田中将大

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田中 将大
東北楽天ゴールデンイーグルス #18
Masahiro Tanaka.JPG
2007年6月26日、宮城球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県伊丹市
生年月日 1988年11月1日(24歳)
身長
体重
188 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2006年 高校生ドラフト1位
初出場 2007年3月29日
年俸 4億円(2013年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2008年
WBC 2009年2013年

田中 将大(たなか まさひろ、1988年11月1日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手投手)。マネジメント事務所は、ホリプロ。妻は、歌手タレント里田まい

目次

経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

兵庫県伊丹市出身。伊丹市立昆陽里小学校1年時に軟式少年野球チーム「昆陽里タイガース」で野球を始め、4番・捕手として坂本勇人バッテリーを組んでいた。打撃練習では左翼方向への本塁打を連発し、しばしば同じ方角にある校舎の窓を直撃しかけたという。小学校時代の最高成績は6年時の県大会準優勝。伊丹市立松崎中学校時代にボーイズリーグの「宝塚ボーイズ」で硬式野球を始めると強肩を買われて投手も兼任するようになり[1]、3年時には関西南選抜チームに選出された。「野球の練習となるとその熱心さからか、しばしば周りから怖がられていた」と当時を知る人物は語っている[2]

「宝塚ボーイズ」の監督・奥村幸治氏によると、当初、高校は地元関西圏の有名校に行く予定だったが諸事情から断念、その後、奥村氏の紹介で駒澤大学附属苫小牧高等学校を見学、その際に当時の野球部キャプテンの人柄に惹かれ野球留学を決意したとの事。

駒澤大学附属苫小牧高等学校に進学後は本格的に投手に専念するようになり、2年夏の甲子園では主戦投手として140km/h前後の速球高速スライダーフォークボールを武器に57年ぶり史上6校目の大会2連覇に貢献。決勝戦で優勝を決めた最後の1球は2年生では史上初の150km/hを計測した[3]。大会後、AAAアジア野球選手権大会日本代表に2年生では堂上直倫と2人だけ選出され[4]優勝。

決勝再試合のスコアボード

2年秋からは香田誉士史監督の就任後初のエース兼主将となり[1]、秋季北海道大会では堂上を参考にフォーム改造した[4]打撃でも決勝を含む5試合中4試合で本塁打を放つなど活躍。決勝では過去最多の13点差で[5]優勝した。その後行われた明治神宮野球大会でも北海道勢として初めて決勝に進出して優勝し、春のセンバツでは優勝候補に挙げられていたが、部員の不祥事により出場辞退となった。

史上2校目の夏3連覇が懸かった夏の甲子園では大会直前から体調を崩したが、チームは決勝に進出。早稲田実業との決勝戦では3回途中からリリーフ登板して延長15回まで1失点。しかし早実の斎藤佑樹も1失点で完投し、37年ぶりの決勝引き分け再試合となった。再試合でも1回途中からリリーフしたが、最後の打者として斎藤に三振で討ち取られ3-4で敗れた。

大会後は全日本選抜としてアメリカ遠征に参加し、秋ののじぎく兵庫国体では決勝戦でまたも斎藤と投げ合ったが0-1で敗れ準優勝。2人を中心とした熱戦は国内で同年のスポーツを代表する名場面となった。

高校時代の田中(2006年8月17日、阪神甲子園球場にて)

最速150km/hの速球と高速縦スライダーを武器に、高校通算458奪三振を記録し[6]、高校通算奪三振数、奪三振率とも横浜高校松坂大輔を上回り[6]、周囲からは「怪物」「世代最強エース」などと評された。打者としても高校通算13本塁打を記録している。同世代の投手では随一の評価を受けていたが、甲子園での熱闘に加えて斎藤が大学進学を表明した事で更に注目が集まった。指名されればどの球団でも入団する意思を表明していた事もあって全12球団の指名候補となっており、複数球団の競合が確実視されていた。

