斎藤隆 (野球)

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斎藤 隆
東北楽天ゴールデンイーグルス #44
Saito takashi.jpg
2013年5月12日、QVCマリンフィールドにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県仙台市
生年月日 1970年2月14日(44歳)
身長
体重
188 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1992年4月7日
MLB / 2006年4月9日
最終出場 MLB / 2012年
年俸 6,000万円+出来高(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手投手)。

メジャーリーグ時代の愛称は”Sammy”(サミー)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

東北高校時代は2年先輩に後に大学・プロで同じチームメイトになる佐々木主浩と阪神で活躍した葛西稔がいた。3年時には一塁手として、第69回全国高校野球選手権大会に出場している。高校卒業後、東北福祉大学に進学。大学進学後も野手としてプレーしていたが、2年時の練習中に遊びで投手の練習をしていたのを監督が注目し、それがきっかけとなりそのまま本格的に投手に転向した。日米大学の選抜に選ばる程の選手に成長した。

1991年ドラフト会議横浜大洋ホエールズ中日ドラゴンズから1位指名を受け、抽選の結果大洋が指名権を獲得。推定契約金1億円、年俸900万円で入団した。同期に三浦大輔永池恭男らがいる。

大洋・横浜時代[編集]

ルーキーイヤーの1992年、即戦力として期待され、プロ初登板を果たすが未勝利に終わる。

1993年、開幕ローテーションには入れなかったが、ほどなく先発ローテーションに定着し規定投球回をクリアする。新人王有資格者中最多の8勝を挙げたが、伊藤智仁ヤクルト)に敗れ、惜しくも新人王を逃した。

1994年、開幕から91回2/3連続被本塁打0を続けるなど好成績を残し、オールスターゲームに初出場した。しかし、実力はありながらも勝負どころで打たれるなど敗戦が先行し、ローテーション入りをした1993年から1995年の3年間は、なかなか二桁勝利には届かなかった。

1996年、先発投手として独り立ちさせようとした新監督の大矢明彦の采配により11完投をし、プロ入り初の二桁勝利を記録。しかし敗戦も同数の10敗を記録した。奪三振数206で最多奪三振のタイトルを初獲得。4月には自身初の月間MVPも獲得した。一方で31被本塁打を記録し、中でも巨人の松井秀喜に7本塁打を浴びる。

1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨が発見され、除去手術を行う。終盤二軍で登板復帰はしたものの、チームが大躍進をしていた事もあり、1軍登板できずにシーズンを終えた。

1998年、4月5日に中継ぎ投手として復帰登板し、4月29日には583日ぶりの勝利を挙げる。中盤以降先発に復帰を果たし、13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは史上9人目の初登板初完封を挙げる活躍で、優秀選手に選ばれた。セ・リーグカムバック賞を受賞した。

1999年、自己最高の14勝を記録し、敗戦数もわずか3で、.824という高い勝率を記録するも、3年前を越える32被本塁打を記録した。

1999年オフに、チーム不動のリリーフエース佐々木主浩がフリーエージェントでアメリカ・メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍して以降、チームに確固とした抑え投手が不在だっため、2001年に就任した新監督の森祇晶は「俺はお前と心中する」という言葉で、当初転向に難色を示していた斎藤をストッパーに転向させる。転向は成功し、7勝1敗27セーブ、防御率1.67の好成績を挙げる。この時の経験が後の先発、そしてメジャーでの生活に活きたと本人は述べている。

2002年も抑え投手として活躍。オフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局横浜と3年で総額7億3,000万円の契約を結んで残留した。新監督の山下大輔の意向により、2003年からは先発に復帰するも精彩を欠き、度重なる故障などもあって本来の投球ができず、3年間でわずか11勝にとどまった。

2005年のオフ、斎藤は「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となり、ジョー・アーボンと代理人契約を結ぶ。だが36歳になる高齢であることや、この数年不振が続いていたことから、斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからなかった。

ドジャース時代[編集]

ドジャース時代(2007)

