斎藤隆 (野球)

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斎藤 隆
Takashi Saito
アリゾナ・ダイヤモンドバックス #48
001U2900 Takashi Saito.jpg
レッドソックス時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県仙台市
生年月日 1970年2月14日(42歳)
身長
体重
6' 2" =約188cm
215 lb =約97.5kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1992年4月7日
MLB / 2006年4月9日
年俸 $1,750,000 (2012年)
経歴(括弧内は在籍年)

斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手投手)。アリゾナ・ダイヤモンドバックスに所属。

愛称は「Sammy」(サミー)。

正確な苗字の表記は「斎藤」だが、本人はブログで「斉藤」と書くことも多い。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

東北高校時代は一塁手であったが、東北福祉大学2年時に投手に転向。

1991年ドラフト会議横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団。推定契約金1億円、年俸は900万円であった。同期に三浦大輔永池恭男らがいる。

[編集] 大洋・横浜時代

ルーキーイヤーの1992年にプロ初登板を果たすと翌年からは先発ローテーションに入りし、1994年には開幕から91回2/3連続被本塁打0を続けるなどしてオールスターゲームに初出場した。

1996年にプロ入り初の2桁勝利を記録し、奪三振206で最多奪三振のタイトル獲得したが、翌1997年は春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨を発見したため除去手術を行い、シーズンを棒に振る。

1998年4月5日に復帰し、4月29日には583日ぶりの勝利を味わう。この年13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。セ・リーグカムバック賞を受賞し、日本シリーズでは優秀選手に選ばれた。

1999年佐々木主浩フリーエージェントシアトル・マリナーズに移籍したため、2001年には、当時の森祇晶監督の「俺はお前と心中する」という言葉でストッパーに転向。この年7勝1敗27セーブ、防御率1.67の成績を挙げる。この時の経験が後の先発、そしてメジャーでの生活に活きたと本人は述べている。

2002年のオフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局横浜と3年で総額7億3,000万円の契約を結んで残留した。その後、先発に復帰するも度重なる故障などで本来の投球ができず、3年間でわずか11勝にとどまった。

2005年のオフ、斎藤は「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となり、ジョー・アーボンと代理人契約を結ぶ。だが36歳になる高齢であることやNPBでの不振が続いていたことから斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからなかった。

[編集] メジャーリーグ時代

[編集] ロサンゼルス・ドジャース

ドジャース時代(2007)

2006年2月7日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。7試合に登板して防御率4.09、WHIP1.27の成績に終わり、3月23日にAAA級ラスベガス行きを通告され、チームの開幕戦はスタンドで観戦したという。しかしレギュラーシーズン開幕直後にクローザーを務めていたエリック・ガニエが右肘を痛めて故障者リスト入りし、入れ替わりで4月7日にメジャーに昇格。9日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー初登板、18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾り、チームメイトのサンディー・アロマー・ジュニアから「ウェルカム・トゥ・ザ・ビッグリーグ!」と声をかけられ祝福されたという。当初はセットアッパーとして起用されていたが、登板8試合目まで無失点、4月は12試合に登板し13回を7安打1失点15奪三振。6月にはガニエの再度の故障を受けてクローザーに指名され、5月15日のコロラド・ロッキーズ戦でメジャー初セーブを挙げる。6月2日にガニエが復帰したため一時セットアッパーに戻ったが、ガニエの右肘痛再発により再びクローザーに指名され、7月5日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦まで15試合連続無失点を記録。9月18日のサンディエゴ・パドレス戦はチームのプレーオフ進出に向けて絶対に落とせなかった試合だったが、9回表に1点ビハインドの状況からマウンドに上がるも制球が定まらず打ち込まれ、差を4点に広げられてしまう。ベンチに戻ってからはガックリ下を向いていたが、チームメイトが「上を向け」、「おまえがいたからここまで来られたんだ」、「俺達が点を取ってやるから見てろ」と励ましたという。9回裏、奮起したドジャース打線が反撃を開始、4番のジェフ・ケントから4者連続でソロ本塁打を打ち同点に追いつく[1]。この後10回表に再び1点を勝ち越されるもその裏、斎藤を一番に励ましていたというノマー・ガルシアパーラが逆転サヨナラ2ランをレフトに放ち、劇的な勝利を収めた[1]。「ノマーとは運命的なものを感じる」と泣きながら感謝の言葉を口にした[2]。ガルシアパーラは24日のダイヤモンドバックス戦でもサヨナラ満塁本塁打を放ち、斎藤に白星をつけた。30日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では球団新人記録となる24セーブ目を挙げる。

