山田久志
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 秋田県能代市 |
| 生年月日 | 1948年7月29日(63歳) |
| 身長 体重 |
176cm 77kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年8月22日 |
| 最終出場 | 1988年10月23日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
|
選手歴
|
|
|
|
|
監督・コーチ歴
|
|
|
|
|
野球殿堂(日本)
|
|
| 選出年 | 2006年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
|
この表について
|
|
山田 久志(やまだ ひさし、1948年7月29日 - )は、秋田県能代市出身の元プロ野球選手(投手)・監督・コーチ、野球解説者。兵庫県西宮市在住。現役時代は12年連続開幕投手を務めるなどし、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。球界関係者からは史上最高のサブマリン投手と称されることもある。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
兄・勉も能代高校OBで在学中にレギュラーとして甲子園出場を果たし、その兄の背中を追って能代高校に進学。三塁手から投手に転向するきっかけになったのは2年生の夏の自身のエラーによるサヨナラ負けだったと言う。結局、在学中の最高成績は最後の夏、県ベスト4だった。社会人野球の富士製鐵釜石に入団後、投法をサイドスローからアンダースローに変えた(但し、本人はインタビューの中で「オーバースローの体勢のまま上半身を斜めにしただけであって、純然たるアンダースローではない」と述べている)。1967年のドラフト会議で西鉄ライオンズから11位で指名を受けるが拒否する。ドラフト史上最高の豊作と言われた1968年のドラフト1位で阪急ブレーブスに指名される。このときの2位指名が加藤秀司、7位指名に福本豊がおり、豊作と呼ばれたドラフトの中でも阪急は最も成功したチームと言われている(なお、12位で門田博光も指名しているが、門田は入団拒否)。山田は練習中に腰を痛めており(脊椎分離症。他チームが山田の実力を認めながら指名をためらったのはこのためと言われている)リハビリに励みつつ、チームに残り、腰痛が全快した翌年の都市対抗野球終了後の8月に阪急と正式契約を結び入団。
[編集] 現役時代
山田が入団した頃の阪急は「ヨネカジ」と呼ばれた米田哲也、梶本隆夫の他、石井茂雄、足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという[1]。しかし2年目の1970年から主力投手として台頭、初完封勝利を挙げるなど10勝をマーク。背番号が25から17になった3年目には22勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルも獲得し、エースに成長した。当時は速球でグイグイ押す強気な投球が身上で、西本幸雄監督が「投手で一番大切なのはコントロールや」と言っても「いえ、ストレートに力があればど真ん中でも打たれません」と反発した。このことは、山田が引退して20年以上経っても西本に「ワシに真っ向から逆らったのはお前だけや」と苦笑されるという[1]。しかし、その強気な姿勢は時として落とし穴にはまることもあり、同年の日本シリーズでは第3戦で王貞治にサヨナラ3ランを浴び、手痛い敗北を喫した。この時、山田はマウンドにしゃがんだまましばらく動けず、西本監督に抱きかかえられるようにしてベンチに引き上げた[2]。山田は後に「天狗の鼻をへし折られた。あのホームランがあったからその後の自分がある」と述懐している。なお、この試合は山田の母親が観戦していたが、この試合を機に球場に足を運ばなくなった。
翌年は上述の敗北をも糧にして20勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。しかしこの年に膝を痛めたことで球速が落ち始め、翌1973年から1975年まではやや低調な成績に終始した。1975年の阪急は豪速球で知られた新人の山口高志の活躍で悲願の日本シリーズ優勝を果たしたが、山田は12勝にとどまり、自責点95、防御率4.32はローテーション入りした1970年以来では自己最低と、満足のいくものではなかった。同じ12勝だった山口を重用する首脳陣の方針に納得できなかったこともあり、山田は同年オフに引退まで考えたが、それを察知した球団に慰留され、現役続行を決意。この間、成績こそ低迷していたが、チームメートの足立光宏を手本に新しい球種・シンカーを研究していた。当初山田はストレート中心の投球に限界を感じ始めた時に足立にシンカーの投げ方の教えを請うているが、足立は「ストレートが通用するうちはシンカーは投げるな」と握りすらも教えてくれなかったという。山田は足立からシンカーを盗み取ろうと毎日のように研究を重ね、足立も最後にはヒントを教えてくれるようになった。
