司馬遼太郎

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司馬 遼太郎
(しば りょうたろう)
誕生 福田 定一 (ふくだ ていいち)
1923年8月7日
大阪府大阪市
死没 1996年2月12日(満72歳没)
大阪府大阪市
職業 作家
国籍 日本
活動期間 1955年 - 1996年
ジャンル 歴史小説推理小説戯曲
主題 紀行文随筆評論
代表作 梟のいる都城』(改題『梟の城』)(1958年
竜馬がゆく』(1962年
国盗り物語』(1963年
坂の上の雲』(1968年
街道をゆく』(1971年
主な受賞歴 講談倶楽部賞受賞(1956年
直木三十五賞受賞(1960年
菊池寛賞受賞(1966年
大阪芸術賞受賞(1967年
毎日芸術賞受賞(1967年)
文藝春秋読者賞受賞(1968年)
吉川英治文学賞受賞(1970年
日本芸術院恩賜賞文芸部門受賞(1976年
読売文学賞小説賞受賞(1981年
朝日賞受賞(1982年
放送文化賞受賞(1985年
日本文学大賞学芸部門受賞(1985年)
読売文学賞随筆紀行賞受賞(1986年
明治村賞受賞(1988年
大佛次郎賞受賞(1988年)
文化功労者選出(1991年
文化勲章受章(1993年
東大阪市名誉市民1996年
井原西鶴賞受賞(1996年)
従三位(1996年)
処女作 福田定一名義:
『名言随筆・サラリーマン』(1955年)
司馬遼太郎名義:
『ペルシャの幻術師』(1956年)
公式サイト 司馬遼太郎記念館
  
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司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年大正12年)8月7日 - 1996年平成8年)2月12日) は、日本小説家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。

産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。以後、俗に「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観に基づいて数多くの作品を執筆、歴史小説に新風を送る。代表作に『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで活発な文明批評を行った。

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生れた。父方の祖父母は兵庫県出身であり、祖父・惣八は現在の姫路市広畑農家に生まれ明治の初め上阪して菓子製造で成功した人物。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

1930年昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草小学校)に入学。学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語部)、1年上に陳舜臣(印度語部)、同期に赤尾兜子(中国語部)らの「文学グループ」がいたが、その輪には入れなかった。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。翌年4月、満州四平の陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。さらに翌年、本土決戦のため新潟県、さらに栃木県佐野市に入り、ここで終戦を迎えた。22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。その後すぐに図書館通いを始める。

[編集] 記者時代

戦地からの復員後、生野区猪飼野東八丁目にあった新世界新聞社に入社。1946年(昭和21年)、新日本新聞京都本社に入社。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらい出来るだろう」と誘われ、英語が全く出来ないにもかかわらず「出来ます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。

翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)には金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を勤めた。

同年に最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではと、思われる。

1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。この「司馬遼太郎」というペンネームは、「(史家の)司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味であるという。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち「梟の城」に改題)の連載を開始。

1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る。

[編集] 小説家時代

初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。だが、1962年(昭和37年)より「竜馬がゆく」「燃えよ剣」、1963年(昭和38年)より「国盗り物語」を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を始めた。この辺りの作品から、作者みずからが作中で随筆風に解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)、布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居しているが、「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と話している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続く『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓。1971年(昭和46年)から、紀行随筆「街道をゆく」の連載も始めた。1972年(昭和47年)には明治時代を扱った「坂の上の雲」の連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。

翔ぶが如く』『胡蝶の夢』『菜の花の沖』『箱根の坂』などを書いた後、『韃靼疾風録』を最後に小説から遠ざかる。エッセイ「風塵抄」「この国のかたち」「街道をゆく」の連載に絞り、日本とは、日本人とはなにかを問うた文明批評を行った。1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者に選ばれ、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも、台湾に渡り李登輝との会談を行ったり、青森の三内丸山古墳を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[1]

