今中慎二

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今中 慎二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府門真市
生年月日 1971年3月6日(43歳)
身長
体重
182 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年5月26日
最終出場 2001年7月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2012 - 2013)

今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者。愛称はチューまたはイマチュー1993年から4年連続で開幕投手を務めるなど、1990年代NPBを代表する左腕として活躍した[1]

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

門真市古川橋駅周辺で生まれ[2]、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた[3]。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった[3][4]。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった[3]門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている[3]。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという[3]。練習を見学した際に、手の長い左投手として関心を持った大阪産大高校(大東校舎)[注釈 1]から誘われ、野球部の強化を進めていた同校に進学[3]。当時の監督は山本泰であった。

入学当初は目立った存在ではなかったが、すぐに見違えるような速球を投げるようになり、同校を訪れた田丸仁(当時、阪神スカウト)からも高評価を受けたという[3]。1年夏の大阪府大会からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対PL学園戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、立浪和義野村弘を擁して翌年に春夏連覇を果たす強豪をよく抑え、NPBスカウトらから注目を集めるようになった[3]。2年の冬にはクモ膜下出血で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが[5]、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。

3年生に進級した1988年度より大東校舎は大阪桐蔭高校として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦敗退し[6]、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの速球[7]などによって全球団のスカウトが来校[6]するほど高い注目を集めており、1988年のドラフト会議中日ドラゴンズに1位指名を受けた。担当スカウトは法元英明で、契約金と年俸それぞれ6,000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる[8]。大阪桐蔭から初のプロ野球入りした選手である。ちなみに同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳(元日本ハム捕手。ドラフト外で入団)がいる。

プロ選手時代[編集]

現役前半[編集]

プロ1年目の1989年近藤真一上原晃の例に倣い、キャンプからオープン戦の期間は二軍でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた[7]新宅洋志稲葉光雄の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み[7]、早くも5月26日にはナゴヤ球場での対巨人戦で一軍初登板を果たした[6]。9月17日の広島での対広島戦では先発して北別府学と投げ合い、2回にマメを潰しながらもアロンアルフアで固めて5回を投げ[6]プロ初勝利を挙げた。オフの秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチが来ており、当時MLBで流行していたスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークボールを習得した[9]

1990年、キャンプで投手コーチの池田英俊にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した[10]。また、シンカーの習得にも挑戦した[11]。3月4日に守備練習でノックの球をヒザに当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に豊橋で行われたダイエーとのオープン戦では村田勝喜と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せた[10]。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された[12]。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった[13]ものの、先発ローテーションに定着し、6完投など規定投球回に達して10勝を記録している。

1991年オールスターゲームに初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は佐々岡真司との最優秀防御率を争い、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトルを逃した。

1992年は4月19日の対巨人戦でゴロの打球が左手首に当たって骨折し、3ヶ月後の夏場に復帰している[14]。骨折が直って間もない頃はなかなか握力が戻らず、軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛みが走った。しかし、なぜかカーブだけは痛みが無く投げられたため、リハビリとしてカーブだけを用いた遠投キャッチボールを続けた。最初のうちはコントロールがつかなかったが次第にコツを掴み、これが今中の決め球ともいえるスローカーブを習得したきっかけだという[15][14]、また前腕の筋肉を鍛える中で左ひじの遊離軟骨が偶然くっついたとも述べている[16]。同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。

1993年、自身初の開幕投手を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し[13]、7月6日の対ヤクルトでは当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し[13]、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から池山隆寛に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の10.8決戦と並んで、現役時代で最も印象に残っているという[17]。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利最多奪三振などに輝き、審査項目を全て満たして沢村賞を受賞した。ちなみに、1990年代で審査項目を全て満たしたのは、今中以外には1991年の佐々岡真司のみである。また、ベストナインゴールデングラブ賞にも選出されている。

1994年オールスターゲームで第2戦の9回に登板し、イチローらを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴える事はなかった。10.8決戦では試合に先立って中村武志ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれるほど信頼を集めており、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという[18]。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている[19]

1995年、疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた[18]が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。同年のオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また、MLBのスカウトからは同年に渡米した野茂英雄より高い評価を受けており、シンシナティ・レッズ監督のデーブ・ジョンソンからシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという[20]

1996年、4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する[21]などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の東京ドームでの対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後のオールスターゲームは出場を辞退し、代わりに吉井理人が出場している[21]。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて[21]更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。

現役後半[編集]

1997年、キャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ[22]、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された[23]。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスローペースな調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対ロッテ戦では球速が最高124km/hにとどまっている[23]。更に試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録されて6月8日のナゴヤドームでの対巨人戦でリリーフとしてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた[24]。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた[25]が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの宮田征典が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた[24]12月6日に結婚式を挙げ、鈴木宗男夫妻が媒酌人を務めている[26]