2006年9月25日高校生ドラフト会議において、日本ハムオリックス横浜楽天から1巡目指名を受け、抽選の結果楽天が交渉権を獲得。11月2日に契約金1億円+出来高、年俸1500万円(金額はいずれも推定)と、高卒としては松坂大輔・寺原隼人・ダルビッシュ有以来の大学・社会人出身希望枠と同等の条件で仮契約を結び、背番号は18に決定。

プロ入り後 [編集]

2007年は春季キャンプでのフリー打撃、紅白戦、オープン戦の初登板が全て雨で中止か延期となり、チーム内で雨男とあだ名された。3月29日のソフトバンク戦で初登板初先発、1回2/3を投げて打者12人に対し6安打3奪三振1四球で6失点。4回に同点となって敗戦投手にはならなかったが、降板後のベンチで涙を見せた。4試合目の登板となった4月18日のソフトバンク戦で9回を2失点13奪三振に抑え初勝利初完投。6月13日の中日戦で高卒新人では2005年ダルビッシュ有以来の完封勝利を記録。同年のオールスターゲームに高卒新人では1999年の松坂以来となるファン投票で選出され出場、7月22日の第2戦に先発して自己最速の153km/hを記録した(2回6失点)。7月10日には高卒新人として松坂以来史上6人目、江夏豊と並び最速タイとなる96回2/3でのシーズン100奪三振を記録。8月31日の西武戦で松坂以来、球団史上初となる高卒新人での2桁勝利を挙げた。リーグ4位の186回1/3を投げて11勝を挙げ、リーグ2位で高卒新人では歴代4位の196奪三振を記録。松坂以来8年ぶりの高卒1年目で新人王を受賞した。同年は連敗ストッパーとなることが多く、野村克也監督は「だって(田中は)ウチのエースだもん」と答えたこともあった。またソフトバンクとの相性が良く、登板6試合のうち5試合で勝利投手になった。

2008年はシーズン前に2年目のジンクスについて聞かれ「全く考えていない。いまやるべきことをやるだけ。そのことは二度と聞かないでほしい」と答えた[7]。5月4日の札幌ドームでの日本ハム戦で勝利投手となり、高校時代を過ごした北海道での初勝利を挙げた。同球場では通常レギュラーシーズンの試合でビジターチームのヒーローインタビューは場内放送されないが、日本ハム側の計らいで特別にインタビューが場内に流され、日本ハムファンからも大きな拍手が送られた。6月22日の広島戦でプロ入り後初めてリリーフ登板し初セーブを記録。この試合では打順の関係から4番に入って「4番ピッチャー田中」となり、満塁で回った打席では2-3まで粘ったが見逃し三振に倒れた。北京オリンピック野球日本代表にチーム最年少で選出され、北京オリンピック本戦に出場。背番号は15。初戦のキューバ戦で3番手として国際試合に初登板すると全てのアウトを三振で取り、テレビ中継で解説していた与田剛は打ち取られた打者の表情を見て「なんだ〜? あの球は〜、みたいな顔してますよ」と語った。大会通して無失点で防御率0.00投手として注目され、チーム最高の奪三振率を記録した。北京五輪で初戦敗退後、勢いに乗り切れない代表チームの流れを変えようとダルビッシュと共に丸刈りにした。自身への気合を込めたものであるとの指摘もあるが、その姿を見た星野仙一監督は大笑いしたという。後に、ダルビッシュから「お前も(丸刈りを)やれ」と言われたと明かしている。その後、川崎宗則G.G.佐藤らも丸刈りになってチーム一丸の結束をアピールしようとした。金メダルの可能性が消えた3位決定戦の最終戦では得点してホームに生還する味方を迎える選手がいない中、田中だけがハイタッチで出迎え最後まで声援を送りつづける姿が映った。レギュラーシーズンでは好投しても打線の援護に恵まれないことが多く、自身の10勝目とチームの最下位脱出をかけたソフトバンクとのシーズン最終戦に先発したが、チームは延長12回サヨナラ勝利をしたものの自身は9回無失点で降板したため勝ち負けは付かず、2桁勝利はならなかった。