1996年(平成8年)1月、「街道をゆく」のシリーズ「濃尾参州記」取材を終える。直後の2月10日深夜、吐血して倒れ国立大阪病院に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去。72歳だった。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院(現:大阪医療センター)は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆の「濃尾参州記」は未完となった。3月10日に「司馬遼太郎さんを送る会」が開かれ、3000人が参列した。法名は、「遼望院釋淨定」。また従三位を追賜される。翌年には司馬遼太郎記念財団ができ、司馬遼太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に司馬遼太郎記念館が開館。司馬遼太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼太郎メモリアル・デー」を開催している。なお、NHK大河ドラマの原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」と称する「坂の上の雲」を含めると7作品である。

[編集] 作家評

この項目で書く評価的記述については主に下記の参考文献欄に拠る。しかしこれら文献の他にも、司馬の著作物に付与された解説、新聞、雑誌での批評記事、更に『週刊朝日』が没後発表した『未公開講演録 愛蔵版 司馬遼太郎が語る日本』シリーズに続けて連載された「司馬遼太郎からの手紙」シリーズや「週刊司馬遼太郎」などの宣伝記事、PHP文庫の『文蔵』や文藝春秋の企画記事など、出版社による企画広告やその流れを汲む記事などで様々に司馬の作品、司馬の価値観は語られてきた。

[編集] 作風

歴史小説家としてはスコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における『史記列伝の形式を範にした作家とみることができる。

特徴としては、常に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物しか取りあげない。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内に散りばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。

評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。

そのユニークな文体は、のちに、渡部直己清水義範パステーシュの対象になったり[2][3]、あるいは酒見賢一『後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。

作品中の人物の内面描写にはそれほど深入りしないため“浅薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示す18世紀ヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、19世紀型小説か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば丸谷才一の「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくというグランド・ホテル形式の小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。

後年は小説から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を行ったところに特徴がある。

[編集] 人物イメージの影響

司馬の作品はベストセラーかつロングセラーとなり、また多くが映像化された。織田信長豊臣秀吉徳川家康西郷隆盛らは多くの作品に重複して登場しており、現代の日本人が持つ「彼等の人物イメージ」は司馬の小説に大きく影響をうけている。

また、河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、人々は「歴史的人物としての彼等」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼等」を愛しているとも言える。

[編集] 歴史観

[編集] 司馬の考え方

司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとする発想、これらは司馬は否定的に画くか、エッセイなどで否定している。司馬は近代合理主義がこれらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。例えば『燃えよ剣』では最後まで尊王と佐幕の思想的対立に悩みつづけた近藤勇ではなく、徹底して有能な実務家であったとされる土方歳三をとりあげたのは、こうした理由によるものであると言われる。

[編集] 司馬作品の時代性

司馬の歴史観についての議論を見る上で時代性に関しての視点は重要であろう。思想的な流れとしては司馬が小説執筆に専念した当時は、一般に第二次世界大戦の反動から日本の近代史全体に否定的な見解が強かった。そのため第二次世界大戦を痛烈に批判する論者の多い中で、その他の近代史に光をあてたことを評価する向きもある。また、司馬の登場以前、日本の歴史小説はいわゆる史伝ものか大衆娯楽を重んじた講談風の作品が中心だった。しかし司馬は資料収集を重視し、出版社や司馬に肯定的な立場の評論家等は高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したことを採り上げ、上質な娯楽として読むに足る物として、知識人(および知識人に憧れを持つ読者)が高く評価してきた。実際には同時代に実証性を重視した小説家が存在しなかった訳ではなく、例えば吉村昭大岡昇平などは実証性の高い小説やノンフィクションを発表し、それらの多くは「暗い昭和」を対象とし、歴史研究者が二次資料として揚げることもある[4]。司馬が採り上げた時代についての歴史研究やノンフィクションは当時から多数存在していた(司馬は小説執筆にあたり膨大な資料を集めた事で知られるが、その事自体が既存の成果物が多数存在していた傍証とも言える)。

