星野仙一

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星野 仙一
東北楽天ゴールデンイーグルス 監督 #77
Hoshino sennichi.jpg
2011年8月30日、こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県倉敷市
生年月日 1947年1月22日(67歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1968年 ドラフト1位
初出場 1969年4月13日
最終出場 1982年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、日本プロ野球選手プロ野球監督野球解説者岡山県倉敷市出身。選手時代のポジションは投手2011年より東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務める。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。

愛称は「仙ちゃん」「仙さん」。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校甲子園を目指したが、予選を突破することはできなかった。最後の夏は1964年東中国大会決勝で、米子南高校に敗れた。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。

高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学[1]、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが[1]、倉敷商の矢吹監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[1]野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、田淵幸一・山本浩司(のちの山本浩二)・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩にはのちに読売ジャイアンツへ進む高田繁がいた。

大学時代は監督・島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[2]。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。

プロ選手時代[編集]

1968年プロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。入団3年目の1971年に中日のエースナンバーである20へ変更した後も非常に愛着のある番号だったという。

入団した年、星野はある巨人戦に先発登板したが打ち込まれて敗戦投手になった。星野は首脳陣に「明日も投げさせてください!かならずリベンジをします!」と訴えた。コーチ陣は当惑したが、監督の水原は「仙がここまで言っているんだ、投げさせてやれ!」といい、星野は次の日もまさかの先発をすることになった。その試合、星野はかなりいいピッチングをしたが、打線の援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失ったと思い、ベンチ裏で落ち込んでうなだれる星野にむかって差し出す手があって顔をみあげると水原であった。「仙、よくやった。やられたら必ずやり返す。この気持ちを忘れたらプロとしてやっていけなくなる。今日のことは決して忘れるな。やられたらやり返す。これを忘れるな。今日はよくやった」と水原はいい、星野とかたい握手をかわした。「あのときの水原さんの手の感触は今でも忘れられない。自分は水原さんからプロの精神を学んだ」と星野は回顧している。

1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、チームも2勝4敗で日本一を逃した。

1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている。」と記している[3]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手小田和正だった。

ドラフトに際しては、巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった[4]。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという[4]。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。

巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。

珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児[5]宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた[5]。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)[5]

星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している[6]。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している[7]。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。

引退後[編集]

中日監督時代[編集]

1983年から1986年までNHK野球解説者日刊スポーツ[8]Number[8]野球評論家を務め、1985年にはNHK総合テレビサンデースポーツスペシャル』の初代司会者へ就任。

1986年シーズンオフ、同年途中で休養した山内一弘の後任として、中日の監督に就任。NPB史上初の戦後生まれの監督となった。就任後はロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年近藤真一1987年立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。伸び悩んでいた中村武志彦野利勝には鉄拳制裁で、山本昌アメリカ合衆国への留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手宇野を二塁手に、捕手中尾を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新する。特にレギュラー捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、試合中に星野に殴られた中村が鼻血を出してプレーしているということもあったという。

1987年6月11日、熊本藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己ウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。

1988年にはチームはリーグ優勝する。中日生え抜きで優勝した監督は星野だけである。西武ライオンズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れた。

1991年限りで「健康上の理由」(表向きの理由であり、実際には夫人の白血病発症が大きく関係していた)で辞任。辞任後は、1992年中部日本放送(CBC)の客員解説者、1993年から1995年に再びNHK解説者を務め、並行して1992年から1995年まで中日スポーツ客員。また、沢村賞の選考委員を務めていた(1994年から1995年まで)。

1995年9月20日に中日への監督復帰が発表され[9]、同年オフに再任。直後に愛甲猛無償トレードで獲得、更に前田幸長村田勝喜も交換トレードで獲得。

1996年9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を持ち受け[10]上本孝一審判員に「誰に頼まれた。公平にやれ」と暴言を吐き[10]、もみ合いになった際に田中俊幸審判員に蹴るという暴行を働いた[10]。翌日セ・リーグは星野に厳重戒告と制裁金100万の処分が科された[10]