1976年からシンカーを使い始め山田は26勝を挙げ復活、2度目の最多勝に輝き、この年から史上初の3年連続MVP(3年連続MVPを達成しているのは現在も他にイチローのみ)に輝いた。
1982年4月29日の対ロッテ戦でアンダースロー投手としては皆川睦雄に次いで200勝を達成[3]。この試合で山田は落合博満に3本塁打を喫している。3本ともシンカーを狙い打たれたもので、たとえ狙われていても自分の得意の球種であくまで挑む姿に、やはりこの年に200勝を達成した江夏豊は「これこそプロの対決」と感嘆した[4]。1984年のリーグ優勝時はシーズン中に膝に打球を受けて戦線離脱したために14勝にとどまったが、監督の上田利治の信頼は絶大で、21勝を挙げて防御率と二冠に輝いた今井雄太郎を差し置いてこの年の日本シリーズ第1戦の先発に起用されている。
1975年から1986年までプロ野球記録の12年連続開幕投手を務めており[5]、記録更新のかかった1987年の開幕投手は佐藤義則だった。この年はキャンプ、オープン戦となかなか調子が上がらなかったが、オープン戦で調子が上がらないのは例年のことなので山田自身は大して気にしていなかったという。しかし、上田監督がマスコミに「今年の山田はいつもと違うなあ」と言っているのを知り、「監督のいいと思うならそのようにしてもらっていいですよ」と話したら、開幕投手に佐藤が抜擢され、「そりゃないだろう」と思ったという[1]。この年清原和博相手に通算2000奪三振を達成したものの、7勝に終わり、17年続けていた二桁勝利も途絶えた。翌1988年は開幕からなかなか勝てず、5月にはもうこの年限りの引退を考えていた。この時真っ先に相談したのは監督の上田ではなく、西本だったという。結局4勝10敗の成績に終わり、現役引退。通算300勝を目指していたが、あと16勝届かなかった。なお、現役最後の試合は10月23日の西宮球場での阪急ブレーブス最後の試合(対ロッテ)で、山田は完投勝利を挙げ(通算284勝目)、阪急ナインに胴上げされた。現役引退と前後して球団の親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことから背番号17は球団の永久欠番とはならず、しかも、山田の引退からわずか2年後、1990年オフに入団した長谷川滋利に与えられた。山田は「(福本の)7と17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語っている[1]。
通算284勝はアンダースローの投手としてはプロ野球最多勝記録である。一方、日本シリーズとは不思議に相性が悪く、上記の王のサヨナラ3ランなど通算6勝9敗1セーブと不本意な成績に終わっている。通算最多被本塁打(23)、シリーズ最多タイ自責点を2度(1976年、1978年の12)、シリーズ最多敗戦のタイ記録(1984年の3敗、他には1956年の別所毅彦、1964年の村山実)といった不名誉な記録も残している。ただし、1984年の3敗のうち2敗は完投敗戦で、残る1敗(第7戦)も7回途中まで3失点の内容だった。日本シリーズとは対照的にオールスターゲームには強かった。通算7勝はオールスターゲーム記録。また敗戦投手に一度もなっておらず、勝率10割である。
当時のパ・リーグには豪快な選手が多かったが、山田もその類に漏れず豪快な性格の持ち主であった。先発を翌日に控えたある夜、「今日は大雨だから明日の試合はない」と他の選手達と飲み明かしたところ、翌朝の天気は雲ひとつない快晴。二日酔いで嘔吐を繰り返しながらのランニングでなんとか体調を整え、その夜の試合で完投勝利してしまった。この時のランニングの様子を見ていた西本幸雄監督は後日、「山田は昨日吐きながら練習していた。この姿勢が大事なんだ」と事情を知らずに全選手の前で訓示したという。水島新司の漫画「あぶさん」にはこのエピソードに似たストーリーが登場する(飲みすぎた投手を佐藤義則にしている)。 同期入団の加藤英、福本とは仲がよく、二軍時代からよく寮の門限過ぎまで遊び歩いていたため、内外から「阪急の三バカ」と呼ばれていた。一方で、同期入団の他の選手はすべて高卒で大成しなかったこともあり、3人で「俺たちが引っ張っていかなければ」とも言っていたという[1]。
