」という事は違う意味なので、解釈の2番目で、”『軍人勅諭』は新兵に対し(中略)否定する研究者もいる。”の部分は解釈と対応していない。

「戦陣訓の浸透」の節を作って、”戦陣訓はそれ以前から軍部内で教育されていた内容をまとめなおした物であり、かつ陸軍大臣名で示達されており、軍人勅諭と比較すると重要視はされていない。軍人勅諭は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかった事例が見られる。ただし、内容を軽んじていたわけではなく、内容については理解しているもしくは理解するという意味であって、時間を経て戦陣訓が「死を賛美し、投降を否定する哲学」の代名詞として扱われるようになった。一般国民に対しては、様々な手段で存在と内容が宣伝され、投降否定哲学の代名詞として浸透していった。”としたい。

それから出典について:「……金科玉条の訓令であったとする事実は見られない」と言っている人物なら、山本七平、安岡章太郎、大岡昇平等複数の従軍経験者。ただし、存在を知っていたことは否定してないし、大岡によると、教えられるまでも無く戦陣訓イコール投降否定哲学だった。「戦陣訓が投降を否定する哲学でない」と言っている研究者なら、大原康男があげられる。『帝国陸海軍の光と影』・日本教文社。 ただ、222.7.175.57さんが示した例で、自分では内容を確認してないので、時間が取れたときに確認したい。  Kome 2007年3月30日 (金) 13:57 (UTC)[返信]

