川上憲伸

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川上 憲伸
Kenshin Kawakami
アトランタ・ブレーブス #11
ブレーブス入団会見での川上憲伸
基本情報
国籍 日本
出身地 徳島県徳島市
生年月日 1975年6月22日(34歳)
身長
体重
179cm
90kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1997年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 NPB / 1998年4月9日
MLB / 2009年4月12日
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2008年

川上 憲伸(かわかみ けんしん、1975年6月22日 - )は、MLBアトランタ・ブレーブスに所属するプロ野球選手投手)。日本球界一のカットボーラーとしても知られている。


目次

[編集] 投球スタイル

ファンの間では「ピンチでも物怖じしない気迫の投球が持ち味」と評価が高く、力強いストレート、バットの芯をずらすカットボール、ストレートとあまり球速の変わらないフォーク(スプリット)やシュート、タイミングをはずす100km/h~110km/hのスローカーブを駆使し、打者を押さえ込むピッチングを身上とする。

持ち球は、ストレート・カットボール・スライダー・カーブ・シュート・フォーク(スプリット)など 入団当初はナックルも投げていた。

[編集] 経歴

徳島県徳島市出身。徳島商業高校時代は第75回全国高等学校野球選手権大会に4番・エースとして出場し、準々決勝まで進出した。その後明治大学商学部に進学。

大学でもエース、4年時には主将として活躍。大学3年時の(1996年東京六大学野球秋季リーグ優勝(全勝優勝)に貢献した。慶應義塾大学高橋由伸とは同期のライバルとして好勝負を繰り広げた。リーグ通算57試合登板、28勝15敗、防御率2.14、311奪三振。ベストナイン3回。

ドラフト会議では中日ドラゴンズ逆指名し、ドラフト1位で入団。

[編集] プロ入り後

ルーキーイヤーの1998年14勝6敗の成績で新人王に輝く。翌1999年はプロ2年目で初めて開幕投手を務める。シーズン成績こそ8勝9敗1Sと精彩を欠いたが、日本シリーズではチーム唯一の勝ち星を挙げたことが評価され敢闘選手賞を受賞。

2000年急性感音性難聴等により、不調に終わる。さらに、2001年プロ入り初の二桁敗戦を喫する。2002年は、開幕投手を任されるはずだったが、足の深爪により登板できず、替わりに二軍の開幕投手となるも、相手投手にホームランを打たれるなど不安が残った。しかし一軍に復帰してからは調子を取り戻し、桑田真澄と激しい最優秀防御率争いを繰り広げる。8月1日には、この年日本一になった巨人相手に、プロ野球史上70人目、81度目のノーヒットノーランを達成し、対巨人戦の連敗を9で止めた。この年を最後にニューヨーク・ヤンキースに移籍した松井秀喜からは3三振を奪っている。この日はバッテリーを組んだ谷繁元信の、1,500試合出場の日でもあった。この活躍で、当時エースの野口茂樹の故障と合わせ、エースと呼ばれるようになる。

2003年は、快調な滑り出しも、5月に右肩関節唇損傷により離脱。中日新聞上で、コンスタントに働けない投手をエースと呼ぶことの是非を問う論争が起こる。だが、2004年は、最優秀選手セントラル・リーグ)、沢村賞など合計9つのタイトルを獲得し、チームの優勝に貢献。

2005年5月20日の対千葉ロッテマリーンズ戦(交流戦)で8回途中まで完全試合のペースで好投。しかし李承燁(現・読売ジャイアンツ)に対してカウントがフルカウントになり、四球で歩かせてノーヒットノーランを狙うことも考えたが、既に川上はノーヒットノーランを達成していたために完全試合狙いに切り替えてストライク勝負を選択し、本塁打を打たれた。球団初の完全試合は逃したが、結局ヒットはこれ1本のみの四死球なしで完投勝利、同時にスタメン全員から奪三振という珍しい記録を達成した。