2009年第2回WBC日本代表に選出され、日本代表の大会2連覇に貢献した。シーズン開幕後はソフトバンクとのホーム開幕戦に先発して完封でシーズン初勝利を挙げると、4月14日のロッテ戦で1失点完投、4月22日のロッテ戦で完封、4月29日の日本ハム戦で野村監督の監督通算1500勝目となる1失点完投と、1993年小宮山悟長谷川滋利以来となる開幕から4試合連続完投勝利を記録し、自身初の月間MVPに選出された。5月13日の日本ハム戦で完投は途切れたが、6月3日の阪神戦で敗れるまで開幕7連勝を記録。6月11日の中日戦で8勝目を挙げた後は、7月20日のソフトバンク戦で抑えとして登板して自己最速を更新する155km/hを記録し、防御率1点台を維持しつつもオールスターゲーム後まで勝ち星からは遠ざかっていた。8月7日の日本ハム戦で約2ヶ月振りの勝利となる9勝目を挙げて以降は安定した結果を残し、8月27日の西武戦で自己最多となる12勝目を記録。8月には4試合に登板して4勝0敗、防御率1.44、30奪三振で自身2度目となる月間MVPに選出される。援護率がパリーグでワースト2位の3.54だったにもかかわらず、最終的にリーグ2位タイ、チームトップとなる15勝、リーグ3位となる防御率2.33を記録。10月17日のクライマックスシリーズ第1ステージ第2戦のソフトバンク戦では自身初の無四球完投勝利を挙げ、チームの第2ステージ進出に貢献した。12月25日の契約更改では1億500万円増、プロ入り4年目の選手としてはダルビッシュに次ぐ史上2番目の高額契約となる年俸1億8000万円で契約(金額はいずれも推定)。

2010年はシーズン開幕から低調なチームの中でも奮闘した。5月には自身3度目となる月間MVPを受賞し、6月までにチームトップの8勝を挙げた。しかし7月に太腿の肉離れで戦線離脱。8月に復帰するも、8月29日の対西武戦で投球中に違和感を訴えて降板すると右大胸筋部分断裂と診断され、以降の試合は欠場している。11勝、防御率2.50はチームトップだったが、奪三振や投球回はプロ入り後最低となった。11月15日にはタレントの里田まいとの交際を自身のブログで公表した。

2011年1月12日ホリプロよりマネジメント契約を結んだことが明らかにされた[8][9]。公式戦シーズンは開幕から絶好調で、6月と7月には2か月連続で月間MVPを受賞、8月7日の日ハム戦を迎えるまでの開幕から16試合連続で6回以上を投球して3失点以内に抑える安定感を披露。8月27日のソフトバンク戦では野田浩司に次ぐ歴代2位の1試合18奪三振を記録。9月10日の日ハム戦では、2006年夏の甲子園の決勝以来となる斎藤佑樹との投げ合いが実現し、前売り券のみで売切れてしまうほどの大きな盛り上がりを見せ、結果は1失点完投勝利を収めた田中に軍配が上がった。この試合は「ジョージア魂」賞の年間大賞に選ばれている。シーズン前半は10回無失点ながら勝ちが付かないなど、中々打線の援護に恵まれなかったが後半に勝ちを伸ばし、最終的に19勝5敗の好成績を挙げた。前述の6、7月の他に10月も月間MVPを受賞し、リーグ史上初となる年間3度の月間MVP受賞を果たした。投球回は初の200イニング超えの226回1/3イニング、年々減っていた奪三振は241とイニング数を超える数を記録。中でも特筆なのが防御率で1.27を記録。これはパ・リーグのシーズン記録では稲尾和久が1956年に記録した1.06に次ぐ歴代2位、2リーグ制以降では歴代5位の記録である。この年は最多勝利D.J.ホールトンと同数)、最優秀防御率最優秀投手、最多完封(6試合、ダルビッシュと同数)の4冠に輝いた。他に両リーグトップの完投(14試合、ただし1試合10イニングを投げた試合が2試合あるがいずれも試合に決着が付かなかったため完投ならず)、無四球試合(5試合)も記録。四球の数も減り、過去最多のイニングを投げながら四球は僅か27と過去最少で、パ・リーグの規定投球回に到達した投手の中では3番目に少なくBB/9[注釈 1]は1.07、K/BBは最多奪三振を記録したダルビッシュの7.67を上回る8.93を記録した。これらの成績が認められ、ダルビッシュとの一騎打ちを僅差で制して沢村賞を初受賞[10]、他にもベストナインにも選出され、ゴールデングラブ賞最優秀バッテリー賞も受賞と投手タイトルを総なめにした。一方、シーズンオフの12月14日には仙台市内で自家用車を運転中に自転車と接触事故を起こし、自転車の女性の腰の骨にひびが入る重傷を負わせた。