「「戦陣訓の浸透」の節を作って……」というのは既存の項目に追加するということでしょうか、それとも差し替えるということでしょうか。追加ですと他項で述べられていることとかなり重複します。また、「新たに強調した徳目」という指摘が薄められます。また、「時間を経て」というのは、時間が曖昧です。議論になっているのは、発表当初から自決を強いる思想であったのか、それともそれは戦後に作られた幻想であったのかという点でしょう。両方に解釈できる曖昧な表現よりも、両論並記か、論拠の示されていない方の削除が望ましいと思います。解釈の2つ目は最初の「要出典」のタグの個所が明らかにされなければほぼ無意味な解説でしょう。「丸暗記を強制」したもので無いにしても、注7に示されるように「奉読」が行われていました。石原莞爾は同年に退役させられており、また注5にあるように「戦陣訓」を肯定しています。「『金科玉条』の訓令」でないにしても、これによって自決を強いられた例は「降伏・投降の否定の思想」の項に示されています。「要出典」のタグがついてもうだいぶ時間も経っていますので、やはり解釈の2つ目は全削除して良いと思います。記述を残すのであれば、解釈の1つ目の方に注を付けるなどして記述を移動するのがいいと思います。--Kafuka1964 2007年3月31日 (土) 00:29 (UTC)[返信]
「若し我が軍が少なくとも北清事変当時だけの道義を守っていたならば、今日既に蒋介石は我が戦力に屈伏していたではないだろうか。蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。「派遣軍将兵に告ぐ」「戦陣訓」の重大意義もここにありと信ずる。」これは一部の日本人の不法行為で中国人の敵愾心をあおって戦線が膠着した。戦陣訓はこういう不法行為をやめさせるために出されたという意義だと信じている、と書いてあるものと私は解釈しました。ここには、だから戦陣訓を普及させようということまでは書いてないことと、戦陣訓は軍人勅諭の施行細則的ニュアンスを持つものと解釈すると、軍人勅諭を読むだけで十分という言葉も特に矛盾するものではないように思えますが、いかがでしょうか?つまり、軍人勅諭を暗記して実践していれば、戦陣訓など当たり前にできているはず、いまさら覚える必要ない、という意味です。ただし、解釈2の「軍人勅諭を読むだけで十分」はわかるのですが、だからといって否定してるわけではないので、この部分全体の内容が少しいびつな形になってると思います。戦陣訓を①軍人勅諭の単なる施行細則ととるか、②戦陣訓を軍人勅諭とは別の新たな訓令、との解釈で理解するかよってその後の議論が変わってくると思います。当時の人が①と解釈した人もいれば、②と解釈した人もいるとなると、降伏・投降の否定の思想にも戦陣訓を基にしてる人もいれば、そうでない人もいてもおかしくはありません。「戦陣訓の浸透」の節を作って、生きて虜囚の辱めを受けずの項目は縮小して、少し各項目をまとめなおすというのはどうでしょうか?いずれ出典が出てこなければ、それから解釈2を削除でも。出典明記はられてからまだ数ヶ月ぐらいでしたら、もう少し待ってみましょう。-218.139.18.40 2007年4月1日 (日) 18:29 (UTC)(上記の218.139.18.34です。動的IPですので)[返信]
すでに「示達と流布」という項目がありますので、「戦陣訓の浸透」はそこに書き足すのが良いと思います。「生きて虜囚の辱めを受けず」の項目はその書き足しに伴った分を縮小するのなら異論はありません。石原莞爾の注は元の論調が石原は戦陣訓を徹底的に否定していたというものであったために付けたものです。これは右翼などののブログの、戦陣訓は国民と海軍は全く知らず、陸軍でも一部の者しか知らなかったから、「戦陣訓」で自殺した者は皆無であり、東条英機にはまったく罪がない、という主張を補完する論調でした。例1例2例3 。世間にこのような歪曲された情報が流れている以上、きちんと研究の成果によって明確になっている情報を提供するべきだと思います。ですから、「生きて虜囚の辱めを受けず」の項目は縮小よりも、詳説が望ましいと思います。それから、「出典」が出てくるまで待つことには異論はありません。--Kafuka1964 2007年4月2日 (月) 01:17 (UTC)修正--Kafuka1964 2007年4月2日 (月) 01:20 (UTC)修正。「知らなかったら」→「知らなかったから」--Kafuka1964 2007年4月3日 (火) 01:30 (UTC)[返信]
「示達と流布」のの下に「戦陣訓の浸透」のを作る、としましょうか。戦陣訓の浸透の程度が、軍部と民間では違っていた。つまり、自決を強いる思想は、軍人にとっては戦陣訓の示達前から常識であったとしても、民間人にとっては戦陣訓の示達で形成された、の意味を出したい。とにかく、現状では「戦陣訓は必ずしも重要視されていなかった」証拠を示せば、「戦陣訓が自決を強いる思想では無かった」ことが正しい、と誤解しかねない表現になっているので、修正したい。(上記の歪曲された情報がこの論理を展開しているので、間違っていることをはっきりさせたい)  Kome 2007年4月2日 (月) 15:20 (UTC)[返信]
それが一番きれいなまとめ方に見えそうですね。賛成です。それと、個人的には出典でてこなければ解釈2は削除するのが正しいあり方だと思うのですが、変な話、ぶっちゃけこのままおいといてもいいのかなとも思ってます。というのも、解釈2を消して解釈1のみにすると、上記の右翼ブログを見た人、または関係者が、Wikiの解釈は間違っている、として改変してぐちゃぐちゃになるような気がしまして。いまのように併記でのせておけば、普通の人は解釈1と2でどっちをとるかといえば、1をとる(理論的に自然なほうをとるので)と思いますので、それほど2を載せても心配することはないように思いますが、どうでしょうか。(もちろん、タブをはったままは問題あると思うので、出典がわからない、または一部の人の解釈である旨を文章で補足するような形に直して)まあ、まだ書いた人が出典出してくるのを待つのが先の話ですが。-218.139.18.40 2007年4月2日 (月) 16:28 (UTC)[返信]
項を作って直してみました。大幅な修正になったので、2段階編集。後、今は出先で自宅のPCが不調なので、しばらく来れないです  Kome 2007年4月5日 (木) 12:12 (UTC)[返信]

>通常は陸軍大臣が発表したものは海軍には適用されないものですが、海軍にも適用されるとした論文タイトル、発表媒体、発表年等お願いします。
回答→適用されないわけでなく、軍人勅諭というベースがあるのだから、特別に陸海軍の区別をしなければ、軍人勅諭を実践すべき陸海軍の軍人は戦陣訓も実践すべきです。  Kome 2007年5月26日 (土) 14:41 (UTC)[返信]