また、球速が落ちたりそれまでの変化球が通用しなくなってから新球を模索する投手が多い中、山田は「新しい変化球は試合で使えるようになるのに3年かかる。今の球が通用しなくなってから研究しても遅い」と、それまでのボールが通用するうちに将来を見越して次の変化球や投球術を研究していたという。山田とともに阪急の黄金時代を支えながら自らは短命に終わった山口高志は「そこが山田さんと僕の違うところだった」と評している[4]。1989年3月に開催の読売ジャイアンツとのオープン戦(西宮)での引退記念試合は福本とともに阪急のユニフォームを着用して出場した(ただし、オリックスのコーチとして残留した福本は引退セレモニーの時にはオリックスのユニフォームに着替えている[1])。
終生のライバルは門田博光と落合博満。門田は自分に対してどんな時もストレートだけを投げてきて、山田の決め球でもあるシンカーは球が早すぎてシンカーにならなかったと賛辞を送っている。逆に落合には読まれていても必ずシンカーを決め球にしていたという。
[編集] 引退後 解説者・コーチ・監督時代
引退後はNHK野球解説者・日刊スポーツ野球評論家となる。1989年ドラフト会議で阪神タイガースへ1位入団しながら、他の評論家から「あんなの使い物にならない」と酷評されていた葛西稔を入団当初から「球界を代表するアンダースロー投手になる逸材」と唯一評価し続けていた。1994年からオリックス・ブルーウェーブの投手コーチに就任。実績もあり理論的に指導できるコーチとして選手からも信頼があり、扱いづらいと言われた野村貴仁も山田を信頼していた[要出典]。後に山田は巨人移籍後低迷していた野村について「あれは使うほうの問題」と指摘していた。しかしながら、投手起用をめぐって監督の仰木彬と対立し、1996年の日本シリーズ制覇に貢献した直後に退団。1997年からはNHK解説者・日刊スポーツ評論家として復帰する。
1999年に中日ドラゴンズの投手コーチに就任。この前に巨人監督の長嶋茂雄からも投手コーチとしての誘いを受け、妻の病気を理由に断っていたが、中日監督の星野仙一より直に強く説得され、「星野監督を男にしたい」と引き受けた。コーチ就任時、当時の星野監督と共にNHKのスポーツニュースに出演。この時「どうして(巨人の要請を断って)中日のコーチになったんですか?」と聞かれた山田は笑いながら「いやぁ、こういうのはお金ではないですから」と答えている。星野の後を引き継いで監督に就任が決まったのは、星野の意向だと言われている(しかし、直後に星野が阪神タイガースの監督に就任し、島野育夫ヘッドコーチも引き抜かれたりしたために球団内のバックアップを失うこととなった)。中日でも投手コーチとしては手腕を発揮、岩瀬仁紀にキャンプ中つきっきりでフォームを矯正し、リーグを代表する中継ぎエースに育て上げた。2001年にヘッドコーチを兼任した後、同年オフに中日監督に就任。
2002年7月26日の対阪神15回戦(甲子園)において、山崎武司が同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けを喫してしまう。試合後、山田は「どこかでブツっと切ってしまう。なんかお通夜みたいなもんだ。さらにアイツを使うオレが悪いんだけど。チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけど」と発言。これが誰を指したか不明であったが、山崎は「(悪いのは)蔵本じゃない。今日はオレだ。オレが打っていれば、ミスもなかった」と話した。この後、山崎はほとんど出場機会を与えられることはなく、この年のシーズン終了後、平井とのトレードでオリックスに移籍した。
2003年9月9日、成績不振のため遠征先の広島で休養(事実上の解任)となった(残り試合は佐々木恭介ヘッドコーチが監督代行を務め、二宮至総合コーチ及び選手会長であり山田が4番に抜擢した立浪和義と共に集団指導体制)。阪神に独走を許すペナントレースになったものの、3年契約の2年目で、球宴休み中に白井オーナーから続投が「公表」されていて、なおかつ当人が側近に漏らした本音で、直近まで秋季キャンプや来季のコーチングスタッフの話を球団としていて、一部の球界関係者には秋季キャンプの臨時コーチや来季の入閣の打診までしていた上での急な決定だった。これは、中日でのプレー経験のない完全な「外様」であり、選手や首脳陣からの求心力の低下、OBとの確執が激しかったという事情を本社、球団共に掴んでいることもあり、決定的なのは5連敗目を喫した9月7日の対ヤクルト26回戦(ナゴヤドーム)でハーフスイングを巡って退場処分を受けたが、そのプレー直後ではなく、攻守交替時に行ったことを問題視され、連敗と間の悪い退場劇が解任への格好の引き金となってしまった。[6]。
監督としては成功しなかったものの、オリックス時代の教え子であり、故障で不振の平井正史を獲得し中継ぎの一人として復活させたこと、ポジションが固定されなかった福留孝介を外野に固定したこと、荒木雅博や井端弘和を辛抱強く使い続けたことなど、後の中日躍進の基礎を築いた。ただし地元ファンから人気のあった山崎武司をトレードで放出し、トレードに出された山崎は山田と接触を避けるようにしている。2007年のセ・リーグのクライマックスシリーズでゲストに呼ばれた際も、山崎は山田との同席を拒み、話しかけられても無言を貫いた。しかし、同年の日本シリーズの中継の時に山崎がゲストとして呼ばれた時には、少なくとも山田と握手をするなどの交流はあった[7]。
2005年からはブレーブス・ブルーウェーブOB会会長を務めている。2006年に野球殿堂入り。12月に行われた野球殿堂入りパーティーにはイチロー、田口壮がスペシャルゲストとして出席した。2007年に山田の出生地・能代市は市営能代球場の名称を、山田の業績をたたえて「山田久志サブマリンスタジアム」(愛称)と改名した[8]。9月29日には山田久志夫妻を招いて、命名式が行われた。愛称の制定に際し、山田から現役時代のユニフォームやグラブ、写真パネルなど計131点が贈呈され、球場内に設けられる展示ブースで公開されている。オフシーズンに開催されているプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに所属し、短いイニングながらもマウンドに立っている。
2009年にワールド・ベースボール・クラシック日本代表の投手コーチに就任。投手選考と投手起用については監督の原辰徳からほぼ全権が委任されていた。WBCの投手の投球制限規定に悩まされたが、本来は先発投手であるダルビッシュ有を抑えに起用するなど、思い切った投手起用と継投策を駆使し、2大会連続世界一に大きく貢献した。また、山田が週刊ベースボールに記した手記によれば、原監督からは投手陣だけでなくイチローとの橋渡し役も頼まれていた。
[編集] 特筆
[編集] 人物
福本とは同期入団であり、若い頃は仲が良かった。しかし山田が先発したある試合で、福本がセンターフライを落球。それに対して山田はあからさまに怒りを表し、イニング終了後に謝罪に来た福本を無視したことがある。引退後、福本の記念祝賀会に招待されながらも欠席し、星野仙一に批判されている。現在はブレーブス・ブルーウェーブOB会会長と副会長という間柄である。2011年5月8日に行われたオリックスバファローズのイベントでは同期入団の福本・加藤英司らと共にトークショーを行い、現役時代の様々なエピソードを紹介して観客を沸かせた。また、同時期に出版されたムック本では福本との対談が掲載されている。
中日退団後はCBCの解説者として活動しているが、兵庫県在住のため他の解説者と比べて出演機会が少ない(月に1カード程度。もしくは関西地方からの自社制作の試合に出演)。ただし、ブレーブス・ブルーウェーブOB会会長ということもあり、セ・パ交流戦開始後は中日対オリックス・バファローズ戦では毎年最低1試合(オリックス主催試合をCBCが自主制作した時は中日・オリックスそれぞれの主催試合で1試合ずつ)は必ず解説を担当している
CBCテレビの中継ではトップ解説者の扱いであり、全国ネットとなる中日VS巨人の地上波テレビ中継についてはCBCサイドから1名、TBSサイドから1名(衣笠祥雄、もしくは槇原寛己)の2名体制での中継となるが、CBCサイドで出演するのは現在は山田のみとなっている。中日が日本シリーズに進んだ場合のCBC制作全国ネットの中継でも、山田加入以降はCBC解説者では山田のみが出演する。なお、巨人戦がローカル中継となる場合は山田以外のCBC解説者が出演することもある。また、中継中のCM明けに流れるワンフレーズでは、「次の1球をズバリ読みます」と言っている。この言葉通り、投手の配球の読みに関しては自身の経験に裏打ちされたものもあって的確である。
WBCでの経験や近年における沢村賞受賞者がパ・リーグの選手に偏っていることから、セ・リーグでの極端な投手分業制に対しては懐疑的な考えを持っている[9]。
[編集] 野球
昭和50年代(1975年から1984年)にあげた勝利数が163で、2位の鈴木啓示の155を抑えて1位である。また、1970年代(昭和45年から昭和54年)にあげた勝利数は171であるが、鈴木啓示が174をあげたため、2位である。