2006年2月7日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。7試合に登板して防御率4.09、WHIP1.27の成績に終わり、3月23日にAAA級ラスベガス行きを通告され、チームの開幕戦はスタンドで観戦したという。しかしレギュラーシーズン開幕直後にクローザーを務めていたエリック・ガニエが右肘を痛めて故障者リスト入りしたため、入れ替わりで4月7日にメジャーに昇格。9日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー初登板、18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾り、チームメイトのサンディー・アロマー・ジュニアから「ウェルカム・トゥ・ザ・ビッグリーグ!」と声をかけられ祝福されたという。当初はセットアッパーとして起用されていたが、登板8試合目まで無失点、4月は12試合に登板し13回を7安打1失点15奪三振の好成績を残すと、5月にはガニエの代役を務めていたダニス・バエスに代わってクローザーに指名され、5月15日のコロラド・ロッキーズ戦でメジャー初セーブを挙げる。6月2日にガニエが復帰したため一時セットアッパーに戻ったが、ガニエの右肘痛再発により再びクローザーに指名され、7月5日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦まで15試合連続無失点を記録。

9月18日のサンディエゴ・パドレス戦はチームのプレーオフ進出に向けて絶対に負けることのできない試合だったが、9回表に1点ビハインドの状況からマウンドに上がるも制球が定まらず打ち込まれ、差を4点に広げられてしまう。ベンチに戻ってからはうなだれて下を向いていたが、チームメイトから「上を向け」、「おまえがいたからここまで来られたんだ」、「俺達が点を取ってやるから見てろ」と励まされたという。9回裏、奮起したドジャース打線が反撃を開始、4番のジェフ・ケントから4者連続でソロ本塁打を打ち同点に追いつく[1]。この後10回表に再び1点を勝ち越されるもその裏、斎藤を一番に励ましていたというノマー・ガルシアパーラが逆転サヨナラ2ランをレフトに放ち、劇的な勝利を収めた[1]。「ノマーとは運命的なものを感じる」と泣きながら感謝の言葉を口にした[2]。ガルシアパーラは24日のダイヤモンドバックス戦でもサヨナラ満塁本塁打を放ち、斎藤に白星をつけた。30日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では球団新人記録となる24セーブ目を挙げる。

この年はチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.91、同じく両リーグ最多となる107奪三振の好成績を挙げ、サイ・ヤング賞の選出投票で8位となった[3]。後にピッツバーグ・パイレーツと契約する桑田真澄は、この斎藤の成功が自身にメジャー挑戦を決断させたと語っている。ポストシーズンではニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズで2試合に登板し2回2/3を無得点に抑えたものの、リードした場面での登板機会はなくチームは3連敗を喫した。オフには1年100万ドル(約1億1500万円)、出来高30万ドルで契約を更新。

2007年もクローザーとして起用され、開幕から順調にセーブを積み重ねる。6月には負けが込んでいたチームの悪い雰囲気をぬぐい去るため、試合後にロサンゼルスの店で侍の衣装を購入し、次の試合前に侍の格好でロッカールームを歩き回ってチームメイトたちを笑わせた(次の日の試合前にも侍姿で登場した。普段は滅多に笑わないジェフ・ケントも好評だったという)。また本人のブログによると、対戦相手のニューヨーク・メッツの選手にも大ウケされ、和ませてしまったらしい[4]。26日のダイヤモンドバックス戦では日本人メジャー最高球速となる99mph約159km/h)を記録[5]。これはレギュラーシーズン中に日本人選手の計測した球速としては伊良部秀輝五十嵐亮太山口和男を抜いて歴代最速となった(2010年由規が161km/hを記録して更新)。この試合では98mph(約158km/h)も計時し、本人によれば日本での自己最速は153km/hであったため「この年で99マイルはどうなんですかね」と本人も半信半疑だったが、球場内の表示とテレビ中継の表示は共に同じ数字を示していた[5]。また同日に記録したセーブによりメジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功を収め、初セーブ機会からの救援成功率で44/48のガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。前半戦だけで23セーブを挙げるなど変わらぬ安定感が評価され、7月11日に行われたオールスターゲームに監督推薦で初出場。最速97mph(約156km/h)を計時し1イニングを三者凡退に抑えた。8月にも抜群の安定感を示し、月間MVPは候補に留まったものの、日本人投手初となるDHL デリバリー・マン・オブ・ザ・マンスを受賞した。シーズンも佳境となった9月19日、ロッキーズとのダブルヘッダー第二戦で1点リードの9回裏に登板。熾烈を極めるワイルドカード争いの中で迎えたこの一戦で、逆転サヨナラ2ランを浴びシーズン初黒星を喫する。結果的にロッキーズはこの勝利から奇跡的な快進撃を続け、サンディエゴ・パドレスとのワンデイプレーオフを制してワイルドカードを獲得。ドジャースは急激に調子を落とし、ワイルドカード争いから脱落することとなってしまった。しかし斎藤はこの年ナ・リーグ3位の39セーブ、リーグのリリーフ投手の中で最も低い防御率1.40とWHIP0.72を記録(メジャー全体ではJ・J・プッツの防御率1.38、WHIP0.70に次ぐ2位)するなど抜群の成績を残した。