それはどうでしょうか?そういう理屈が通用するなら、湾岸戦争は国連安保理決議で国連から認められた戦争である。イラク戦争は湾岸戦争の休戦協定違反(大量破壊兵器の保持以外の項目も含め)によるものだから、湾岸戦争の国連安保理決議というベースがある以上、イラク戦争も国連から認められた戦争である。という理屈も通ります。まあそういっている国はありますが、一般的ではない理屈ですよね。そういうことも含め、Wikiでは独自研究は避けるという基本方針があるのだと思います。海軍にも適用されるという具体的な論文を資料としてあげて、その資料を誰もが検索できる状態にすることによって内容の正誤は読者がそれぞれ考えられるようにするというのがWikiの基本方針に書いてある内容だと僕は理解してますが、どうでしょうか?--146.82.188.50 2007年6月3日 (日) 14:12 (UTC)[返信]
過去の版で「陸軍大臣名で陸軍内に示達されたもので、海軍も含めた全軍に対してなされたものではなかった」と陸軍限定とする記述があったので修正したんですけどね。実際には戦陣訓がどのように示達されたかというと、「皇軍将兵が座右において実践すべき「戦陣訓」を陸軍省で制定、一月八日全軍に示達した」なんですよね。
記述を戻して「1941年(昭和16年)1月8日、東條陸相名で全軍に示達され、同日に新聞等のメディアはこれを大きく報じた。また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。」で終わっておいて、「全軍」とは「陸軍限定」だとする資料があったら、その資料を追記する形にすればWikiの基本方針にあうんでしょうね。
それから、安保理決議と軍人勅諭はどういう共通点があるんですか。   Kome 2007年6月5日 (火) 14:28 (UTC)[返信]
横から口出して申し訳ないのですが、それでしたらkomeさん、「皇軍将兵が座右において実践すべき「戦陣訓」を陸軍省で制定、一月八日全軍に示達した」と書いてある資料を出典にすればよろしいのですよ。このノートの上のほうで、他の方々がリンクしてる戦陣訓の項目や全文では、陸軍省としか出てませんし、私の手元にある戦陣訓も「陸訓第一号 本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ 昭和十六年一月八日 陸軍大臣 東条英機」とあるので、そのまま読んでしまえば陸軍だけと普通に感じてしまいます。ぜひその資料を書いてください。---207.158.20.118 2007年6月8日 (金) 16:51 (UTC)[返信]
>「皇軍将兵が座右において実践すべき「戦陣訓」を陸軍省で制定、一月八日全軍に示達した」と書いてある資料:への回答 たとえば、本文の注釈にある読売新聞がそれなんですけどね。美辞麗句の類を除いたら、違っているのは皇軍将兵と皇軍兵士ぐらいしかありません。
>このノートの上のほうで、他の方々がリンクしてる戦陣訓の項目や全文では、陸軍省としか出てませんし:への疑問 戦陣訓の全文には、陸軍省も陸軍も出てきませんけど、どこに書いてあります?   Kome 2007年6月13日 (水) 13:38 (UTC)[返信]
>上のAOKI.SAYAKAさんの文章の戦陣訓全文のリンクをクリックしてみてください。開けてすぐ右上に陸軍省と書いてありますよ。スクロールして最後にも(陸軍省、昭和16年1月) とありますけど。それにそれこそ本文の注釈にある読売新聞は「最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では」が主語で、どう見ても陸軍全軍に示達したという意味にしか読めないのですが、もしかしてここに出てこない省略されたとこには何か別なこと書いてあるのでしょうか?途中の修飾部分も「陸軍始観兵式の佳日を下し」等、全軍=陸軍全軍以外の解釈ができないように思うのですが・・・。でも、全文調べもせず言うのもなんなので、ちょっと図書館行って全文調べてみます。 207.158.20.118 2007年6月13日 (水) 17:12 (UTC) 2007年6月13日 (水) 17:12 (UTC)[返信]
「陸軍省が皇軍将兵が実践すべき訓として制定し、1941年(昭和16年)1月8日に東條陸相名で全軍に示達」とあるから、全軍=陸軍と解釈するのが常識だと仰っているように思えるのですが、もしそうなら、このまま書いて解釈は読者に任せましょうか。わざわざ書き直す必要はないでしょう。それとも、5W1Hに絞って、「陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月8日に示達」にしたほうがいいですか?  Kome 2007年6月15日 (金) 14:08 (UTC)[返信]