1998年、肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で勝利を挙げて復活の兆しを見せている[27]。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野仙一に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された[27]。秋からはそれまで強く拒否していたウエイトトレーニングにも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行っている[24]

1999年、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど状態が悪化していた[28]。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、福岡市の病院で改めて検査を受けた[19]。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている[28]。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の神宮での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師と共に夜釣りをしていたという[6]。ダイエーとの日本シリーズの際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている[28]

2000年、11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている[28]。一方、2001年は1月の伊良湖での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの山田久志に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった[28]。キャンプ直前の1月30日には読谷球場のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、フォークシュートを駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対阪神戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた[29]。同年は7試合に登板したものの、気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え[30]、他球団からも獲得の打診があったという[19]。11月10日に引退の記者会見を開いた[19]

現役引退後[編集]

2002年3月23日にナゴヤドームでのオリックスとのオープン戦の際に引退セレモニーが行なわれ、谷佳知と対戦した後に長男から花束が贈呈された[31]。また、同年よりNHKの野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか中日スポーツ野球評論家も務めている。2009年のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。2010年も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sersに所属している。

2012年シーズンより古巣中日の二軍投手コーチに就任。同シーズン後に権藤博一軍投手コーチが退団したことに伴い、一軍投手コーチに就任した。2013年当初はブルペン担当だったが、チームの不振により6月12日の対西武戦から近藤真市投手コーチと入れ替わりでベンチ担当となった。10月15日、球団より来季の契約を結ばない事が発表された[32]2014年からは再びNHKの野球解説者(主に総合テレビ東海ローカルの中日主管試合、BSのメジャーリーグ中継に出演)として活動する。

プレースタイル[編集]

投球スタイル[編集]

細身の体型から全盛期には最速150km/近い[33]のキレの良いストレートと100km/h前後のスローカーブフォークボールや70-80km/hという超スローカーブ[34]を混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からはチェンジアップも使っていた[34]。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、捕手中村武志がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという[34]。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えるフォームだったため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった[18]

先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃からフォークボールを混ぜていった[35]。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという[35]。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような山本昌とは対照的だったと中村武志は評している[18]。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった[18]

外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使う事を重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた[36]

スローカーブ[編集]

スローカーブは1992年に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で和田豊に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという[37]人差し指中指をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って親指は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという[38]。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた[18]

打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという[14]。このためバッターは腰砕けになる事が多く、トーマス・オマリーをはじめ外国人バッターに特に嫌がられた[18]原辰徳に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全てファウルになっており[18]、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず[34]、球速が遅いため打者が必ず反応する[15]など使い勝手が良い球だったという。

フォークボール[編集]

指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし1989年の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、1991年頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった[35]。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという[9]

握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが[34]、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた[22]1994年から対戦するようになった落合博満にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている[22]

成績[編集]

自身の通算記録では74完投を挙げたことが誇りだったという[13]。与死球が少なく1994年1995年には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており[39]、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。対巨人戦で多く登板する先発ローテーションを組まれたこともあってこのカードで25勝を挙げた巨人キラーであるが[13]金田正一江夏豊の3年連続5勝以上の記録には一歩及ばなかった。

また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と左打者によく打たれている[40]。これについては、「昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった」、と引退後の2002年に語っている[40]

他の選手との関係[編集]

落合博満前田智徳には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した[17]。この二人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子のバロメーターでもあったという[17]。投手では桑田真澄が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかった事に加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた[17]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1989 中日 10 7 0 0 0 1 4 0 -- .200 200 40.2 71 5 17 0 0 30 1 0 32 31 6.86 2.16
1990 31 19 6 1 1 10 6 1 -- .625 641 144.2 169 12 54 2 4 85 2 0 67 62 3.86 1.57
1991 36 27 8 4 2 12 13 0 -- .480 822 193.0 192 10 59 6 3 167 6 0 66 54 2.52 1.31
1992 11 8 6 1 2 8 2 0 -- .800 294 76.1 52 8 19 2 0 66 0 0 17 15 1.77 0.93
1993 31 30 14 3 0 17 7 1 -- .708 982 249.0 183 20 59 1 2 247 5 0 67 61 2.20 0.98
1994 28 25 14 2 1 13 9 3 -- .591 785 197.0 166 18 42 2 0 156 8 0 68 63 2.88 1.06
1995 25 24 15 3 3 12 9 0 -- .571 773 189.0 178 18 45 2 0 150 6 1 72 69 3.29 1.18
1996 25 24 11 2 1 14 8 0 -- .636 757 179.2 175 13 57 0 1 153 8 0 75 66 3.31 1.30
1997 10 8 0 0 0 2 2 0 -- .500 195 44.2 42 5 19 1 3 18 0 0 23 20 4.03 1.43
1998 14 14 0 0 0 2 8 0 -- .200 276 62.1 64 4 28 2 1 50 1 0 41 37 5.34 1.49
1999 5 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 38 8.0 11 1 1 0 1 6 0 0 7 7 7.88 1.50
2001 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 49 11.0 12 1 6 0 0 1 0 0 4 4 3.27 1.64
通算:12年 233 187 74 16 10 91 69 5 -- .569 5812 1395.1 1315 115 406 18 15 1129 37 1 539 489 3.15 1.24
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1995年7月6日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場) ※史上261人目
  • 1000奪三振:1996年6月27日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤ球場)、5回表に金本知憲から ※史上97人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 14 (1989年 - 2001年)
  • 71 (2012年 - 2013年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大東校舎は、平日の練習は本校と別のグラウンドで行っていたが、週末の練習および試合では本校と合同だった。

出典[編集]

  1. ^ 「惜別球人 6回 今中慎二『いいときも、悪いときもあった。でも気持ちよくできた13年間でした』」『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.116
  2. ^ 「天才サウスポーの原動力は打倒・巨人の心意気!」『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.29
  3. ^ a b c d e f g h 『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.30
  4. ^ フルタの方程式 12月号(テレビ朝日)2009年12月6日放映分にて本人談。
  5. ^ 『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.31
  6. ^ a b c d e 『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.118
  7. ^ a b c 「期待のドラフト1位クンの中間報告 今中慎二」『週刊ベースボール』、1989年4月10日号、P.73
  8. ^ 読売新聞、1988年12月4日付朝刊、P.19
  9. ^ a b 「オレに訊くな! ストレートとカーブの本格派左腕・今中慎二(元中日)に訊く フォークの使い方を教えて下さい」『野球小僧』、2010年2月号、P.123
  10. ^ a b 「人物ショートシヨート 開幕一軍て、本当に楽しいですネ! もはや左腕エースの扱い。星野監督は西本とあわせて30勝の皮算用」『週刊ベースボール』、1990年4月23日号、P.25
  11. ^ 読売新聞、1990年3月2日付朝刊、P.19
  12. ^ 「テクニカル・ポイント 中日・今中慎二 制球を気にしすぎて上体だけの投げ方に」『週刊ベースボール』、1990年7月9日号、P.68
  13. ^ a b c d e 『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.119
  14. ^ a b c 「魔球伝説 『今中慎二のカーブを捕った』中村武志」『Sportiva』、2007年8月号、P.74
  15. ^ a b 「魔球伝説2008 本人が解説! カーブ 今中慎二 わざと不安定に握ることがコツ」『Sportiva』、2008年7月号、P.48
  16. ^ 読売新聞、1993年2月6日付朝刊、P.18
  17. ^ a b c d 『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.120
  18. ^ a b c d e f g h 『Sportiva』、2007年8月号、P.75
  19. ^ a b c d 『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.117
  20. ^ スポニチ 日めくりプロ野球09年11月
  21. ^ a b c 「にんげんドキュメント 野球浪漫 2回 今中慎二 天才サウスポーの孤独な闘い」『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.42
  22. ^ a b c 野球小僧、2010年2月号、P.126
  23. ^ a b 「中日・今中が開幕を断念」『週刊ベースボール』、1997年4月7日号、P.21
  24. ^ a b c 『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.43
  25. ^ 「遅すぎたエース復活 今中(中日)」『週刊ベースボール』、1997年9月1日号、P.18
  26. ^ 読売新聞、1997年12月7日付朝刊、P.35
  27. ^ a b 「こんなハズじゃなかった… 今中慎二 速球派か?軟投派か?今が勝負どころの元エース」『週刊ベースボール』、1998年10月5日号、P.54
  28. ^ a b c d e 『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.44
  29. ^ 『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.45
  30. ^ 「残留か?退団か?その去就が注目される人たち」『週刊ベースボール』、2001年10月1日号、P.126
  31. ^ 読売新聞、2002年3月24日付朝刊、P.31
  32. ^ 来季の契約について中日球団公式サイト2013年10月15日配信
  33. ^ 「今中慎二(復活かけて-背水の男たち)」『週刊ベースボール』、1999年3月8日号、P.129
  34. ^ a b c d e 『野球小僧』、2010年2月号、P.125
  35. ^ a b c 『野球小僧』、2010年2月号、P.124
  36. ^ 「レフティーの不思議 左対左の虚と実 左ピッチャーの秘密 左打者との対戦で何を考える? 今中慎二氏に聞く」『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.13
  37. ^ 今中慎二『悔いは、あります。』ザマサダ、2002年
  38. ^ 「プロが公開『特上の握り』 変化球大図鑑 テクニカル・ポイント カーブ編 今中慎二」『週刊ベースボール』、2004年6月7日号、P.14
  39. ^ 『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.14
  40. ^ a b 『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.12

関連項目[編集]