この年はチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.91、同じく両リーグ最多となる107奪三振の好成績を挙げ、後にピッツバーグ・パイレーツと契約する桑田真澄は、この斎藤の成功が、自身にメジャー挑戦を決断させたと語っている。ポストシーズンではニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズで2試合に登板し2回2/3を無得点に抑えたものの、リードした場面での登板機会はなくチームは3連敗を喫した。オフには1年100万ドル(約1億1500万円)、出来高30万ドルで契約を更新。

ロアイザ、プロクター、ブロクストン、バイムルら他のドジャース投手陣と(2008年)

2007年もクローザーとして起用され、開幕から順調にセーブを積み重ねる。6月には負けが込んでいたチームの悪い雰囲気をぬぐい去るため、試合後にロサンゼルスの店で侍の衣装を購入し、次の試合前に侍の格好でロッカールームを歩き回ってチームメイトたちを笑わせた(次の日の試合前にも侍姿で登場した。普段は滅多に笑わないジェフ・ケントも好評だったという)。また本人のブログによると、対戦相手のニューヨーク・メッツの選手にも大ウケされ、和ませてしまったらしい[3]。26日のダイヤモンドバックス戦では日本人メジャー最高球速となる99mph約159km/h)を記録[4]。これはレギュラーシーズン中に日本人選手の計測した球速としては伊良部秀輝五十嵐亮太山口和男を抜いて歴代最速となった(2010年由規が161km/hを記録して更新)。この試合では98mph(約158km/h)も計時し、本人によれば日本での自己最速は153km/hであったため「この年で99マイルはどうなんですかね」と本人も半信半疑だったが、球場内の表示とテレビ中継の表示は共に同じ数字を示していた[4]。また同日に記録したセーブによりメジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功を収め、初セーブ機会からの救援成功率で44/48のガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。前半戦だけで23セーブを挙げるなど変わらぬ安定感が評価され、7月11日に行われたオールスターゲームに監督推薦で初出場。最速97mph(約156km/h)を計時し1イニングを三者凡退に抑えた。8月にも抜群の安定感を示し、月間MVPは候補に留まったものの、日本人投手初となる月間最優秀救援賞を受賞した。

シーズンも佳境となった9月19日、ロッキーズとのダブルヘッダー第二戦で1点リードの9回裏に登板。熾烈を極めるワイルドカード争いの中で迎えたこの一戦で、まさかの逆転サヨナラ2ランを浴びシーズン初黒星を喫する。結果的にロッキーズはこの勝利から奇跡的な快進撃を続け、サンディエゴ・パドレスとのワンデイプレーオフを制してワイルドカードを獲得。ドジャースは急激に調子を落とし、ワイルドカード争いから脱落することとなってしまった。しかし斎藤はこの年ナ・リーグ3位の39セーブ、リーグのリリーフ投手の中で最も低い防御率1.40とWHIP0.72を記録(メジャー全体ではJ.J.プッツの防御率1.38、WHIP0.70に次ぐ2位)するなど抜群の成績を残した。

オフには年俸200万ドル(約2億1600万円)+出来高20万ドルでドジャースと再契約を結ぶ。また毎年オフに発表されるアメリカのスポーツ統計専門会社イライアス・スポーツ・ビューローによる現役メジャー格付けランキングにおいて、ナ・リーグの救援投手部門トップの評価を受けた(日本人メジャーリーガーでは初のランク1位)。このランキングはFA補償の公式資料として認知されており、投手の場合は登板数、防御率など、あらゆる成績から独自の計算式で得点化している。補償に関しては過去2年分の成績が対象となる。2年間通算で63セーブはリーグ7番目(最多はトレバー・ホフマンによる88セーブ)だったが、2年間通算でそれぞれリーグ1位の防御率1.77、WHIP0.82、被打率.166、奪三振率11.67が評価された。