戦陣訓の全文についての議論を分割します。15日付けの「週報」に全文が掲載されていて、アジア歴史資料センター [1]で読むことができます(レファレンスコード A06031038500)。「全文を掲げる。」に続いて戦陣訓の全文が掲げてありますが、陸軍の文字は出てきません。序から結の「奉るべし。」まで陸軍の文字が無いことには同意できますか。AOKI.SAYAKAさんの紹介されたリンク(自由文庫)にある陸軍省の文字は、「陸軍省が制定した」「陸軍省が昭和16年1月に公開した」という補足情報であって、本文ではないと思いますけど、このへんは、全文の定義の違いですね。なお、「週報」での戦陣訓示達を伝える文は、読売新聞から美辞麗句を省いた文で内容は同じですが、皇軍将兵と皇軍兵士の部分が少し異なってます。  Kome 2007年6月15日 (金) 14:08 (UTC)[返信]

まだ図書館に行ってないのですが、お返事が来てたので。おっしゃるとおりの意味で最初に書いたつもりです。全文というのは、AOKI.SAYAKAさんの戦陣訓全文と書いてあるリンク、というつもりで書きました。本文という意味ではないです。紛らわしい表現で勘違いさせてしまったようですね。すみません。で、僕が注目しているのは、「陸軍省が制定した」「陸軍省が昭和16年1月に公開した」という補足情報です。私の手元にあるものも前述のとおり陸訓第一号とあり、陸軍のものです。ご存知のとおり、陸軍と海軍は省の異なる別組織です。予算も兵員の教育システムもまったく異なり、お互い対立していた組織であることはKomeさんも聞いたことがあることと存じます。さらにその上位組織で、両軍を統率するはずの大本営まで陸軍部と海軍部に分かれ、お互いの情報や作戦予定を連絡することが少なく、場合によってはお互い隠しあったことが戦争の敗因の一つであるということもKomeさんも聞かれたことがあると思います。そのような組織同士でしたら、陸海軍全軍に示達するものは、通常陸軍省・海軍省発表と連名にするか、その上部組織である大本営陸海軍部発表、または内閣名という形で発表されるのが一般的な政府組織・官僚機構だと思います。さらに16年1月の時点では東條英機は単なる陸相、つまり陸軍三長官のひとりに過ぎず、海軍に影響を及ぼせるほどの地位にいません。海軍にも16年1月の時点で示達されていたのであれば、海軍省名の戦陣訓があるはずではないかというのが僕の疑問です。146.82.188.50さんの質問もいろいろ書いてわかりづらいですが、そういう意味のことではないでしょうか。そこで、前述のノートを書いたわけです。残念ながら私は陸軍名、それも陸相東條英機とあるものしか見たことありません。(ここから先は僕の推測なので、適当に聞き流していただいていい部分ですが、)個人的には16年1月の時点では陸軍内に陸相名示達されたものにすぎない(ただし、自発的か強制かは別として、当時のマスコミは戦争報道を肯定的に流していたので、陸軍に流された戦陣訓を広く広めようと報道したことはあるとおもいます。)が、その後16年10月に東條英機は内閣総理大臣となり、海軍も含めてその上位組織になってから話が変わったもの(右派の方からは、軍部大臣現役武官制だから内閣総理大臣でも海軍は統率できないなんて反論されそうですが、そんとこまでいえば何も話が進まないので無視します)と推測してます。ただ、これは状況証拠からの私の推測なので、本文にはできない内容、まさに独自研究ですが。 ところで、話を変えます。正直なところ、本文の内容はWikiで取り扱える範囲内を超えていると思います。私の専攻は近代史ではないのでなんともいえませんが、戦陣訓の示達と流布などといえば、それだけで一つの研究テーマになる範囲。学術論文も異なる内容のものがいくつも出てきて、専門家でも統一見解というのは少なくとも現時点では出せるものではないように思えます。降伏・投降の否定の思想にいたってはそれの比ではないですよね。今回仮にこのノートに書いてある論争点が一時的に解決したところで、半年・一年後にはまた別の執筆者から同じような疑問点が出ると思います。内容的に思想・信条にかかわることだけになおさらです。専門家でもまとまってないことをオープンなこの場所でまとめようとすることは不可能でしょう。 そこで提案ですが、本文は最低限の戦陣訓示達のいきさつ(畑俊六が発案し、教育総監部が作成を推進した云々という感じのやつ)と本文(戦陣訓の本文そのもの。解説入れると執筆者によって解釈違うからぐちゃぐちゃになる)だけにして、それ以外の内容は極力削除する。どうしても記載したいときには、何々という本(論文)ではこういってる、何々ではこういってるという形に簡略化したほうがまとまりいいと思います。 で、話を元に戻します。件のところをもし使うのであれば、個人的には「陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月8日に示達」と簡潔に書いて、例の読売新聞を参考文献につける形でもいいでしょうし、「海軍も含めた全軍に対してなされたものではなかったという意見もあるが、実践を求める対象には陸軍と海軍の区別はないという意見もある。」で要出典タグを消す形でもいいでしょうし、このまま文章変えずにタグもつけたままの形でもいいと個人的には思います。要は「陸軍と海軍の区別はない」と断言してる口調なのに、それを示唆する決定的な証拠がない(読み方によってどちらとも取れる証拠しかない)のが論争の種になっていることだと思うからです。--207.158.20.118 2007年6月18日 (月) 13:29 (UTC)[返信]

