大豊泰昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
大豊 泰昭 (陳 大豊)
Chen Ta-Feng
基本情報
国籍 台湾の旗 台湾
出身地 南投県埔里鎮
生年月日 1963年11月15日(48歳)
身長
体重
185cm
95kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手左翼手
プロ入り 1988年 ドラフト2位
初出場 1989年4月9日
最終出場 2002年
経歴(括弧内は在籍年)

大豊 泰昭(たいほう やすあき、本名:陳 大豊(チェン・ダーフォン:Chen Ta-Feng)、1963年11月15日 - )は、台湾出身の元プロ野球選手内野手外野手)。輔仁大学卒業。

元プロ野球選手の大順将弘(陳大順)は弟。宝塚歌劇団のひろ香祐は長女。

目次

[編集] 経歴

東峰中では台湾大会で優勝し、華興高では世界大会で優勝。王貞治に憧れて日本行きを希望するが、20歳にならないと出国できないため、卒業後に2年間母校でコーチを務めた。

愛知県新城市在住の新聞販売店主が彼の引受人となって1983年名古屋商科大学に入学。愛知大学野球リーグ記録となる通算24本塁打を記録し、全日本代表にも2回選出された。卒業後は、日本人選手扱いとして入団するため(現在の規定では大学に4年間通えば日本人選手扱いとなる)中日ドラゴンズの球団職員として1年間在籍。当時の報道写真や、生い立ちを描いた実録漫画(芳文社『まんがスポーツ』=現在休刊=に掲載)等では背番号が95番となっているが、正式に登録されたものではない。

[編集] 現役時代

1988年ドラフト2位で中日に入団。王の持つ日本プロ野球シーズン最多本塁打記録55本を目標として背番号55とした。

プロ1年目の1989年は一軍と二軍を行き来しながらも14本塁打を記録。2年目の1990年は20本塁打を放った。1992年の秋季キャンプで臨時コーチの張本勲に勧められ、一本足打法を始める。1993年には25本塁打を放つと、1994年には38本塁打、107打点で本塁打王打点王の二冠を獲得。また、同年は対広島東洋カープ戦で18本塁打を記録し、年間カード別最多本塁打の日本記録を樹立。1996年は開幕から驚異的なペースで本塁打を量産し続けたが、最終的に巨人松井秀喜と同じ38本塁打に終わり、チームメイトの山崎武司に1本及ばず松井とともに本塁打王を逃した。

1997年、本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移ったこともあり、12本塁打に終わる。星野仙一監督が広いナゴヤドームに対応して機動力重視の野球を目指したことから、1998年矢野輝弘とともに関川浩一久慈照嘉とのトレードで阪神タイガースに移籍。1999年には規定打席不足ながら26試合連続安打を放つなど、打率.341、18本塁打の活躍。2000年には4月8日広島市民球場での試合において、紀藤真琴投手から第1打席で250本塁打。続く第2打席で1000本安打を達成した。このシーズンは最終的に23本塁打を記録したものの、打率.241は前年と比べて大きく急落。おかげで同年オフの契約更改で大幅ダウンされる一因になってしまい、「規約違反の30%ダウンに納得がいかない」と自ら自由契約を申し入れて、阪神を退団した(実際は大豊の年俸が1億円を超えていたため、30%減俸は規約違反ではない)。

2001年に中日に復帰したが、背番号55は既に紀藤投手が着けていたため、背番号60に変更。同年には台湾代表としてIBAFワールドカップに出場した。2002年、開幕一軍スタートだったが出場は27試合にとどまった。オフに戦力外通告を受けて現役続行を希望したが、獲得球団はなく現役を引退。2003年3月23日、ナゴヤドームでの横浜ベイスターズとのオープン戦で引退セレモニーが行われた。

[編集] 引退後

引退後、中日球団のアジア地区担当スカウト兼少年野球指導担当を経て、2004年10月、名古屋市中区中華料理店「大豊飯店」を開業。店の経営のかたわら、中京ローカル番組にゲスト出演するなどのほか、東海地方を中心に各地へ野球教室や講演活動を行っている。