オフには年俸200万ドル(約2億1600万円)+出来高20万ドルでドジャースと再契約を結ぶ。また毎年オフに発表されるアメリカのスポーツ統計専門会社イライアス・スポーツ・ビューローによる現役メジャー格付けランキングにおいて、ナ・リーグの救援投手部門トップの評価を受けた(日本人メジャーリーガーでは初のランク1位)。このランキングはFA補償の公式資料として認知されており、投手の場合は登板数、防御率など、あらゆる成績から独自の計算式で得点化している。補償に関しては過去2年分の成績が対象となる。2年間通算で63セーブはリーグ7番目(最多はトレバー・ホフマンによる88セーブ)だったが、2年間通算でそれぞれリーグ1位の防御率1.77、WHIP0.82、被打率.166、奪三振率11.67が評価された。

ロアイザ、プロクター、ブロクストン、バイムルら他のドジャース投手陣と(2008年)

2008年もクローザーとして起用され、前半戦は防御率2.18、WHIP1.06と好投を続けていたが、7月12日のフロリダ・マーリンズ戦で右肘靭帯を痛め故障者リスト入り。9月15日のピッツバーグ・パイレーツ戦で復帰したが、復帰後は防御率4.76、WHIP1.92と本調子を欠き、ポストシーズンでもカブスとのディビジョンシリーズでは3連打を浴び降板。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズではロースターから外れた。

レッドソックス時代[編集]

レッドソックス時代(2009年)

2009年1月10日ボストン・レッドソックスと1年150万ドル+出来高600万ドルで契約を結んだ(2年目は球団オプション)[6][7][8]。レッドソックスではマニー・デルカーメン岡島秀樹らと共にセットアッパーとしての起用が見込まれ[6]、契約では「8回とジョナサン・パペルボンの休養日の抑え」と伝えられたと報じられている[9]。6月11日に日米通算100勝目を挙げ、日米通算100勝100セーブを達成。翌日も勝利投手となり、日本人メジャーリーガー初の2試合(2日)連続勝利投手になった[10]。前半戦は防御率3.52、WHIP1.37と振るわず、最終的に奪三振率、与四球率、WHIP共に自己最悪の成績に終わるが、後半戦は防御率1.08、WHIP0.92と好投し、メジャー入り以来4年連続での防御率2.50未満を記録した。翌年の契約オプションは球団側が持っていたが、2010年の年俸となる「2009年の年俸+出来高」が600万ドルという、セットアッパーとしては異例の高額に及んでしまったため、オプションを行使せずにウェーバー掲示された[11]。12月4日にアトランタ・ブレーブスと1年契約を結んだ。

ブレーブス時代[編集]

2010年はクローザーのビリー・ワグナーに繋ぐセットアッパーとして起用され、両リーグのリリーフ投手中4位のウェルヒット率(アウトやヒットに関わらず相手打者に良い当たりを打たれた率).124、同ナ・リーグ9位のFIP2.43、同6位の奪三振率11.50を記録するなどチームのプレーオフ進出に貢献[12]。この年は特に速球が効果を発揮し、速球の奪空振り率は両リーグトップの33.5パーセントを記録した[13]。5月30日のパイレーツ戦で初勝利を挙げ、同時に日本人メジャー投手初となる40歳代での勝利を達成。8月8日のジャイアンツ戦で3点リードの9回1死から二塁打を打たれた以外は3者空振り三振に抑え、日本人メジャー投手初となる40歳代でのセーブを達成した。7月31日には日本人メジャー投手では長谷川滋利以来となる5年連続40登板を達成。8月29日にはブライアン・マッキャンのMLB初のビデオ判定によるサヨナラ本塁打で2勝目を記録した。その後も9月16日まで6試合連続無安打無失点と好投を続けるも、9月17日のメッツ戦の8回に2者連続三振を奪った後の3人目の打者へ2球目を投げた後、右肩の痛みを訴え降板。チームがプレーオフ争いを続けていることもあり「薬でも注射でも使って戻ってきたい」と語った[14]。検査の結果右肩腱炎と診断され、故障者リスト入りはせずに10月2日のフィリーズ戦の5点ビハインドの9回に登板し復帰。しかし打者6人と対戦し2安打3四球。1死一、二塁で適時二塁打を許し、さらに満塁で押し出し四球を与え1死しか奪えず降板し、レギュラーシーズンを終了した。