シンプルにして、「陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月8日に示達した。同日に新聞等のメディアはこれを大きく報じた。また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。」と書きましょうか。タグを貼り付けた人の意見も聞きたいし、「陸軍に示達した」資料が出てくるかも知れないので、少し待ちます。それから、戦陣訓が流された先ですが、国民に周知されるように政府が週報で流してます。ですから、「広く広めようと報道した」という訳では無いです。あと、主張を受け止め損なっているかもしれませんが、陸軍省が戦陣訓を制定したのは事実ですから、「海軍省が戦陣訓を制定した」とするような資料が存在しないのは当然の事と思いますよ。  Kome 2007年6月22日 (金) 13:41 (UTC)[返信]

「サイパン島守備兵に与える訓示」に関して[編集]

1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一中将、斉藤義次中将連名「サイパン島守備兵に与える訓示」に関して。 戦記等を見ていただければわかると思いますが、この訓示がでたサイパン戦末期は、実質的な戦力は陸軍が主体になっています。また戦術的な理由から陸軍は斉藤義次中将が直接指揮して南雲中将は直接指揮してないものの、形式的な総指揮官はあくまで南雲忠一中将という複雑な状態です。この訓令自体は陸海軍連名でなく、南雲忠一中将名で発布されていますが、指揮の主体が斉藤義次中将である以上、斉藤中将が最終攻撃を計画してその最終攻撃命令ともいえるこの訓示を作成したが、形式上のトップは南雲中将なので、最後に話を通しにいって、最高指揮官名で発表したというほうが自然だと思います。しかし、あくまで最高指揮官は南雲中将なので、南雲中将が考えたとの解釈も否定できません。つまり、このあたりは誰も生き残ってないので、状況証拠しかなくどれが正しいといえないよくわからない部分なのです。実質的な指揮官が作ったのか、形式上の指揮官が作ったのかどちらもわからない状態なのです。 そのため、この事実を挙げて「上記命令が海軍中将から発令されていること、新聞紙上の見出しとして使われていることから、陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたといえる。」は間違いとはいえないもののそこまでいいきっていいものとは思えない、言い過ぎの内容だと思いますが、いかがでしょうか。--210.154.212.58 2007年5月13日 (日) 13:27 (UTC)[返信]