中日球団のアジア地区担当スカウトとして、台湾からチェン・ウェイン(陳偉殷)を2004年に中日入団に導いた。現在の肩書きは「中日球団台湾地域情報提供員」。

プロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sersに、2005 - 2006と2006 - 2007の2シーズン参加した。

2009年3月、急性骨髄性白血病を患い入院。闘病生活の末に同年8月に退院したものの、2010年3月に再発。実妹からの骨髄移植を受け、同年9月上旬に退院した[1][2]2011年3月26日に「大豊飯店」を閉店し、5月25日に岐阜県海津市お千代保稲荷参道内に「大豊ちゃん」として移転オープンしている[3][4]

[編集] 人物・プレースタイル

[編集] 米国人審判帰国のきっかけづくり

1997年6月5日、対横浜戦(長良川球場)の打席で、アメリカ人審判マイケル・ディミューロが下したストライク判定に、大豊は「ホワイ、ストライク?」と言いながらストライクゾーンから外れているのではないか、というジェスチャーを行った。この言動をディミューロは「審判に対する暴言」とし、退場を命じる。なお上記の大豊の行動には布石があり、この打席でディミューロは再三にわたり打者不利ともとれる判定を下していた。これを不服とした星野仙一監督、コーチらがベンチから飛び出し、ディミューロを集団で取り囲みながら猛抗議を行う大騒動に発展。その後、ディミューロは集団的な威圧的行為により「身の危険を感じた」と辞職、帰国している。

この事件により、審判の権威についての議論が湧き起こった。さらには、この騒動から間もない同年7月3日の試合終了後、観客の「台湾へ帰れ!」のヤジに激高してフェンスの金網にバットを投げつけ、3日間の謹慎処分を受ける。当時のセントラル・リーグ会長であった川島廣守は「ファンの方も挑発的、侮辱的なヤジは控えてもらいたい」と声明の中で触れている。

[編集] 一本足打法

王貞治へのリスペクトから、一本足打法にこだわりを見せていたが、それ故にバッティングを壊すことも多く、1999年に野村克也監督のアドバイスにより、一本足打法からすり足打法に変更した。ただし本人が後に語ったところによると、打法の変更は「一本足打法では試合で使ってもらえないため、試合に出るためのやむを得ない選択だった」とのことで、本当は一本足打法を貫きたかったという[5]

  • 三振を恐れない豪快なスイングで、詰まったり振り遅れたりした打球でもライナーでスタンドまで運んでしまう本塁打が多かった。それにより、彼の評価は「三振かホームラン」で彼の代名詞になった。
  • どんなボールでも手を出してしまう癖があり、入団当時の監督である星野仙一は「こいつのストライクゾーンは畳一枚分ある。もうちょっと絞ればもっと打てるのに」といつも嘆いていた。阪神時代の監督の野村克也は「地上2階、地下1階」と評した。なお大豊が元女優と結婚した際には「女の子をみる選球眼は何でいいんだ」と冗談を飛ばした。
  • 入団当初は一塁手に落合博満がいたため左翼手での出場が多かったが、落合の移籍後は一塁手のレギュラーとなった。外野の守備は不得手だったが、一塁守備は上手く、柔らかい足腰を生かして開脚しながらきわどいタイミングの送球を捕球することもお手の物だった。古田敦也は、「実際に見た一塁手のうちで最も守備が巧かった」とも評している。
  • 現役時代にレフトを守っていた際、フェンスギリギリのフライをグラブからこぼしホームランにしてしまったことがある。ちなみにこのプレーは「ホームランのアシスト」と言われTV番組珍プレー好プレーで紹介されている。
  • 真面目で練習熱心な選手として知られている一方、名古屋地区のテレビ番組に出演する際には、冗談を交えてのトークなど気さくな人柄がうかがえる。
  • シーズンオフには、故郷の台湾でトレーニングの一環として農作業を行っていた。このトレーニングは阪神の後輩である林威助も行っている。
  • 現役時代から頭髪が薄く、特に隠していなかったので度々ネタにされていた。
  • 極めて達筆であり、引退発表の際にはコメントを巻紙に毛筆でしたためたものを持参し、記者会見の席上でそれを読み上げた。