ポストシーズンではジャイアンツとのディビジョンシリーズの選手登録から外れ、リーグチャンピオンシップシリーズでの復帰を目指しフロリダの教育リーグでの調整を命じられていたが、ディビジョンシリーズ第2戦で左脇腹を痛めたビリー・ワグナーに代わり第3戦で選手登録された。しかし登板はなくチームは第4戦で敗退した。

ブルワーズ時代[編集]

2011年1月5日ミルウォーキー・ブルワーズと1年契約を結んだ[15]。4月4日のブレーブス戦で左太ももを痛めて故障者リスト入りする。28日にはAAA級ナッシュビルで調整登板したが、左脇腹を痛め降板。6月15日に再びAAA級ナッシュビルで調整登板したが、その後再び左脇腹を痛め、7月2日のミネソタ・ツインズ戦でメジャーに復帰。7月20日のダイヤモンドバックス戦でメジャー通算300試合登板を達成。8月14日のパイレーツ戦では最速94mph(約151km/h)を記録する投球で3勝目を挙げる。8月16日には同点の9回表に登板し三者凡退に抑え、その裏味方がサヨナラ勝ちを収めたことによりシーズン4勝目を挙げた(2014年現在、41歳183日での白星は日本人メジャーリーガー最年長勝利記録となっている)。後半戦は25試合の登板で3勝1敗8ホールド、防御率1.66、WHIP1.06と好投を続けチーム29年ぶりの地区優勝に貢献し、松井秀喜を抜いて日本人メジャーリーガー史上最多となる5度目のポストシーズン出場を果たした。

ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第2戦では6回に登板。最速93mph(約150km/h)を記録する投球で1回を無失点に抑え、ポストシーズン初白星を記録[16]。チーム29年ぶりのディビジョンシリーズ突破に貢献した[17]セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズではアルバート・プホルスを2打数無安打に抑えて「プホルスが回ったら出番」という指示も受け[18]、第6戦で佐々木主浩に並ぶ日本人メジャーリーガー最長タイ記録となるポストシーズン通算7試合連続無失点を記録する[19]など、プレーオフ計6試合7イニングスを無得点に抑える好投を見せたが、この試合でチームは敗退し、涙で目を腫らしながら「頂上を取って仙台に帰りたかった」と語った[20]ブッシュ・スタジアムでのカージナルスとテキサス・レンジャーズワールドシリーズでは、NHKテレビ中継で現地からゲスト解説を務めた。

オフにはプレーオフでの安定感や過去の実績、豊富な経験を評価され6球団以上から興味を示され、FAランクは日本人選手唯一となるA判定を受け、代理人のネズ・バレロは「彼はワインと同じ。年を重ねるごとに良くなっている」と話した[21]

ダイヤモンドバックス時代[編集]

12月14日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと1年175万ドル(約1億3600万円)で契約を結ぶ[22]。同球団に日本人選手が所属するのは初となった。

2012年は開幕前に右ふくらはぎを痛め、DL入りして開幕を迎える[23]。その後マイナーで調整を続けていたが、20日に再び右ふくらはぎを痛める。6月からマイナーでのリハビリ登板を始めるが、6月30日には右肩の炎症を起こし[24]、ルーキーリーグでリハビリ登板した後、7月21日にDLから復帰。しかし10試合に登板した後、8月14日に左太もも裏を痛めて再びDL入りし[25]、9月1日に復帰。速球の平均球速は前年と同じ90.7mph(約146km/h)、最速93mph(約150km/h)を記録するも、12回を投げて4本塁打を浴びるなど、16試合の登板で防御率6.76、WHIP1.83を喫する。チームもポストシーズン出場を逃し、シーズン終了後には「今年も全力を出し切ったつもりだが、例年とは違う感じがする。今年ほど体調管理の難しさを感じたことはない」と語った[26]