しかし、一般への人気なども相まって、実証性の高さから司馬の小説が小説作品としての枠を超えている、と評価する雰囲気が熱心な支持者により形作られてきた。司馬の影響を受け、自著で司馬の考え方を引用する者、司馬に憧れて小説家や歴史研究者となったことを述べている例も多く、高い視聴率で知られた大河ドラマにも複数回採り上げられている。そのため、司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われている。死後においても司馬の影響力は大きく、礼賛する余り持論を司馬と絡めて預言者のように扱われることもある[5]

一方で司馬の作り上げた歴史観は、しばしば「司馬史観」として論争の対象となってきた。批判側の観点は幾つかに分けられる。

[編集] 歴史観への批判

歴史観は必然的に思想的な性格を持つ物だが、この点からの批判としては、近代合理主義への偏重が、一定の限界を与えていたという指摘が代表的である。例えば同時代の指導者の観点からの把握に重きを置き民衆の観点や通時的な観点からの把握を怠っている(歴史の切り取りかたの問題)、明治期の戦争を肯定的に描きながら昭和期の戦争を否定的に描いている(いわゆる「明るい明治」と「暗い昭和」の分断)、各時期代の描写が前記の偏向(例えば昭和期の日本軍に対する憎悪)により客観的な分析が欠如している、合理主義への解釈を巡って対立がある、などである。また、司馬が称揚した合理主義自体も西洋哲学の中で発展を遂げる過程で解釈の多様化が起こり、帝国主義ナチズム共産主義、或いは過度の資本主義などと関係づけ、その行き過ぎに対して批判がなされることも多い[6]。司馬に限らず提唱者の唱える『合理主義』という言葉がどのような考えを指し、提唱者が言葉通り実践しているかについては慎重に議論する必要があり、批判の中で触れられる事もある。
但し「明るい明治」は司馬自身の作家としての研究・調査による合理主義からくるもの、「暗い昭和」は自身が徴兵された自己の体験による実証主義によるものであり、作家として個人の主観が影響するのは当然であり、読者も作家のバックグラウンドを読み取った上で作品を読み取る必要がある。

また、歴史教科書問題などの歴史認識をめぐる論争において、自由主義史観派が司馬の歴史観に依拠していると主張していることから、左右を問わず、自由主義史観を批判する立場から上記の諸点を強く批判することがある。中村政則佐高信などの革新派の流れを汲む者からは「戦争、植民地支配を美化・正当化している」と批判され、西部邁小林よしのりなどの一部の保守派(主に反米保守派)からは「大東亜戦争を否定する自虐史観」「ポチ保守の史観」と批判される[7]。思想的、史観的な面からの見直しについては新聞でも紹介した例がある[8]

[編集] 実証性(ないし創作的行為の混入)への批判

より学究的な立場からは実証性の面からも批判されることがある。特定の事実への重きを置いた記述に留まるならば一応は史実の範疇に留まるが、司馬の場合は実証性を謳っているにも関わらず、小説の一部に創作した場面が存在する事、資料の誤読や資料批判の不徹底等による事実誤認などが問題点として批判者より指摘される(思想的批判と合せて書かれた場合、評論が評価の対象となった場合には歴史修正主義の亜種と批判される)。この立場の代表的論客は別宮暖朗福井雄三などである。また、一坂太郎は司馬の価値観を基本的には否定してないが、実証性については検討を行っている。また、坂本竜馬の幕末維新史での過剰評価や、乃木希典に対する否定的な記述など、政治家以外の歴史上の人物に対する評価でも、司馬の小説によって一般に広まったと認識されている例がある。

戦史研究者にも創作物の価値を認めつつ、特定個人の歴史観を事実であるかのように錯覚させる手法の危険性を指摘し、司馬と絡めて述べる者などがいる[9]。後年設定考証のレベルの高さを前面に売り出された一部の架空戦記ほどではないにせよ、真実性については同質の問題を抱えていると言える(なお、架空戦記のヒットメーカーとなり、代表的存在となった佐藤大輔は、作品内に司馬を登場させ、記述法の類似性や乃木等の歴史上の人物への否定的評価で司馬を髣髴とさせる表現があり、司馬の歴史観を継承した影響が高梨俊一などにより指摘されている)。