初勝利こそ8回2死まで投げながらベテラン・足立光宏のリリーフを仰いだものの、100勝・150勝・200勝・最後の勝利(登板日は阪急最後の公式戦でもある)でもある284勝など初勝利以外の節目の勝利は、すべて完投勝利である。
1971年第3戦で痛恨のサヨナラ本塁打を浴びた王とは、日本シリーズでは通算でも対戦打率.320(25打数8安打)・4本塁打と分の悪い対戦成績だが、オールスターでは逆に7打数0安打と完璧に抑え込んでいる。
自身が得意とした変化球のシンカーについて、「私のシンカーが本当のシンカー」と自負している。同じくシンカーの使い手と言われる高津臣吾や潮崎哲也のシンカーについては、「シンカーというよりもチェンジアップ」と述べている[10]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969 | 阪急 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 45 | 9.2 | 14 | 1 | 1 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 6 | 6 | 5.40 | 1.55 |
| 1970 | 52 | 18 | 9 | 3 | 1 | 10 | 17 | -- | -- | .370 | 765 | 189.0 | 156 | 29 | 52 | 2 | 9 | 162 | 1 | 1 | 75 | 67 | 3.19 | 1.10 | |
| 1971 | 46 | 31 | 16 | 6 | 3 | 22 | 6 | -- | -- | .786 | 1064 | 270.0 | 195 | 37 | 64 | 6 | 6 | 189 | 0 | 0 | 80 | 71 | 2.37 | 0.96 | |
| 1972 | 43 | 27 | 15 | 3 | 1 | 20 | 8 | -- | -- | .714 | 928 | 231.0 | 186 | 29 | 52 | 5 | 8 | 142 | 3 | 1 | 85 | 79 | 3.08 | 1.03 | |
| 1973 | 36 | 26 | 12 | 1 | 1 | 15 | 10 | -- | -- | .600 | 845 | 207.1 | 194 | 32 | 47 | 2 | 3 | 99 | 1 | 1 | 89 | 82 | 3.57 | 1.16 | |
| 1974 | 41 | 7 | 4 | 0 | 0 | 11 | 6 | 11 | -- | .647 | 534 | 130.0 | 103 | 18 | 36 | 5 | 3 | 78 | 0 | 1 | 46 | 44 | 3.05 | 1.07 | |
| 1975 | 31 | 25 | 16 | 2 | 3 | 12 | 10 | 2 | -- | .545 | 827 | 198.0 | 202 | 36 | 42 | 2 | 9 | 114 | 1 | 0 | 97 | 95 | 4.32 | 1.23 | |
| 1976 | 39 | 27 | 23 | 5 | 3 | 26 | 7 | 5 | -- | .788 | 1020 | 259.2 | 217 | 20 | 48 | 1 | 4 | 143 | 2 | 0 | 74 | 69 | 2.39 | 1.02 | |
| 1977 | 44 | 25 | 20 | 1 | 3 | 16 | 10 | 7 | -- | .615 | 960 | 240.2 | 204 | 19 | 46 | 2 | 9 | 132 | 2 | 1 | 70 | 61 | 2.28 | 1.04 | |
| 1978 | 35 | 25 | 20 | 1 | 5 | 18 | 4 | 4 | -- | .818 | 889 | 219.2 | 188 | 23 | 40 | 1 | 11 | 117 | 1 | 0 | 79 | 65 | 2.66 | 1.04 | |
| 1979 | 36 | 27 | 20 | 3 | 2 | 21 | 5 | 4 | -- | .808 | 973 | 237.0 | 211 | 17 | 64 | 4 | 9 | 115 | 1 | 0 | 81 | 72 | 2.73 | 1.16 | |
| 1980 | 30 | 22 | 18 | 1 | 2 | 13 | 10 | 1 | -- | .565 | 823 | 200.2 | 172 | 28 | 59 | 6 | 5 | 112 | 0 | 0 | 84 | 66 | 2.96 | 1.15 | |