1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことでチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。チーム打率リーグ最下位、チーム防御率5位と投打共に振るわなかった。同年オフ、関川浩一久慈照嘉を交換トレードで獲得し、投手コーチの小松辰雄は退団し後任に宮田征典を招聘[11]二宮至が外野守備コーチに就任した。1998年は2位と持ち直し、投手陣は整備されチーム防御率は12球団1位となった。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩FAで獲得した1999年は、1954年西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初だった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れた。

2000年5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から球審を務めていた橘高淳に抗議、暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では立浪和義大西崇之も審判員への暴行により退場処分となり、後日星野、立浪、大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。出場停止5日間となり監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。同年は2位、優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越した。2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。この年、「健康上の理由」で辞任。ナゴヤドーム最終戦で勇退セレモニーが行われた。なお、このとき星野は、同年に巨人監督を退任する長嶋茂雄から「辞めるのはまだ早いから、辞めたらだめだ!!!」と電話を受けたという。

中日のオーナーを長く務めた加藤巳一郎からの全面的に信頼を受けていた[12]

著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している[13]

監督時代、第一製薬(現・第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品叉焼麺坦々麺カレーライス田淵幸一山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場。

阪神監督時代[編集]

中日監督を退任した直後の2001年オフ、低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫を中日からヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。

星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した[14]

星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ[15]。野村さんといえばご存知ID野球[15]。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ[15]。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している[15]

就任1年目の2002年には4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録したが、途中で失速し結果的に4位に終わる。同年オフには、広島からFA宣言した金本知憲テキサス・レンジャーズ自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。

2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎片岡篤史井川慶ジョージ・アリアスジェロッド・リガンジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠赤星憲広藤本敦士吉野誠ら若手が急成長し首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たすが、ダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。

しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮をヘッドコーチの島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという。

日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。

2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ1位になっている[16]

阪神監督退任後[編集]

2004年1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクター(SD)に就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受けた。

SDを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ大和證券、さくら不動産などのテレビコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務める。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。また、特定の放送局と専属契約をしないフリーランスの野球解説者として各テレビ放送局のプロ野球中継に出演していた。

2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタート(2008年閉鎖)。

2005年8月、巨人の次期監督候補とされていると報道された。のちに星野自身が固辞[要出典]

2006年10月よりスタートした、日本テレビ系列ニュース番組NEWS ZERO』のスペシャルコメンテーターへ就任。

北京五輪監督[編集]

2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。

北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[17]。一方、自分の采配についての発言が、多くのマスコミやネット上から責任転嫁として批判の対象となった[18]

北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人監督の原辰徳が引き受けることとなった。

楽天監督時代[編集]

2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティ番組『星野仙一の熱血・仙一夜』がMBSラジオにて放送される。

同年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神退団を発表[19]。その後、同27日に宮城県仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[20]。選手・監督通じて初めてパシフィック・リーグ加盟球団に所属することとなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。

初年度となった2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊した事もあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球機構の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。

2012年5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督[21]、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した[22][23]。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた[24]岩隈久志山崎武司の退団に加え、前半戦は田中将大松井稼頭央嶋基宏ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直辛島航枡田慎太郎銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた[25][26]。5月20日、福岡ソフトバンクホークスと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。

2013年4月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)の8回表二死一塁の場面で、アンドリュー・ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久が放った外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして2002年8月23日の対巨人戦以来3892日ぶり退場処分を受けた(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)。前半戦は球団初の首位で終えた。9月26日の対西武戦(西武ドーム)で球団史上初のリーグ優勝を達成した。異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩西本幸雄に続き史上3人目。2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった。66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。

2014年5月26日に持病の腰痛が悪化、この日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を休養。同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った[27][28]。その後の検査で腰椎椎間板ヘルニア胸椎黄色靱帯骨化症と診断され、翌27日、球団は星野の同日以降の休養を発表し、佐藤義則が監督代行を務めることを発表した[29]。その後手術を受け、無事に終了したことが6月17日球団から発表されている[30]6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行をつとめることになった[31]が、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元がついたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。NPBは星野にオールスターゲームの監督を要請し、7月3日に星野がオールスターゲームで指揮を執ることが発表したが[32]、7月12日に球団から体調の回復が間に合わないとして、指揮を辞退することが発表された[33]。7月24日の楽天の全体練習から監督に復帰[34]、翌25日の対日本ハム戦(楽天Koboスタジアム宮城)から試合に復帰している[35]

人物[編集]

2008年3月に岡山県倉敷市に開館した、星野仙一記念館の入り口(2008年6月)
  • 小学6年生の時には同じ学年の障害を持った友人を1年間毎日、おんぶして学校まで登校していたと自著で述べている[36]
  • ボランティア活動に熱心で、選手には「人生の1%をボランティアに捧げ」と説いている。実際自身は毎年のように地元岡山の障害者施設に寄付を行っている。ボランティアの重要性は自著でも述べている。
  • 1984年から岡山市にある福祉施設旭川荘に訪れティーバッティングなど、多くの野球用具を寄付した。旭川荘ではティーボールチームが発足し、星野の名を冠したティーボール大会が毎年11月に開催されている。倉敷で秋季キャンプをしているため星野自身もこの大会に出向いて選手を激励してる。
  • 現役時代・監督時代を通じて6回日本シリーズに挑戦しており、いずれも巨人出身監督と対戦し5回連続して敗退〈1974年(現役)金田正一(ロッテ)、1982年(現役)広岡達郎(西武)、1988年(監督)森祇晶(西武)、1999・2003年(監督)王貞治(福岡ダイエー)〉していたが、6回目の2013年(監督)原辰徳(巨人)で初優勝した。これら6度の日本シリーズでの優勝と敗退の理由について星野は「今まではシーズン中に巨人と戦っていたためリーグ優勝で燃え尽きていたが、今回は日本シリーズの対戦相手が巨人だったため、最高のボルテージで戦えた事が大きかった」と総括している。

監督として[編集]

良い監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており[37]、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた[38]。週刊誌AERAは「マスコミを味方に付けた状況判断と手際のよさは天才的」と評し、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評する[39]

一方、上記のように中日監督時代に2度、阪神監督時代に1度リーグ優勝しながら日本シリーズではいずれも敗退し、北京五輪でもメダルを逃したことで「短期決戦に弱い」との評価もされていた[39]。しかし、楽天監督としてリーグ優勝した2013年にはクライマックスシリーズを4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で、日本シリーズを4勝3敗でそれぞれ制し、自身初の日本一となった。

中日監督時代より「闘将」と称されるほど数多くの激しい抗議をしていたが、元セ・リーグ審判員の谷博によればほとんどがファンを盛り上げるための演技で、審判に断りを入れてから開始していたという。阪神時代もグラウンド上で闘将ぶりを発揮したが、一方でマナーの向上をファンにアピール。監督として中日(4回)、阪神(1回)、楽天(1回)合わせて6度の退場処分を受けている。現役時代はなし。

中日監督時代から高卒ルーキーの抜擢や若手の育成に定評がある[40]

中日監督時代
  • 1987年にルーキーの近藤真一を先発に抜擢し、プロ野球史上初の快挙となる初登板・初先発ノーヒットノーランを達成した[41]。結果的に現役生活は6年だったが、18歳11か月での史上最年少記録で月間MVPを受賞。翌年も8勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。
  • 1988年は高卒ルーキーの立浪和義を、打撃に難があったものの守備力を買い、遊撃手としてレギュラーに抜擢。開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフル出場(高卒新人としては球団史上唯一)させる[42]打率.223と低調ながらも、辛抱強く起用し続けレギュラーシーズン110試合出場、22盗塁、21犠打を記録し、リーグ優勝に貢献した他、守備・走塁技術を高く評価されて新人王と高卒新人初のゴールデングラブ賞を受賞した。後に立浪はミスタードラゴンズと呼ばれる大選手に成長する。
  • 山本昌は入団4年目まで一軍登板4試合、0勝だったが、入団5年目の1988年2月、業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、若手選手5人と共に野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[43]。実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれていたが、星野は山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一抹の期待を掛けられてのものだった。山本はベロビーチで腐りかけていた野球への情熱を取り戻し、先発陣の柱に君臨、防御率1点台で1A のオールスターにも文句なしで選ばれた。帰国後に5勝を挙げてリーグ優勝に貢献。その後200勝を達成したほか、最多奪三振最優秀防御率沢村賞など投手タイトルのほとんどを獲る大投手となった。その他、今中慎二川上憲伸も早い時点で先発ローテーション投手に抜擢しセ・リーグを代表する投手に育てている。
  • 中村武志は星野の鉄拳制裁を最もよく受け、そしてその中で最も成長した選手として知られているが、1986年のシーズンオフにはフロントの整理対象選手に挙げられていたという。星野は、ドラフト1位選手でありながらわずか高卒2年での戦力外に納得いかず、当時のバッテリーコーチの加藤安雄(明治大学の後輩)に「壊れてもいいからとにかく練習させろ」と指示した。中村は2001年のシーズンオフに移籍するまで、中日の正捕手として活躍した。
  • 1999年は新人の福留孝介を積極的にスタメンに起用し、また福留も2割8分4厘、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。しかし三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち、加えて守備には難があった。9月4日の広島市民球場での広島戦、0-0で迎えた9回裏二死一・二塁の場面には左翼手の守備に就いていたがフライ性の打球を落球。ランナーを返しサヨナラ試合にした。この試合を始め、ペナントレース日本シリーズでも敗因に繋がるミスが続出し、試合終盤は交代させられた。その後、福留はゴールデングラブ賞を4回受賞する球界屈指の外野手に成長した[44][45]
阪神監督時代
  • 2002年、前任の野村克也に才能を認められながらも伸び悩んでいた井川慶を開幕投手に抜擢。3-1で勝っていたが9回裏、松井秀喜のセンター前と清原和博の内野安打で無死一、二塁のピンチを迎える。変えるべきか投手コーチの佐藤義則に相談されたが星野は振り向きもせず「勝っとるんや。そのままいけっ」とマウンドに行こうともせず続投させた。井川は後続を抑えて完投勝利。206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。井川は翌年、リーグ最多の20勝を達成してリーグ優勝に貢献したほか、2005年以外毎年200イニングを投げ、5年連続二桁勝利を挙げて日本を代表するエース投手となる。星野は「普通、ピッチャーはホームランを打たれると気後れが出てスピードが3,4キロ落ちるけどこの日の井川にはそれがなかった。4回に清原に一発を打たれても臆することなく、8回まではヒット1本だ。9回の松井のセンター前もポテンヒットだったし、清原のヒットも内野への当たり損ねや。ピンチだからってバタバタする必要はなかった」と振り返っている[46]
  • 2003年金本知憲FAで広島から移籍。春季キャンプ中、星野は事あるごとに金本・桧山進次郎濱中治の3人の外野手の名を挙げ、俊足の外野手として頭角を現していたものの、前年度に骨折で3か月以上欠場し、前半戦をほぼ棒に振っていた赤星憲広に対しては「赤星は控えで、代走要員」とコメント。キャンプにおいて赤星は必死に存在をアピールした[47]。実際には星野の構想の中で赤星の中堅手レギュラーは確定しており[47]、「赤星はガンガン言って、向かってこさせて伸びるタイプだから、あえてそういう発言をした」ものだった。赤星は5年連続盗塁王を獲獲するなどリーグを代表する選手に成長した。

親族[編集]

  • 父・仙蔵は兵庫県神戸市出身の航空技術者で[48]三菱重工業名古屋航空機製作所(三菱自動車工業の前身)に勤めていた。1943年、岡山県倉敷市水島に三菱重工業水島航空機製作所が開設され、その工場長に昇格、家族そろって倉敷市に移り住んだ。父は仙一が母の胎内で七カ月の頃亡くなっている[49]
  • 母・敏子は1912年に浅草紙問屋の娘として生まれた。名古屋市立第三高等女学校(愛知県立旭丘高等学校の前身の一つ)を出て、1935年に名古屋にいた仙蔵に出会って結婚した。仙蔵が亡くなった後の敏子は工場の寮母として働く傍ら、仙一と2人の姉を育てた。[50][51]
  • 子供は娘が二人いる[52]
  • 筒井壮[53](筒井の実母が仙一の2番目の姉)にあたる[要出典]

交友関係[編集]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1969 中日 49 16 6 1 1 8 9 -- -- .471 754 187.2 157 24 45 3 9 99 0 1 72 65 3.12 1.08
1970 41 24 6 1 0 10 14 -- -- .417 835 205.0 172 19 63 4 4 146 3 0 90 83 3.64 1.15
1971 35 6 0 0 0 9 5 -- -- .643 419 103.2 99 11 20 2 1 72 0 0 46 40 3.47 1.15
1972 48 0 0 0 0 9 8 -- -- .529 404 98.2 71 12 39 9 5 70 1 0 33 22 2.01 1.11
1973 44 15 7 1 3 16 11 -- -- .593 676 166.0 134 16 55 9 3 96 2 1 57 56 3.04 1.14
1974 49 17 7 1 1 15 9 10 -- .625 758 188.0 149 19 50 8 7 137 3 0 67 60 2.87 1.06
1975 40 26 6 3 1 17 5 4 -- .773 883 217.2 208 20 48 9 11 112 2 0 71 67 2.77 1.18
1976 20 20 6 3 1 10 6 0 -- .625 557 132.2 141 20 26 0 8 60 1 1 64 58 3.93 1.26
1977 42 30 13 3 1 18 13 5 -- .581 1029 245.2 245 26 71 2 12 125 4 0 105 96 3.52 1.29
1978 34 9 2 0 0 5 8 14 -- .385 404 92.0 106 10 36 6 2 47 0 0 55 50 4.89 1.54
1979 28 25 4 1 0 10 7 0 -- .588 665 154.1 168 29 51 3 7 85 1 0 90 80 4.67 1.42
1980 29 22 4 1 0 6 12 1 -- .333 573 129.2 143 25 44 3 6 70 2 1 79 73 5.07 1.44
1981 23 23 4 0 0 10 9 0 -- .526 602 142.0 152 20 37 4 4 69 3 0 67 62 3.93 1.33
1982 18 10 1 0 0 3 5 0 -- .375 303 66.0 77 15 21 0 3 37 0 0 43 39 5.32 1.48
通算:14年 500 243 66 15 8 146 121 34 -- .547 8862 2128.2 2022 266 606 62 82 1225 22 4 939 851 3.60 1.23
  • 各年度の太字はリーグ最高

打撃成績[編集]

654打数134安打(.205)15本 59打点

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1987年 中日 2位 130 68 51 11 .571 8.0 168 .265 3.64 40歳
1988年 1位 130 79 46 5 .632 (12.0) 131 .258 3.20 41歳
1989年 3位 130 68 59 3 .535 15.5 149 .256 3.68 42歳
1990年 4位 131 62 68 1 .477 26.0 162 .264 4.26 43歳
1991年 2位 131 71 59 1 .546 3.0 178 .262 3.59 44歳
1996年 2位 130 72 58 0 .554 5.0 179 .278 4.01 49歳
1997年 6位 136 59 76 1 .437 24.0 115 .243 4.33 50歳
1998年 2位 136 75 60 1 .556 4.0 100 .248 3.14 51歳
1999年 1位 135 81 54 0 .600 (6.0) 120 .263 3.39 52歳
2000年 2位 132 69 63 0 .523 8.0 111 .266 4.19 53歳
2001年 5位 140 62 74 4 .456 15.0 98 .253 3.48 54歳
2002年 阪神 4位 140 66 70 4 .485 19.0 122 .253 3.41 55歳
2003年 1位 140 87 51 2 .630 (14.5) 141 .287 3.53 56歳
2011年 楽天 5位 144 66 71 7 .482 23.5 53 .245 2.85 64歳
2012年 4位 144 67 67 10 .500 7.5 52 .252 2.99 65歳
2013年 1位 144 82 59 3 .582 (7.5) 97 .267 3.51 66歳
通算:16年 2173 1134 986 53 .535 Aクラス10回、Bクラス6回
  • 2000年、出場停止5日間の3試合(1勝2敗)は通算成績に含まない(監督代行は島野育夫
  • 1987年から1996年は130試合制、1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)、2001年から2004年は140試合制、2007年から144試合制
  • 太字は日本一
  • 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
1988年 中日 日本シリーズ 西武ライオンズ
パ・リーグ1位)
1勝4敗=敗退
1999年 日本シリーズ 福岡ダイエーホークス
(パ・リーグ1位)
1勝4敗=敗退
2003年 阪神 日本シリーズ 福岡ダイエーホークス
(パ・リーグ1位)
3勝4敗=敗退
2013年 楽天 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1)
千葉ロッテマリーンズ
(パ・リーグ3位)
4勝1敗=日本シリーズ進出(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ
セ・リーグ1位)
4勝3敗=日本一
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※2 アドバンテージの1勝を含む

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100勝:1977年7月8日、対阪神タイガース12回戦(ナゴヤ球場)、9回3失点完投勝利 ※史上69人目
  • 1000奪三振:1979年6月26日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、1回裏にマイク・ラインバックから ※史上57人目
  • 500試合登板:1982年10月12日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、8回表に6番手で救援登板、1回3失点 ※史上50人目

背番号[編集]

  • 22 (1969年 - 1970年)
  • 20 (1971年 - 1982年)
  • 77 (1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2011年 - )

関連情報[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『星野仙一の巨人軍と面白く戦う本』(文藝春秋、1983年4月)
  • 『星野仙一のすばらしき野球野郎』(日刊スポーツ出版社、1983年9月)
  • 『野球スペシャル』(文藝春秋、1986年7月)
  • 『燃えて勝つ:我れ再び巨人と闘わん』(実業之日本社、1987年1月、ISBN 4408130826
  • 『星野仙一のインターネット熱闘譜』(ごま書房、1996年11月)
  • 『燃えた、信じた、勝った!:'99・V奪回までの「炎のことば」』(東京新聞出版局、1999年11月、ISBN 4808306921
  • 『ハードプレイ・ハード―勝利への道』(2000年3月、文藝春秋
  • 『勝利への道』(2002年4月、文春文庫、文藝春秋、前出の『ハードプレイ・ハード―勝利への道』の文庫化及び一部改定版)
  • 『迷ったときは、前に出ろ!:タイガース再生への道、険しくとも』(2002年10月、主婦と生活社
  • 『星野仙一闘将日記』(2003年9月、実業之日本社)
  • 『完全燃焼:闘将日記完結編』(2003年11月、実業之日本社)
  • 『夢:命を懸けたV達成への647日』(2003年10月3日、角川書店ISBN 978-4-0488-3851-1
  • 『人を動かす組織を動かす』(2004年7月、NHK人間講座、NHK出版
  • 『シンプル・リーダー論:命を懸けたV達成への647日』(2005年4月、文春文庫、文藝春秋)
  • 『やるだけやったら、それでいい。:愛と勇気のリーダー語録』(2007年3月2日、PHP研究所
  • 『星野流』(2007年11月8日、世界文化社/改訂版、2011年1月28日)
    • 内容の大半が『ハードプレイ・ハード―勝利への道』と重複。

共編著[編集]

  • 『闘将・星野ドラゴンズV1五つの秘密』(中日番記者グループ共著、未来出版、1988年10月、ISBN 4943901190
  • 『人を動かす人を活かす』(山本七平共著、かんき出版、1989年1月、ISBN 4761252545
  • 『こころのキャッチボール:星野仙一「夢」対談』(編著、エフエー出版、1993年10月、ISBN 4872080491
  • 『選手たちよくやった!』(NHK衛星ハイビジョン局「星野仙一」取材班共著、2003年10月、日本放送出版協会

出演[編集]

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

ディスコグラフィ[編集]

星野仙一役を演じた俳優・声優[編集]

ドラマ[編集]

アニメ[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P29
  2. ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、P37
  3. ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P37-P38
  4. ^ a b 週刊ベースボール2013年12月2日号 P36
  5. ^ a b c 【8月26日】1981年(昭56) 宇野勝ヘディング事件 星野仙一が怒ったもう一つの理由”. スポーツニッポン (2007年8月26日). 2012年8月23日閲覧。
  6. ^ 稲尾については、『神様、仏様、稲尾様』(日経ビジネス人文庫版)よりP229-234「気持ちで投げる星野仙一」を参照。
  7. ^ 近藤貞雄「野球はダンディズム」朝日新聞社、1988年、p66
  8. ^ a b 夢 命を懸けたV達成への647日、P110
  9. ^ 当時、中日はシーズン途中で高木守道が休養、代行を務めた徳武定祐も同じくシーズン途中で休養となり、シーズン終了までは島野育夫が代行の代行を務めていた。
  10. ^ a b c d 日本プロ野球事件史―1934ー2013、ベースボール・マガジン社、2013年、P100
  11. ^ 伊藤和雄、咲本淳一著、勝利護身の神星野仙一 文芸社、2003年、P134
  12. ^ 日本プロ野球平成の名将―1989ー2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P42
  13. ^ ハードプレイ・ハード 勝利への道、2000年、P115
  14. ^ 野村克也著『あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由』2008/02/10出版 角川書店[要ページ番号]
  15. ^ a b c d 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P78
  16. ^ 『阪神タイガース 栄光の75年 1935-2010』(2010年、ベースボール・マガジン社発行) p90
  17. ^ 「選手がかわいそうだった」星野監督 一問一答 MSN産経ニュース2008/08/23[リンク切れ]
  18. ^ 清水満「采配より見事な“すり替え戦術”」 MSN産経ニュース 2008/08/26[リンク切れ]
  19. ^ “星野・阪神SD、退団を正式表明” (日本語). 読売新聞. (2010年10月19日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20101019-OYT1T00727.htm 2010年10月19日閲覧。 [リンク切れ]
  20. ^ 「東北を熱くする!」星野仙一監督就任会見
  21. ^ 現役時代の登録がすべて投手という意味。投手経験のある通算1000勝以上の監督は川上哲治など、他に4人いる
  22. ^ 1000勝は通過点…星野監督2000勝まで燃え続けるスポーツニッポン 2012年5月12日
  23. ^ 初勝利は中日時代の1987年4月12日(巨人戦)。それから25年後、1918試合目での達成となった
  24. ^ 週刊ベースボール 2012年6月18日号
  25. ^ “星野チルドレンで楽天首位ターンあるぞ”. nikkansports.com. (2012年7月16日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20120716-984080.html 2012年10月12日閲覧。 
  26. ^ 「21世紀ドラフト検証」、『週刊ベースボール』2012年12月3日号、ベースボール・マガジン社、 15頁、 雑誌20441-12/3。
  27. ^ “星野監督が腰痛欠場…28日巨人戦も微妙”. nikkansports.com. (2014年5月28日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140527-1307610.html 2014年5月27日閲覧。 
  28. ^ “楽天・星野監督が休養 腰痛のため歩行困難”. nikkansports.com. (2014年5月26日). http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/270661/ 2014年5月27日閲覧。 
  29. ^ 星野仙一監督 休養のお知らせ楽天球団公式サイト2014年5月27日配信
  30. ^ 星野仙一監督の手術に関して球団公式サイト2014年6月17日配信
  31. ^ 星野監督は全パ“総監督”に 佐藤代行が球宴指揮 理事会で方針スポーツニッポン2014年6月30日配信
  32. ^ 星野監督が球宴のパ・リーグ監督に決定 代行交代で決断スポーツニッポン2014年7月3日配信
  33. ^ 楽天・星野監督 球宴辞退…体調の回復が間に合わずスポーツニッポン2014年7月12日配信
  34. ^ 星野監督が笑顔見せ球場入り、冗談めかして「正座して待っとけよ」スポーツニッポン2014年7月24日配信
  35. ^ 星野監督「一番嫌いな負け方」 61日ぶり復帰戦飾れずため息スポーツニッポン2014年7月25日配信
  36. ^ 星野仙一 『勝利への道』 文春文庫、2002年、ISBN 978-4167656348
  37. ^ 『野球が好きだ』 サンケイスポーツ(関西版)2008/10/18付
  38. ^ 三浦勝男「できることは何でも協力する」 大阪ニッカンスポーツ2002/04/06付
  39. ^ a b 星野「WBCでも負ける」―五輪惨敗でわかった短期決戦に弱いリーダー AERA2008年09月08日号
  40. ^ 週刊ベースボール 2012年6月11日号
  41. ^ 【8月9日】1987年(昭62) 18歳11カ月、近藤真一 初登板でノーヒッター - Sponichi Annex
  42. ^ 開幕戦先発出場のセ・リーグ高卒新人は、阪神の並木輝男、巨人の王貞治以来29年ぶり3人目。パ・リーグを含めても、近鉄の飯田幸夫以来22年ぶり。また、立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセでは皆無、パで2006年西武の捕手炭谷銀仁朗・2011年オリックス・バファローズ右翼手駿太のみ。また、立浪以後、高卒新人で規定打席に達した選手はいない。
  43. ^ 山本昌、74-75頁。
  44. ^ NIKE BASEBALL newaslater VOL.3
  45. ^ 但し、この功績は後任の山田久志落合博満によるものが大きい
  46. ^ Sports Graphic Number 626号42-43項
  47. ^ a b サンケイスポーツ特別号[要追加記述]、19頁。
  48. ^ 『勝利護身の神星野仙一』 文芸社伊藤和雄咲本淳一2003年
  49. ^ ハードプレイ・ハード 勝利への道、2000年、P36
  50. ^ 野球日本代表監督 星野仙一:悲願の「金」 人生の総決算読売新聞』 2008年1月18付
  51. ^ グレートマザー物語 テレビ朝日2005年9月4日放送分
  52. ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、P194
  53. ^ 『ドラゴンズファンブック '97』 中日新聞社、1997年
  54. ^ アジア予選は勝てる布陣で - 大阪日日新聞・2007年5月16日
  55. ^ 2010年当時、各種プロ野球名鑑で日本テレビの野球解説者として紹介。
    • 『2010プロ野球全選手カラー写真名鑑』(『週刊ベースボール別冊』桜花号。2010年4月20日、ベースボール・マガジン社発行)…「日本テレビ(スポット)」と明記。
    • 『12球団全選手カラー百科名鑑2010』(『廣済堂ベストムック』151号。2010年2月17日発売、廣済堂あかつき発行。ISBN 4331801543)…「日本テレビほか」と明記。
  56. ^ 江川いよいよクビ? 日テレ解説陣決定ウラ事情(『ZAKZAK』2010年2月1日付。インターネット・アーカイブ2010年2月1日付保存キャッシュ)より、2010年度の日本テレビプロ野球中継解説者一覧表(リンク先には、JPG画像=同2014年5月5日付保存キャッシュとして掲載) ※一覧内では、レギュラーとスポットが明記されており、星野はスポットに分類。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]