これに対して反論側からは、歴史という素材から虚構の小説を生み出すことは、ある程度作者に許される裁量権の問題であって、的を射ているとはいいがたいという指摘がなされる。反論を行なう者は、司馬(ないし小説家)の社会的影響力については触れないか、受け手の問題であるとする場合が多い。また、「司馬史観」という名称は司馬自身が名付けたものではないという指摘もある。一方、司馬は晩年を中心に歴史評論的な性格の強いルポルタージュ、エッセイを多く発表しインタビューにも応じてもいる。小説に加えてこれらが付加されたことで司馬の歴史観は小説の枠を越えて読者に提供された。小説のドラマ化だけではなく「街道をゆく」のように映像化された例もある。また作品の多くは現在でも容易に入手が可能である。このように司馬の歴史への考え方には一貫性があり、小説以外の形でも表出され、ひとつの史観として確立され、広汎に敷衍していることは事実であろう。

また、司馬に限ったことではないが、たとえ実証性の高さを売り物にしていたとしても、時事評論などは別として小説のような創作物については“歴史の真実を記述した史書”と考えることは適切とは(通常は)言えない。これは歴史学では基礎的な認識として教育されることである。なお、司馬は自身の著作を、「フィクションである」とはっきり言明しており、司馬だけではなく、たとえば『宮本武蔵』を著した吉川英治も同様のことを言っているが、一方で出版社や司馬を評価する者までが「司馬史観」という言葉を敷衍させているという事実もある[10]。従って司馬史観という言葉を利用しているのは批判派だけではない。フィクションの内容を歴史の真実であるかのように読者が錯覚してしまうのは、それだけ司馬の作家としての手腕が優れていることの証明でもあるとも言えるが、上記のように批判側にとってはその錯覚させる手腕自体が問題となる。ただし、「史実」と「史実をもとに誇張や想像を織り交ぜたフィクション」を切り分けることは、ある程度知的な論議をしたい読者であれば、必要である。

このように、司馬に関する議論の場合には、受容の様態も対象となる。擁護派は司馬の言葉から教訓を汲み取ろうとする傾向があり、批判派は神格化を行っている者を信者のように捉えての批判は、司馬本人への賛否に関わらずなされる。

[編集] 用語の非正確性

国家領土問題に対するコミットメントの中で、言葉の不正確な定義が見受けられる。

国号 
「中国」や「朝鮮」は歴代王朝の国号を使用してきた為、長らく国や地域全体を表わす名称を持たなかったと主張するが、「日本」という国名も701年に律令制を確立する中で作られた国号に過ぎない。

[編集] 人柄

話し上手・聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、対談集が数多くある。交友関係も広く、池波正太郎貝塚茂樹など多岐にわたった(池波は小説家として共に駆け出しのころの親友であり、お互いに忙しくなってからは次第に疎遠になったそうだが、司馬は池波の「鬼平犯科帳」など愛読していたという)。また、小説家としての初期に励ましを受けていたのは海音寺潮五郎で、海音寺の励ましが無ければ小説家として立っていたかどうか疑わしいと司馬は回想している。晩年は宮城谷昌光を高く評価し、宮城谷から送られてくる作品を読んで手紙などで励ましつづけ、没する間際には宮城谷に「どうしても会っておきたい」と述べて会談を行っている。またアニメ作家宮崎駿の作品、特に「ルパン三世 カリオストロの城」「となりのトトロ」を高く評価し、宮崎との対談もしている。

また、直木賞選考委員だった際に、なんども候補になったSF作家広瀬正の作品を、候補になるたびに高く評価したが、他の選考委員の賛成を得られず、授賞させえなかった。のちに、早世した広瀬の作品集がまとめられた際、『広瀬正・小説全集2 ツィス』の解説を書いた。 どれほど広瀬氏を評価し、当時の審査員に呆れていたかがわかる文に直木賞選後の司馬氏評がある。一部抜粋すると、 「一読者として、一番面白かったのは、広瀬正氏の『マイナス・ゼロ』であった。SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙まされる姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにおどろいた」と評している。 この評は広瀬正氏の「マイナス・ゼロ」の帯にも記載されている。