2006年6月6日の、またもロッテ戦で7回二死までは完全試合(二死から福浦和也に四球)、9回無死までノーヒットノーランペースだったが、代打のサブローにライト前ヒットを打たれ自身2度目の大記録を逃す。結局は9回1安打2四球での完封勝利となったが、相手監督のボビー・バレンタインを大いに唸らせた。8月3日プロ野球史上120人目となる通算1000奪三振を記録した。10月21日日本シリーズ開幕戦で8回2失点で勝利投手となり、ナゴヤドームでは先発としては初の勝利投手となった。しかし第5戦では日本ハム打線の勢いを抑えきれずに敗戦投手となり、この敗戦によりチームはまたしても日本シリーズに敗れてしまった。しかしチーム唯一の勝ち星を挙げるなどの活躍が評価され自身2度目の敢闘選手賞を受賞。2006年は前半終了時点での防御率が1.47と驚異的な成績だった。

2007年8月3日プロ野球史上124人目(チーム史上9人目)の通算100勝に到達。これは212試合で達成の杉下茂、221試合で達成の服部受弘に次ぐチーム史上3番目の228試合でのスピード記録であった。また、4年連続二桁勝利を達成するも、2月のキャンプ中に腰を痛めた影響でスタミナに欠け(規定投球回数に達しながらペナントレースでの完投数0は自身初)、本調子とはいかないシーズンであった。

10月13日クライマックスシリーズ第1ステージでは阪神タイガース相手に5回までパーフェクトピッチングを見せるなど、結果7回9奪三振被安打2無四死球無失点の好投でセ・リーグクライマックスシリーズ初の勝利投手に輝いた。また10月19日の第2ステージ読売ジャイアンツ第2戦でも好投し、4回表での自身の打席ではバントの構えを見せ、それを警戒し前進守備を敷いたサード小笠原の間を抜くバスターエンドランを成功させるなど、バッティングでも勝利に大いに貢献した。

10月27日の日本シリーズ第1戦(対日本ハム)では先発投手として登板し、8回を被安打2で完投するも、初回にフェルナンド・セギノールに浴びた3ラン本塁打が響き、ファイターズ先発のダルビッシュ有に味方打線が1点に抑えられ敗戦投手となった。川上のこの快投が第2戦以降に登板した中日投手陣に好影響を与え、中日の日本シリーズ優勝の布石となった。

2008年、開幕投手を務めるが、不調で一時期先発を外れ、故障以外で初めて中継ぎを体験。その後は調子も戻り6月の月間最優秀選手(月間MVP)賞を獲得。北京オリンピックでは中継ぎとして奮戦したが、帰国後は2軍調整を強いられた[1]。その後、1軍復帰するも、規定投球回数には到達せず、「隠れ1位」だった防御率のタイトルを逃した。11月15日FA権を行使することを発表し、11月19日にFA公示された。

[編集] メジャー時代

2009年1月13日アトランタ・ブレーブスと正式契約し、入団発表が行われた。ブレーブスにとって初めての日本人選手である。背番号も中日時代からお気に入りであった「11」に決定した。

4月12日のナショナルズ戦にメジャー初出場、初先発を果たし、6回を4安打3失点8奪三振で抑えて勝利投手でデビューを飾った。

[編集] プレイスタイル

[編集] 投球

150km/h近い伸びのあるストレートや、ゴロを打たせる140km/h前後のカットボール、そしてこれとは対照的に100km/h前後のスローカーブのような遅いボール、コーナーギリギリに決めるシュートフォークボールなども持っており、三振を取る技術も長けている。特にストレートは真っ直ぐ滑って加速する様に伸びていくため好調時は打ちづらい。2003年には自己最速の151km/hを記録した。また、2006年からは左打者に対してアウトコースのギリギリのストレート、小さく内角へ変化するカットボール、大きく内角へ変化するカットボール(スライダーに近い)、小さく外角へ変化するシュートと、多彩な球種と正確なコントロールを活かした投球で翻弄し、右腕ピッチャーながら左打者に対して無類の強さを見せている。ただ真っ向勝負が身上のため、そのまま寄せ付けないこともあるが、しばしば思わぬ打者に痛恨の一発、特に本塁打を浴びることが多く、「一発病」と言われてしまう事もある。さらには投手にもホームランを打たれてしまうことがあり、現時点で投手に3本塁打を浴びている(三浦大輔リック・ガトームソンライアン・ボーグルソンの3人)。