2008年もクローザーとして起用され、前半戦は防御率2.18、WHIP1.06と好投を続けていたが、7月12日のフロリダ・マーリンズ戦で右肘靭帯を痛め故障者リスト入り。9月15日のピッツバーグ・パイレーツ戦で復帰したが、復帰後は防御率4.76、WHIP1.92と本調子を欠き、ポストシーズンでもカブスとのディビジョンシリーズでは3連打を浴び降板。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズではロースターから外れた。

12月13日には契約がまとまらずFAとなり、2009年1月10日ボストン・レッドソックスと2010年の球団オプションを含む年俸150万ドル、出来高600万ドルの1年契約を結んだ[5][6][7]。レッドソックスにはクローザーのジョナサン・パペルボンが所属しているため、マニー・デルカーメン岡島秀樹らと共にセットアッパーとしての起用が見込まれ[5]、契約では「8回とパペルボンの休養日の抑え」と伝えられたと報じられている[8]

[編集] ボストン・レッドソックス

2009年6月11日に日米通算100勝目を挙げ、日米通算100勝100セーブを達成。翌日も勝利投手となり、日本人メジャーリーガー初の2試合連続勝利投手になった[9]。前半戦は防御率3.52、WHIP1.37と振るわず、最終的に奪三振率、与四球率、WHIP共に自己最悪の成績に終わるが、後半戦は防御率1.08、WHIP0.92と好投し、メジャー入り以来4年連続での防御率2.50未満を記録した。翌年の契約オプションは球団側が持っていたが、2010年の年俸となる「2009年の年俸+出来高」が600万ドルという、セットアッパーとしては異例の高額に及んでしまったため、レッドソックスはオプションを行使せずにウェーバー掲示された[10]。12月4日にアトランタ・ブレーブスと1年契約を結んだ。

[編集] アトランタ・ブレーブス

2010年はクローザーのビリー・ワグナーに繋ぐセットアッパーとして起用され、両リーグのリリーフ投手中4位のウェルヒット率(アウトやヒットに関わらず相手打者に良い当たりを打たれた率).124、同ナ・リーグ9位のFIP2.43、同6位の奪三振率11.50を記録するなどチームのプレーオフ進出に貢献[11]。この年は特に速球が効果を発揮し、速球の奪空振り率は両リーグトップの33.5%を記録した[12]。5月30日のパイレーツ戦で初勝利を挙げ、同時に日本人メジャー投手初となる40歳台での勝利を達成。8月8日のジャイアンツ戦で3点リードの9回1死から二塁打を打たれた以外は3者空振り三振に抑え、日本人メジャー投手初となる40歳台でのセーブを達成した。7月31日には日本人メジャー投手では長谷川滋利以来となる5年連続40登板を達成。8月29日にはブライアン・マッキャンのMLB初のビデオ判定によるサヨナラ本塁打で2勝目を記録した。その後も9月16日まで6試合連続無安打無失点と好投を続けるも、9月17日のメッツ戦の8回に2者連続三振を奪った後の3人目の打者へ2球目を投げた後、右肩の痛みを訴え降板。チームがプレーオフ争いを続けていることもあり「薬でも注射でも使って戻ってきたい」と語った[13]。検査の結果右肩腱炎と診断され、故障者リスト入りはせずに10月2日のフィリーズ戦の5点ビハインドの9回に登板し復帰。しかし打者6人と対戦し2安打3四球。1死一、二塁で適時二塁打を許し、さらに満塁で押し出し四球を与え1死しか奪えず降板し、レギュラーシーズンを終了した。

ポストシーズンではジャイアンツとのディビジョンシリーズの選手登録から外れ、リーグチャンピオンシップシリーズでの復帰を目指しフロリダの教育リーグでの調整を命じられていたが、ディビジョンシリーズ第2戦で左脇腹を痛めたビリー・ワグナーに代わり第3戦で選手登録された。しかし登板はなくチームは第4戦で敗退。