芸術家、岡本太郎が万博協会から大阪万博プロデューサーへの就任を打診された時、岡本は司馬に万博プロデューサーを引きうけるべきか相談。司馬は「ぜひやったほうがいい。」と岡本を励ました。[11]

速読家としても知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。この時読んでいたのは小説の資料(当事者の日記など)である。

資料集めへの執念はすさまじく、生涯に何千万円単位という巨費を投じて買い集めていた。司馬が資料を集め始めると関連する古書が古本屋業界から払底したという逸話がある。例えば、神田神保町の古書店街に軽トラックでやって来て、本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読し、それらをすべて荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆の際には、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古本屋に行っても資料がなかったという逸話も残る。

名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。



私生活の面では中村玉緒のファンで、そのお辞儀の美しさに見とれたという。一方でスポーツにはあまり関心がなかったらしい。大阪市のアパートに住んでいた頃、当時の南海ホークスの主砲野村克也が同じアパートにいたが、野村の顔も名前も知らなかったので、昼過ぎに家を出て深夜に帰ってくる大男を胡乱な目で見ていたという。ただし大相撲は好きで、愛好するあまり「伝統や神聖さを考えれば、大相撲に八百長があるはずがない」と主張していた。

噂の眞相』(1998年6月号)は、先妻との離婚の顛末について、司馬の父親・是定の嫁いびりが原因としている。是定は、なかなか子を産まない司馬の先妻を「3年孕まずは猿と一緒」と非難し、子が生まれたあとも虐待は変わらなかった。出産後、母乳が出ないので薬局のミルクを使おうとすると、是定は「商品に手を出すな、欲しいなら買え」と6掛けで売りつけたという。先妻はストレスのあまり体調を崩し、離婚に追い込まれるが、是定は「うちの跡取りだ」と親権を主張して譲らず、我が子とも離ればなれにされてしまった。しかし司馬はこの間黙ってみているだけで、先妻に何を言われても「仕事が忙しいから」と取り合わなかったという。さらに、後年司馬がみどりとの再婚を迷うと、先妻に「お前が相手を見て決めてくれないか」と連絡して、二人のデート現場をこっそり観察させた。これには先妻も、完全に司馬との関係を絶つ決意をしたという。

また、長男に対しても、前述のように司馬は手元に置いて育てなかった。長男は結婚するまで祖父母の元で暮らし、司馬の家に行くのは、是定にいわれて生活費を受け取りに行く時だけであった。そのため長男は「司馬の息子」と呼ばれることを嫌ったが、司馬はそれを聞くと「最近、あいつが俺の息子といわれるのを嫌ってるみたいなんや」と不思議そうな顔をしたという[12]

元台湾総統の李登輝とは学徒出陣の同期であり、思想も似通っていたことから懇意であった。

執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったような趣味は生涯持たなかったが、バンダナ収集が唯一の趣味であった。外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。その多くは現在でも遺族が保存している。

[編集] 年譜

[編集] 受賞歴

[編集] 著述物一覧

[編集] 全集・選集

  • 司馬遼太郎全集(文藝春秋、全68巻)3期に分けて刊行
  • 司馬遼太郎短編全集(文藝春秋、全12巻)
  • 司馬遼太郎が考えたこと(新潮社、全15巻のち同文庫)エッセイ集
  • 司馬遼太郎対話選集(文藝春秋、全5巻)