  • 段落冒頭の「このように」は「サイパン島」のことだけを受ける指示語では無いので、「も」を入れて誤解・誤読(?)の可能性を低めました。--Kafuka1964 2007年5月13日 (日) 14:30 (UTC)[返信]
その部分はそれでいいのですが、話の肝は、サイパン島守備兵に与える訓示自体が連名といっていいのかどうかはっきりしないということなんですよ。一応表向きは最高司令官の南雲中将が発布したことになってます。そのため、今のままでは本文中の連名という表現が怪しくなります。ただ、実質的にだれがこれを作ったかというと、上記のように誰が作ったか断言できない。単独で作ったのか、何人かで作ったのかすらわからない。状況証拠で考えても上記のようにいかようにも考えられはっきりしない。ここでは、そのはっきりしないことが「戦陣訓」の存在の浸透という目的の証拠にはあげられているということなんです。確実にわかってる事実はサイパン島守備兵に与える訓示は存在し、海軍中将でサイパン島の最高司令官である南雲中将が発布したということだけで、海軍中将がいつから戦陣訓を知ったのか、どの程度知っていたのかについてはこれを元にはなんともいえないということなんです。このあたりの微妙な状態わかりますでしょうか?そのため、この内容を陸海軍の「戦陣訓」の存在の浸透という目的であげるのは不適当。関係ない内容なので削除する必要あり。ただ、もし降伏・投降の否定の思想のエピソードとして挙げているのであれば、陸海軍の戦陣訓の浸透という意味ではなく、投降しなかった例であることはっきりさせる必要あり。もし、いまのままで大きく内容変えたくないなら、この微妙な状態を明記する必要がありとのことなんです。--210.154.212.58 2007年5月13日 (日) 15:31 (UTC)[返信]
本文に「投降を拒否する考えを示すために」とあり、「投降しなかった例であること(は)はっきり」しています。そして、「また」という言葉で付け加えられて、「『戦陣訓』の存在の浸透」を再確認しているのです。「連名」についての疑義は私は納得しましたので修正しましょう。--Kafuka1964 2007年5月13日 (日) 16:22 (UTC)[返信]
「サイパン島守備兵に与える訓示」のなかの「戦陣訓に曰く」という表現にご注目下さい。これは訓示を受ける側(兵士)が「戦陣訓」をもし知らなければ無意味な表現です。これは訓示を受ける側(兵士)が「戦陣訓」を当然に知っていることを前提とした口吻です。全体の文脈をよく御熟読下さい。--Kafuka1964 2007年5月13日 (日) 16:33 (UTC)[返信]

だからそこが問題だといってるんですよ。 「Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の項目をを読んでください。 もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む、 「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。[2]「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。とあります。 あなたの論法は、A(サイパン島守備隊に与える訓示がある)でありB(その中に「戦陣訓にいわく」という文言がある)である、(これは訓示を受ける側(兵士)が「戦陣訓」をもし知らなければ無意味な表現です。)ゆえにC(陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたことが再確認できる。)である。という論証になってるんです。 あなたはそのつもりなくても、結果的にこの形になってるんです。そして僕が言ってるのは、サイパン島守備隊に与える訓示はその出された状況、背景から賛否両方のどちらの証拠のの用件も満たしてないから、余計な部分だといってるのです。わかります?--210.154.212.58 2007年5月14日 (月) 13:52 (UTC)[返信]

>(これは訓示を受ける側(兵士)が「戦陣訓」をもし知らなければ無意味な表現です。)ゆえにC(陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたことが再確認できる。)である。
というような単純な論証にはなっておりません。もう一度、全体を御熟読下さい。
「サイパン島守備隊に与える訓示はその出された状況、背景」は不明で、「わかってる事実はサイパン島守備兵に与える訓示は存在し、海軍中将でサイパン島の最高司令官である南雲中将が発布したということだけ」だそうです。
資料の内部徴証から読解し得る自明のことについて「独自研究」と言われても困るのですが、先行研究を探すのは面倒なので削っておきます。「陸海軍、民間を問わず……」については、どうしても必要ならば「要出典」のタグでも付けて下さい。そのうちにどなたかが先行研究から出典を示して下さると思われます。付け方は先に 2007年1月18日 (木) 23:55に付けられた「要出典」のタグを参考にして下さい。--Kafuka1964 2007年5月14日 (月) 16:18 (UTC)修正--Kafuka1964 2007年5月14日 (月) 16:59 (UTC)[返信]

