上原浩治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
上原 浩治
Koji Uehara
ボストン・レッドソックス #19
Koji Uehara on March 13, 2012.jpg
レンジャーズ時代(2012年3月13日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府寝屋川市
生年月日 1975年4月3日(38歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 NPB / 1999年4月4日
MLB / 2009年4月8日
年俸 $4,250,000(2013年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2004年2008年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手投手)。ボストン・レッドソックス所属。

目次

経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

大阪府寝屋川市出身。実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始める[1]寝屋川市立第十中学校では野球部が無かったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した[1]。この頃の夢は体育教師になることだった。進学した東海大学付属仰星高等学校では、「団体競技ではあるものの個人技の要素が強い投手なら試合を支配できる」との理由で野球部に入る。同学年の建山義紀はいくつもの高校から勧誘された末に同校入りした逸材で、その投球を見た上原は「自分の投球などはキャッチボールにすぎない」と思ったという。

1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める。3年になって投手になるが建山の控えでほとんど登板機会がなく[1]、同校も夏の府大会で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘され、また同校ラグビー部の大畑大介がマスコミの注目を集める中、上原は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが結果は不合格となる[1]

この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものだったが、浪人してもう一度受験することを決意する。隣町の予備校に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした[1]。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。またこの時期にノーラン・ライアン著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入る。1年半ぶりの投球は上原自身が驚くほど球威が増しており、中野和彦監督が球速を測らせたところ146km/hを記録した。

その年の阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目される。大学3年時の1997年日米大学野球選手権大会では大会タイの14三振を奪い、メジャーからも注目される。この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。日本代表に選ばれた同年8月のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。秋の大阪経済法科大学戦では1試合21奪三振を記録。これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。4年時の姫路獨協大学戦ではノーヒットノーランを達成した。大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。通算36勝と完封13はリーグ記録。

1998年のドラフトでは松坂大輔と並ぶ目玉と目され多くの球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグアナハイム・エンゼルス読売ジャイアンツによる争奪戦となる。一時はエンゼルス入りに傾いたが、大学2年の時から熱心に勧誘し続け、他球団が松坂獲得を狙う中でも一貫して上原を熱望していた巨人を逆指名し、1位で入団した。入団後、上原は背番号19を希望。この数字には、大学受験に失敗して浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。

契約について、(2012年3月15日付朝日新聞朝刊)最終的に巨人から上原側に、5億円+退団時の功労金7,000万円+出来高3,000万円が支払われていたことが報じられた。1998年12月15日付けの上原の契約書類では、契約金の支払い方法については、1999年1月初旬に1億円、2000~2007年度に各5千万円の計4億円、としている。巨人軍にとって出来高払いは税務上、契約金の分割払いとみなされ、通常の出来高払いとは違う会計処理をしていた。上原も税務申告する際、契約金の一部であることを明らかにしていた[2]。さらに、同日付の年俸締結書類では、入団1年目の1999年度の年俸は「3300万円」だが、セ・リーグ会長に提出する「統一契約書」には、「1300万円」と明記することも盛り込まれていた[3]

巨人時代 [編集]

1999年、毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、サンデー上原と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、既に中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争っていた[4]。上原自身も中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する[4]。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、全力で投げ込み、目に浮かんだをユニフォームの袖で拭った[1]。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。最終的には20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じて1990年斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。また、新人王沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。

2000年7月2日広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。7月27日には川崎市内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。この事故について、球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、業務上過失傷害書類送検され罰金30万円の略式命令を受けている。これによりアサヒ飲料十六茶」のCM契約も打ち切られる。この事故や転倒なども重なり、9勝7敗に終わる。ポストシーズンでは福岡ダイエーホークスとの日本シリーズ第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後の4連勝でチームの日本一に貢献する。

2001年4月13日横浜ベイスターズ戦で左太ももの肉離れを起こし離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷。2年ぶりに2桁勝利するものの、防御率は自身最低の4.02に終わる。

2002年には、200イニング登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝と沢村賞、ベストナインを獲得。西武ライオンズとの日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初の4連勝日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。シーズン後に行われた日米野球にも選出され、バリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。

2003年7月20日から8月29日にかけては7試合連続完投勝利を挙げるなどの活躍で最多勝争いに加わるが、最終的には20勝を上げた井川慶に軍配が上がり、2年連続で200イニング登板達成で16勝5敗の成績を残す。

2004年、キャンプで右足を痛めたが、開幕には間に合わせ、最初の6試合で平均球数130球以上を記録[5]。5月に左足を怪我したが、その後ローテを一回飛ばしたのみで復帰[5]。膝に負担がかからないようにフォームをコンパクトに[5]アテネオリンピック野球日本代表に選出。防御率0.50で銅メダル獲得に貢献。シーズンでは五輪と故障で一時戦列を離れており、試合数は22試合にとどまったが、リーグ3位の13勝を挙げ、防御率はリーグ唯一の2点台となる2.60で2度目の最優秀防御率を受賞。9月14日には元モデル山﨑美穂と結婚した。この年の契約更改で年俸が3億円に到達。入団6年目での3億円到達は史上最速であった。

2005年は防御率リーグ3位、完投数リーグ3位、奪三振リーグ5位、投球回リーグ4位、WHIPリーグ1位など好成績を残したが、勝敗は9勝12敗と自身初めてのシーズン負け越しを経験した。

巨人時代(2006年)

2006年、開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックには日本代表エースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。特に準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。

レギュラーシーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成。しかしシーズン全体を通しては調子が上がらず、援護にも恵まれなかったこともあり8勝9敗で2年連続1桁勝利で負け越した。

この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始める。6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。

2007年は、故障による出遅れと、抑えの豊田清の不調が重なり、この年は抑えとして起用される。5月2日中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。

2008年4月4日FA権を取得。7日に会見を開き、来季のメジャーリーグ移籍を宣言。巨人清武代表からは「全力を上げて慰留する」と同時に、「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たす。初登板時で完投を記録するも、4失点で敗戦投手となり、10奪三振を記録する快投を披露すると共に本塁打を連続被弾し降板するなど、その後も勝てない状態が続く。中4日登板なども試すが成績は悪化し、原辰徳監督自身がマウンド上に駆け寄り、降板するという異例の光景も見られた。5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。シュートを覚えて投球フォームを崩したことや、長いイニング投球での怪我を恐れるあまり投球フォームの足の踏み込みが甘いことなどが不調の原因ではないかと本人は語っており、「こんな気持ちは初めて、投げるのが怖い」とまで漏らした。

二軍では小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていた。7月に五輪代表監督星野仙一の五輪代表招集要望で一軍に緊急復帰し、セットアッパーとして登板するも、調子を取り戻すことはできずに終わる。しかしそれでも星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、五輪代表に選出。一軍でも尾花投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で2アウトからの救援など、段階を上げながら失敗・成功を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。

前年に代謝異常の難病を患っていた斉木翔太君と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、斉木君はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。10月以降の敗戦は自身初であった。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかし打線の援護でチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。

11月14日にはFA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明[1]。SFX社のマーク・ピーパーを代理人とし、1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。背番号は巨人時代と同じ「19」に決定した。

メジャーリーグ時代 [編集]

日付は全て現地時間

ボルティモア・オリオールズ [編集]

オリオールズ時代(2009年)

2009年は開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のニューヨーク・ヤンキース戦で初登板初勝利を挙げた。その後も5試合連続のQSを記録するなど安定した投球を見せていたが、4月29日のロサンゼルス・エンゼルス戦では7回に腹部にライナーを受け、降板。この回はトリー・ハンターケンドリー・モラレスに2打席連続本塁打を浴びていた。腹部に異常は無く、本人は「息ができなかった」、「ボールがバレーボールの大きさに見えた」、「内出血していないから大丈夫」などと話した。5月27日に左太もも裏の痛みが再発したため、15日間の故障者リスト入り。更に6月28日には右ひじ腱の部分断裂により再び故障者リストに入り、以降もリハビリを続けたものの、シーズン中の復帰は断念した。

2010年1月1日より株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得[6]。シーズンでは序盤こそ故障に苦しんだものの、復帰後はリリーフに配置され、8月22日よりクローザーに抜擢。同日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑え、メジャー初セーブを挙げた。その後クローザーに定着し、8月30日には1球セーブを挙げ、シーズン最後の週には週間MVP候補に挙げられる活躍でシーズンを終えた。特に7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でシーズン5個目の四球を与えて以降は一度も四球を出さず、MLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。四球1つあたりいくつ三振を奪ったかを示すK/BBはアメリカンリーグ全投手中最高の11.00を記録。シーズン終了後にインサイド・エッジ社の発表したメジャーリーガーの通信簿では両リーグ最多セーブを挙げたサンフランシスコ・ジャイアンツブライアン・ウィルソンよりも高い評価を得た[7]。12月9日には地元紙のボルティモア・サンがオリオールズとの再契約に合意したと報じ[8]、250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)[9]

2011年はセットアッパーとして安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1.72、WHIP0.70(リーグの救援投手でトップ)という成績を残す。また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。

テキサス・レンジャーズ [編集]

2011年シーズン途中の7月30日にトミー・ハンタークリス・デイビスとのトレードテキサス・レンジャーズに移籍し、高校時代に同級生であった建山義紀とチームメイトとなった。背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「19」。8月は環境の変化に対応できず11試合の登板で防御率6.52、WHIP1.24を喫し、被本塁打率は3.72と大きく打ち込まれたが、8月31日には55試合登板を達成し、翌年の契約オプションを更新[10]。9月は10試合の登板で防御率1.23、WHIP0.23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献。シーズン通算ではリリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.72、同5位の奪三振率11.77、同2位の与四球率1.25を記録し、ストライク率は両リーグトップの71.9%だった[11]。また、K/BBはメジャー全体で4位であった。レンジャーズ移籍前後を比較すると球速や投球割合、ストライク率など基本的な投球に大きな変化はなかったが、被本塁打率だけが大幅に増加した[12]

ポストシーズンではタンパベイ・レイズとのディビジョンシリーズ第2戦で初登板を果たすも、エバン・ロンゴリアから3点本塁打を浴びる[13]デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でもミゲル・カブレラに本塁打を打たれ[14]、さらに第5戦でもライアン・レイバーンに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録[15]。チームはワールドシリーズ進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。もう1回、チャンスがほしい」と語り[16]復調を目指したが、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。

2012年1月23日にトロント・ブルージェイズとのトレードが成立した[17]が、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった[18]。5月12日のエンゼルス戦で29試合ぶりの四球を出すまで球団の連続無四球試合数記録を更新し、2球団で連続無四球試合数の球団記録を更新。20試合の登板で防御率2.11、WHIP0.70と好投を続けていたが、右広背筋を痛めて6月14日にDL入り[19]。その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1.23、WHIP0.54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。ESPNの1900年からの統計によると、この年のK/BB14.33は、年間35イニング以上を投げた投手ではデニス・エカーズリー1989年1990年に記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった[20]

ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退しディビジョンシリーズ進出を逃した[21]

ボストン・レッドソックス [編集]

2012年12月6日にボストン・レッドソックスと総額425万ドル+出来高の1年契約で合意したことが報じられ[22]、18日に契約した[23]

選手としての特徴 [編集]

トルネード投法気味のノーワインドアップとスリークォーターから投げる伸びのある最速153km/h(プロ入り後の最速は149km/h)の速球(フォーシーム、ツーシームカットボール)とフォークボールを軸とし[24]、フォークはSFFに近い落差の小さいものや空振りを取る落差の大きいもの、スライダー回転やシュート回転をかけた左右に曲がりながら落ちる軌道など数種類のフォークを投げ分ける[24][25][26]クローザーに抜擢された2010年後半からはチェンジアップを速球とフォークボールに次ぐ割合で投げるようになった他[24]、速球を多投する傾向が見られた[27]。平均球速は88-89mph(約142-143km/h)[24]とメジャーのリリーバーとしては最も遅い部類に入る球速だが[28]、速球に微妙な変化をつける他、投球フォームにも速度の変化をつけて打者のタイミングを外し[29]、リリーフとしてのメジャー通算奪三振率11.36と奪三振を量産している[30]。稀にスライダーカーブも混ぜ、メジャー移籍後はひと指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していた[31]

フォークを覚えたのはプロに入ってからで、アマチュア時代は、マッスラナックルカーブを軸にしていた。本人曰く「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった」ためプロ入り後数年にわたってスライダーを封印した[32]。大学時代には最速153km/hを記録[33]するなどアマチュア時代からプロ入り当初にかけては150km/hに届こうかという速さだったが、プロ入り後は最速149km/h、平均球速は140km/h前後となっていた[34]。抑えを任された2007年は、最高147km/h、平均でも140km/h前半という球速を記録している。

特筆すべきはその制球力であり、奪三振を与四球で割るK/BBでは生涯100イニング以上投げた投手の中で日本プロ野球歴代最高となる通算6.88(2位は川上憲伸の3.78、3位は遠藤一彦の3.32)[35]、メジャーリーグでも生涯35イニング以上投げた投手の中で歴代最高の通算7.97を記録している(2012年終了時点)[36]。日本での10年間の1549イニングで与四球数はわずかに206個。通算与四球率は1.20で、「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手たちの記録を大きく上回る。暴投も非常に少なく、10年間で10個しか記録していない。この制球力に加えて、一球ごとの投球間隔が非常に短く、速いテンポでどんどんストライクを投げ込んでいくため、2時間程度での完投勝利もしばしばあり、1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分での完投勝利も記録している。

一方で、メジャー通算の被本塁打率1.15と被本塁打が多い傾向がある。巨人時代は抑えを務めた2007年を除いて毎年2桁の被本塁打を喫しており、シーズン20被本塁打以上も5回記録。2003年から2006年にかけては、4年連続で与四球数よりも被本塁打数の方が多いという珍しい記録を残している。

国際大会での活躍 [編集]

本人は「対戦相手に恵まれていただけ」と謙遜するが[32]、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて25戦12勝0敗2セーブ(2008年8月18日時点)、「国際戦負けなし」という無類の強さを誇る[37]

大学3年夏に日本代表に選出された第13回インターコンチネンタル・カップの決勝・キューバ戦で、強気の投球で5回と1/3を投げて1失点と好投し、キューバの連勝記録を151でストップさせた[35]。2006年のワールド・ベースボール・クラシックでは2次リーグ初戦のアメリカ戦で勝敗が付かなかったが5回1失点と好投し、対戦成績0勝2敗で迎えた準決勝・韓国戦で7回無失点8奪三振と好投して勝利投手になるなど大会2勝を挙げた。2007年12月の北京オリンピックアジア予選でも1セーブをマーク。2008年、シーズンは絶不調だったものの北京オリンピックでは完璧な投球を披露し1セーブを挙げた。北京オリンピック終了後に日本代表引退を表明した[37]

人物 [編集]

座右の銘には「雑草魂」を挙げている[1]

入団当初からメジャーへの強い希望を持ち続けており、2004年~2005年オフにもポスティングシステムによる移籍を直訴してきた。しかし球団はポスティングシステム行使を容認せず、メジャー移籍を果たしたのは2008年のFA権取得後となった。現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している[1]

2010年からルパン三世のようなもみあげを伸ばし髪を短く刈った髪型にし[38]NHK BS1の番組『MLBハイライト』のBest Shotコーナーで上原の事が取り上げられると、ルパン三世のテーマやルパンに関する歌などが流れるようになった。

東北地方太平洋沖地震で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切るセ・リーグについて、「正気の沙汰とは思えない」と批判した[39]。 2002年オフにロベルト・ペタジーニが7億円の年俸で入団することについてある番組で尋ねられた時、貰いすぎだと言ったことがある。

詳細情報 [編集]

年度別投手成績 [編集]





















































W
H
I
P
1999 巨人 25 25 12 1 4 20 4 0 -- .833 769 197.2 153 12 24 3 4 179 3 0 49 46 2.09 0.90
2000 20 20 6 1 2 9 7 0 -- .563 519 131.0 112 20 22 1 1 126 1 0 53 52 3.57 1.02
2001 24 22 4 1 1 10 7 0 -- .588 573 138.2 133 18 28 3 5 108 2 0 66 62 4.02 1.16
2002 26 26 8 3 4 17 5 0 -- .773 808 204.0 173 18 23 3 6 182 2 0 65 59 2.60 0.96
2003 27 27 11 1 3 16 5 0 -- .762 821 207.1 190 28 23 3 5 194 0 0 76 73 3.17 1.03
2004 22 22 2 0 0 13 5 0 -- .722 637 163.0 135 24 23 0 5 153 1 0 54 47 2.60 0.97
2005 27 27 6 2 4 9 12 0 0 .429 747 187.1 164 24 22 0 0 145 0 1 73 69 3.31 0.99
2006 24 24 5 0 3 8 9 0 0 .471 673 168.1 157 24 21 3 1 151 0 1 67 60 3.21 1.06
2007 55 0 0 0 0 4 3 32 4 .571 237 62.0 47 4 4 1 1 66 1 0 12 12 1.74 0.82
2008 26 12 2 0 0 6 5 1 5 .545 370 89.2 90 11 16 1 0 72 0 0 43 38 3.81 1.18
2009 BAL 12 12 0 0 0 2 4 0 0 .333 279 66.2 71 7 12 1 0 48 0 0 33 30 4.05 1.25
2010 43 0 0 0 0 1 2 13 6 .333 174 44.0 37 5 5 0 0 55 1 0 15 14 2.86 0.96
2011 43 0 0 0 0 1 1 0 13 .500 174 47.0 25 6 8 1 0 62 0 0 9 9 1.72 0.70
TEX 22 0 0 0 0 1 2 0 9 .333 69 18.0 13 5 1 0 0 23 0 0 8 8 4.00 0.78
'11計 65 0 0 0 0 2 3 0 22 .400 243 65.0 38 11 9 1 0 85 0 0 17 17 2.35 0.72
2012 37 0 0 0 0 0 0 1 7 ---- 130 36.0 20 4 3 0 0 43 1 0 7 7 1.75 0.64
NPB:10年 276 205 56 9 21 112 62 33 9 .644 6154 1549.0 1354 183 206 18 28 1376 10 2 558 518 3.01 1.01
MLB:4年 157 12 0 0 0 5 9 14 35 .357 826 211.2 166 27 29 2 0 231 2 0 72 68 2.89 0.92
  • 2012年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル [編集]

NPB

表彰 [編集]

プロ野球
プロ入り前
  • インターコンチネンタル最優秀投手賞 :1回(1997年)
その他

※【】内は主催機関

記録 [編集]