[編集] エピソード

[編集] プロ入り前

  • 9歳のときに裸足でターザンのまねをして着地した際に、たまたま地面に転がっていた釘が右足の裏に刺さってしまう。しかも当時の大豊の実家周辺では医療レベルが低かったため満足な治療が受けられず、その後度々傷跡が膿むようになってしまった。来日後名商大1年のときにようやく完全な治療を受けることができたが、本人曰く「9歳の時からずっと、その部分をかばっていたため、そこだけ筋肉がつかなかった」とのことで、右足裏はその後も大豊の弱点となり、足の踏み込みが十分にできないなどの問題を抱え続けることとなった[6]
  • 中日球団職員練習生時代は、同時に中日新聞販売所に在籍していて新聞配達もしていた。

[編集] 中日時代

  • 1997年、オープン戦でナゴヤドーム初本塁打を打つ。
  • 中日時代の試合中、チームメイトであった落合英二から「このバットを使ったら打てる」と1本のバットを渡された。言われたとおりにそのバットを持って打席に向かったところ、たまたまホームランを打てた(落合は大変霊感が強いというのを売り物にしている)。
  • 中日ドラゴンズ時代の応援歌は勇者ライディーンのテーマであったが、のちに変更。

[編集] 阪神時代

  • 甲子園のバックスクリーン左側にあったカネボウ育毛剤「浸透力(紫電改X)」の広告看板にサヨナラホームランを直撃させたことがある(1999年、髪の薄い大豊が長髪で有名だった中日の後輩にあたるサムソン・リーから打った上に、ホームイン後の祝福で頭なで総攻撃に遭ったことから幾度となくTVの珍プレー番組などで使われた)。
  • 当時の福本豊打撃コーチは、「調子がピークになっているから(練習を)休んで良いと言っているのに、彼はそれを無視してピークを通り越して調子崩してドツボにはまる」と、中継中にコメントした。
  • 1999年2月28日、当時西武ライオンズのキャンプ地だった高知県立春野運動公園野球場で行われたオープン戦で当時ルーキーだった松坂大輔(現ボストン・レッドソックス)から本塁打を放ち、同投手からプロで最初に本塁打を打ったバッターとなった(公式戦では同年4月7日の対日本ハムファイターズ戦の小笠原道大(現読売ジャイアンツ)が最初である)。
  • 春季キャンプ中、バレンタインデーに阪神の一軍登録選手の中で唯一1個もチョコレートを贈られなかったことがある。その際の「みんな糖尿病になってしまえばいいんだ!」発言は現在もケンドーコバヤシなどがネタの1つとして使っている。ちなみに中日に復帰した2001年のバレンタインデーにはトップの星野監督に次ぐ数のチョコレートが届いた。
  • 1999年9月21日に発生した台湾大地震の復興支援活動として、募金やチャリティーゲームに出場するなどの活動を行った。
  • 2000年7月20日の対巨人戦、3回裏一死一、二塁で打席に立った際にカウント1ストライク1ボールからのストライクの判定を不服として故意に打席を外し、真鍋勝己球審がバッターボックスに入るよう催促したにもかかわらず応じなかったため、真鍋は投手(高橋尚成)に投球を指示。高橋が投球動作に入った際タイムを要求して打席を外したが認められず、ルールに従いストライク判定、三振。この判定に大豊は真鍋に詰め寄って暴言を吐き退場処分を受け、7日間の出場停止と20万円の罰金がそれぞれ科された。