アッツ島や真珠湾の件はいいんですよ。陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたことが再確認できる。にかかっていくのがはっきりしているので。だから最初から全体を問題にしてません。サイパン島の例が不適当といってるんです。戦記等を見ると、両者が協議してこれを作った(山岡荘八氏の太平洋戦争とか)とか、主体は陸軍とか、戦記によって記述の異なる事実なので、これを例に挙げるのは不適当といってるのです。本によって解釈が異なるものを海軍中将名で発布されたから、この人が作ったとするのはどうかと。(まあ、これらの戦記が一次資料かどうかなんて言い出したらきりないですけどね)サイパンの例さえ消せば、真珠湾、アッツ島の例から"陸海軍、民間を問わず「戦陣訓」の存在は広く知られていたことが再確認できる。"がわかるんですよ。全体を御熟読下さいといわれても、最初から全体を問題にしてないんですけどね。資料の内部徴証から読解し得る自明のことと思って悪意なく書かれているのはわかるのですが、もう一度「Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の項目を読んでみてください。ちなみに僕が最初から言ってるのは、この資料はこういうことを言っているから、これが正解という自分の研究内容を言っているのではなく、意見が分かれてどれが正解かわからないものだから、資料として採用するのは不適当だといっているんですよ。内容を変えるとか言ってるわけではなく、資料として適当かどうかの問題を言ってるんですよ。念のため。まあ、これ以上言っても、議論は平行線になるので、これでやめにします。タグ張るので第三者に判断してもらいましょう。--210.154.212.58 2007年5月15日 (火) 13:27 (UTC) 一部修正2007年5月15日 (火) 16:55 (UTC)[返信]


「海軍中将から発令されていること」という記述は「わかってる事実はサイパン島守備兵に与える訓示は存在し、海軍中将でサイパン島の最高司令官である南雲中将が発布したということだけ」ということとまったく矛盾が感じられません。また、発令者が誰であっても、その内容の「戦陣訓に曰く」という表現から、訓示を受ける側(兵士〈海軍兵士も含む〉)が「戦陣訓」を当然に知っていることを前提としていることは自明であるので、私には疑問は感じられません。また、「再確認できる」は前の部分の「戦陣訓の浸透」の項目内容も受けての再確認です。当該部分は当方の記述では無いので出典は知りませんが、また必要とも思いませんが、おそらくは出典のあることだろうと思いますので、すでに「要出典」のタグが貼ってある個所と同様に出典が呈示されるのを気長に待ちましょう。あるいはそもそも「出典」を要することなのかということ自体についても第三者の意見を聞きましょう。--Kafuka1964 2007年5月16日 (水) 00:20 (UTC)[返信]