[編集] 小説

[編集] 長編

[編集] 短編集

  • 白い歓喜天  (1958年7月, 凡凡社)処女作
「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」 「白い歓喜天」「兜率天の巡礼」
  • 大阪侍(1959年12月、東方社)
「和州長者」「泥棒名人」「盗賊と間者」「法駕籠のご寮人さん」「大坂侍」「難波村の仇討」
  • 最後の伊賀者(1960年11月、文藝春秋新社)
「外法仏」「下請忍者」「伊賀者」「最後の伊賀者」「蘆雪を殺す」「天明絵師」
  • 果心居士の幻術(1961年3月、新潮社)
「八咫烏」「朱盗」「牛黄加持」「果心居士の幻術」「飛び加藤」「壬生狂言の夜」
  • おお、大砲(1961年10月、中央公論社)
  • 一夜官女(1962年3月、東方社)
「雨おんな」「侍大将の胸毛」「伊賀の四鬼」
  • 真説宮本武蔵(1962年11月、文藝春秋新社)
「越後の刀」「真説宮本武蔵」「京の剣客」「千葉周作」「奇妙な剣客」「上総の剣客」
  • 花房助兵衛(1963年10月、桃源社)
  • 幕末(1963年12月、文藝春秋新社)
「桜田門外の変」「奇妙なり八郎」「花町屋の襲撃」「土佐の夜雨」「逃げの小五郎」「死んでも死なぬ」「浪華城焼討」
「酔って候」「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」
  • 豊臣家の人々(1967年12月、中央公論社)-安土桃山時代豊臣秀吉の家族を描いた連作短編
  • 王城の護衛者(1968年5月、講談社)
「加茂の水」「王城の護衛者」「英雄児」「鬼謀の人」
  • 喧嘩草雲(1968年5月、東方社)-江戸時代の画家、田崎草雲の奇妙な人生を描いた短編。
  • 故郷忘じがたく候(1968年10月、文藝春秋)
「胡桃に酒」「斬殺」「故郷忘じがたく候」
  • 馬上少年過ぐ(1970年8月、新潮社)
「貂の皮」「城の怪」「重庵の転々」「慶応長崎事件」
  • 木曜島の夜会(1977年、文藝春秋)
「有隣は悪形にて」「大楽源太郎の生死」「木曜島の夜会」
  • おれは権現(1982年、講談社文庫)
「愛染明王」「おれは権現」「信九郎物語」「助兵衛物語」「覚兵衛物語」「けろりの道頓安井道頓」
  • アームストロング砲(1988年、講談社文庫)
「アームストロング砲」「理心流異聞」「侠客万助珍談」「倉敷の若旦那」「五条陣屋」「斬ってはみたが」「大夫殿坂」
  • ペルシャの幻術師(2001年、文春文庫)
「兜率天の巡礼」「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」
  • 侍はこわい(2005年、光文社文庫)
「権平五千石」「豪傑と小壺」「忍者四貫目の死」「狐斬り」「ただいま十六歳」「侍はこわい」「みょうが斎の武術」「庄兵衛稲荷」

[編集] 全集未収録
  • 魔女の時間(「主婦の友」1961年12月号~1962年11月号。全12話)- 司馬には珍しい、BG(ビジネスガール)を女性主人公とした現代小説。
推理小説

復刊の可能性は低いと思われる。

  • 豚と薔薇(1960年、東方社)「兜率天の巡礼」を併収
  • 古寺炎上(1962年、角川書店)新書版「豚と薔薇」併収

[編集] 戯曲

  • 花の館(1970年、中央公論社)
  • 鬼灯(1975年12月、中央公論社)