現在では彼の代名詞とさえ言われるカットボールは、元チームメイトの武田一浩から教わった。それまでの川上の変化球はスライダーとカーブくらいしか試合では投げていなかったが、この強力なカットボールをマスターすることにより投球パターンが大きく変わり、多くの相手打者に「まるで別人」とまで評されるようになった。また、外国人野手や日米野球等で対戦したメジャーリーガー達から「日本で唯一本物のカットボールを投げる投手」と称された事もある。

2009年オープン戦において、ボビー・コックス監督から「(スローカーブが)飛びぬけて良かった。ダンディーだ。今あのビッグカーブを投げられる選手は少ない」と称賛された。当日のオープン戦では4三振のうち3つをカーブで奪った。

[編集] 打撃

多くの解説者から「野手顔負けのスイング」と評されるようにバッティングが非常に良く、通算8本塁打は日本では現役投手1位だった。

2004年5月15日横浜ベイスターズ戦では、7回二死二塁から2ラン本塁打を放ち、2対0で両チーム唯一の打点を挙げての完封勝利を達成した。2008年3月28日広島東洋カープとのシーズン開幕戦では2008年シーズンでのチーム初本塁打、初打点となる同点ソロ本塁打を放ち、この本塁打によってセ・リーグ全5チームからの本塁打を記録した。川上自身も本塁打には特に思い入れがあるようで、自身のウェブサイトには全本塁打の詳細な記録を載せている。

2009年5月13日の対メッツ戦では控え野手が尽きてしまったため延長12回に日本人メジャー投手として初めて代打で起用された。メッツの高橋建と対戦して空振り三振。本人は「冗談だと思った」と語った。同年5月31日の対ダイヤモンドバックス戦では控え野手が2人いたにも関わらず、再び代打で起用され空振り三振。

[編集] 人物

中日ドラゴンズ時代は、開幕投手を6回務める(球団記録)など絶対的なエースとして君臨。日本のプロ野球においてリーグMVPベストナインゴールデングラブ賞最多勝最多奪三振新人王沢村賞を受賞し、ノーヒットノーランも達成するなど球界を代表する右腕投手として活躍。

中日のエース候補という意味で「背番号20に最も近い男」と評されることもあった。これは杉下茂権藤博星野仙一小松辰雄1980年代までにおける中日の歴代エースが背番号20を背負っていたことにちなむ比喩的な表現である(現在の20番は中田賢一)。しかし、川上は入団時につけた背番号11を気に入っており、エースとしての評価を確立した今に至っても変えていない。

専属トレーナーは、加藤佑介(2009年現在)。

同学年で大学時代からのライバルである高橋由伸に対しては、現在でも強いライバル心を持っていると言い、対決では一層の気合を入れている。

中日に入団する際に当時監督であった星野に「背番号は11番から20番の中から好きな番号を選べ」といわれ、冗談交じりに「じゃあ、15番で」と発言した(15番は西沢道夫永久欠番。数日後、星野監督から電話で「11番にしろ、いいな」と返され、11番に決定した)。

1999年に週刊少年サンデーに「川上憲伸物語 魂のストレート」(作:武村勇治 原案:矢崎良一 協力:中日ドラゴンズ)として読切連載された事がある。ライバルである高橋由伸も同年に週刊少年マガジンに「高橋由伸物語」として読切連載された。

何故かライバルである、巨人の関連会社である日本テレビの『THE・サンデー』で、「ウッス!川上憲伸っス!」という彼の1週間を追うコーナーが放送されていた時期があった(石井浩郎三沢興一のコーナーと同時に放送されていた)。また、『THE独占サンデー』では川上のパロディのパペット人形キャラ「川上犬・シン」(本物の川上は犬好きである)も登場していた。

99年にリーグ優勝した次の試合(10月2日横浜戦・横浜)に先発登板し、7回を投げ当時リーグワースト記録となる19被安打、同最多タイの14失点と散々に打ち込まれた。2回にはピッチャーの三浦大輔に3ランホームランも浴びている。日本シリーズ対策として同試合に視察で訪れていた王貞治監督を別の意味で驚かせた(ただし、その年の日本シリーズでは王率いるダイエー相手に好投し、勝利投手になっている)。

