山本七平

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山本 七平やまもと しちへい1921年12月18日 - 1991年12月10日)は、山本書店店主。評論家

目次

[編集] 経歴

[編集] 年譜

[編集] 受賞歴

  • 1973年 - 第35回文芸春秋読者賞受賞
  • 1981年 - 第29回菊池寛賞受賞
  • 1989年 - 和歌山県文化表彰にて文化賞受賞

[編集] イザヤ・ベンダサンとの関係

[編集] 山本による説明

当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。」とも述べている。[1]

後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。

山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけでジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。キリスト教が日本に普及しなのはなぜかという問題意識のもと3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちにまとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。ベンダサン名での著作についてはローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞授賞式にはベンダサンの代理として出席した。ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。[2]

[編集] 山本死後の扱い

稲垣武は、上記研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、2人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが構成も文章も山本のものと結論付けている。

同様に、『山本七平ライブラリー』編集部もライブラリー13および14(文芸春秋、1997年)の奥付の初出一覧の脇に、ベンダサン名の諸作品はほぼ山本の著作、もしくは山本を中心とする複数の外国人との共同作業と考えられるというコメントを付している。

2004年『日本人とユダヤ人』が角川oneテーマ21シリーズから(角川書店、2004年)が山本七平名で出版されたり、ベンダサン名で連載された「ベンダサン氏の日本歴史」(『諸君!』文芸春秋1973年1月以降22回掲載)が山本著『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として単行本化されるなど、山本の死後10年以上経過してからはベンダサン名の著作が事実上山本のものとして扱われることが多い。

[編集] 思想

日本社会日本文化日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。

山本は、『現人神の創作者たち』のあとがきで、「もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と語っている。山本は、クリスチャンであるだけでなく、父親の親族に大逆事件で処刑された大石誠之助をもっていた。これらのことが、山本の日本社会・日本文化・日本人に対する思考の原点であるといえよう。

その山本が、最も力を入れて執筆した作品が、『現人神の創作者たち』と『洪思翊中将の処刑』である。前者は、「そんなに打ち込んでは命がもたないよ」と言われながら執筆されたものであり、後者は、「一番書きたいものを書いてくれ」と請われて執筆したものであった。

『現人神の創作者たち』は、題名の通り、いかにして尊皇思想が生まれたかを探求した作品である。山本は、日本に亡命してきたの儒学者朱舜水を起点とし、山崎闇斎浅見絅斎安積澹泊栗山潜峰三宅観瀾らの議論を追いながら、どのように尊皇思想が形成されていく様子を描いた。そして、その尊皇思想が、社会全体にどのような影響を与えたかを、元禄赤穂事件をめぐる当時の言論状況をたどることであきらかにしたのであった。山本は、尊皇思想の影響は今もなお残っているのだと語っている。

洪思翊中将の処刑』は、朝鮮人でありながら、帝国陸軍で中将まで昇進した洪中将を扱った作品である。洪は、中将に昇進したことからもわかるように、帝国陸軍の優秀な軍人である一方で、抗日運動家と秘密裡に関係を持ち、その家族を支援するなど(自身が抗日運動に参加することは拒んでいる)、きわめて複雑な生き方を強いられた人物であった。山本の洪に対する執着の理由のひとつは、そこにあったと思われる。洪は、太平洋戦争後、戦犯として処刑されるが、軍事法廷において一言も発することはなかった。山本は、この作品で、その沈黙の意味をあきらかにしようとしたのであった。

[編集] 評価

山本は、その評価をめぐっては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物といえよう。

死後10年以上経った現在でも、著作が復刻されたり、文庫・新書化されたりすることがあらわしているように、山本の著作は今なお読者を惹きつけている。惹きつけられた人々にとって、山本は日本社会・文化に対する深い洞察を示した人物ということになろう。

その一方で、山本の著作には記憶に頼った不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、後述の浅見定雄のように、評論家としては信用に値しないと考える人間もいる。また、山本が読者をあざむくために意図的・積極的に虚偽の事実を示しているとして、ほとんど詐欺師に近い人物であると考えるものもいる[要出典]