2012年、里田まいとの婚約を1月26日に発表[11]2月7日、前年12月に起こした接触事故で仙台東警察署より自動車運転過失傷害の疑いで書類送検された[12]。シーズン開幕を控えた3月20日に里田との婚姻届を提出した[13]

3月30日の開幕戦では自身初の開幕投手を務めたが、6回5失点で敗戦投手となった。4月22日に腰痛で2年ぶりに戦線離脱した。復帰後の5月30日の巨人戦ではソフトバンク時代に投げ合った相手先発の杉内俊哉と互いに8回まで投げ二桁奪三振を記録する勝負であったが、チームはノーヒットノーランで敗れ敗戦投手に。7月6日の西武戦では先発登板が予定されていたが、投球練習中に右脇腹に違和感を訴えて先発登板を回避した。代役は中7日で塩見貴洋が登板することになった。7月18日のロッテ戦から8月19日の西武戦までの5試合は不振で自身やチームを勝利に導くことができず、打たれることが多かったが、8月26日の日ハム戦ではプロで初延長10回を無四球完封勝利を挙げる。その後26イニング連続無失点で復調の兆しも見られた。シーズン最終戦で10勝目を挙げ、4年連続の2ケタ勝利となった[14]。10勝4敗と成績を大きく落とした形となったが、防御率は2年連続の1点台となる1.87をマークし、リーグ最多奪三振を記録。また完投、完封もリーグトップを記録。制球力も更に磨きがかかり、規定投球回達成者では最少となる19四球、BB/9は0.99と1を割り込んだ。12月22日に3年12億円+出来高で契約更改し、「将来的に、そういうところ(メジャー)でやろうという気持ちが芽生えたので、早いうちに伝えようと思いました」と将来的なメジャー挑戦の意思があることを明らかにした[15]

選手としての特徴 [編集]

高めのスリークォーターから投げる平均球速約147km/h[16]、最速155km/hのストレートと平均130km/h台中盤(最速144km/h)で大きく変化する高速縦スライダーを軸に、平均球速139.7km/hのSFF[17]シュート変化をするツーシームを投げ分け、稀にカーブチェンジアップも混ぜる[17]。2010年まではフォークを投げていたが、同年の週刊ベースボールに掲載されていたブライアン・ファルケンボーグのインタビューを読んでSFFを取得し、それ以降はフォークではなくSFFを使うようになったという[18]

プロ入り当初は縦のスライダーを軸にした三振を奪いやすい投球スタイルだった。2年目からは変化の小さい球種を使った打たせて取る投球をするようになり、奪三振率は減少傾向にあったが、5年目の2011年には前年の2倍以上となる241奪三振を記録。奪三振の半分近くをスプリットで奪った[19]。一方で比較的多かった四死球は2009年に与四球率2.04(リーグ4位)、2010年に1.86(リーグ4位)を記録するなど改善傾向にある。得点圏走者がいる際の外角への制球が良く、ピンチに強いとも言われる。

クイックモーションに課題があり、2007年登板時の許盗塁数28は12球団ワーストだった。また、牽制球の動作が独特で、一旦グラブからボールを出し一拍置いてから投げる。

ソフトバンクとの相性が良く、2012年までの通算成績は14勝3敗で、ルーキーイヤー以降では他球団と比べて大差無いイニング数を投げながら極端に失点が少ない。

人物 [編集]