楽天時代[編集]

12月29日に東北楽天ゴールデンイーグルスと1年契約で合意したことが発表された[27]。横浜時代の2005年以来8年ぶりの日本球界復帰となった。

2013年5月6日オリックス・バファローズ戦(Kスタ宮城)で復帰後初登板、1回を無失点に抑えるとその裏の攻撃で勝ち越したため、日本球界では2768日ぶりの勝利投手となった[28]8月24日の対千葉ロッテマリーンズ戦(Kスタ)では9回1死の場面でダレル・ラズナーの故障を受けての緊急登板で、打者3人を1安打自責点0で抑えて、日本球界では2002年9月25日の対広島戦以来、3986日ぶりのセーブを記録、43歳6カ月でのセーブは日本プロ野球史上2番目の年長記録となった[29]。ロッテとのクライマックスシリーズファイナルステージでは、第4戦で4番手で登板し2/3イニングを抑えて勝利投手となり、ポストシーズン史上最年長勝利投手となった[30]

2014年7月2日のオリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)で、9回1イニングを無失点に抑え、44歳4カ月でセーブを記録。元千葉ロッテマリーンズの小宮山悟が持っていた44歳0カ月の日本プロ野球最年長セーブ記録を更新した[31]7月11日の千葉ロッテマリーンズ戦(コボスタ宮城)でも9回1イニングを無失点に抑え、最年長セーブ記録を更新。7月21日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)で、8回1イニングを無失点に抑え、直後の勝ち越しで44歳4ヶ月で勝利投手となり、右投手最年長勝利記録を記録[32]

選手としての特徴[編集]

スリークォーターからスライダーフォーシームを武器に三振を奪い、2010年までメジャー通算の奪三振率は11.0を記録している[33]。他にもカーブツーシームを持ち球とし[34]、かつてはフォークも投げていたが、2009年のレッドソックス移籍に際して、ア・リーグ東地区では自信のあるボールしか通用しないと考え、失投の確率のあるフォークを封印し、フォーシームとツーシーム、スライダー、カーブだけを投げるようになったという[9]

メジャーで成功を収めることができた要因として、持ち球のひとつである右打者の外角へ鋭く逃げるスライダーが、メジャーリーグの外に広いストライクゾーンに適合していたことが挙げられる[35]。加えて左打者へのバックドア(外のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるスライダー)も大きな武器になり、日本ではボールと判定されていたコースでストライクを取れるため、左右に関係なく優位に対戦を進めることができるようになり[5][36]、2007年までドジャースの監督を務めたグレイディ・リトルは「サミーをクローザーに持つということは、銀行に貯金がたくさんあることと同じ。あのスライダーがある限り、崩れることはない」と高く評価した[5]。また、日本時代に比べて10km/h近く球速がアップし2007年には平均球速93.2mph(約150km/h)と最速99mph(約159km/h)を記録[5]。更に40歳を越えてなお平均球速91.8mph(約147.8km/h)と最速95mph(約153km/h)を記録し、2010年には速球の被ウェルヒット率(アウトやヒットに関わらず相手打者に良い当たりを打たれた率)で両リーグ3位の.139、奪空振り率で両リーグ1位の33.5パーセントを記録[13]川上憲伸は「40歳であの球を投げるとは」と驚嘆したという[37]

人物[編集]