10月19日には解雇が発表された[14]。この措置については戦力外的な意味合いではなく元々斎藤側がシーズン後の自由契約を希望しており、今回の措置は契約条項に盛り込まれていたことが球団から明かされた[15]

[編集] ミルウォーキー・ブルワーズ

2011年1月5日ミルウォーキー・ブルワーズと1年契約を結んだ[16]。4月4日のブレーブス戦で左太ももを痛めて故障者リスト入りする。28日にはAAA級ナッシュビルで調整登板したが、左脇腹を痛め降板。6月15日に再びAAA級ナッシュビルで調整登板したが、その後再び左脇腹を痛め、7月2日のミネソタ・ツインズ戦でメジャーに復帰。7月20日のダイヤモンドバックス戦でメジャー通算300試合登板を達成。8月14日のパイレーツ戦では最速94mph(約151km/h)を記録する投球で3勝目を挙げる。後半戦は25試合の登板で3勝1敗8ホールド、防御率1.66、WHIP1.06と好投を続けチーム29年ぶりの地区優勝に貢献し、松井秀喜を抜いて日本人メジャーリーガー史上最多となる5度目のポストシーズン出場を果たした。

ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第2戦では6回に登板。最速93mph(約150km/h)を記録する投球で1回を無失点に抑え、ポストシーズン初白星を記録[17]。チーム29年ぶりのディビジョンシリーズ突破に貢献した[18]セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズではアルバート・プホルスを2打数無安打に抑えて「プホルスが回ったら出番」という指示も受け[19]、第6戦で佐々木主浩に並ぶ日本人メジャーリーガー最長タイ記録となるポストシーズン通算7試合連続無失点を記録する[20]など、プレーオフ計6試合7イニングスを無得点に抑える好投を見せたが、この試合でチームは敗退し、涙で目を腫らしながら「頂上を取って仙台に帰りたかった」と語った[21]ブッシュ・スタジアムでのカージナルスとテキサス・レンジャーズワールドシリーズではNHKテレビ中継で現地からゲスト解説を務めた。

シーズン終了後、ブルワーズと再契約はせずFAとなる。プレーオフでの安定感や過去の実績、豊富な経験を評価され6球団以上が興味を示し、FAランクは日本人選手唯一となるA判定を受け、代理人のネズ・バレロは「彼はワインと同じ。年を重ねるごとに良くなっている」と話した[22]

[編集] アリゾナ・ダイヤモンドバックス

12月14日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと175万ドル(約1億3600万円)で1年契約を結んだ[23]。同球団に日本人選手が所属するのは初。

[編集] 選手としての特徴

スライダー速球を武器に三振を奪い、2010年までメジャー通算の奪三振率は11.0を記録している[24]。他にもカーブツーシームを持ち球とし[25]、かつてはフォークも投げていたが、2009年のレッドソックス移籍に際して、ア・リーグ東地区では自信のあるボールしか通用しないと考え、失投の確率のあるフォークを封印し、速球とツーシーム、スライダー、カーブだけを投げるようになったという[8]

メジャーで成功を収めることができた要因として、持ち球のひとつである右打者の外角へ鋭く逃げるスライダーが、メジャーリーグの外に広いストライクゾーンに適合していたことが挙げられる[26]。加えて左打者へのバックドア(外のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるスライダー)も大きな武器になり、日本ではボールと判定されていたコースでストライクを取れるため、左右に関係なく優位に対戦を進めることができるようになり[4][27]、2007年までドジャースの監督を務めたグレイディ・リトルは「サミーをクローザーに持つということは、銀行に貯金がたくさんあることと同じ。あのスライダーがある限り、崩れることはない」と高く評価した[4]。また、日本時代に比べて10km/h近く球速が増加して2007年には平均球速93.2nph(約150km/h)と最速99mph(約159km/h)を記録[4]。更に40歳を越えてなお平均球速91.8mph(約147.8km/h)と最速95mph(約153km/h)を記録し、2010年には速球の被ウェルヒット率(アウトやヒットに関わらず相手打者に良い当たりを打たれた率)で両リーグ3位の.139、奪空振り率で両リーグ1位の33.5%を記録[12]川上憲伸は「40歳であの球を投げるとは」と驚嘆したという[28]