中日の若手投手陣では下半身の使い方が参考になるとの事から川上のピッチングフォームのビデオが人気である。そこから活躍を上げたのが佐藤充である。

ここ数年、広島戦に弱く、最多勝に輝いた2006年は広島戦のみ勝ち星が挙げられなかった。そのためかは不明だが近年は広島戦を避ける傾向にあり、広島戦が近づくと広島戦に強い朝倉健太とローテーションを入れ替えたりする。その結果2004年6月16日以来広島市民球場では登板しておらず、その試合も勝ち投手になっていない。

2006、2007年度と二年連続でゴールデングラブ賞を受賞。同僚の谷繁元信も二年連続で受賞しており、同一チームの同一バッテリーによる二年連続受賞はセ・リーグ初の快挙である。

日本シリーズなどの大舞台に強く、これまでに登板したプレーオフの試合では、たとえ敗戦投手になったとしても、大崩れしたことはない。2007年に53年ぶりの日本一になるまで、長い間短期決戦に弱いと言われてきた中日の投手の中では異例とも言える。しかし、その2007年のプレーオフでは、クライマックスシリーズは2試合に先発し、2勝したものの、日本ハムとの日本シリーズでは川上自身、出場した日本シリーズでは初めて勝利を挙げることができなかった。

2008年3月28日のセ・リーグ開幕戦の中日対広島の試合で、同点に追いつく本塁打を放った。開幕試合における投手の本塁打は、2004年のジェイソン・ベバリン以来である。

北京オリンピックには、星野仙一率いる星野ジャパンの日本代表として選出され、本選では、3位決定戦で敗戦投手となった。

契約交渉では交渉がもめて長期化することが多い。

2009年時点でも独身である。中日時代は井端弘和福留孝介の主力3選手がともに独身であることがネタにされていたが、福留が2007年に、井端が2008年に結婚した。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1998 中日 26 25 4 3 2 14 6 0 -- .700 649 161.1 123 14 51 1 2 124 4 0 48 46 2.57 1.08
1999 29 25 3 1 1 8 9 1 -- .471 695 162.0 173 20 43 0 2 102 3 0 84 80 4.44 1.33
2000 14 10 0 0 0 2 3 0 -- .400 260 60.1 65 10 20 3 1 24 1 0 32 32 4.77 1.41
2001 26 25 3 1 1 6 10 0 -- .375 608 145.0 153 12 36 1 4 127 4 0 61 60 3.72 1.30
2002 27 27 3 3 1 12 6 0 -- .667 760 187.2 170 13 34 4 8 149 0 0 54 49 2.35 1.09
2003 8 8 1 0 0 4 3 0 -- .571 234 53.2 60 2 14 0 1 37 3 0 22 18 3.02 1.38
2004 27 27 5 2 1 17 7 0 -- .708 774 192.1 173 27 38 2 4 176 2 0 72 71 3.32 1.10
2005 25 25 3 2 2 11 8 0 0 .579 738 180.1 186 20 28 4 4 138 1 0 75 75 3.74 1.19
2006 29 28 6 3 2 17 7 0 0 .708 841 215.0 166 22 39 1 5 194 3 0 74 60 2.51 0.95
2007 26 26 0 0 0 12 8 0 0 .600 696 167.1 175 18 23 2 6 145 1 0 72 66 3.55 1.18
2008 20 16 1 0 0 9 5 0 1 .643 473 117.1 99 11 25 3 5 112 1 0 33 30 2.30 1.06
通算:11年 257 242 29 15 10 112 72 1 1 .609 6728 1642.1 1543 169 351 21 42 1328 23 0 627 587 3.22 1.15
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 通算打撃成績

506打数75安打 打率.148 二塁打13 本塁打8 打点29 犠打45 犠飛1 四球14 三振197

[編集] 背番号

  • 11(1998年 - )

[編集] 個人記録

  • 初登板・初勝利:1998年4月9日、阪神戦(ナゴヤD)7-1 先発し7回1失点
  • 初完投・初完封:1998年7月4日、巨人戦(ナゴヤD)2-0 被安打5 奪三振9 四死球3
  • 初セーブ:1999年6月3日、巨人戦(ナゴヤD)7-0 6回より登板

[編集] タイトル・表彰

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 2軍調整の理由は諸説がありはっきりしたことは未だにわかっていない。

[編集] 外部リンク