メジャーリーグが舞台のNHKのテレビアニメ『メジャー』の第6シリーズから野球監修を務めた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1992 大洋
横浜
6 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 76 16.0 18 2 10 0 0 21 2 0 16 15 8.44 1.75
1993 29 23 2 0 0 8 10 0 -- .444 627 149.0 127 15 61 1 6 125 7 0 66 63 3.81 1.26
1994 28 27 7 3 1 9 12 0 -- .429 769 181.0 175 5 69 4 8 169 2 0 70 63 3.13 1.35
1995 26 26 2 0 0 8 9 0 -- .471 682 162.0 166 13 45 1 6 132 1 0 79 71 3.94 1.30
1996 28 27 11 2 0 10 10 0 -- .500 801 196.2 157 31 63 1 11 206 4 1 80 72 3.29 1.12
1998 34 18 1 0 0 13 5 1 -- .722 572 143.2 131 9 23 1 2 101 2 0 49 47 2.94 1.07
1999 26 26 5 2 2 14 3 0 -- .824 754 184.2 178 32 31 0 6 125 1 1 83 81 3.95 1.13
2000 19 19 1 1 0 6 10 0 -- .375 493 115.2 123 17 36 1 3 97 1 0 74 71 5.52 1.37
2001 50 0 0 0 0 7 1 27 -- .875 251 64.2 51 6 14 3 0 60 0 0 12 12 1.67 1.01
2002 39 0 0 0 0 1 2 20 -- .333 197 47.2 37 5 15 3 4 46 0 0 17 13 2.45 1.09
2003 17 17 1 0 0 6 7 0 -- .462 439 103.1 103 16 22 1 9 72 1 0 59 48 4.18 1.21
2004 16 7 0 0 0 2 5 0 -- .286 211 44.1 64 12 13 0 2 37 1 1 41 38 7.71 1.74
2005 21 16 0 0 0 3 4 0 1 .429 457 106.0 111 12 29 1 7 93 2 0 50 45 3.82 1.33
2006 LAD 72 0 0 0 0 6 2 24 7 .750 303 78.1 48 3 23 3 2 107 2 0 19 18 2.07 0.91
2007 63 0 0 0 0 2 1 39 1 .667 234 64.1 33 5 13 0 3 78 0 0 10 10 1.40 0.72
2008 45 0 0 0 0 4 4 18 0 .500 197 47.0 40 1 16 3 2 60 1 0 14 13 2.49 1.19
2009 BOS 56 0 0 0 0 3 3 2 3 .600 240 55.2 50 6 25 2 5 52 1 0 16 15 2.43 1.35
2010 ATL 56 0 0 0 0 2 3 1 17 .400 221 54.0 41 4 17 2 0 69 2 0 20 17 2.83 1.07
2011 MIL 30 0 0 0 0 4 2 0 10 .667 108 26.2 21 2 9 2 1 23 2 0 6 6 2.03 1.13
2012 ARI 16 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 60 12.0 17 4 5 1 1 11 1 0 14 9 6.75 1.83
2013 楽天 30 0 0 0 0 3 0 4 4 1.000 111 26.2 25 1 10 0 1 25 2 0 7 7 2.36 1.31
2014 31 0 0 0 0 1 1 3 9 .500 134 31.1 27 2 15 2 2 21 2 0 9 9 2.59 1.34
NPB:15年 400 208 30 8 3 91 81 55 14 .529 6574 1572.2 1493 178 456 19 67 1330 28 3 712 655 3.75 1.24
MLB:7年 338 0 0 0 0 21 15 84 40 .583 1363 338.0 250 25 108 13 14 400 9 0 99 88 2.34 1.06
  • 2014年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB
MLB

記録[編集]

NPB(初記録)
  • 初登板・初先発:1992年4月7日、対広島東洋カープ1回戦(横浜スタジアム)、4回1/3を3失点で敗戦投手
  • 初奪三振:同上、1回表に野村謙二郎から
  • 初勝利・初完投勝利:1993年4月29日、対読売ジャイアンツ4回戦(横浜スタジアム)、9回1失点
  • 初安打・初打点:同上、7回裏に桑田真澄から左中間適時二塁打
  • 初完封勝利:1994年4月10日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤ球場
  • 初セーブ:1998年4月12日、対読売ジャイアンツ3回戦(横浜スタジアム)、6回表に2番手として救援登板・完了、4回無失点
  • 初ホールド:2005年7月10日、対広島東洋カープ7回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、7回表2死に2番手として救援登板、1/3回無失点
NPB(節目の記録)
  • 1000投球回数:1999年8月21日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、5回裏3死目に宮本慎也を二飛で達成 ※史上281人目
  • 1000奪三振:2001年6月26日、対ヤクルトスワローズ13回戦(長野オリンピックスタジアム)、9回裏に岩村明憲から ※史上104人目
  • 1500投球回数:2005年9月19日、対広島東洋カープ19回戦(横浜スタジアム)、5回表2死目に新井貴浩を右飛で達成 ※史上156人目
NPB(その他)
  • ポストシーズン最年長勝利投手:43歳8カ月、2013年10月21日、対千葉ロッテマリーンズ戦(クリネックススタジアム宮城)、7回途中から登板、クライマックスシリーズファイナルステージ第4戦
  • 最年長セーブ:44歳4カ月、2014年7月11日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(コボスタ宮城)、9回表に6番手として登板、1回無失点
MLB