| 1981 | 34 | 22 | 17 | 1 | 2 | 13 | 12 | 5 | -- | .520 | 832 | 208.0 | 172 | 24 | 45 | 1 | 9 | 114 | 1 | 0 | 78 | 68 | 2.94 | 1.04 | |
| 1982 | 33 | 25 | 17 | 0 | 2 | 16 | 9 | 4 | -- | .640 | 902 | 218.0 | 204 | 30 | 65 | 5 | 9 | 97 | 0 | 0 | 90 | 75 | 3.10 | 1.23 | |
| 1983 | 28 | 27 | 21 | 1 | 6 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 894 | 214.1 | 223 | 20 | 46 | 1 | 7 | 90 | 1 | 0 | 95 | 79 | 3.32 | 1.26 | |
| 1984 | 24 | 21 | 14 | 2 | 4 | 14 | 4 | 0 | -- | .778 | 682 | 167.2 | 156 | 19 | 39 | 0 | 7 | 60 | 0 | 0 | 67 | 61 | 3.27 | 1.16 | |
| 1985 | 30 | 29 | 16 | 1 | 1 | 18 | 10 | 0 | -- | .643 | 926 | 222.1 | 216 | 42 | 54 | 0 | 10 | 104 | 0 | 0 | 118 | 107 | 4.33 | 1.21 | |
| 1986 | 28 | 28 | 15 | 0 | 2 | 14 | 9 | 0 | -- | .609 | 877 | 210.1 | 208 | 28 | 46 | 0 | 12 | 105 | 0 | 0 | 99 | 89 | 3.81 | 1.21 | |
| 1987 | 17 | 15 | 5 | 0 | 0 | 7 | 7 | 0 | -- | .500 | 474 | 113.2 | 113 | 18 | 35 | 1 | 2 | 36 | 0 | 0 | 57 | 47 | 3.72 | 1.30 | |
| 1988 | 20 | 19 | 5 | 0 | 1 | 4 | 10 | 0 | -- | .286 | 490 | 118.0 | 125 | 20 | 28 | 3 | 2 | 43 | 0 | 0 | 68 | 64 | 4.88 | 1.30 | |
| 通算:20年 | 654 | 447 | 283 | 31 | 42 | 284 | 166 | 43 | -- | .631 | 15750 | 3865.0 | 3459 | 490 | 909 | 47 | 135 | 2058 | 14 | 5 | 1538 | 1367 | 3.18 | 1.13 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 年度別監督成績
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2002年 | 中日 | 3位 | 140 | 69 | 66 | 5 | .511 | 15.5 | 125 | .257 | 3.19 | 54歳 |
| 2003年 | 2位 | 140 | 73 | 66 | 1 | .525 | 14.5 | 137 | .268 | 3.80 | 55歳 | |
| 通算:2年 | 260 | 128 | 127 | 5 | .502 | Aクラス2回 | ||||||
- ※1 2001年から2004年までは140試合制
- ※2 2003年は20試合を残して休養。以降の監督代行は佐々木恭介
- ※3 通算成績は2003年の休養後の20試合を含めない
[編集] タイトル
[編集] 表彰
- MVP:3回 (1976年 - 1978年) ※3年連続は日本プロ野球記録
- ベストナイン:5回 (1971年、1972年、1976年、1977年、1979年)
- ダイヤモンドグラブ賞:5回 (1977年 - 1979年、1981年、1982年)
- 月間MVP:3回(1979年7月、1981年8月、1984年5月)
- パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1977年)
- 日本シリーズMVP:1回 (1977年)
- 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1971年)
- 日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1975年)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2006年)
[編集] 記録
- レギュラーシーズン
- 12年連続開幕投手(1975年 - 1986年) ※日本プロ野球記録
- シーズン被本塁打:42(1985年) ※パ・リーグタイ記録
- 日本シリーズ
- 通算敗戦:9(シリーズ記録)
- 通算被安打:122(シリーズ記録)
- 通算被本塁打:23(シリーズ記録)
- シリーズ敗戦:3(1984年、シリーズタイ記録)
- シリーズ被本塁打:6(1978年、シリーズ記録)
- シリーズ自責点:12(1976年、1978年、シリーズタイ記録)
- 1試合投球数:169(1978年第1戦、9イニング超を除き最多)
- 1試合被安打:14(1978年第5戦、シリーズ記録)
- オールスターゲーム
- 出場:13回(1971年 - 1972年、1974年 - 1979年、1981年 - 1982年、1985年 - 1987年)
- 1980年と1984年は出場辞退
- 通算勝利:7(オールスターゲーム記録)
[編集] 背番号
- 25 (1969年 - 1970年)
- 17 (1971年 - 1988年)
- 67 (1994年)
- 71 (1995年 - 1996年、2002年 - 2003年)
- 75 (1999年 - 2001年)
[編集] 関連情報
[編集] 書籍
- 300勝に賭けるサブマリン(自著:ベースボール・マガジン社) 1988年7月 ISBN 9784583026909
- たった一人のかけ引き―さみしい男のマウンド30の禁句(自著:青春出版社) 1989年3月 ISBN 9784413014915
- プロ野球 勝負強さの育て方(自著:PHP研究所) 1998年3月 ISBN 9784569571157
- 世界一の方程式(自著:ベースボール・マガジン社) 2009年7月 ISBN 9784583101798
- 120キロの快速球(永谷脩著:文藝春秋) 1989年7月
- 山田久志―華やかに、赤いサブマリン(ぎょうせい)
- 山田久志 投げる(矢島裕紀彦著:小学館文庫)
- 山田久志優しさの配球、強さの制球―21世紀型人材活用(中村克洋著:海拓舎)
[編集] 出演
- BANG BANG BASEBALL
- サンデードラゴンズ
- CBCドラゴンズナイター
- NHKプロ野球
- NHKニュース7(スポーツコーナーの野球解説)
- サタデースポーツ(プロ野球解説)
- サンデースポーツ(プロ野球解説)
- 久野誠のドラゴンズワールド(番組終了)
- サンデーモーニング(「スポーツご意見番」の助っ人ご意見番)2010年11月7日・2011年5月8日放送分2011年11月6日.放送分
[編集] CM出演
- アサヒスーパードライ(1997年)
- 自重堂(2000年頃、2度目のNHK解説者時代に出演)
[編集] 脚注
- ^ a b c d e f 「阪急ブレーブス黄金の歴史 永久保存版―1936-1988 よみがえる勇者の記憶」(ベースボール・マガジン社)における福本との対談より
- ^ 伏線はあった…山田久志が王貞治に打たれたサヨナラ本塁打
- ^ 皆川の投球フォームについてはサイドスローと言われることもある。なお、山田が通算勝利数で皆川(221勝)を上回ったのは1983年である。
- ^ a b 文春ビジュアル文庫「魔球伝説」山田の項
- ^ トム・シーバーが持つMLB記録とも並んでいた。
- ^ 週刊ベースボール2003年9月29日号98頁から100頁より
- ^ 東京スポーツ2007年11月1日紙面より
- ^ 能代市教育委員会スポーツ振興課 山田久志サブマリンスタジアム(能代球場)
- ^ なぜセ・リーグはエースが育たないのか? 集英社 スポルティーバ公式サイト (2010年9月13日)
- ^ フジテレビONE『プロ野球ここだけの話』第17回 潜航御礼!サブマリンここだけの話 (2011年12月5日放送)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
||||||||||||||||||||
|
|||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||