[編集] 人物

球団ホームページのプロフィールに載っている出身大学名はデビュー以来「Tottoku Fukushi(とっとくふくし)」のまま、2008年に入っても長らく訂正されていなかった。また打席も「Right(右)」と表記されていた(実際は左打ち)。[2]

メジャーリーグが舞台のNHKのテレビアニメメジャーの第6シリーズから野球監修を務めた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1992 大洋
横浜
6 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 76 16.0 18 2 10 0 0 21 2 0 16 15 8.44 1.75
1993 29 23 2 0 0 8 10 0 -- .444 627 149.0 127 15 61 1 6 125 7 0 66 63 3.81 1.26
1994 28 27 7 3 1 9 12 0 -- .429 769 181.0 175 5 69 4 8 169 2 0 70 63 3.13 1.35
1995 26 26 2 0 0 8 9 0 -- .471 682 162.0 166 13 45 1 6 132 1 0 79 71 3.94 1.30
1996 28 27 11 2 0 10 10 0 -- .500 801 196.2 157 31 63 1 11 206 4 1 80 72 3.29 1.12
1998 34 18 1 0 0 13 5 1 -- .722 572 143.2 131 9 23 1 2 101 2 0 49 47 2.94 1.07
1999 26 26 5 2 2 14 3 0 -- .824 754 184.2 178 32 31 0 6 125 1 1 83 81 3.95 1.13
2000 19 19 1 1 0 6 10 0 -- .375 493 115.2 123 17 36 1 3 97 1 0 74 71 5.52 1.37
2001 50 0 0 0 0 7 1 27 -- .875 251 64.2 51 6 14 3 0 60 0 0 12 12 1.67 1.01
2002 39 0 0 0 0 1 2 20 -- .333 197 47.2 37 5 15 3 4 46 0 0 17 13 2.45 1.09
2003 17 17 1 0 0 6 7 0 -- .462 439 103.1 103 16 22 1 9 72 1 0 59 48 4.18 1.21
2004 16 7 0 0 0 2 5 0 -- .286 211 44.1 64 12 13 0 2 37 1 1 41 38 7.71 1.74
2005 21 16 0 0 0 3 4 0 1 .429 457 106.0 111 12 29 1 7 93 2 0 50 45 3.82 1.33
2006 LAD 72 0 0 0 0 6 2 24 7 .750 303 78.1 48 3 23 3 2 107 2 0 19 18 2.07 0.91
2007 63 0 0 0 0 2 1 39 1 .667 234 64.1 33 5 13 0 3 78 0 0 10 10 1.40 0.72
2008 45 0 0 0 0 4 4 18 0 .500 197 47.0 40 1 16 3 2 60 1 0 14 13 2.49 1.19
2009 BOS 56 0 0 0 0 3 3 2 3 .600 240 55.2 50 6 25 2 5 52 1 0 16 15 2.43 1.35
2010 ATL 56 0 0 0 0 2 3 1 17 .400 221 54.0 41 4 17 2 0 69 2 0 20 17 2.83 1.07
2011 MIL 30 0 0 0 0 4 2 0 10 .667 108 26.2 21 2 9 2 1 23 2 0 6 6 2.03 1.13
NPB:13年 339 208 30 8 3 87 80 48 1 .521 6329 1514.2 1441 175 431 17 64 1284 24 3 696 639 3.80 1.24
MLB:6年 322 0 0 0 0 21 15 84 38 .583 1303 326.0 233 21 103 12 13 389 8 0 85 79 2.18 1.03
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグトップ
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

[編集] タイトル

NPB

[編集] 表彰

NPB
MLB
  • 救援最多奪三振:1回 (2006年)
  • 月間最優秀救援:1回 (2007年8月)

[編集] 記録

NPB(初記録)
NPB(節目の記録)
  • 1000投球回:1999年8月21日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、5回裏に宮本慎也を二飛で3死目を取り達成 ※史上281人目
  • 1000奪三振:2001年6月26日、対ヤクルトスワローズ13回戦(長野オリンピックスタジアム)、9回裏に岩村明憲から ※史上104人目
  • 1500投球回:2005年9月19日、対広島東洋カープ19回戦(横浜スタジアム)、5回表に新井貴浩を右飛で2死目を取り達成 ※史上156人目
MLB
  • オールスターゲーム出場:1回 (2007年)
  • 新人セーブ数球団歴代1位(24セーブ、ロサンゼルス・ドジャース、2006年9月28日)
  • 初セーブ機会からの救援成功率メジャー歴代1位(現地2007年6月26日)

[編集] 背番号

  • 11 (1992年 - 2005年)
  • 44 (2006年 - 2008年)
  • 24 (2009年)
  • 40 (2010年 - 2011年)
  • 48 (2012年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ a b September 18, 2006 San Diego Padres at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年3月16日閲覧。
  2. ^ MLB30チーム・レポート シーズン総括編『月刊スラッガー』2007年1月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-1、83頁。
  3. ^ [1]
  4. ^ a b c d e 斎藤隆 ジンクスを物ともせず『月刊スラッガー』2007年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、50-53頁。
  5. ^ a b Busy Red Sox add reliever Saito Ex-LA closer joins Penny, Smoltz, Baldelli as Boston signees”. mlb.com. 2009年1月11日閲覧。
  6. ^ Red Sox sign free agent righthanded pitcher Takashi Saito to one-year contract with option for 2010”. Redsox.com. 2009年1月11日閲覧。
  7. ^ Smoltz says he's determined, focused”. ESPN.com. 2009年1月14日閲覧。
  8. ^ a b 斎藤勲章「日米100勝&100セーブ!」”. スポニチ. 2009年6月13日閲覧。
  9. ^ NHK-BS1 MLBハイライトより引用
  10. ^ http://www.baseballdailydigest.com/2009/11/11/pacific-perspectives-postseason-watch-list/
  11. ^ 2010-11 MLB投手白書 アラカルト 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、45頁。
  12. ^ a b 2010 速球/救援投手部門別ベスト5 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、11頁。
  13. ^ 斎藤「薬でも注射でも使って戻りたい」 日刊スポーツ、2010年9月18日。
  14. ^ “大リーグ・ブレーブス、斎藤隆投手を解雇” (日本語). 読売新聞. (2010年10月20日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20101020-OYT1T00219.htm 2010年10月20日閲覧。 
  15. ^ 手続き上ですが斎藤自由契約、再契約も 日刊スポーツ、2010年10月21日。
  16. ^ Saito signing is officialJSOnline、2011年1月6日。
  17. ^ 41歳斎藤1回0封PO初勝利日刊スポーツ、2011年10月4日。
  18. ^ 斎藤ブ軍29年ぶり地区S突破日刊スポーツ、2011年10月9日。
  19. ^ 斎藤「プホルス・キラー」だ日刊スポーツ、2011年10月15日。
  20. ^ 斎藤は通算7戦連続無失点日刊スポーツ、2011年10月18日。
  21. ^ 斎藤涙の終戦「凄く悔しい」日刊スポーツ、2011年10月18日。
  22. ^ 41歳斎藤に6球団以上が興味=代理人「彼はワインと同じ」時事通信、2011年12月8日。
  23. ^ MLB=斎藤隆、ダイヤモンドバックスに移籍”. ロイター (2011年12月16日). 2011年12月16日閲覧。
  24. ^ 2010-11 MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/救援投手編 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、37頁。
  25. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、283頁。ISBN 978-4-331-51439-9
  26. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』 廣済堂出版、2007年、406頁。ISBN 978-4-331-51213-5
  27. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、438頁。ISBN 978-4-331-51300-2
  28. ^ 衰えない40歳の速球、斎藤、4試合連続無失点 産経新聞、2010年7月7日。

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