[編集] 私生活・引退後

  • 引退後に開業した大豊飯店では大豊自ら積極的に接客し、野球談義に花を咲かせている。長者町繊維街にある店のビル正面には、ドラゴンズ時代の一本足打法の全身像が掲げられている。
  • 私生活では1990年、元女優(芸名・笙田ひろ子)と結婚し、妻との間に2女をもうけたが、後に妻と死別。
長女は宝塚歌劇団95期生星組男役ひろ香祐(ひろか・ゆう)。
2007年3月、宝塚音楽学校に合格したひろ香のコメントで、笙田が2005年12月に他界していたことが明らかになった。後の2009年に大豊は中日新聞東京スポーツで『雪で高速道路の大渋滞に遭い、そこで心筋梗塞の発作を起こした』と妻の突然の死を語っている。
ひろ香は2009年3月に宝塚音楽学校を95期生45人中2番の成績で卒業[7]。同年4月、宝塚デビューを果たした。
  • 2008年には、愛知県の地方CM(アオキーズ・ピザ)にタイロン・ウッズドアラとともに出演。このコメディタッチのCMに大豊はユニホームではなく、大豊飯店にちなんだ調理師の衣装で登場。中華お玉の素振りや中華鍋のファースト守備を披露した。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 中日 101 353 309 37 72 18 0 14 132 36 2 3 4 1 36 0 3 86 9 .233 .318 .427 .745
1990 105 291 259 34 71 13 0 20 144 48 2 0 6 2 23 3 1 63 5 .274 .333 .556 .889
1991 121 461 396 50 112 23 1 26 215 72 2 3 3 2 53 7 7 84 13 .283 .376 .543 .918
1992 81 280 251 24 67 18 1 11 120 39 0 2 0 0 27 3 2 52 7 .267 .343 .478 .821
1993 117 437 367 53 95 14 0 25 184 59 0 1 0 1 66 6 3 117 4 .259 .375 .501 .877
1994 130 560 477 83 148 24 2 38 290 107 1 2 0 9 71 10 3 97 6 .310 .396 .608 1.004
1995 106 444 389 49 95 14 1 24 183 65 1 0 0 1 51 3 3 81 7 .244 .336 .470 .806
1996 129 537 462 69 136 19 1 38 271 89 3 1 4 2 68 8 1 106 10 .294 .385 .587 .971
1997 95 341 296 33 71 12 0 12 119 35 0 1 2 2 38 2 3 78 5 .240 .330 .402 .732
1998 阪神 99 346 307 41 71 17 0 21 151 61 0 0 1 2 34 1 2 94 5 .231 .310 .492 .802
1999 78 181 164 20 56 13 0 18 123 39 0 2 0 0 16 2 1 56 5 .341 .403 .750 1.153
2000 97 337 303 38 73 9 2 23 155 54 4 1 0 3 26 3 5 93 2 .241 .309 .512 .820
2001 中日 38 77 70 6 12 4 0 3 25 7 0 0 0 1 6 1 0 34 1 .171 .234 .357 .591
2002 27 54 47 7 10 2 0 4 24 11 0 0 0 0 7 0 0 16 1 .213 .315 .511 .825
通算:14年 1324 4699 4097 544 1089 200 8 277 2136 722 15 16 20 26 522 49 34 1057 80 .266 .352 .521 .873
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • オールスターゲーム出場:3回 (1991年、1994年、1996年)
  • 26試合連続安打(1999年8月24日~10月1日)
  • 5試合連続本塁打(1996年4月11日~4月16日)
  • 通算1000試合出場 1998年4月22日(342人目)

[編集] 背番号

  • 55 (1989年 - 2000年)
  • 60 (2001年 - 2002年)

[編集] 関連情報

[編集] 著書

  • 『大豊――王貞治に憧れて日本にやってきた裸足の台湾野球少年』ソフトバンクパブリッシング。2004年発行。240頁。ISBN 4797329122

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 2010年9月22日付中日新聞朝刊34面(社会欄) 『竜が舞う 2010秋 チェン快投 闘病の力』
  2. ^ 2010年11月18日付日刊スポーツコラム 『元中日、阪神・大豊泰昭「大豊飯店」/引退後記』
  3. ^ 大豊飯店 錦店閉店と新店舗「大豊ちゃん」オープンのお知らせ|大豊泰昭オフィシャルサイト
  4. ^ 新店舗「大豊ちゃん」5/25にお千代保稲荷の参道にオープンのお知らせ|大豊泰昭オフィシャルサイト
  5. ^ 東京スポーツ「大豊泰昭・八転び七起き」・2008年2月11日付
  6. ^ 東京スポーツ・2008年12月4日付 3面「大豊泰昭・八転び七起き」第18回
  7. ^ 大豊氏長女 宝塚音楽学校次席で卒業

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語