[編集] 具体的な批判

  • 『私の中の日本軍』において、自らの軍隊経験から、日本刀は2~3人切ると使い物にならなくなると主張した。しかし、これについては、日本軍の中でも特に質の悪かった一部の日本刀(軍刀)や、戦地という劣悪な状況下で日々酷使され、満足に手入れも出来ず自然とナマクラになってしまった刀に限った話[3]であり、本来の日本刀の性能について誤解を招くものだという批判がある[要出典][4]さらに、同書における『戦ふ日本刀』からの引用は、自説に都合の良い部分のみを引用した不正確なものだという批判もある[要出典]。また、山本は本多勝一との百人斬り競争における論議において、イザヤ・ベンダサンの名義のまま、持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がるものの、この理論がユダヤ人からわざわざ「ヒントをもらった」とは考えにくい[要出典]
  • 自らを外国人と称し、発言に重みを増す行為はヤン・デンマンポール・ボネなども行っていたとされる。また、『醜い韓国人』の著者が韓国人ではなく日本人ではないかと言われた際にも、韓国側から当時公然の秘密であったイザヤ・ベンダサンの事例が提示され(雑誌SAPIO)日本の出版界の体質が批判された[5]
  • 浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、『日本人とユダヤ人』における翻訳の誤りを指摘し(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳であるなど)、山本の語学力を批判した。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしていることも具体的に示し、「ヘブル語アラム語はおろか、英語もろくに読めない」人物だと批判した。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般に流布されていた「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」と批判した。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソード[6]も、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」であると指摘した。また、あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本がでっち上げた作り話だと断じた。浅見はこの他にも、数多くの誤りを指摘している。
  • 山本を絶賛する評伝を書いた稲垣武は、『怒りを抑えし者 評伝 山本七平』の中で以上の批判をまともに扱っていない。参考文献からは、山本を批判する文献はほぼ無視しており、批判したのが誰なのかも書いていない(例外として、本多と山本の共著の形になっている一冊のみ挙げている)。浅見についても、「落ちた偶像となった進歩的文化人らが、『日本人とユダヤ人』の著者と目された山本七平を、右翼・保守反動の権化と蛇蝎視し、特に同じキリスト教徒であるプロテスタント左派が、山本に悪意に満ちた攻撃を加え続けたのも当然であった」(前掲406ページ)と、名指しせずにプロテスタントである浅見を意識した非難をするに留まり、「悪意に満ちた攻撃」の内容については触れていない。
  • 山本は著書『空想紀行』で偽フォモルサ人のジョルジュ・サルマナザールが書いたとされる偽書『台湾誌』を紹介した。イギリス社交界でもてはやされた偽のフォモルサ人(フォモルサは台湾列島にあるオランダ人が領有した台湾とは別の島と主張)であるサルマナザールと、本当に中国で18年間布教をし極東情勢を知っていたイエズス会のファウントネー神父の真贋対決で、サルマナザールは縦横無尽の詭弁で勝利を得た。サルマナザールは極東情勢が殆ど伝わっていなかった英国で、イギリス国教会と対立するイエズス会が極東情勢を故意に隠蔽していると非難し、ファウントネー神父もその陰謀の片棒をかついでいるとするなどの詭弁を繰り返しているが、山本はこのときのサルマナザールの詭弁の論法を分析し、『対象そのものをいつでもすりかえられるように、これを二重写しにしておくこと。これは"フェモロサ"と"タイワン"という関連があるかないかわからない形でもよいし…』などと細かく分析し『以上の原則を守れば、今でも、だれでも、サルマナザールになれるし、現になっている。』と記述している。これは自らが偽ユダヤ人として活躍した山本の面目躍如たるものがあるとする人もいる。[7]

[編集] 主要著書

[編集] 日本人の行動原理について考察したもの

  • 「空気」の研究 文芸春秋、1977年
  • 日本資本主義の精神 光文社、1979年
  • 勤勉の哲学 PHP研究所、1979年
  • 現人神の創作者たち 文芸春秋、1983年
  • 日本的革命の哲学 PHP研究所、1982年
  • 日本人とは何か。 上、下 PHP研究所、1989年
  • 山本七平の日本の歴史 上、下 ビジネス社、2005年
  • 受容と排除の軌跡 主婦の友社、1978年
  • 山本七平・小室直樹 日本教の社会学 講談社、1981年
  • 山本七平・岸田秀 日本人と「日本病」について 文芸春秋、1980年