背番号[編集]

  • 11 (1992年 - 2005年)
  • 44 (2006年 - 2008年、2013年 - )
  • 24 (2009年)
  • 40 (2010年 - 2011年)
  • 48 (2012年)

脚注[編集]

  1. ^ a b September 18, 2006 San Diego Padres at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年3月16日閲覧。
  2. ^ MLB30チーム・レポート シーズン総括編『月刊スラッガー』2007年1月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-1、83頁。
  3. ^ 2006 Awards Voting” (英語). Baseball-Reference. 2013年8月31日閲覧。
  4. ^ [1]
  5. ^ a b c d e 斎藤隆 ジンクスを物ともせず『月刊スラッガー』2007年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、50-53頁。
  6. ^ a b Busy Red Sox add reliever Saito Ex-LA closer joins Penny, Smoltz, Baldelli as Boston signees”. mlb.com. 2009年1月11日閲覧。
  7. ^ Red Sox sign free agent righthanded pitcher Takashi Saito to one-year contract with option for 2010”. Redsox.com. 2009年1月11日閲覧。
  8. ^ Smoltz says he's determined, focused”. ESPN.com. 2009年1月14日閲覧。
  9. ^ a b 斎藤勲章「日米100勝&100セーブ!」”. スポニチ. 2009年6月13日閲覧。
  10. ^ NHK-BS1 MLBハイライトより引用
  11. ^ http://www.baseballdailydigest.com/2009/11/11/pacific-perspectives-postseason-watch-list/
  12. ^ 2010-11 MLB投手白書 アラカルト 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、45頁。
  13. ^ a b 2010 速球/救援投手部門別ベスト5 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、11頁。
  14. ^ 斎藤「薬でも注射でも使って戻りたい」 日刊スポーツ、2010年9月18日。
  15. ^ Saito signing is officialJSOnline、2011年1月6日。
  16. ^ 41歳斎藤1回0封PO初勝利日刊スポーツ、2011年10月4日。
  17. ^ 斎藤ブ軍29年ぶり地区S突破日刊スポーツ、2011年10月9日。
  18. ^ 斎藤「プホルス・キラー」だ日刊スポーツ、2011年10月15日。
  19. ^ 斎藤は通算7戦連続無失点日刊スポーツ、2011年10月18日。
  20. ^ 斎藤涙の終戦「凄く悔しい」日刊スポーツ、2011年10月18日。
  21. ^ 41歳斎藤に6球団以上が興味=代理人「彼はワインと同じ」時事通信、2011年12月8日。
  22. ^ 斎藤隆、ダイヤモンドバックスに移籍”. ロイター (2011年12月16日). 2011年12月16日閲覧。
  23. ^ 斎藤残念「開幕前なので慎重に」日刊スポーツ、2012年4月5日。
  24. ^ 斎藤は右肩の炎症「長くなりそう」日刊スポーツ、2012年7月2日。
  25. ^ 斎藤が再びDL入り 左太もも裏痛める日刊スポーツ、2012年8月15日。
  26. ^ 斎藤終戦も「引退思い浮かばない」日刊スポーツ、2012年10月4日
  27. ^ 斎藤隆選手との契約合意に関して東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト 2012年12月29日。
  28. ^ “楽天・斎藤、復帰初登板で2768日ぶり勝利!”. SANSPO.COM. (2013年5月6日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20130506/gol13050617040001-n1.html 2013年5月6日閲覧。 
  29. ^ 楽天 斎藤 日本3986日ぶりセーブ 緊急登板もあせりなしスポーツニッポン2013年8月25日配信
  30. ^ 斎藤 PS史上最年長勝利投手、短期決戦強い!3戦3勝スポーツニッポン2013年10月22日配信
  31. ^ 楽天の斎藤 最年長セーブ記録更新NHK NewsWEB 2014年7月2日配信
  32. ^ 楽天44歳斎藤が右投手最年長勝利更新 デイリー 2014年7月22日
  33. ^ 2010-11 MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/救援投手編 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、37頁。
  34. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、283頁。ISBN 978-4-331-51439-9
  35. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』 廣済堂出版、2007年、406頁。ISBN 978-4-331-51213-5
  36. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、438頁。ISBN 978-4-331-51300-2
  37. ^ 衰えない40歳の速球、斎藤、4試合連続無失点 産経新聞、2010年7月7日。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]