訓示の対象は、「在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属」となってますよね。その上で、この訓示が、1)陸軍の指揮官によって作成されたのか、2)陸海軍の指揮官の両者が協議して作成されたのか、は問題でなく「最高司令官の海軍中将が、陸海軍の将兵及び軍属を対象に発布した」が重要でしょう。アッツ島や真珠湾と同じでしょ。  Kome 2007年5月26日 (土) 14:41 (UTC)[返信]
ほんとに「最高司令官の海軍中将が、陸海軍の将兵及び軍属を対象に発布した」なのでしょうか?軍令部宛の最後の玉砕電報という意味合いはなかったのでしょうか?そのあたりがよくわからないので、教えてください。文面は守備兵に与える訓示ですが、私は東京の軍令部宛という目的が主と思っていたのですが、そのあたりの資料がないのでわかりません。教えて教えてで大変申し訳ないのですが、勉強のため、よろしくお願いいたします。--146.82.188.50 2007年6月3日 (日) 14:12 (UTC)[返信]
資料がでてきませんけど、要出典タグを剥がしていいですよね。訓辞が東京の軍令部宛という資料が提示されたら、再度議論すればいいことですし。    Kome 2007年6月13日 (水) 13:38 (UTC)[返信]
他の要出典タグとの整合性考えると、ここだけ大して時間たってないうちにはがすというのは問題あると思います。ノート見ても、意見の統一がはかられるという段階にはまだほど遠いですし。この段階で性急にはがしても、本文が荒れるだけでしょう。中立的な観点のテンプレートも張られてるので、もう少しまとまってからのほうがいいと思います。---83.228.68.190 2007年6月14日 (木) 13:04 (UTC)[返信]
タグが不要だという意見に対して、146.82.188.50さん達からは意味のない反論しかないという点で、ほぼ合意が取れていると思いますが、3週間では短いというならもう少し待ちましょうか。で、後どれぐらい待てばいいんでしょうね?   Kome 2007年6月15日 (金) 14:08 (UTC)[返信]
146.82.188.50さんの意見は、「サイパン島守備兵に与える訓示」が誰宛かわからないので教えてほしいということだと思います。本来なら146.82.188.50さんが調べることだと思うのですが、教えてほしいとおっしゃってるので、われわれで調べて要出典部分のの資料としてあげればすむ話なので、そうしましょうよ。「サイパン島守備兵に与える訓示」の出た経過(経過)を書いた資料があれば、その目的も、あて先もはっきりするでしょう。確かに言われてみれば、本文中のリンク先の資料ではよくわからないことですし(というか、リンク先の資料が右翼的で、これ自体リンク先としていいのかどうかと思いますけど)。ほかの方の反論もその資料さえあればはっきりして、本文のままでいいという事がわかると思いますので、一石二鳥でしょう。それと相手の意見を「意味のない反論」とするのはやめましょうよ。Komeさんはほかの方から攻撃的な表現使われ不快に思うことがあったかもしれませんが、それらの人と同じ土俵に上がるのはどうかと思います。期間に関しては難しいですね。はっきりしたガイドラインないようですが、ほかのタグも半年・一年ぐらいはおいてあるみたいなので、それぐらいは待ってもいいのではないでしょうか。---83.228.68.190 2007年6月15日 (金) 16:26 (UTC)[返信]
意味の無い発言は、よく無いですね、申し訳ありません。それから、私の発言に間違いが有りましたので、修正します。訓示の対象は、「在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属」→訓示の対象は、「サイパン全島の皇軍将兵」。申し訳ないですが、話を戻させて下さい。サイパン島の戦いの記述を削除するか?が争点で、削除と考える理由は、訓示を実質的な指揮官(陸軍中将)が作ったのか、形式上の指揮官(海軍中将)が作ったのかどちらともわからない。(訓示を受ける側(兵士)が「戦陣訓」をもし知らなければ無意味。)。議論は平行線で、削除かどうかについて第三者の意見待ちの状態に戻るのが妥当と思いますので、第三者の意見を待ちます。 Kome 2007年6月22日 (金) 13:41 (UTC)[返信]

匿名の皆さん、アメリカやブルガリアのオープンプロキシで書き捨てをしないで下さい。卑怯ですよ。Wikipedia:オープンプロクシは使わない--220.157.206.235 2007年9月18日 (火) 14:57 (UTC)[返信]

中立性[編集]

Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな

全体的な流れから、少々中立性に問題があると思うので、テンプレート張りました。 1、Aという事実があり、Bという事実がある、だからCであるという形式が多い。 2、その他の関連エピソードなど、東条英機が占領軍に軍刀を送る内容など戦陣訓とは無関係。東條の項目に書く内容。どうも自己主張の場になっている。

テンプレートがおかしいと思う方は、ご意見よろしくお願いいたします。 --137.132.3.11 2007年5月18日 (金) 14:46 (UTC)[返信]


テンプレート張りは賛成です。 また、議論の余地など無い、見事な妄想が加えられていたので削除しました。 書くなら根拠を明示してください。 --Dmai 2009年11月9日 (月) 21:22 (UTC)[返信]

ウィキペディアの本質から言って、全文掲載すべきでは?[編集]

 体系的な解説の構成になっているようなので、ちょっと適当にもってきて貼り付ける、と言うのはまずそうなのですが、単純にウィキを調べて、さらに原典を探すのも利用者の便宜を考えると、ちょっとどうかと思われます。  構成の中に原文を組み入れていただくわけにはいきませんか? --Dictionarywalker 2011年1月29日 (土) 08:33 (UTC)[返信]