ファンやマスコミからの愛称である「マー君」は、日米親善高校野球の際に監督を務めた和泉実が選手同士の交流を図るため互いに名字で呼ぶことを禁止したことから、早実の斎藤と「佑ちゃん」「マー君」と呼び合っている事が本人達の口から語られたのがきっかけとなった。楽天監督だった野村克也もこの愛称を用いてインタビューに応じることが多いが、愛称とはいえ選手を「君づけ」で呼ぶのは稀有なことだと述懐している[注釈 2]

高須洋介は「マーが投げる試合は、打線がなんとかしようという雰囲気になる」と語っている。また、その勝ち運から野村に「マー君、神の子、不思議な子」「不思議の国のマー君」「今日は悪魔の子かと思ったけど、やっぱり神の子」等と評された。

同期入団の永井怜と仲が良く、車の運転免許を取得する前には楽天の合宿所「泉犬鷲寮」から永井の車に乗せてもらい球場入りする事が多かった。

2008年6月19日より、球団のグループ会社である楽天証券のイメージキャラクターに就任。楽天証券「MONEY TV」にも出演している。

北京五輪、WBCなどではダルビッシュ有から弟のように可愛がられ、藤川球児が「お前は“マー君”っていうより“まさお”って顔だよな」と発言したことから「まさお」と呼ばれている[20]。第2回WBC優勝時のシャンパンファイトでは松坂大輔稲葉篤紀小山良男ブルペン捕手)、城島健司が胴上げされた後に「まさお!」と呼ばれて胴上げの輪に入ったが、胴上げはされずチームメイトから蹴りを入れられ、松坂から冗談交じりに「若い芽は早いうちに潰しておかないと」と言われ「あ〜ショックだ〜!」と叫び、笑いが生まれた。帰国後の記者会見でも隣に座っていたダルビッシュに半ば強制されたような形で「次回のWBCでは(松坂の背番号でもある)18番を着けられるように頑張ります!」と発言し、笑いを誘った。

趣味のボウリングは平均スコア170、ベストスコアは216(2007年当時)。ただし、球団から“故障防止のためプレーはシーズンオフに限ること”と言い渡されている。球団公式サイトでは釣りも趣味となっており、ゴルフも「趣味以上」と語っている。

AKB48の大ファンで、推しメンは高橋みなみ[21]。2011年5月から6月にかけて実施されたAKB48 22ndシングル選抜総選挙に際しては東京スポーツ紙上で予想を披露したが、その際も「上位12名がメディア選抜となる」ルールを尊重し、東スポ側からは「ベスト10の予想を」と依頼されていたのにわざわざ12位まで予想を行った[22]。2012年オフには東京秋葉原のAKB48劇場で高橋本人との対談も果たしている[23]

嫌いな食べ物は冷やしトマト(『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「新・食わず嫌い王決定戦」にて)。

詳細情報 [編集]

年度別投手成績 [編集]





















































W
H
I
P
2007 楽天 28 28 4 1 0 11 7 0 0 .611 800 186.1 183 17 68 2 7 196 10 1 83 79 3.82 1.35
2008 25 24 5 2 1 9 7 1 0 .563 726 172.2 171 9 54 3 2 159 6 0 71 67 3.49 1.30
2009 25 24 6 3 0 15 6 1 0 .714 771 189.2 170 13 43 0 7 171 3 0 51 49 2.33 1.12
2010 20 20 8 1 2 11 6 0 0 .647 643 155.0 159 9 32 1 5 119 1 0 47 43 2.50 1.23
2011 27 27 14 6 5 19 5 0 0 .792 866 226.1 171 8 27 0 5 241 7 0 35 32 1.27 0.87
2012 22 22 8 3 4 10 4 0 0 .714 696 173.0 160 4 19 0 2 169 4 0 45 36 1.87 1.03
通算:6年 147 145 45 16 11 75 35 2 0 .682 4502 1103.0 1014 60 243 6 28 1055 31 1 332 306 2.50 1.14
  • 2012年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル [編集]

