ジーン・バッキー

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ジーン・バッキー
Gene Bacque
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ルイジアナ州ラファイエット
生年月日 1937年8月12日(77歳)
身長
体重
191 cm
91 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
初出場 1962年8月9日
最終出場 1969年7月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジーン・バッキーGene Martin Bacque, 1937年8月12日 - )は、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手投手)。

経歴[編集]

アメリカ・ルイジアナ州ラファイエットに生まれる。サウスウエスト大学卒業後、マイナーリーグ・3Aのハワイ・アイランダーズ(現在は解散)に在籍していたが、解雇されかかっていたところを、当時スポーツニッポンの記者で、阪神の藤本定義監督からの要請で調査に当たっていた有本義明の目に留まり、1962年8月に入団テストを受けて合格し入団した。入団テストを受けた時のバッキーは球速はあってもコントロールがむちゃくちゃであったが、「磨けば光るかもしれない」という藤本監督の意向[1]で入団が決まった。背番号は4であった。

阪神入団当初はコントロールが悪かったが、1964年に投手コーチの杉下茂による猛烈なトレーニングで下半身を鍛えられ、さらに小山正明スライダーを研究することで制球力をつけた。上手、横手からの変幻自在な投法と得意のナックルボールを決め球として先発投手の仲間入りをし、小山がトレードで抜けた後村山実とともに二枚看板のエースとして活躍した。

1964年には、29勝9敗、防御率1.89の好成績を挙げ、最多勝利最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞に選ばれた。外国人選手が沢村賞を受賞するのはこれが初めてだった(日本国籍を置かない選手では現在でも唯一)。バッキーの活躍でこの年の阪神はセントラル・リーグの優勝を果たした。同年の日本シリーズでは南海ホークスと対戦、第6戦でエースのジョー・スタンカと投げ合ったが0-4で敗れた。

1965年6月28日には読売ジャイアンツ相手にノーヒットノーランを記録した。1968年まで5年連続で2桁勝利を続けていたが、同年9月18日の対巨人戦で、自身が投球した王貞治への危険球を巡って発生した騒動において、巨人の荒川博コーチと乱闘した際に右手の親指を骨折[2]。このケガからの復活を目指し、翌1969年に近鉄に移籍したが、球威は戻らず0勝7敗の勝ち星なしに終わり、スタンカと並んでいた外国人投手の通算勝利記録を更新できずに、同年現役を引退した[3]

引退後は高校の教師をつとめ、のち牧場経営に携わっている。引退後もOB戦や仕事の関係でたびたび来日している。王や荒川とも遺恨はなく、ともにセ・リーグで戦ったライバル同士として非常に仲がよい。

現在でも往年の阪神ファンの間では過去の最も偉大な外国人選手を語る際に、「投のバッキー、打のバースと真っ先に投手陣筆頭で名前が挙げられる存在である。

人物[編集]

彼の姓の発音は日本語で表記すると「バックエ」に近い。日本に来た際に、「バックエ」では化け物を連想させるなどの理由で、太平洋戦争前に活躍したバッキー・ハリスにあやかり「バッキー」と表記することになった。

テスト入団であったため、通訳もつけてもらえず、住居も阪神甲子園球場裏の長屋住まいで、自転車で甲子園に通った[1]。そのためハングリー精神旺盛であり、また日本語を覚え、チームメートとも溶け込み、仲良くなっていった。「日本人以上に日本人らしい助っ人外人だった」と藤本も語っている。

茶目っ気のある性格でチームメイトはもちろん他球団の選手からも親しまれた。1963年5月26日の大洋戦で9回2死から浜中祥和にヒットを打たれ、ノーヒットノーランを打ち砕かれたばかりか敗戦投手になったバッキーは、翌日浜中を見つけるや「コラ~! 浜チャン~! コラ~!」と叫びながら浜中を追いかけまわし、周囲を笑わせた。

一方でマウンドでは闘志をむき出しにし、ノックアウトされてベンチに戻ってきた時はグラブを叩きつけて怒るほどであった[4]。当時のチームメイトの証言によると、巨人戦ではいつも以上に勝利への執念を燃やし、マウンドのプレートを土で隠して見えないようにし、プレートの前から投げることがしばしばだったという。あるとき、バッキーの好投に敗れた試合後、長嶋茂雄は「今日のバッキーはいつもより大きく見えた」と語ったことがある。

バッキーのマウンド姿のフィルムは多く現存しており、小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』(1963年)では、笠智衆中村伸郎が飲んでいる居酒屋のテレビに阪神対大洋戦のテレビ中継画面が映り、そこでバッキーが大洋の4番打者桑田武を迎えるというシーンが登場する。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1962 阪神 8 4 0 0 0 0 3 -- -- .000 100 23.0 23 1 10 1 0 16 1 0 12 12 4.70 1.43
1963 33 23 7 1 0 8 5 -- -- .615 619 151.2 121 8 60 1 3 74 0 0 50 42 2.49 1.19
1964 46 38 24 4 0 29 9 -- -- .763 1391 353.1 280 11 94 6 6 200 9 0 85 74 1.89 1.06
1965 40 30 20 6 1 18 14 -- -- .563 1024 256.2 211 9 71 4 4 112 5 1 75 65 2.28 1.10
1966 40 32 14 6 1 14 16 -- -- .467 997 243.0 222 15 69 3 9 114 1 0 91 75 2.78 1.20
1967 38 31 19 2 3 18 12 -- -- .600 1038 258.1 196 11 73 4 16 141 2 0 79 66 2.30 1.04
1968 34 31 19 3 3 13 14 -- -- .481 1006 255.1 205 18 49 3 8 142 6 0 87 62 2.19 0.99
1969 近鉄 12 10 2 0 0 0 7 -- -- .000 239 55.1 54 5 16 2 5 26 4 0 27 20 3.27 1.27
通算:8年 251 199 105 22 8 100 80 -- -- .556 6414 1596.2 1312 78 442 24 51 825 28 1 506 416 2.34 1.10
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 4 (1962年 - 1969年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 週刊ベースボール別冊[陽春号]『阪神タイガース60年史』、ベースボール・マガジン社、94ページ。
  2. ^ 「先に手を出したのはアイツだ!」大荒れGT戦第3R
  3. ^ これが最後とは夢にも思わず…バッキー2人目の100勝達成
  4. ^ 前掲書、140ページ。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]