[編集] エッセイ・対談

   
紀行
  • 街道をゆく(1971年9月 - 96年11月、朝日新聞社)
  • 歴史を紀行する(1969年2月、文藝春秋)
  • 人間の集団について ベトナムから考える(1973年10月、サンケイ新聞社)
  • 長安から北京へ(1976年10月、中央公論社)
  • 歴史の舞台(1984年3月、中央公論社)
  • アメリカ素描(1986年4月、読売新聞社)
  • 草原の記(1992年6月、新潮社)
随筆・エッセイ・評論
  • 手掘り日本史(1969年6月、毎日新聞社)
  • 歴史の中の日本(1974年10月、中央公論社)
  • 歴史と視点(1974年10月、新潮社)
  • 古今往来(1979年9月、日本書籍)
  • 微光のなかの宇宙(1984年3月、中央公論社)
  • ある運面について(1984年6月、中央公論社)
  • ロシアについて(1986年6月、文藝春秋)
  • 二十一世紀に生きる君たちへ(1987年5月、大阪書籍刊『小学国語 六年下』収録)
  • 「明治」という国家(1987年9月、日本放送出版協会)吉田直哉演出の「太郎の国の物語」
  • この国のかたち(1990年 - 96年、文藝春秋) 月刊「文藝春秋」の巻頭随筆
  • 風塵抄(1991年 - 96年、中央公論社)月一回の産経新聞のコラム
  • 春灯雑記(1991年11月、朝日新聞社)
  • 十六の話(1993年10月、中央公論社)
  • 「昭和」という国家(1998年3月、日本放送出版協会)
  • 以下、無用のことながら(2001年3月、文藝春秋)
  • 歴史と風土(1998年10月、文春文庫)
  • 人間というもの(1998年12月、PHP研究所)アフォリズム
対談・鼎談・座談
  • 日本歴史を点検する(1970年1月、講談社)※海音寺潮五郎
  • 日本人を考える(1971年8月、文藝春秋)
  • 日本人と日本文化 (1972年5月、中公新書)※ドナルド・キーンISBN 4-12-100285-7
  • 歴史を考える(1973年10月、文藝春秋)
  • 座談会・日本の渡来文化(1975年6月、中央公論社)※上田正昭金達寿
  • 土地と日本人(1976年8月、中央公論社)※松下幸之助らと
  • 天下大乱を生きる(1977年、潮出版社)※小田実
  • 対談 中国を考える(1978年3月、文藝春秋)※陳舜臣
  • 日本人の内と外(1978年4月、中公新書))※山崎正和
  • 西域をゆく(1978年8月、潮出版社)※井上靖
  • 日本語と日本人(1978年11月、朝日新聞社)※中西進大野晋
  • 座談会・朝鮮と古代日本文化(1978年12月、中央公論社)※上田正昭金達寿
  • 日本人の顔(1980年8月、朝日新聞社)
  • 歴史の夜咄(1981年5月、小学館)※林屋辰三郎
  • 人間について(1983年7月、平凡社)※山村雄一
  • 日韓理解への道(1983年7月、読売新聞社)※鮮于煇、高柄朔、金達寿森浩一
  • 歴史の交差路にて(1984年4月、講談社)※陳舜臣金達寿
  • 東と西(1990年11月、朝日新聞社)
  • 世界のなかの日本(1992年4月、中央公論社)※ドナルド・キーン
  • 時代の風音(1992年11月、UPU)※堀田善衛宮崎駿
  • 八人との対話(1993年3月、文藝春秋)
  • [九つの問答](1995年7月、朝日新聞社)
    • リンク先のen:Alex Kerrのウェブサイトで一部を読むことができる。
  • 国家・宗教・日本人(1996年7月、講談社)※井上ひさし
  • 日本人への遺言(1997年2月、朝日新聞社)
  • 日本とは何かということ(1997年3月、日本放送出版協会))※山折哲雄ETV特集で行ったもの
  • もうひとつの「風塵抄」(2000年2月、中央公論新社)※福島靖男との往復手紙

[編集] 発行部数ランキング(単行本・文庫本の合計)

順位 作品 部数
1位 竜馬がゆく 2125万部
2位 坂の上の雲 1475万部
3位 翔ぶが如く 1070万部
4位 街道をゆく 1051万部
5位 国盗り物語 674万部
6位 項羽と劉邦 669万部
7位 関ヶ原 520万部
8位 菜の花の沖 475万部
9位 花神 453万部
10位 世に棲む日日 445万部
11位 功名が辻 395万部
12位 播磨灘物語 392万部
13位 この国のかたち 365万部
14位 322万部
15位 城塞 307万部
16位 新史太閤記 262万部
17位 義経 240万部
18位 箱根の坂 238万部
19位 胡蝶の夢 231万部
20位 最後の将軍 220万部
  • 出所:『ダカーポ』2005年9月7日号(567号)p.65

[編集] 関連作品

[編集] 映像化作品

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