表彰 [編集]

記録 [編集]

初記録
節目の記録
その他記録
  • 1試合18奪三振:2011年8月27日、対福岡ソフトバンクホークス20回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城) ※歴代2位
  • 延長10回無四球完封勝利:2012年8月26日、対北海道日本ハムファイターズ21回戦 (日本製紙クリネックススタジアム宮城) ※史上初
  • オールスターゲーム出場:5回 (2007年 - 2009年、2011年、2012年)

背番号 [編集]

  • 18 (2007年 - )
    • 15 (2008年北京五輪、2009年WBC
    • 17 (2013年WBC)※正式メンバー34人

登場曲 [編集]

関連情報 [編集]

出演 [編集]

テレビ番組 [編集]

CM [編集]

PV [編集]

書籍 [編集]

脚注 [編集]

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注釈 [編集]

  1. ^ 1試合9イニング投げたときの四球の平均数。
  2. ^ 試合や練習などでは「田中」と呼んでいる。

出典 [編集]

  1. ^ a b 週刊ベースボール【別冊春季号】第78回選抜高校野球大会完全ガイドより。
  2. ^ TBS系列『バース・デイ』2008年6月放送
  3. ^ 田中、9回気迫の3K150キロ - 朝日新聞(2005年8月21日)
  4. ^ a b プロの必須条件を兼ね備えた田中と堂上 高校生ドラフト直前リポート - スポーツナビ(2006年9月21日)、2013年2月16日閲覧。
  5. ^ 駒大苫小牧、力の差示し夏・秋連覇 決勝13点差は最多 - 朝日新聞(2005年10月09日)
  6. ^ a b 駒苫・田中次は楽天でエースだ - 日刊スポーツ(2006年10月5日)、2011年11月29日閲覧。
  7. ^ 2008年4月12日 NHK総合『スポーツ大陸
  8. ^ 雄星に続きマー君もホリプロと契約 - ORICON STYLE(2011年1月12日)
  9. ^ 楽天・田中がホリプロと契約 - asahi.com(朝日新聞社。2011年1月13日10時33分)
  10. ^ マー君、沢村賞初受賞!ダルとの一騎打ち僅差で制す…楽天 - ウェイバックマシン (2011年11月14日アーカイブ分) - スポーツ報知(2011年11月14日)
  11. ^ 里田まい マー君との婚約を発表「彼はとても真っ直ぐな人」 - スポーツニッポン 2012年1月26日閲覧
  12. ^ 田中将大投手が書類送検自動車運転過失傷害で - スポーツニッポン 2012年2月7日閲覧
  13. ^ マー君「本日、入籍しました」 - 日刊スポーツ 2012年3月20日閲覧
  14. ^ “マー君 8回無失点で4年連続2桁勝利!楽天5割締め”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年10月8日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/08/kiji/K20121008004285310.html 2012年10月8日閲覧。 
  15. ^ 【楽天】マー君3年契約もMLB挑戦表明 - 日刊スポーツ(2012年12月22日)
  16. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2012年、66頁。ISBN 978-4-905411-04-8
  17. ^ a b 『週刊プロ野球データファイル』39号、ベースボール・マガジン社、雑誌27742-1/11・18、5頁。
  18. ^ 変化球ラーニング スプリット・フィンガード・ファストボール編 田中将大『週刊ベースボール』2011年26号、ベースボール・マガジン社、雑誌20441-6/20、16-17頁。
  19. ^ 「時代を駆ける無敵のスーパーエース ダルビッシュ有」『週刊ベースボール』2011年11月7日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20441-11/7、23頁。
  20. ^ NEWS ZERO』内櫻井翔との対談コーナー時での発言。
  21. ^ マー君&AKB大島優子のWエース対談 - 東京スポーツ(2011年1月10日)、2013年2月16日閲覧。
  22. ^ 東京スポーツ・2011年6月4日付 最終面
  23. ^ 体育会系としてひかれた総監督「たかみな」 - 東京スポーツ(2013年1月2日)、2013年1月2日閲覧。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]