[編集] 自らの軍隊経験を中心に述べたもの

  • ある異常体験者の偏見 文芸春秋、1974年
  • 私の中の日本軍 上、下 文芸春秋、1975年
  • 一下級将校の見た帝国陸軍 朝日新聞社、1984年

[編集] 評伝

  • 洪思翊中将の処刑 文芸春秋、1986年
  • 昭和天皇の研究 祥伝社、1989年
  • 徳川家康 プレジデント社、1992年
  • 江戸時代の先覚者たち PHP研究所

[編集] 中国古典に関するもの

  • 論語の読み方 祥伝社、1981年
  • 参謀学 -「孫子」の読み方 日本経済新聞社、1986年
  • 帝王学 -「貞観政要」の読み方 日本経済新聞社、1983年
  • 指導力 -「宋名臣言行録」の読み方 日本経済新聞社、1986年

[編集] コラム・時事評論

  • 「あたりまえ」の研究 ダイヤモンド社、1981年
  • 「常識」の研究 日本経済新聞社、1981年
  • 「常識」の非常識 日本経済新聞社、1986年
  • 「常識」の落とし穴 日本経済新聞社、1989年
  • 時評「にっぽん人」 読売新聞社、1981年
  • 無所属の時間 旺史社、1975年
  • 日本人的発想と政治文化 日本書籍、1979年

[編集] 聖書・キリスト教関連

  • 聖書の常識 講談社、1980年
  • 山本七平の旧約聖書物語 三省堂、1984年
  • 山本七平、山本れい子、山本良樹 山本家のイエス伝 山本書店、1996年

[編集] その他

  • 人間集団における人望の研究 祥伝社、1983年
  • 存亡の条件 ダイヤモンド社、1975年
  • 静かなる細き声 PHP研究所、1992年
  • 危機の日本人 角川書店、1986年
  • 日本はなぜ敗れるのか-敗因21か条 角川書店、2004年
  • 人生について PHP研究所、1994年
  • 宗教について PHP研究所、1995年
  • 比較文化論の試み 富山県教育委員会、1975年
  • 日本人の人生観 講談社、1978年
  • 現代の超克 ダイヤモンド社、1977年
  • 日本型リーダーの条件 講談社、1987年
  • 空想紀行 講談社、1981年
  • 山本七平・山本良樹 父と息子の往復書簡 日本経済新聞社、1991年
  • 山本七平・山本夏彦 意地悪は死なず 講談社、1984年
  • 山本七平・山本夏彦 夏彦・七平の十八番づくし サンケイ出版、1983年

[編集] 全集

  • 山本七平ライブラリー 1-16 文芸春秋、1997年
  • 山本七平全対話 1-8 学習研究社、1984-1985年

[編集] イザヤ・ベンダサンの著作

  • 日本人とユダヤ人(山本書店、1970年)
  • 日本教について(文芸春秋、1972年)
  • にっぽんの商人(文芸春秋、1975年)
  • 日本教徒(角川書店、1976年)

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』1977年10/1(1899号)49-50頁
  2. ^ 山本七平「一出版人の人生論」『Voice』PHP研究所、1992年3月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30頁
  3. ^ 旧日本軍の軍人が持っていた日本刀の一部は「本来の日本刀の性能」からすれば粗悪なものであったという事実はあるものの、当時の将校私物軍刀々身の大半は本鍛錬の日本刀であり、軍官給品初め現代科学の力を使った特殊軍刀々身はそこらの日本刀を凌駕する性能や耐久性を持っていた。また、両者とも関の孫六や「先祖伝来の宝刀」(波平)などの俗に言われる名刀を使用し、それを報道されているのでこの場合には全く当てはまらない。また「軍刀=全てが粗悪」といった誤り偏った風評や偏見が今もなお蔓延っている事実を考慮する必要がある。
  4. ^ 日本刀を用いた通り魔殺人事件が1985年9月19日下関で起きているが、山口大学医学部付属病院精神科に通院していた犯人(当時37歳)は、亡くなった父親が箪笥にしまっていた日本刀を持ち出し母親ら4人を殺害、さらに6人に重症を負わせている。
  5. ^ 『醜い韓国人』は韓国人協力者はいるものの、韓国人なら当然知っているような事柄にも誤りがあり、ほとんどの内容は加瀬英明が書いたものとされている。
  6. ^ 英語版(リチャード・ゲイジ訳)の『日本人とユダヤ人』からは完全にこのエピソードはカットされている。
  7. ^ トンデモ偽史の世界,原田実,楽工社

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク