星野仙一
| 東北楽天ゴールデンイーグルス 監督 #77 | |
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2011年8月30日、こまちスタジアムにて
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 岡山県倉敷市 |
| 生年月日 | 1947年1月22日(66歳) |
| 身長 体重 |
180 cm 80 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年4月13日 |
| 最終出場 | 1982年10月12日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。現役時代のポジションは投手。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス監督。
愛称は「仙ちゃん」「仙さん」。
目次 |
経歴 [編集]
プロ入りまで [編集]
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園を目指したが、予選を突破することはできなかった。最後の夏は東中国大会決勝で、米子南高校に敗れた。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。
高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田[1]、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが[1]、当時の倉敷商の矢吹監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[1]。1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には立教大戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩には読売ジャイアンツで活躍した高田繁がいた。
大学時代は島岡吉郎監督の薫陶を受け、明治大学政治経済学部経済学科卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[2]。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。
プロ選手時代 [編集]
1968年、ドラフト1位で当時水原茂率いる中日ドラゴンズに入団。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。中日のエースナンバーである20に変更後も非常に愛着のある番号だったという。入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。ロッテとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、チームも2勝4敗で日本一を逃した。
大学4年時のドラフトに際しては、読売ジャイアンツとの間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。
巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。この時の星野について、当時阪神の中心打者の1人だった藤田平は雑誌での江夏豊との対談で、「そういう風に考えているときのほうが得てしていいボールが来るもんなんやね。ぜんぜん打てる気がせんかった」と語っている。なお、江夏はこの試合前に阪神の幹部に「勝たんでええ」と言われていたという。
珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。[3]宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。[3]その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)。[3]
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。
1981年からは投手コーチを兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている。」と記している[4]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。
引退後 [編集]
中日監督時代 [編集]
1983年から1986年までNHKで野球解説者、日刊スポーツ[5]、Number[5]の野球評論家を務め、1985年にはサンデースポーツの初代司会者に就任。1986年シーズン途中で休養した山内一弘の後任として、同年オフに中日監督に就任。日本プロ野球史上初の戦後生まれの監督となった。就任後はロッテオリオンズから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。伸び悩んでいた中村武志・彦野利勝には鉄拳制裁で、山本昌を米留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手宇野を二塁手に、捕手中尾を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新する。特にレギュラー捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、試合中に星野に殴られた中村が鼻血を出してプレーしているということもあったという。
こうしたチームづくりの結果、1988年にはチームはリーグ優勝する。中日生え抜きで優勝した監督は星野だけである。日本シリーズでは西武ライオンズに1勝4敗で敗れた。
1991年限りで「健康上の理由」(表向きの理由であり、実際には夫人の白血病発症が大きく関係していた)で辞任。1992年のみ中部日本放送の客員解説者を務め、1993年から1995年は再びNHK解説者、1992年から1995年まで中日スポーツ客員。また沢村賞の選考委員を務めていた(1994年から1995年まで)。1995年9月20日に監督復帰が発表され[6]直後に愛甲猛を無償トレードで獲得、更に前田幸長・村田勝喜も交換トレードで獲得。
1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことでチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を交換トレードで獲得し二宮至が外野守備コーチに就任した。1998年は2位と持ち直す。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩をFAで獲得した1999年は、1954年の西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初だった。日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに1勝4敗で敗れた。
2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。この年、「健康上の理由」で辞任。ナゴヤドーム最終戦で勇退セレモニーが行われた。なお、このとき星野は、同年に巨人監督を退任する長嶋茂雄から「辞めるのはまだ早いから、辞めたらだめだ!!!」と電話を受けたという。
大型補強を行う一方、生え抜き選手を放出することも多かった。第1期監督時代には、中尾、大島康徳や牛島和彦、平野謙、山田和利、音重鎮(第2次監督時代に中日復帰)、第2次監督時代では、酒井忠晴、仁村徹、前原博之、清水雅治、大豊泰昭(上記久慈との交換相手であったが3年後に復帰)、矢野輝弘、門倉健、鶴田泰、種田仁などを他球団に放出した。これらの放出により、特に第1次政権時の主力選手は谷沢健一、宇野勝、川又米利を除いてほとんど放出されてしまい、そのうち谷沢は星野の就任と入れ替わりに引退した(就任1年目のオープン戦に引退試合を行った)。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、小松辰雄が最多勝を争っていた際は、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。1991年には、最優秀防御率のタイトルがかかっていた今中慎二を、既に優勝が決まっていた広島戦のダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目にも登板させた。1996年には山崎武司に本塁打王を獲得させるため、1本差で追っていた松井秀喜を全打席敬遠。巨人ファンはもとより中日ファンからも非難の声が上がった。当の本人は「松井にタイトルを取られると同じ数であっても山崎は注目されず、注目度の高い松井のものになってしまう」と発言した。1999年は、既に中日の優勝が決定し日本シリーズ出場が決まっていたが、最多勝まであと1つと迫っていた野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト戦)に中4日登板させた。また、「MVPは優勝球団から」を記者にアピールし、成績で勝る上原浩治への投票を牽制した。
1987年6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。
1996年9月20日、東京ドームでの読売ジャイアンツ戦終了後引き揚げてくる審判団を持ち受け[7]、上本孝一審判員に「誰に頼まれた。公平にやれ」と暴言を吐き[7]、もみ合いになった際に田中俊幸審判員に蹴るという暴行を働いた[7]。翌日セ・リーグは星野に厳重戒告と制裁金100万の処分が科された[7]。
2000年5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から球審を務めていた橘高淳に抗議、暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では立浪和義、大西崇之も審判員への暴行により退場処分となり、後日星野、立浪、大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。
監督時代、第一製薬(現・第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品の叉焼麺・坦々麺・カレーライス(田淵幸一・山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場。
阪神監督時代 [編集]
中日監督を退任した直後の2001年オフ、低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫を中日からヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。
星野を久万オーナーに推薦したのは前任監督・野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。[8]
就任1年目の2002年には4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録したが、途中で失速し結果的に4位に終わる。同年オフには、広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らを引き入れ(トレード)、投打の大型補強を行った。
翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアス、ジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠、赤星憲広、藤本敦士、吉野誠ら若手が急成長し首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに3勝4敗で敗れる。
しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮をヘッドコーチの島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという。
日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。のちに行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布を倍以上差をつけ1位になっている[9]。
阪神監督退任後 [編集]
2004年1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクターに就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受けた。
アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務めている。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。野球解説者としては放送局に契約しないフリーランスの形で各局のテレビ中継に出演している。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタートしたが、2008年に閉鎖。
2005年8月、巨人の次期監督候補とされていると報道された。のちに星野自身が固辞。
2006年10月よりスタートした、日本テレビ系列の『NEWS ZERO』のスペシャルコメンテーターに就任。
北京五輪監督 [編集]
2007年1月25日、翌年にひかえた北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を自身の個人名義で商標登録出願した。「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わった。
北京代表監督としての星野への評価については「北京オリンピック野球日本代表#本戦での結果・評価」を参照
北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった」と結果の出なかった選手達を擁護した[10]。一方、自分の采配についての発言が、多くのマスコミやネット上から責任転嫁として批判の対象となった[11]。
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第1回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人監督の原辰徳が引き受けることとなった。
WBC代表監督選考問題については「2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表」を参照
楽天監督時代 [編集]
2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティー番組「星野仙一の熱血・仙一夜」がMBSラジオにて放送される。同年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神退団を発表した[12]。その後、同27日に仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った[13]。選手・監督通じて初めてパ・リーグの球団のユニフォームに袖を通すこととなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。
2011年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地Kスタ宮城が損壊した事もあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球協会の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。
2012年5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督[14]、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した[15][16]。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた[17]。岩隈久志、山崎武司の退団に加え、前半戦は田中将大、松井稼頭央、嶋基宏、ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直、辛島航、枡田慎太郎、銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた[18][19]。5月20日、ソフトバンクと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。
2013年4月19日の対ロッテ4回戦(QVCマリンフィールド)において、8回表二死一塁の場面で、アンドリュー・ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久が放った外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして退場処分を受けた。(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)
人物 [編集]
- 小学6年生のときには同じ学年の障害を持った友人を1年間毎日、おんぶして学校まで登校していたと自著で述べている[20]。
監督として [編集]
良い監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており[21]、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた[22]。週刊誌AERAは「マスコミを味方に付けた状況判断と手際のよさは天才的」と評し、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評している[23]。
中日監督時代より「闘将」と称されるほど数多くの激しい抗議をしていたが、元セ・リーグ審判員の谷博によればほとんどがファンを盛り上げるための演技で、審判に断りを入れてから開始していたという。阪神時代もグラウンド上で闘将ぶりを発揮したが、一方でマナーの向上をファンにアピール。それに感化されて、観客席の雰囲気は健康的になったという。[独自研究?]
中日監督時代から高卒ルーキーの抜擢や若手の育成に定評がある[24]。
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- 中日監督時代
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- 山本昌は入団5年目まで一軍登板一回、0勝で解雇されてもおかしくない状況だったが、1988年2月、業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、若手選手5人と共に野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[27]。実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれていたが、星野は山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一抹の期待を掛けられてのものだった。山本はベロビーチで腐りかけていた野球への情熱を取り戻し、先発陣の柱に君臨、防御率1点台で1A のオールスターにも文句なしで選ばれた。帰国後に5勝を挙げてリーグ優勝に貢献。その後200勝を達成したほか、最多奪三振、最優秀防御率、沢村賞など投手タイトルのほとんどを獲る大投手となり、現在も現役で活躍。その他、今中慎二や川上憲伸も早い時点で先発ローテーション投手に抜擢しセ・リーグを代表する投手に育てている[28]。
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- 阪神監督時代
- 2002年、前任の野村克也に才能を認められながらも伸び悩んでいた井川慶を開幕投手に抜擢。3-1で勝っていたが9回裏、松井秀喜のセンター前と清原和博の内野安打で無死一、二塁のピンチを迎える。変えるべきか投手コーチの佐藤義則に相談されたが星野は振り向きもせず「勝っとるんや。そのままいけっ」とマウンドに行こうともせず続投させた。井川は後続を抑えて完投勝利。206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。井川は翌年、リーグ最多の20勝を達成してリーグ優勝に貢献したほか、2005年以外毎年200イニングを投げ、5年連続二桁勝利を挙げて日本を代表するエース投手となる。星野は「普通、ピッチャーはホームランを打たれると気後れが出てスピードが3,4キロ落ちるけどこの日の井川にはそれがなかった。4回に清原に一発を打たれても臆することなく、8回まではヒット1本だ。9回の松井のセンター前もポテンヒットだったし、清原のヒットも内野への当たり損ねや。ピンチだからってバタバタする必要はなかった」と振り返っている[31]。
親族 [編集]
- 父・仙蔵は神戸市出身で[33]、戦前は名古屋の三菱航空機製作所(三菱自動車工業の前身)に勤めていた。後に工場が岡山県倉敷市水島に三菱自動車工業水島製作所としての移転に伴い工場長に昇格し、家族そろって倉敷市に移り住んだ。しかし、仙一が誕生する3ヶ月前に脳腫瘍で死去した[要出典]。
- 母・敏子は1912年に浅草の紙問屋の娘として生まれた。名古屋市立第三高等女学校(愛知県立旭丘高等学校の前身の一つ)を出て、1935年に名古屋にいた仙蔵に出会って結婚した。仙蔵が亡くなった後の敏子は工場の寮母として働く傍ら、仙一と2人の姉を育てた。[34][35]
- 子供は娘が二人いる[36]。
- 筒井壮は甥[37](筒井の実母が仙一の2番目の姉)にあたる[要出典]。
交友関係 [編集]
- 野球関係では、中日時代の先輩にあたる板東英二、大学時代の同級生である田淵幸一・山本浩二などとの親交が有名。北京オリンピック野球日本代表では田淵・山本がコーチとして入閣したほか、2010年に星野が楽天監督となった際には田淵をヘッドコーチに招聘した。
- 芸能関係では主に和田アキ子、明石家さんまとは年に1回ゴルフするなどの仲で、歌手の小田和正、やしきたかじんとも親交深い。
- 元三井住友FG・日本郵政社長の西川善文、ファッションデザイナーのコシノヒロコなどと交友がある。星野の大阪後援会では西川が会長、コシノが副会長(婦人部部長)を務めている。[38]
詳細情報 [編集]
年度別投手成績 [編集]
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969 | 中日 | 49 | 16 | 6 | 1 | 1 | 8 | 9 | -- | -- | .471 | 754 | 187.2 | 157 | 24 | 45 | 3 | 9 | 99 | 0 | 1 | 72 | 65 | 3.12 | 1.08 |
| 1970 | 41 | 24 | 6 | 1 | 0 | 10 | 14 | -- | -- | .417 | 835 | 205.0 | 172 | 19 | 63 | 4 | 4 | 146 | 3 | 0 | 90 | 83 | 3.64 | 1.15 | |
| 1971 | 35 | 6 | 0 | 0 | 0 | 9 | 5 | -- | -- | .643 | 419 | 103.2 | 99 | 11 | 20 | 2 | 1 | 72 | 0 | 0 | 46 | 40 | 3.47 | 1.15 | |
| 1972 | 48 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 8 | -- | -- | .529 | 404 | 98.2 | 71 | 12 | 39 | 9 | 5 | 70 | 1 | 0 | 33 | 22 | 2.01 | 1.11 | |
| 1973 | 44 | 15 | 7 | 1 | 3 | 16 | 11 | -- | -- | .593 | 676 | 166.0 | 134 | 16 | 55 | 9 | 3 | 96 | 2 | 1 | 57 | 56 | 3.04 | 1.14 | |
| 1974 | 49 | 17 | 7 | 1 | 1 | 15 | 9 | 10 | -- | .625 | 758 | 188.0 | 149 | 19 | 50 | 8 | 7 | 137 | 3 | 0 | 67 | 60 | 2.87 | 1.06 | |
| 1975 | 40 | 26 | 6 | 3 | 1 | 17 | 5 | 4 | -- | .773 | 883 | 217.2 | 208 | 20 | 48 | 9 | 11 | 112 | 2 | 0 | 71 | 67 | 2.77 | 1.18 | |
| 1976 | 20 | 20 | 6 | 3 | 1 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 557 | 132.2 | 141 | 20 | 26 | 0 | 8 | 60 | 1 | 1 | 64 | 58 | 3.93 | 1.26 | |
| 1977 | 42 | 30 | 13 | 3 | 1 | 18 | 13 | 5 | -- | .581 | 1029 | 245.1 | 245 | 26 | 71 | 2 | 12 | 125 | 4 | 0 | 105 | 96 | 3.52 | 1.29 | |
| 1978 | 34 | 9 | 2 | 0 | 0 | 5 | 8 | 14 | -- | .385 | 404 | 92.0 | 106 | 10 | 36 | 6 | 2 | 47 | 0 | 0 | 55 | 50 | 4.89 | 1.54 | |
| 1979 | 28 | 25 | 4 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 665 | 154.1 | 168 | 29 | 51 | 3 | 7 | 85 | 1 | 0 | 90 | 80 | 4.67 | 1.42 | |
| 1980 | 29 | 22 | 4 | 1 | 0 | 6 | 12 | 1 | -- | .333 | 573 | 129.2 | 143 | 25 | 44 | 3 | 6 | 70 | 2 | 1 | 79 | 73 | 5.07 | 1.44 | |
| 1981 | 23 | 23 | 4 | 0 | 0 | 10 | 9 | 0 | -- | .526 | 602 | 142.0 | 152 | 20 | 37 | 4 | 4 | 69 | 3 | 0 | 67 | 62 | 3.93 | 1.33 | |
| 1982 | 18 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 303 | 66.0 | 77 | 15 | 21 | 0 | 3 | 37 | 0 | 0 | 43 | 39 | 5.32 | 1.48 | |
| 通算:14年 | 500 | 243 | 66 | 15 | 8 | 146 | 121 | 34 | -- | .547 | 8862 | 2128.2 | 2022 | 266 | 606 | 62 | 82 | 1225 | 22 | 4 | 939 | 851 | 3.60 | 1.23 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績 [編集]
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1987年 | 中日 | 2位 | 130 | 68 | 51 | 11 | .571 | 8.0 | 168 | .265 | 3.64 | 40歳 |
| 1988年 | 1位 | 130 | 79 | 46 | 5 | .632 | (12.0) | 131 | .258 | 3.20 | 41歳 | |
| 1989年 | 3位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 15.5 | 149 | .256 | 3.68 | 42歳 | |
| 1990年 | 4位 | 131 | 62 | 68 | 1 | .477 | 26.0 | 162 | .264 | 4.26 | 43歳 | |
| 1991年 | 2位 | 131 | 71 | 59 | 1 | .546 | 3.0 | 178 | .262 | 3.59 | 44歳 | |
| 1996年 | 2位 | 130 | 72 | 58 | 0 | .554 | 5.0 | 179 | .278 | 4.01 | 49歳 | |
| 1997年 | 6位 | 136 | 59 | 76 | 1 | .437 | 24.0 | 115 | .243 | 4.33 | 50歳 | |
| 1998年 | 2位 | 136 | 75 | 60 | 1 | .556 | 4.0 | 100 | .248 | 3.14 | 51歳 | |
| 1999年 | 1位 | 135 | 81 | 54 | 0 | .600 | (6.0) | 120 | .263 | 3.39 | 52歳 | |
| 2000年 | 2位 | 132 | 69 | 63 | 0 | .523 | 8.0 | 111 | .266 | 4.19 | 53歳 | |
| 2001年 | 5位 | 140 | 62 | 74 | 4 | .456 | 15.0 | 98 | .253 | 3.48 | 54歳 | |
| 2002年 | 阪神 | 4位 | 140 | 66 | 70 | 4 | .485 | 19.0 | 122 | .253 | 3.41 | 55歳 |
| 2003年 | 1位 | 140 | 87 | 51 | 2 | .630 | (14.5) | 141 | .287 | 3.53 | 56歳 | |
| 2011年 | 楽天 | 5位 | 144 | 66 | 71 | 7 | .482 | 23.5 | 53 | .245 | 2.85 | 64歳 |
| 2012年 | 4位 | 144 | 67 | 67 | 10 | .500 | 7.5 | 52 | .252 | 2.99 | 65歳 | |
| 通算:15年 | 2029 | 1052 | 927 | 50 | .532 | Aクラス9回、Bクラス6回 | ||||||
※2000年、出場停止5日間の3試合(1勝2敗)は通算成績に含まない
- 1987年から1996年は130試合制、1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)、2001年から2004年は140試合制、2007年から144試合制
- 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
タイトル [編集]
- 最多セーブ投手:1回 (1974年)(セ・リーグの初代最多セーブ投手)
表彰 [編集]
- 沢村賞:1回 (1974年)
- 月間MVP:2回 (1975年9月、1977年8月)
- 正力松太郎賞:1回 (2003年)
- 報知プロスポーツ大賞特別功労賞 (2003年)
記録 [編集]
- オールスターゲーム選出:6回 (1969年、1974年 - 1976年、1979年、1981年)
- 初記録
- 初登板・初先発:1969年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、2回3失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1969年5月5日、対広島東洋カープ6回戦(福井県営球場)、6回2/3を1失点
- 初奪三振:同上、1回裏に山本浩司から
- 初完投:1969年5月22日、対大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、8回3失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1969年9月3日、対広島東洋カープ20回戦(中日スタヂアム)、9回2失点
- 初完封勝利:1969年9月14日、対アトムズ24回戦(中日スタヂアム)
- 初セーブ:1974年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、8回裏2死に2番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 節目の記録
- 100勝:1977年7月8日、対阪神タイガース12回戦(ナゴヤ球場)、9回3失点完投勝利 ※史上69人目
- 1000奪三振:1979年6月26日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、1回裏にマイク・ラインバックから ※史上57人目
- 500試合登板:1982年10月12日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤ球場)、8回表に6番手で救援登板、1回3失点 ※史上50人目
背番号 [編集]
- 22 (1969年 - 1970年)
- 20 (1971年 - 1982年)
- 77 (1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2011年 - )
関連情報 [編集]
著書 [編集]
- 燃えて勝つ―我れ再び巨人と闘わん(1987/01、実業之日本社)
- 星野仙一のインターネット熱闘譜(1996年11月、ごま書房)
- 燃えた、信じた、勝った!(1999年11月、東京新聞出版局)
- ハードプレイ・ハード―勝利への道(2000年3月、文藝春秋)
- 勝利への道(2002年4月、文春文庫、文藝春秋)
- 迷ったときは、前に出ろ!―タイガース再生への道、険しくとも(2002年10月、主婦と生活社)
- 星野仙一闘将日記(2003年9月、実業之日本社)
- 完全燃焼―闘将日記完結編(2003年11月、実業之日本社)
- 夢―命を懸けたV達成への647日(2003年10月3日、角川書店)ISBN 978-4-0488-3851-1
- 人を動かす組織を動かす(2004年7月、NHK人間講座、NHK出版)
- シンプル・リーダー論―命を懸けたV達成への647日(2005年4月、文春文庫、文藝春秋)
- やるだけやったら、それでいい。愛と勇気のリーダー語録(2007年3月2日、PHP研究所)
- 星野流(2007年11月8日、世界文化社)
- 改訂版 星野流(2011年1月28日、世界文化社)
共著 [編集]
- 人を動かす人を活かす(山本七平、1989年1月、かんき出版)
- 選手たちよくやった!(NHK衛星ハイビジョン局「星野仙一」取材班 、2003年10月、日本放送出版協会)
出演 [編集]
テレビ出演 [編集]
- NEWS ZERO(日本テレビ系列)- 番組開始から楽天監督就任までは、スペシャルキャスターとして不定期で出演。監督就任後も、プロ野球シーズンには、スポーツコーナーで試合終了後のコメントを「闘将、語る。Hoshino Voice」とのタイトルで放送することがある。
- 課外授業 ようこそ先輩(NHK総合)(2005年1月30日)
CM出演 [編集]
星野仙一役を演じた俳優・声優 [編集]
ドラマ [編集]
- 東幹久:泣くなセン!燃える男 星野仙一物語(1988年12月31日)
- 石橋貴明:星野仙一物語 〜亡き妻へ贈る言葉(TBS系:2005年1月2日)
アニメ [編集]
脚注 [編集]
- ^ a b c 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P29
- ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、P37
- ^ a b c “【8月26日】1981年(昭56) 宇野勝ヘディング事件 星野仙一が怒ったもう一つの理由”. スポーツニッポン (2007年8月26日). 2012年8月23日閲覧。
- ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P37-P38
- ^ a b 夢 命を懸けたV達成への647日、P110
- ^ 当時、中日はシーズン途中で高木守道監督が休養、代行を務めた徳武定祐も同じくシーズン途中で休養となり、徳武の休養からシーズン終了までは島野育夫が監督代行を務めていた。
- ^ a b c d 日本プロ野球事件史―1934ー2013、ベースボール・マガジン社、2013年、P100
- ^ 野村克也著『あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由』2008/02/10出版 角川書店
- ^ 阪神タイガース 栄光の75年 1935-2010 p90
- ^ 「選手がかわいそうだった」星野監督 一問一答 MSN産経ニュース2008/08/23[リンク切れ]
- ^ 清水満「采配より見事な“すり替え戦術”」 MSN産経ニュース 2008/08/26[リンク切れ]
- ^ “星野・阪神SD、退団を正式表明” (日本語). 読売新聞. (2010年10月19日) 2010年10月19日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 「東北を熱くする!」星野仙一監督就任会見
- ^ 現役時代の登録がすべて投手という意味。投手経験のある通算1000勝以上の監督は川上哲治など、他に4人いる
- ^ 1000勝は通過点…星野監督2000勝まで燃え続けるスポーツニッポン 2012年5月12日
- ^ 初勝利は中日時代の1987年4月12日(巨人戦)。それから25年後、1918試合目での達成となった
- ^ 週刊ベースボール 2012年6月18日号
- ^ “星野チルドレンで楽天首位ターンあるぞ”. nikkansports.com. (2012年7月16日) 2012年10月12日閲覧。
- ^ 「21世紀ドラフト検証」、『週刊ベースボール』2012年12月3日号、ベースボール・マガジン社、 15頁、 雑誌20441-12/3。
- ^ 星野仙一 『勝利への道』 文春文庫、2002年、ISBN 978-4167656348。
- ^ 『野球が好きだ』 サンケイスポーツ(関西版)2008/10/18付
- ^ 三浦勝男「できることは何でも協力する」 大阪ニッカンスポーツ2002/04/06付
- ^ 星野「WBCでも負ける」―五輪惨敗でわかった短期決戦に弱いリーダー AERA2008年09月08日号
- ^ 週刊ベースボール 2012年6月11日号
- ^ 【8月9日】1987年(昭62) 18歳11カ月、近藤真一 初登板でノーヒッター - Sponichi Annex
- ^ 開幕戦先発出場のセ・リーグ高卒新人は、阪神の並木輝男、巨人の王貞治以来29年ぶり3人目。パ・リーグを含めても、近鉄の飯田幸夫以来22年ぶり。また、立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセでは皆無、パで2006年西武の捕手炭谷銀仁朗・2011年オリックス・バファローズの右翼手駿太のみ。また、立浪以後、高卒新人で規定打席に達した選手はいない。
- ^ 山本昌、74-75頁。
- ^ 月刊中日ドラゴンズ 2002年7月号
- ^ 月刊中日ドラゴンズ 2003年7月号
- ^ NIKE BASEBALL newaslater VOL.3
- ^ Sports Graphic Number 626号42-43項
- ^ a b サンケイスポーツ特別号、19頁。
- ^ 『勝利護身の神星野仙一』 文芸社伊藤和雄・咲本淳一、2003年
- ^ 野球日本代表監督 星野仙一:悲願の「金」 人生の総決算『読売新聞』 2008年1月18付
- ^ グレートマザー物語 テレビ朝日2005年9月4日放送分
- ^ 夢 命を懸けたV達成への647日、P194
- ^ 「ドラゴンズファンブック '97」 中日新聞社、1997年
- ^ アジア予選は勝てる布陣で - 大阪日日新聞・2007年5月16日
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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