初記録(投手記録)
  • 初登板・初先発:1999年4月4日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、6回2/3を4失点で敗戦投手
  • 初奪三振:同上、1回表に坪井智哉から見逃し三振
  • 初勝利・初先発勝利:1999年4月13日、対広島東洋カープ1回戦(東京ドーム)、7回3安打無失点
  • 初完投勝利:1999年5月16日、対横浜ベイスターズ7回戦(東京ドーム)、9回2失点
  • 初完封勝利:1999年9月14日、対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤドーム
  • 初セーブ:2007年5月2日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤドーム)、11回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初ホールド:2007年7月12日、対阪神タイガース12回戦(東京ドーム)、9回表に6番手で救援登板、2回無失点
初記録(打撃記録)
  • 初安打:1999年4月13日、対広島東洋カープ1回戦(東京ドーム)、3回裏にネイサン・ミンチーから投手内野安打
  • 初打点:1999年8月10日、対ヤクルトスワローズ18回戦(東京ドーム)、2回裏に山部太から遊撃ゴロの間に記録
  • 初本塁打:2003年7月20日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、3回表に吉見祐治から左越ソロ
節目の記録
  • 1000投球回数:2004年8月3日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、5回裏3死目に岩村明憲を一塁ゴロで達成 ※史上298人目
  • 1000奪三振:2005年5月31日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、6回裏に小田智之から空振り三振 ※史上115人目
  • 100勝:2006年8月25日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で6回2/3を2失点 ※史上121人目
  • 1500投球回数:2008年7月20日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、8回裏2死目に大西宏明を二直併殺で達成 ※史上161人目
その他の記録
NPB時代
  • 新人連続勝利 :15勝(1999年、プロ野球記録)
  • 月間セーブ数 :11セーブ(2007年、プロ野球タイ記録)
  • 投手4冠 :1回(1999年、史上10人目)
  • 新人投手4冠 :1999年(史上3人目)
  • 二ケタ連勝 :2回(1999年、2002年)
  • 毎回奪三振 :2回(2000年5月6日、2005年6月30日 共にヤクルト戦)
  • 日本シリーズ1イニング最多奪三振 :3個(2002年、日本シリーズタイ記録)
  • 交流戦1試合最多奪三振 :14個(2006年6月18日楽天戦、交流戦タイ記録)
  • 100勝到達試合数 :191試合(ドラフト制以降最速タイ、史上4位タイ)
  • 20勝30セーブ投手(史上2人目)
  • 投手4タイトル複数獲得者(史上2人目)
  • 入団6年目で80勝(史上6人目)
  • 新人で両リーグ10勝1番乗り(2リーグ制後史上5人目)
  • 通算「K/BB」:6.88(歴代1位)
  • オールスターゲーム新人勝利投手 :1999年(史上7人目)
  • オールスターゲーム新人先発勝利投手 :1999年(史上3人目)
  • オールスターゲーム出場:7回 (1999年、2001年 - 2005年、2007年)
    • (2000年は怪我のため出場辞退)
  • アテネオリンピック野球日本代表(2004年)
  • 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表(2006年)
  • 北京オリンピック野球日本代表(2008年)
  • 1試合5三振:2000年5月6日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム) ※史上9人目(セ・リーグ5人目)
MLB時代
  • 連続無四球試合数 :36試合(史上3位)

背番号 [編集]

  • 19 (1999年 - )

関連情報 [編集]

出演 [編集]

参考書籍 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 上原浩治 『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』 創英社/三省堂書店、2010年ISBN 978-4-8814-2193-2
  2. ^ 巨人、6選手に契約金36億円 球界申し合わせ超過 朝日新聞デジタル 2012年3月15日
  3. ^ 1年目年俸、実は3300万円 巨人と上原・二岡の契約 朝日新聞デジタル 2012年3月15日
  4. ^ a b 上原浩治 『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』 創英社/三省堂書店、2010年、99頁。ISBN 978-4-8814-2193-2
  5. ^ a b c 『ベースボールマガジン Winter issue 2005 Vol.29 No.1 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日 より
  6. ^ 上原、米永住権取得!復活へ決意の証スポーツ報知、2010年12月28日。
  7. ^ 全項目B評価以上の黒田 松坂「3球目」で平均以下 上原A評価ズラリ、All About、2011年2月16日配信、2011年2月16日閲覧。
  8. ^ “上原、1年契約でオ軍残留 地元紙が報じる”. 47NEWS(共同通信). (2010年12月9日). http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120901000449.html 2010年12月9日閲覧。 
  9. ^ 上原と再契約 オリオールズが正式発表日刊スポーツ、2010年12月15日。
  10. ^ 上原来季もレ軍 55試合登板で自動更新日刊スポーツ、2011年9月2日。
  11. ^ MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/救援投手編 主要107救援投手 持ち球一覧/球種別平均球速 『月刊スラッガー』2012年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、51頁。
  12. ^ シーズン途中移籍の検証 ~上原浩治編~『月刊スラッガー』2012年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、56頁。
  13. ^ 上原被弾「四球がすべて」日刊スポーツ、2011年10月3日。
  14. ^ レ軍逆転負け 上原「ダメ」日刊スポーツ、2011年10月12日。
  15. ^ 上原PS史上初3戦連続被弾日刊スポーツ、2011年10月15日。
  16. ^ 上原、Wシリーズで雪辱狙う日刊スポーツ、2011年10月17日。
  17. ^ 上原、ブルージェイズ 球団間合意 破談も - スポーツ報知 2012年1月24日
  18. ^ 上原、トレード拒否 ブルージェイズ移籍は破談 - スポーツ報知 2012年1月25日
  19. ^ 上原が右広背筋痛で故障者リスト入り日刊スポーツ、2012年6月15日。
  20. ^ 上原獲得の決め手はメジャー歴代3位の制球力サンケイスポーツ、2012年12月8日。
  21. ^ 上原3者連続三振斬りも「不完全燃焼」日刊スポーツ、2012年10月6日。
  22. ^ “Koji Uehara to Red Sox”. ESPN. (2012年12月7日). http://espn.go.com/boston/mlb/story/_/id/8721082/koji-uehara-boston-red-sox-agree-one-year-contract-source 2012年12月7日閲覧。 
  23. ^ “Red Sox, Uehara make it official with one-year pact”. MLB.com. (2012年12月18日). http://boston.redsox.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20121218&content_id=40735768&vkey=news_bos&c_id=bos 2012年12月18日閲覧。 
  24. ^ a b c d FanGraphs Koji Uehara Pitch Fx
  25. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクト、2008年、18-19頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  26. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2009』 廣済堂出版、2009年、20-21、102頁。ISBN 978-4-331-51370-5
  27. ^ ファーストボール、koji-uehara.net、2010年9月13日付、10月11日閲覧
  28. ^ 上原浩治、復活のカギは140キロの剛速球、web Sportiva、2010年9月22日付、10月11日閲覧。
  29. ^ 上原浩治が急に化けた!?絶好調の鍵は二重の“緩急”。、Number Web、2010年9月20日付、10月11日閲覧。
  30. ^ クローザーとして蘇った上原浩治。MLBきっての“モテ男”の来季を占う。、Number Web、2010年10月6日付、11日閲覧。
  31. ^ 上原メジャーへ独自開発“1本指カーブ”、日刊スポーツ、2009年1月25日付、2010年10月11日閲覧。
  32. ^ a b 石田雄太 『屈辱と歓喜と真実と―“報道されなかった”王ジャパン121日間の裏舞台』 ぴあ、2007年ISBN 978-4-8356-1651-3
  33. ^ 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート'99』 ザ・マサダ、1999年、108頁。ISBN 4-915977-84-6
  34. ^ 小関順二、泉直樹、荒井太郎 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクト、2006年、348-349頁。ISBN 978-4-7572-1246-6
  35. ^ a b 『別冊宝島 プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説』 宝島出版 発行日2009年4月12日 より
  36. ^ Signed set-up men have premium skills、ESPN、2012年12月25日付、2012年12月31日閲覧
  37. ^ a b 上原浩治、無敗のまま代表引退へ 星野ジャパン成田帰国会見リポート、スポーツナビ、2008年8月25日配信、2010年9月7日閲覧。
  38. ^ 上原は尚成から髪型「ルパン三世みたい」 日刊スポーツ 2010年4月5日
  39. ^ 上原「正気じゃない」開幕強行の巨人批判

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]